魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

「当事者」概念についての補足

 みなさん、こんばんは!

 

 今日は、先日書いた、当事者概念についての補足をしたいと思います。ご興味のある方はお付き合いください。

 

 もしかしたら、先日言っていることと、逆のことのように一見したところ聞こえるということもあるかもしれませんので、その点は論理の構造がどうなっているかに注意して下さるとうれしいです。

 

 では始めます。

 

 まず、当事者と非当事者の区別が非常に難しいというのは先日指摘したとおりです。

 

 そして、前回の「当事者について――Main Character」(ブログ内検索からご覧ください)という記事の一つの結論が、「ある意味では、すべての人が世界の当事者である」というものです。

 

 この論証は、暫定的にはある程度は正しいとし得るものかと思います。

 ただ、これは、ひとつ盲点をかかえた論法でもあります。

 

 それというのは、この論法は、「世界」の範囲を地球上に限っているという点、それゆえに、「人間の知識はある程度有効な判断を下せるのに十分なほどに成熟しているであろう」という「推定」です(宇宙のことは知らずとも地球のことならかなり知っているであろうという一種の楽観的推定があるという感じです)。

 

 つまり、この「世界」の範囲を、「宇宙」に拡大すると、これは、「未知」の状態となります。人間は宇宙のことについてまだあまり詳しくないので。

 

 すると、この場合には、「人間の知識は、有効な判断を下すのに十分ではない」というさきほどとは逆の帰結が導き出されます。

 

 この場合には、「人間の知識は不完全なので、必然的因果則によって、世界を把握するのは、不十分な結果に終わるであろう」、という思考回路となります。

 

 つまり、世界とは、「偶然的」であるという一つの案です。

 

 実際、僕たち人間の力は非常に限られたものであり、また、世界が必然的なのか偶然的なのかもよくわかりません。

 

 だから、世界に対するスタンスは、人それぞれとならざるを得ず、つまり、多様なスタンス、この二項対立を採用するなら、「世界は必然的である」というスタンスと、「世界は偶然的である」というスタンスがあり得ます。

 

 このスタンスの区分はさらに細かく分類することも可能で、「必然か偶然、どちらか一方にスタンスを決めるべきである」という主張や、「両者の中間を取るべきである」という主張、はたまた、「中間など幻想である」という主張もあり得ます。意見は多様です。ある意味では、意見の多様性があってよいことである、というふうにも言うことができるかもしれません。

 

 いずれのスタンスにも利点と欠点があるでしょう。思想の自由を人々に強く認めるとすれば、偶然的なスタンスも、必然的スタンスもどちらを取るのも、当人の自由とされるのだと思います(思想の自由は大切だと思います)。

 

 そして、世界が、根本的に、偶然的(「原始偶然」など参照)なのか必然的(「決定論」など参照)なのかがわからない以上、どちらのスタンスを取るのもあり得てくると思います。

 

 世界が偶然的なのなら、「責任」を取ることは厳密には不可能です。なぜなら、過失の原因を因果則によって帰属することができなくなるから。したがって、この意味で言えば、いわゆる「当事者」でさえも、当事者であり得なくなります。ある意味では、「すべての人が、非当事者、である」という前提はあり得ます。

 

 

 

 なので、僕は、無理に公共的な判断は下さないでおきます(つまり、僕の言うことは基本として聞かなくてよい)が、個人的な考えなら多少、拙いながら、記すことができます。ご興味のある方はお付き合いください。

 

 まず、主体と影響と対象という三項図式を仮に想定します。

 

 つまり、主体があり、影響があり、その影響が主体から対象に及ぼされる、という図式です。

 

 僕の場合には、この三項図式の原因をさかのぼってみます。

 

 思考は、「分析」(分割すること)や「総合」(結合すること)によって豊穣となると考えます。

 

 つまり、思考は、何かを分析することで成り立っている、あるいは分析したものを、あらたな組み合わせとして結合(創造)することで成り立っているというふうに考えてみます。

 

 つまり、今ある思考とは、何かを分析し、それを新たに総合した結果、生じてきたものであると想定します。

 

 この場合、根本的な事象は、分析されていない、また総合もされていない、つまり、全的一体な何かであると想定されます。

 

