魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

労力のかかったそれぞれの「作品」

最近よく思うのが、何をするにしても「労力」というものがかかるのだな……ということですね。どんなに些細に見える事柄にも無数の労力がかかっているということを実感することが僕には多いかもしれません。

 

文章を書くのにも労力はかかっていますし、もっと言えば呼吸したり、歩いたり、楽器を演奏したり、翻訳したり、読書したり、スポーツをしたり……そういうことの全部に膨大な労力がかかっていますね。すると「生きる」ということは本当に大変なことなのだろうなと思います。

 

そんなわけなので、生きるということは紛れもなく偉業だと思いますね。だから、今がどんなに苦しかったり、悲しかったりしても、それでも強く生きている人はみんな英雄と云っても差し支えないくらいではないかなと思います。

 

では、不幸にも亡くなってしまった人たちは「英雄」ではないのか? という問いもありえてくるのですが。結論から述べれば、そうした人たちだって必死にこの世と戦い抜いて生きてきた軌跡があるのですから、英雄だと思います。だから、この世界のどんなものも無限に大事なものなのだなと強く感じます。

 

要は無駄なものってなにもないので、すべてのものに無限の労力と言うかエネルギーのようなものが宿っているのだと思うんです。だから、少なくとも基本的な路線としては誰一人取り残さないことを目標にしていく必要があるのだろうなとも思います。

 

今この時にもすべての人が有償や無償を問わず、無数の「労働」をしていて、その中には家事などの給与の発生しない労働もありますし、あるいはとても安い賃金だとしても、本当に過酷な労働に勤しんでいる立派な人たちもいるものと思います。そういう人たちはすごく立派だなと僕などは思います。

 

芸術などの何らかの作品にはものすごい労力がかかっていて、一流のものは集中的に無限とも言える労力が見事に結晶化されています。学術などの場合でもそうで、すごいものは本当にすごいです。バラキレフとかカントとか他にも無数の古典的な天才がいます。

 

それで、そうした「作品」というのは何も芸術や学術だけの「特権」ではないんですね。すべてのものが何らかの労力をかけていて、その限りで何らかの「生産」をしています。今この時にも、誰一人例外なく。

 

例えば、日々食べている料理も「作品」の一種ですね。あるいは歯磨きの仕方やお風呂の入り方、眠りのリズムの構成手法、スマホの扱いの熟達……すべて「作品」だと言えると思います。

 

そして、僕たちの最大の作品というのはそれぞれの「自己」そのものだとも思います。僕たちはどのような労力をかけて、どのような明日の自分を形作っていけるのか……そんなことが問われている昨今なのかもしれません。

 

あなたの明日にそのセルフの輝きが宿るように。祈ります。

機械と生物の「言語」に対するシステム上の差異について

今週のお題「大発見」

 

はてなブログで、最近の「大発見」についてのお題を募集していたので、僕も少し書いてみようと思います。

 

僕の最近の大発見は、パソコンの「キーボード」についての知見がその契機になりました。それについて書いてみます。

 

パソコンって色々な言語インストールすると、色々な言語のキーボードで色々な国の文字が打てるんですよね。それで僕は語学が好きなので、どんどん色々な言語のパッケージをインストールしていくわけですね(笑) すると……「キーボードの切り替えが面倒くさくなったぞ!」ということに気づきました。当たり前ですね。無計画に言語をインストールしまくってた僕が悪いのですが、この話には続きがあって、これは言語の勉強の話なのですが、つまり言語をたくさん勉強していくごとに、言語が混ざったりしてくるんですね。言語ごとの切り替えが難しくなって、ある種の「クレオール化」とでも言うべき現象が生じていることを発見して、「これはすごい……」と一人で感動していました。僕はもともと統合失調症があるので、いわゆる言語新作のような新しい言語を創り出すような症状はあるにはあったのですが、その様子が以前よりも鮮明に見えるようになった気がしました(有名な人だとウィリアム・ジェイムズ・サイディズなどもオリジナルの言語を創っていましたね。ちょっとシンパシーです)。

 

ここにはいくつかの気づきのポイントがあって、次の三つの論点に集約できます。

 

  1. 複数言語を勉強するとそれらが混ざることがある。
  2. 言語間の混淆が起きると、新しいクレオール化した言語が生成されてくる。
  3. そうした新しく生成された「言語」は目下のところ自分にしか解読できない。