 ならば、世界は、「主体、影響、対象の三項図式に分割される前の状態」(純粋経験など参照)を何らかの形で持っている、と考えます。

 

 「関係性」とは、上記の三項図式を想定する概念かと思いますが、そもそも、その三項図式ではない、状態を想定してみるのです。

 

 この状態には、「主体」(当事者)も、「影響」(関係、行為)も、「対象」(他者的当事者)もありません。

 

 つまり、人がこの状態に身を置いた場合には、そもそも当事者問題自体が生じないスタンスとなります。僕は個人的にはこのスタンスのような感じかなあ、と自分では思っています。

 

 そして、この状態は、分析で現れるものではありませんから、記述できません。そして、この記述できないもののことを、僕は仮に「欲望」と呼ぶことがあります。

 

 欲望は、ある時別れたり反発したリ(分析)、ある時合流したり同盟したり(総合)する、ひとつの「流れ」です。

 

 僕は個人的には、こうしたスタンスかなあ、と思います。

 

 この領野には、そもそも、反発するものとしての「主体」がありませんので、ある意味では、全面的肯定となります。すべてはひとつのものであり、そのひとつのものの存在が肯定されているのなら、それはすべてのものを肯定することになるからです(この場合には、一応、一元論、ということ。しかし、この一元には、全面的な多元が含まれているため、多元論とも言い得る)。しかし、すべてのものであるからには、そこにはもちろん、別れや合流も含まれています。その流れ、「欲望」は反発として現れる場合もあるでしょうし、なんらかの反動として現れる場合もあるかもしれません。悲劇的なこともあるかもしれない。しかし、もしも、この「流れ」として生きるのなら、これは、全面的な事であり、これは、分析や総合、つまり、いわゆる「思考」の問題ではなくなる、と言い得ます。主体の喪失、ともいうことはできますので、現在の医学からすれば、「統合失調症」、あるいは、なんらかの病的な状態と捉えられうるかもしれませんが、僕としてはこの生き方に賭けています(笑)個人的な姿勢として御了解ください。

 

 

 以上が、僕の「個人的な」思考法ですが、「流れを感じる」などというといささかオカルティックに感じられる方もいらっしゃるかもしれませんね(笑) そのような方には次のような思考法がお勧めできるかもしれません。

 

 「さて、世界が手に負えないのはわかった。しかしだからと言って、私たちは自分の今ここにある生活、日常を放棄するわけにはいかない。それは私にとって大切なものである。たしかに、何もわからない。しかし、それでも私たちは少しでも確かと思えることに依拠し、考えていく必要がある。あるいは、考えない、という選択をも含めて」

 

 非常に合理的な指摘であるように思えます。科学的実証性など、エビデンスに依拠して、生活を構成する手法です。

 

 科学は不完全ですが、しかし、科学ではない悪徳なものに騙されて苦しんでいる人たちもいることと思います。であれば、それへの対策のひとつとして、科学の地位を高めに見積もり、そうしたものから、人々を守ろうとする意図は当然生じ得るでしょう。そのような人がいるとすれば、非常に優しい方なのではないでしょうか。世界にとって、とても大切な方だと思います。

 

 僕個人は、科学が絶対のものとは考えていませんし、また宗教を擁護することもあるのですが、しかし、それとは別に、こうした優しい姿勢というのは、非常に合理的であるとも考えます。ケースバイケース。それぞれの立場によります。

 つまり、「意見は違いますが、共生するべき方なのではないか」と個人的には思います。

  

 ある意味では、議論があることは悪いことではなく、いいことだとも言い得ます。したがって、意見の対立は必ずしも忌むべきことではないし、意見を交換することで、より真実に近づける可能性もあります(弁証法など参照。逆に、「真理」なるものに近づけない可能性もあることにはあるのですが、ここではとりあえずその話は置いておきます)。

 

 科学が人々の生活を豊かにしていること自体は、事実であり、その点で言えば、こうした主張は、極めて優れた指摘であると言えるのではないでしょうか。また、姿勢、戦略としても十分に合理的でしょう。

 

 人の認知形態や知能にはさまざまなものがあり、そこに優劣はないので、色々な思想があってよいでしょう。そうして、色々な人がゆるく、時に強く、つながりながら、世界はまわっているものと思います。

 