 

それで、僕の頭の中ではそういうオリジナル言語の生産が生じていますが、デジタル機器の中ではそうした混淆的な創造が起きていない……わけなんですね。これも面白い気付きだと思います。おそらくここにはAIに対する人間の優位性というか、一つの特徴があるのだろうな……というのも僕なりの大発見でした。言語は面白いですね。とてもとても。

 

 

富裕と清貧

卓越の基本は「差異化」です。差異化とは差異を生産することであり、また差異を見出すことです。

 

これには大きく二つの方法があります。

 

一つが極めて「富裕」であることです。富裕であれば、一般家庭とは異質な才能を養成できます。

 

もう一つが極めて「清貧」であることです。清貧であれば、一般家庭とは異質な才能を養成できます。

 

また、富裕性の才能と清貧性の才能は互いに異なります。

 

富裕性の才能は主体に余裕がある分、優しくなりやすいです。清貧性の才能は主体に余裕がない分、正しくなりやすいです。また、優しいことには限度はありませんが、正しさは時に残虐なものになりえます。

 

富裕性の才能は基本的には贅沢や快楽と言ったものに根を持っており、これによって培われた才能は他から支配がしやすいという特性があります。

 

清貧性の才能は基本的には貧困や苦難と言ったものに根を持っており、これによって培われた才能は独立的であるという特性があります。

 

前者は人の言うことをよく聴きますが、後者は自分だけの道を邁進します。

 

いわゆる「育ちのいい人」と言うのは前者で、いわゆる「孤高の天才」と言うのは後者です。

 

社会に育ちのいい人が多くなる時には、社会は苦難への抵抗力を失いますが、その分、人は優しく穏やかになります。

 

社会に孤高の天才が多くなる時には、人々は峻厳として独立心を持ちますが、社会はどのような苦難も乗り越えることができます。

 

前者は富裕さや豊かさによって育まれ、後者は貧困さや苦しさによって育まれます。

 

つまり、前者の観点からすれば、最高に恵まれた環境によって才能は養成されます。また、後者の観点からすれば、最高に厳しい環境によって才能は養成されます。

 

才能の強力さで言えば、厳しい環境を生き抜いた人の方が、豊かな環境の人よりも常に強いです。

 

つまり、戦争などの実力の闘争になれば、富裕層は貧困層に負けます。

 

一方、優しさなどにおいては富裕層の方が有利です。つまり、実力行使を法的に取り締まり、なるべく平和で優しい状態を構築できれば、富裕層が貧困層に負けることはありません。

 

上の原理から「革命」という現象を説明することができます。

 

つまり革命とは、民衆が虐げられることによって生じます。虐げられることが最大級の才能を生産するためにそのようになります。

 

また、金銭の貧しさでも権力の貧しさでもなく、最大の貧しさとは「心の貧しさ」のことです。ゆえに「心の貧しいものは幸い」であり、そうした人が最高峰の天稟を獲得します。

 

つまり、強力な実力を獲得する上では、とにかく最も苦しい道を進むことが重要です。ただし、自分で故意に選び取った苦しみよりも、不当に他人から与えられる苦痛こそが最大の苦難なのであり、つまり、不正や悪こそが正義の天才を生産します。

 

ゆえに天才は社会への自浄作用として登場します。社会が完全に清らかであれば、悪も不正も天才も生じません。

 

その意味では、悪や不正や天才は社会の不完全性の象徴でもあります。また、人類が神として完成しない限りは、常に天才は必要となります。

 

以上のことから悪人は次のように言い広めます。「この世に天才は存在しない。ゆえにこの世において如何に多くの人が苦しんでいようとも、この世は完全であり、何の欠如も存在せず、十分である」と。

 

以上のことから天才は次のように言い広めます。「この世に天才は存在する。ゆえにこの世において多くの人が苦しんでいることは改善されるべき事態であり、望ましくない。この世は不完全であり、すべてにおいて未だに欠如しており、不十分である」と。

 

何れの陣営に与する場合でも、とりあえず「最後の勝利」は正義の陣営にあり、つまり天才が勝ちます。

 

この場合の悪人の罪状は「自分さえよければ、どんなに人が苦しんでいてもよい」とするエゴにあり、また、天才の勝因はそうした悪人たちの傲慢と自身の徹底した大義名分にあります。