 したがって、その意味では、積極的に責任を持ち、当事者としてあり(つまり、必然的因果則を想定する、科学的態度)、そのように生きるというのは、非常に理に適った一つの生き方ではないでしょうか。どの生き方がいいかはケースバイケースかもしれませんね。

 

 と、僕が個人的に思ったことをつらつらと書いてみました。

 

 少しでも皆さんに有益な情報を提供できたら、幸です。

 

 ではでは~♪

「当事者」について――Main Character

 みなさんこんばんは。



 今日は、「当事者」とは何かについて、検証してみたいと思います。  



 今日の結論は以下の通りです。



 1.当事者と非当事者の間の明確な線引きは難しい。

 2.何が当事者で何が非当事者であるかは、その区別の有効性にもとづいてケースバイケースに決定される。

 3.当事者と非当事者の間の境界はグラデーションになっており、連続体的である。





 以下、論証です。

 



 では、当事者とは?

 

 これはある事柄に直接関係している人です。ことがら自体は何でもよいかと思います



 「直接」、とは、間接の反対であり、間接とは遠まわしであること。直接とはそれよりも近いことを表します。つまり、直接関係と表現されるほど、近い関係を指示し、間接関係と表現されるほど、遠い関係を指示すと考えられます。遠近感の問題です。



 では、関係とは?



 これは、ある事柄に対して影響力があることです。例えば、僕の発言がある事柄に影響をおよぼす場合、これは関係がある、ということになります。逆に、ある事柄が僕に影響力を持つ場合、これも関係がある、と言います。そのどちらの関係も備えている場合には、これは、「相互的関係」と言えます。どちらか片方の関係だけが成立する場合には、「一方的関係」となります。



 実際には、人が二人いれば、どうしてもお互に影響を与え合ってしまいますので、厳密には、この世界には、ある人や物事にとって無関係な人や事柄は存在しません。したがって、端に論理的に考えるなら、「全ての人がすべての事柄に対する関係者である」という前提はあり得ます。



 しかし、これでは、関係者と部外者を区別できなくなってしまいますので、境界は不明瞭ですが、「仮に」関係者と部外者の区別をつけることがあります。



 したがって、当事者問題においてポイントとなるのは、その「仮の境界をどこに設定するか、という問題になるかもしれません



 これは、本質的に不明瞭な問題ですので、ケースバイケースではあります。



 したがって、本質の問題というよりも、「どのような区別をつければより有効と言えるか」によって当事者と部外者を区別する手法を取るのいいように思われます



 まずは、理想的な条件で単純に考えてみましょう。



 正しい判断は、素朴には、次の条件を備えているときに生じます。



 1.データ抽出に偏りがない。

 2.データが大量である。

 3.分析が論理的である。



 したがって、まず、理想的には、全ての人のデータを大量に論理的に分析することが、正しい判断のために有効であると考えられます。



 しかし、これは、ちょっと不可能ですね(笑)

 全てを処理しようとすると、あんまりデータが多すぎて、処理しきれなくなってしまいます。



 したがって、方針としては、「できる限り偏りなく、多様で、大量なデータを収集し、論理的に分析する必要がある」と言えます。



 さて、ここで、当事者という言葉について再考してみましょう。



 当事者は、この場合、「関係してもいい人」を選抜するための概念ですね。「あなたは当事者であるので意見を言ってもいい」「あなたは部外者なので口を慎んだ方がいい」という選抜概念です。一種のエリート概念の構造に似ているかもしれません。「当事者」とは、発言権が認められる者として「選ばれた」人たち。



 したがって、上記の原則にあくまで従うのなら、「できる限り、当事者の範囲を広く見積ったほうが良い」と言えます。



 つまり、できる限り、差別をせず、多様な意見を大量に取り入れたほうが良い。



 理想的には、当事者と部外者を差別しない方が、正しい判断のためには望ましいと考えられる、ということです。



 しかし、これが、「理想」であることは先述したとおりですが、現実的には人間における認知のリソースは限られており、当事者と部外者を仮にでも区別し、データの抽出範囲を絞らなければ、頭がパンクしてしまいます。



 では、当事者と部外者の範囲はどのように決定されるか。



 まず、一口に「関係」と言っても、多様な関係の持ち方が考えられます。



 そして、関係の強さも連続体です。



 まず、0100かの振り切れた極端な思考で、当時者と部外者を完璧に二分してしまうのは、表現の自由の観点からちょっと危ない(発言権の剥奪などは、治安維持法などに似ている面もあり、非常に慎重になる必要がある)。つまり、当事者度が60%の場合もあるだろうし、非当事者度が70%の場合も十分に考えられる。



 したがって、ここは極端な思考に走らず、出来るだけ穏当な基準を設けるのが有効であると、とりあえずは考えられます。



 つまり、対象となる事柄から強い影響を受ける人ほどに強い発言権が与えられます。逆に、影響が弱い人ほどに、弱い発言権が与えられます。ポイントとなるのは、どちらのタイプの人にも発言権自体は与えられる、ということです。



 このように考えた場合には、部外者にも当事者にも基本的発言権表現の自由)自体る程度保証されると考えられます。そして、理想的には多様な意見を摂取できた方がいいのは、もちろんのことですので、発言権を「弱める」ことに関しては、極めて慎重な態度が要請されます。基本としては、できる限り、発言権を弱めてはならない(これは人権の問題でもありますね。発言を抑圧せざるを得ない場合には、必ず、反対側に位置する発言の権利」(表現の自由)をも考慮しておかなければなりません。極端にならないように。必ずしも極端のすべてを排除するべきなどという事でもないのですが。ある程度は極端性もあっていいと思います。深刻な他害がなければ)。



 また、どの程度、部外者「的」な人たち(完璧な「部外者」は存在しないので)の発言権を弱めるかについては、ケースバイケースではないかと、個人的に思います。



 さて、ここではこれまでの思考の応用例として少しだけ、福島原発事故の場合について考察してみましょう。



 この場合の発言権の剥奪範囲は、原発事故の影響範囲がどの程度の規模のものであるかによって決まります。



 原発事故の影響が少ない場合には、少量の人々に強い発言権が付与されます。原発事故の影響が大きい場合には、大量の人々に強い発言権が付与されます。



 では、原発事故の影響はどの程度のものか。



 まず、この事故はどの程度すごいものなのでしょうか。



 これは、かなりすごいことであると言えるでしょう。



 ウィキペディアをちょっとのぞいてみましたところ、「国際原子力事象評価尺度」なるもので、最大レベルの「レベル7」(暫定)なのだそうです。



 つまり、これは、国際的な最大級の問題であると想定されます。



 この場合には、国際的に様々な人々に強い発言権が付与されることになります。



 言うなれば、これは、日本だけの問題というよりも、世界の問題であり、世界のすべての人々が考えるべき問題であると言え、その上さらに、その事故を起こした当人である、「日本人」に該当する人々には、ことさらに強い発言権が付与されるであろうと考えられます。



 したがって、福島原発事故の場合には、世界の人々、とりわけ日本の人々は、積極的にこの問題について考え、発言する権利があると考えられます。原発の認知についての情報などは、基本としては多様であることが望ましいですので、強いて言えば、「福島原発事故については、日本人はすべて当事者である」という線引きがある程度の有効性を持つと考えることはできます



 違った線引きの場合も一応考察すると、「日本人は当事者ではない、福島県民は当事者である」というふうに線引きを考えた場合、当事者ではない日本人にとっての福島原発事故の重要性が低下してしまいますので、原発問題についての思考が「風化」し、「忘却」に至ると想定されます。問題を忘却してしまうと、問題は改善されないので、また、同じ失敗が生じる可能性があります。そして、これは再び繰り返してはならない深刻な問題ですので、日本人は真剣に原発事故について積極的に発言していく必要があります。ならば、ひとまず、日本人がこの問題を自国の深刻な問題として心に刻むという意味では、「日本人は、福島原発事故の当事者である」というふうな線引きで考えたほうが、合理的であるかもしれません。また、福島原発事故は、何も福島の人たちが悪くて生じたものではありません。これは、すべての日本人、もっと言えば世界全体の問題なのであり、その責任は福島の人たちだけに帰属されるものではありません。ならば、その責任は僕たち一人一人、世界の人たちにもあるものと考えられますので、その意味でも、この問題は日本人みんなで考えるべき問題であるのではないか、というふうに個人的には思わないでもないです。念のため、もう一度繰り返しておきますが、福島の人たちが悪いのではありません。原発事故の当事者は、日本人全体(あるいは世界全体)です。したがって、原発事故を理由に、福島の人たちに対し差別した扱いを取ることは合理的ではないのではないか、と個人的には思っています。