 

結果としては、最も貧しく、最も小さいものが最後に勝利します。その苦難こそが力の根源だからです。

 

ゆえにこうした最も無力で、貧しく、小さい者に力を貸した人々は、その罪を免除され、天才の庇護を受けることができます。ゆえに、「もっとも小さい者のためにあなたがしてくれたことは、私にしてくれたことなのだ」と預言は言います。

 

また、等価交換の原理と公正性の原理から、天才は自身が最もつらい時に助けてくれた人を守り、自身を最も苦しめた対象を殺戮する衝動を持ちます。

 

つまり、それらの天才への虐待や苦難が窮まった時、「最後の時」には悪人への大殺戮が発生します。その時には悪人が許されることはありません。一方、最も小さい者に力を貸した義人たちは、天才たちによる庇護とその技術を授けられますが、これは高度に暗号化されており、心の清い人にしか読み解くことができないようになっています。ゆえに、凡庸な人からはそれらの技術は「不思議な歌」に見えます。また、「神は隠す」のであり、「秘すれば花」の哲理も真理には含まれているわけですから、そうした不思議な歌が悪人の手により解呪され、敗北することはありません。

 

以上のような「革命」のサイクルを人類は繰り返すために、人類史においては定期的に大殺戮が生じています。

 

ゆえに人類が完全に清らかに愛に満ち溢れるその時までは、このサイクルは大なり小なり循環し続けることになります。

 

少なくとも私腹を肥やす悪人たちが、弱者を踏みつけにして搾取し、殺し、嘲笑い続ける限りは、原理的に平和が訪れることはありません(その意味では資本主義は悪であり、共産主義は善であるといえます。ただし、共産主義は要件として人間がすべて最高度に義人であることを必要とするため、現時点ではその成立はまずありえないでしょう)。

 

また、以上の原理からは説明できない奇跡的な個体として、優しさと正義をどちらも高度に兼備しているものがあります。これはメシア的な特性ですが、その「程度」というのがあり、そうした個体のすべてがメシアであるというわけではありません。しかし、そうした奇跡的な個体は「天からの使い」ではあり、有事の際にメシアに仕え、奉仕するでしょう。

 

以下は、今日の記事のポイントです。

 

1.才能には清貧による強力なものと富裕による優しいものとの二種類がある。

2.悪や不正、穢れがある限りは、この世に不平等はいつまでも残存し続ける。

3.愛と正義の両方を兼備している奇跡的な個体は、人類の持つ哲理を越える。

 

すべての精霊とその眷属たちに豊穣な幸があるように。二度とはない、唯一のあなたという個性的な個人が、何の詭弁による迫害も受けることなく、「現に」幸せであれるように。悪人によるまやかしによって「本当の自分」を勝手に決めつけられることのないように。祈ります。

 

 

雨上がり 君は 君の目で答えを探してほしい

 

(花たん, 「アルカンシェル」, 2023 の歌詞より引用)

 

魔術の段級位制について

試しに、魔術の「段級位制」について具体的に設定してみたいと思います。何かの参考になれば幸いです。

 

 

魔術五級:魔術修練の初歩的階層にある者

 

魔術四級:秩序ある指導を受けており、魔術の扱い方に進歩があると認められる者

 

魔術三級:魔術の基本動作及び魔術の扱い方がやや整い、秩序ある指導の下に修練を経たと認められる者

 

魔術二級:修練の程度三級に比して著しく進歩の認められる者

 

魔術一級:魔術の型・作法概ね正しいものと認められる者

 

魔術初段:魔術の型・作法型に適って、目的の乱れぬ程度に達した者

 

魔術弐段:魔術の型・作法共に整い、魔術の運用に気力充実し、目的の乱れぬ者

 

魔術参段:魔術の型定まり、作法落ち着き、気息整って、魔術の運用法に従い、行い直く、目的達成やや確実な者

 

魔術四段:魔術の型定まり、作法落ち着き、気息正しく、魔術の運用法に適い、動き鋭く、目的達成確実の域に達した者

 

魔術五段:魔術の型・魔術・作法共に法に適って品位現れ、精励の功特に認められる者

 

魔術六段:魔術の型・魔術、作法共に優秀にして品位高く、精励の功顕著な者

 

魔術七段:魔術の型・魔術・作法自から備わり、品位高く、練達の域に達した者

 

魔術八段:技能円熟、品位高雅、魔術としての芸術の妙を体得した者

 

魔術九段:魔術の真体に透徹した者

 

魔術十段:明確な定義はなく、推薦と話し合いによって与えられる称号

 

 

以下、それぞれの段級位を認定する際に、受験者が達成すべき課題の目安としての例題を一題ずつ挙げてみます。

 

 

魔術五級の例題:正統な医学書に百冊以上目を通し、自分なりの健康を構築せよ。合格基準として、受験者の障害の程度や種類にかかわらず、強力に健康であればいいものとする。

 

魔術四級の例題:正統な哲学書に百冊以上目を通し、自分なりの思考を構築せよ。合格基準として、デリダ的な脱構築に習熟しており、あらゆるものについて肯定的に関心を持つことができればいいものとする。

 

魔術三級の例題:正統な数学書に百冊以上目を通し、自分なりの計量を構築せよ。合格基準として、一般相対性理論および量子論的な計量についてのユニークな見解を述べることができ、特に統計学について知悉していればいいものとする。

 

魔術二級の例題:正統な語学書に百冊以上目を通し、自分なりの言語を構築せよ。合格基準として、四か国語以上の言語を辞書を使いながら読むことが現実的に可能であればいいものとする。

 

魔術一級の例題:正統な宗教書に百冊以上目を通し、自分なりの体系を構築せよ。合格基準として、自分の信じる宗教の聖典によく親しんでおり、自分に対する致命的な悪への誘惑を適切な論法によって祓うことができ、清心を保てればいいものとする。

 

魔術初段の例題:身とは何か? 説明せよ。合格基準として、多種多様な身体の扱いに熟達しており、少なくとも四種以上のスポーツか武術に関して一通りプレイできるか行使できる能力を養成していればいいものとする。

 

魔術弐段の例題:心とは何か? 説明せよ。合格基準として、多種多様な心の扱いに熟達しており、フロイトユングアドラーのいずれかの著作に一通り通じ、精神分析に関する正確な知識を保有できていればいいものとする。

 

魔術参段の例題:空間とは何か? 説明せよ。合格基準として、ニュートンおよびホッブズ幾何学に通じ、ライプニッツモナドおよびフレーゲの概念記法にも通じており、アインシュタインによる一般相対性理論ディラック反物質の概念からユニークな見解を導出できればいいものとする。

 

魔術四段の例題:時間とは何か? 説明せよ。合格基準として、アインシュタインベルグソンのそれぞれの知見についての整理ができており、ヘーゲル的な弁証法によってそれらの時間論をユニークに調停できるか、デリダ的に脱構築できればいいものとする。

 

魔術五段の例題:感性とは何か? 説明せよ。合格基準として、カントの知見を踏まえた上で、何らかの局所的な理論がアンチノミーに至るまでの帰結を一通り例示しながら説明することができ、結果として論理に過剰に囚われることなく、自由に直観できていればいいものとする(ただし、論理を一律にすべて放擲してしまう場合には、禅病を警戒し、段位の認定の前にまずそれを癒すことに注力すること)。

 

魔術六段の例題:理性とは何か? 説明せよ。合格基準として、仏教の知見を踏まえた上で、理性の刃により如何なる我執も自在に断ち切ることができ、既に解脱してはいるが、身体の穢れに対して泥の中の蓮の花のように安住することもでき、つまりあえて解脱せず衆生を人知れず教化し、善導できていればいいものとする。

 

魔術七段の例題:理論とは何か? 説明せよ。合格基準として、ドゥルーズガタリの知見を踏まえた上で、分裂分析的地図作成法に通じ、またその必要性と実施に当たって要求される倫理について社会通念上で適切に示すことができ、その範囲外にまで及ぶ心の広大さと深淵についてよく体得できており、そのリスクについて理解し、現実的に統御できていればいいものとする。

 

魔術八段の例題:実践とは何か? 説明せよ。合格基準として、神道キリスト教、仏教、イスラム教のいずれかについて卓越した見識を有していると認められ、また、アリストテレス的な弁論術や詩学に基づいて実践的に説教することができ、その諦観が自在のものでありながら、さらに単なる無神論ニヒリズムに落ち込むことなく、正統な信仰を保ちえていればいいものとする。

 