 広い範囲から情報を収集するほど、多様な情報が生じますので、情報処理が大変になります(風評問題とかすごく大変なんだと思います)が、おそらく、福島原発事故の場合には、――世界的な事故ですので――その大変な情報処理をみんなで一緒に行う価値はあると考えます。人の知能は様々ですが、知能の高低によっては、人の優劣は決まらないので、一見すると不完全に見える意見も、人間の認知様式を表したデータとしても、また、なんらかのヒントとしても、よいものを持っている可能性はあります(「多様な目」によって物事を観察すれば、自然と多面的な考察が可能となります)。一つの尺度から見ると劣って見える知能が、別の観点からはある種の独創的機能を持っている事例(「2E」など参照。)もあるかと思います。そういった多様な観点は、今後の人類にとって、データとして非常に重要です。情報量が増えると、ノイズも増え、処理が本当に大変になってしまうのですが、それらのノイズを乗り越え、何が正着打なのかを、日本人、あるいは世界の人たちみんなで発言し合いながら、一緒に考えていけるとのいい、のかもしれません。



 福島原発事故の当事者は日本人を含めた世界であり、その意味では、極めて国際的な範囲における発言権が認めらえるのではないか。



 これが、もっと狭い範囲の出来事であれば、部外者的な人の数は膨れ上がるのでしょうが。



 例えば、恋愛の小さいいざこざとかは、福島原発に比べて、影響範囲が非常に狭いので、部外者的な人の数も増えると考えられます。



 もっと言うと、この「当事者」についての概念も多様であるほど良いデータが取れるとも考えられます。したがって、多様な当事者意識なり、「多様な当事者」などを認めるのもある程度妥当でしょう。その意味では、当事者範囲についての言論があるのは非常に好ましいことであるともいえるかもしれません。いずれにせよ、できる限り自由な言論が優れた考察を産み出すものと考えられますので(自由にすると、無作為的になるので、全体としてデータの偏りが減っていくから正しい判断が可能になると考えられる)。



 例えば、僕などは、統合失調症(この際、統合失調症とは何かについてはおいておきます)の当事者、ということになると思うのですが、それでも、非統合失調症?(そのような人が具体的にどのようなものなのかは僕にもわからないですが)の人の意見も、参考にさせていただいています。

 精神科医には、統合失調症ではない人はたくさんいらっしゃると思いますが、統合失調症についての医師の意見をうかがうこともたびたびあり、また、とても有益な意見交換となっております(僕の場合。医師には迷惑かもしれないけど(笑) いちいちくどい患者です(笑))。そういう事例などを考えてると、本当に当事者」と非当事者の線引きはとても難しいし、そもそも多様な当事者を認めるのが正確な判断のためには合理的ときていますからね。少なくとも、「被害にあった人だけが当事者」ということはないのではないか、とは個人的には思います。