魔術九段の例題:神とは何か? 説明せよ。合格基準として、西洋及び東洋の正統な占術および天文学、暦道、陰陽道、薬学、医術、養生、祭祀、儀礼に深く通じ、ユニークにそれらを活用できることが認められ、また、「秘すれば花」の深奥を体得していればいいものとする。

 

魔術十段の例題:以上のような魔術を独力ですべて凌駕できる者については、この段位が相当する。

 

 

以上、試しに魔術の段級位制を作ってみました。気が向けば、何かの参考にしてみてください。

 

ではでは~。

性質と欠如

器質的な病と非器質的な病の区別って非常に難しいよな、とふと思いました。それはある種の的中性の欠如に罹患しているようにも見えます。

 

かと言って、ある的外れな宣戦布告を想定する時に、では、それらの持つ元来の適正な「資格」とは何か? と問うとさらに難しいですね(笑) 当該の機能の公正な資格を判定するのは非常に難しく、政治的な中立というのはまずないものです。

 

基本として、悪人の幸せは速やかに過ぎ去るものと想定できますが、それと言うのも、悪は悪に相殺されるからですね。もしもこの世に楽園の中庸が実現していれば、そもそもそのような悲劇は起こらないわけです。政治的な中立を自称する陣営でさえも、非常に偏っているのが常です。油断は禁物。

 

何事にもリズムというものがあり、タイミングがありますね。物事には適した時期というのがあり、機を逸すると失敗しやすいです。これも別の視点から見た、油断は禁物、ということのパラフレーズですね。多様な表現の形式があります。

 

その中には大きな問題もあれば、比較的小さな問題もあり、また、小さいにもかかわらず致命的な問題というのもあります。

 

例えば、音楽においてオクターブの概念がもたらす周期的な構成をどのように捉えるのがいいでしょう? そこにはどのような見地がありえるでしょうか?

 

ケルト信仰のように死を乗り越えていくような姿勢というのは非常に大事なように思います。何かを乗り越えていく時にしか見えない風景もあり、ある一周分のオクターブを構成する音素だけでは表現し切れない豊穣が、その上なり下なりの、高音および低音には導出されてもきます。このように考えれば、世界というのは本当に不思議なものですね。ある種の反復が新たな境地を開き、しかも無数に差異化していくのですから。オリジナリティの哲学。

 

無私の愛というのは良いものだと思いますが、何とも言えない格上に対する純粋な愛情、尊敬というものもあります。あるタイミングでは、その類の現象も重要なのでしょう。多分。そして、そうした愛こそがオリジナリティの哲学の核心を為してもいます。

 

絶え間ない「独白」の形式というのは面白いかどうかは別にして、新しい文学を切り拓く可能性を秘めているのかもしれません。プルースト的な洗練された観察眼の発露。これらがオリジナリティの様式を担保しているようです。

 

過分な好意は毒になるのか、薬になるのか……それは永遠の謎です。しかし、それらがオリジナリティの波の影響を受ける時には、常に万能薬と化す性質があり、逆に退屈な単なる反復に堕す時に破滅が始まります。聖人君子は測定不能の創造力によって破滅を遠ざけることができるようです。不思議なことです。

 

過度な「愛」というのは基本的にはないはずなのですが、過度な「正義」というのはありますね。過度な正義は残酷になりやすいようです。その点はよく注意していきたいものですね。つまり、愛の強度は無限でランダムに発散するため、測定できませんが、正義には強度が現実的に見積もることができる……というわけです。

 

そのようなわけなので、神様にすべてを委ねて安らかである……というのも一つの達成であるように思います。それは尊いことのようにも思えます。そこには愛があり、安寧があり、また均衡による平和があるのかもしれません。

 

「メロドラマ」のような概念に対する独特の風当たりの強さには何となく感じ入るところがありますね。不思議です。個人的にはメロドラマは嫌いというほどではないですね(笑) それはどことなく信仰に対立する偶像性を彷彿とさせるところはあるのかもしれませんが、そうした惰性の果てに、何らかの意志が生起しないとも限りませんし。そうした測定不能な希望にこそ、天才は宿っているのでしょう。

自立と依存

最近、パソコンをダークモードで使っているのですが、サイトによっては真っ黒になってしまうことなどもあってけっこう不便なんだなという発見がありました。

 

綺麗に黒くなる場合もあれば、おお、黒すぎや! となる場合もあり、色々です。

 

パソコンの適切な運用手法と言うのも面白い議題なのかもしれませんね。上手く深めることができれば。

 

最近は、パソコンもそうなのですが、ブログの適切な運用手法とは何か? と言うことについてもよく考えます。

 

結論としては、好きに書けばいいのだろう、と思います。特に悩むこともないし、承認欲求も個人的にはないので、いつもマイペースですね(笑)

 

「他人の評価を気にする」というのは時に自己愛性パーソナリティ障害の特性などに数えられていますが、どうなのでしょうね。

 

けっこう多くの人が人からの評価や承認を気にしていらっしゃるように思います。そして、僕から見れば、そうした人はまったく「障害」ではないように思いますし。

 

もちろん、個々人なりに色々な悩みや苦悩はあるのでしょうが、世の中で障害とされているほとんどのことって、実は何でもないことである場合も多いよなと思います。特に精神障害人格障害の場合はそうで、何でもかんでも障害にされている節はあるのかもしれません。

 

多分、他人の評価を気にすることを障害であるとすれば、ほとんどの人が障害になってしまうのでしょうし。何せ、人間は社会的動物ですから、多くの場合では、社会性を求めて、他人との関係に依存するものと思われます。

 

僕はそういう人が間違っているとは思わなくて、「別に人に依存してもよくね?」とは思ったりします。

 

自立は大切ですが、完全に社会から自立できてる人なんてまずいないですし(笑)

 

おそらく多くの場合で、人はどこかしら何かには依存しているものです。どんな人でも。

 

だから、依存しても良いし、自立しても良いし、好きにすればいいように思います。

 

どの道、それらの観念も絶対のものでもなくて相対的な虚無でしかないと言えば、それはそうなのでしょうし。

 

では、ニヒリズムしかないのかと言うと、そうでもなくて、色々なやりようがあるわけですね。

 

確かに能力が低まるほどに、お金とか地位とかのような分かりやすい単純な指標に依存せざるをえないかもしれません。しかし、そこから自立している人でも、それはとても立派だとしても、別の何かには依存しているだろうと思うんですよね。

 

世の中は持ちつ持たれつで、そのような自立と依存の間の曖昧さに対して耐性を持ち、割り切れない世界の複雑さに対する抵抗力を持つことこそが「知能」であるようにも思います。

 

すぐに行動化してしまうのは一時的には楽ですが、じっくり考えるのも時に大事ですね。僕も行動的になりすぎるきらいがあるので、上手く思考していきたいものだなと思います。

 

地道に努力して色々な固執やしがらみから「自由」になっていきたいですね。

統合失調症の人のための転職術

「転職」とは「職業を変えること」を意味します。

 

また、統合失調症の人は潜在的な実力自体は高いのですが、種々の社会的差別や服薬による認知機能などを鈍らせる副作用などにより、経済的には不利な立場に置かれやすいと思います。

 

しかし、ピンチはチャンスです。何事も不屈の精神で以て努めて正しく臨めば、自分の道は拓けるものと思います。ユダヤ人などは歴史的に多くの差別や殺戮を被っていますが、それでも非常に賢く、また強く今の時代まで生き残っていますね。統合失調症という「種」に属する人々もまた彼らに学べる点は多いと思います。その意味では、「箴言」や「詩篇」のような聖書の言葉やいわゆる「タルムード」のような書籍に和訳でもいいので、目を通してみるのも非常に面白い方法だと思います。ユダヤ人の例に限らず、歴史的には、多くの優れた人たちが差別を被り、虐殺されています。その意味では、下手に周囲の人々の嫉妬による被害を受けないように、予め「能力を隠す」というのも大切なことです。良いものを良いと正確に承認し、しかも妬みに囚われることなく推挙までできる人というのは基本的に一流の人だけに限られ、多くの場合、その認識は嫉妬や傲慢で濁ります。聖書には「豚に真珠」と述べられていますが、要はこのことです。

 

以上のことから、統合失調症の人のための転職に当たってのポイントを次のように整理することができます。

 

  1. 自分の属する「種族」の特性についてよく理解し、その能力を最大限に活かす。
  2. ユダヤ人などの熾烈な差別の中を生き延びてきた英知ある人々の知恵に学ぶ。
  3. 周囲の人々の嫉妬などの悪徳を避けるため、一流の人以外には能力は隠す。

 

例えば、自分の特性をよく理解していなければ、自分の能力を効率的に磨くことも、活かすことも難しいでしょう。ゆえに、自分の属する種族としての特性やその文化、また持って生まれた個性や能力などを十分に把握し、意識的にそれを磨くべきです。そのためには、万物を愛する心が重要になります。真の愛はその持ち主に無限の知恵を授けてくれます。例えば、自分の用いる一冊の書物を粗末に扱えば、その書物もあなたを粗末に扱うでしょう。しかし、あなたがそれを心から「愛用」し、大切にその書物に向き合い、潤沢な注意力で以て臨むなら、その書物は一冊と言えども、万巻の書物にも劣らない多くの優れた知恵をあなたに授けてくれるでしょう。

 

例えば、どんなに優れた能力を持っていても、嫉妬を熾烈に被れば、最悪の場合、殺されてしまうでしょう。ゆえに、過去の人々の苦難においての生き残り方について学ぶことは有益であると言えます。また、統合失調症の人もまた、現代社会から熾烈な差別を被っており、そうした構造的な差別は社会の隅々に行き渡っています。そうした不正な差別に立ち向かうためには深遠な知恵や力が必要です。したがって、現に熾烈な差別に対し、ユダヤ人のような英知ある人々がどのように生き残ってきたのかについて学ぶことは有用でしょう。

 

例えば、あなた一人がどんなに正しく振舞ったとしても、周囲の人々が嫉妬などの悪徳に染まっていれば、その人たちは正しいあなたを憎み、殺すでしょう。したがって、厳しい現代社会を強く生き残るためには、現実的に多くの「策略」が必要でもあります。その策略の基本形は、何事につけても「隠す」ということです。隠れていなければ、どのような策謀も機能を果たしません。そして、聖書によれば「隠すことは神の栄誉」であり、忍術によるいわゆる正道によれば「正しくなければ、如何なるものも隠すことはできない」と言われます。したがってまずは極限まで正しくあること、そしてその上で大切な秘術をなるべく「隠す」ことが重要です(ただし、一流の人に対してだけは秘術を開示すべき場合もありえます。これは一流の人がその術を用いることが大きく公益に適う場合です)。世阿弥が「秘すれば花」と示すのも納得です。

 

つまり、以上の判断要件を簡単にまとめると、次の三つのポイントに集約できます。

 

  1. 基本、極力は、すべてを愛すべきである。
  2. 基本、極力は、常に正しくあるべきである。
  3. 基本、極力は、秘術や秘宝を隠すべきである。

 

これらの「生き残る」ための要件を「転職」に具体的に応用するなら、次のように記述できます。

 

  1. 転職においては全面的な「愛嬌」が有効。
  2. 転職においては全面的な「正義」が有効。
  3. 転職においては全面的な「謙虚」が有効。

 

つまり、総体として朗らかで柔和な愛嬌に満ちており、振舞やその心の隅々までが正しく清く、それでいて自分の才能などの美質に驕り高ぶることなく謙虚な姿勢を保つことに本質的に成功している個体は転職に有利である、と想定できます。

 

例えば、愛嬌がなければ、対人面で苦労するでしょう。

 

例えば、不正や悪を為せば法律に引っ掛かり、逮捕されてしまうでしょう。

 

例えば、驕り高ぶっていれば、多くの人を傷つける結果となり、被害者たちはあなたに反逆の刃を向けるでしょう。

 

ゆえに、以上の愛嬌、正義、謙虚のどれが欠けても転職には大きく不利であると言えます。

 

逆に言うと、愛嬌、正義、謙虚の三つを高度に兼ね備えることができれば、非常に転職に有利な展開を期待することができます。

 

また、これらの三つの美徳を「極めて」高度に兼ね備えている場合には、そもそも転職せずとも周囲の人々を人知れず正しく教化し、自分が所属する企業自体を高度に発展させ、豊かにさせることも可能となりえるでしょう。聖書などによれば、こうした状態は「王」と呼ばれ、「極めることは王の栄誉」と規定されています。

 

あなたの転職活動に栄えがあるように。または、そもそも転職への執着や欲求さえも不要になり、老子の言う「足ることを知るものは富む」というような境地までも至れるように。祈ります。