 人間は、みんな、自分の人生という、ひとつの物語の主人公であるとも言い得ると思うのですが、これは、いわば、「自分が自分の人生の当事者たり得るか」、という問題意識でもあるのかと思います。そこには優劣はないのでしょう。当事者的であろうとする人、非当事者的であろうとする人、多様な人々がいるようです。僕は、こうした主人公性、――言い方を変えれば、主体性――は解消してしまった? 解消しつつある? 解消している最中? な類の人間なのかもしれませんが、それでも、この主体性を持つことが必ずしも悪いことではないし、場合によっては、良いことですらあるのかもしれません(未来がどうなるかは、正直僕には全然わからないのです。それらはあらかじめは決まっていないんじゃないかと思えるくらいに)。ありのままの自分でありたいと願う人も、それはそれで一つの選択としてよいのではないかと、個人的には思っています。ありのままの自分は、まさに「そこ」にありますね。そうして、色んな人たち(僕を含め)や物事はどこかに流れていくものなのかもしれません。その流れの行く先はわかりませんが、おそらく流れていくしかないのではないかと思います。「ゆく川の流れは絶えずして」みたいな感じ。何もかも流れて行って、もう何が確定的なことかわからないし、確かと呼べるようなこともないのかもしれませんが、強いて言えば、その「欲望」の行く先へと人は流れていくのかもしれません。様々な流れ、様々な欲望、様々な行く先があり、そして、様々な当事者がいるかと思います。少なくとも、それを(何にしても「それ」です。その欲望)をあきらめない人というのはいらっしゃるようで、またそういう人たちを、あきらめた人たち? が指さして笑うのはちょっと違うんじゃないか、と思うこともあります。世界には色んな人がいていいのではないでしょうか。僕は個人的にはそのように思いました。少なくとも、特別に悪いことではないかと。論理どうこうというよりも、単純に、こういう人たちのことが、個人的に好きだということもあるのですが(笑)世の中には色々な好みがあるようです(笑)普通に生きたい人もいいと思うし、自分が「メインキャラクター」になってやろうという人もいていいと、個人的には思います。僕としては、こういう真剣な想いを否定はしたくないなあ、と思ったりもします。人生に部外者はいないのではないでしょうか。ある意味、すべての人が人生の、あるいは世界の当事者であると、個人的には考えております。優劣はないのでしょうね。おそらくは。つまり、僕の見解も別段優れているわけではないので、肯定派の方も、否定派の方も、別にこの意見に囚われなくてもいいと思います。鵜呑みにせず、気が向いたら、御自分で色々とご想像なさって見てくださいませ。



 一つの意見として、気が向いたらご参考下さい。僕の言うことなんて、基本的に全部無視してくれてもよいのです☆

 

 ではでは~



 

 君が立つ場所はきっと 

 僕が諦めた未来で

 選んだものが違うから 

 分かり合えないこともあるけど(*Luna,『メインキャラクター』,歌詞より引用)

 

 

統治術概略(非武装型戦略術)

 みなさん、こんばんは。

 

 今日は、「統治術」という題名。

 

 何やら仰々しいですな(笑)

 

 ただ、武力とかは使わない術ですので、そんなに残酷な感じとかはないはずです。

 

 とは言え、戦闘術の一種ではありますので、人間の世知辛い? 部分については見たくない感じの方は見ない方がいいかもしれません。

 

 では、一個ずつ。

 

 簡単に言うと、ガンジーの非武装戦略のようなものです。

 

 僕も戦争学などには詳しい方ではないのですが、個人的に考えられることは一応書いておこうと思います。

 

 これは、「アジ―ル生成術」の一形態でもあります。

 

 まず、統治とは何か?

 

 これは、「まとめ治めること」、です。

 

 では、治めるとは?

 

 これは、「極端でなく心配や悩みのない状態」、にすることです。一言でいうと、「穏当」な状態にするということ。

 

 まとめる、とは?

 

 これは、物事の筋道を整えることです。

 

 もちろん、物事の価値観や筋道はきわめて多様です。したがって、そのきわめて多様なすべての価値観を折衷し、さらに、極端に偏らず、またすべての人の心配や悩みを、統治しない場合よりも、減らすことができるのでなければ、統治は不可能であることになります。

 

 すると、これらのことより、統治が成立する三つのポイントを示すことができます。

 

 

 1.多様性を認める(人は自分を守らないものに忠誠を誓うことはないから)

 2.極端にならない(多様な人々に応えるためには、中立が必要だから)

 3.すべての人々の悩みを減らす(人を引き付けるにはメリットが必要だから)

 

 さて、ここで引っかかるのは、「すべての人」という部分かもしれませんね。「すべての人を救うだなんて無茶だ!」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、そうすると、見捨てられた人はどうなると思いますか?

 

 人は自分を守らないものに忠誠を誓うことはない、と書きましたね。したがって、見捨てられた人は、「敵」となってしまいます。

 

 誰かを見捨てる限り、無限にこの「敵」は生成されます。

 

 したがって、原理的には、たとえ現状では極めて難しかったとしても、総力を挙げて、すべての人を救うために行動するのでなければ、――少なくともそれを「全力で目指す」のでなければ、――統治は成立せず、必ず、「戦争」が生成されます。

 

 よって、すべての人を救おうとすることが、統治の成立のためには、必要となります。

 

 さて、ここで、「攻撃的な敵」を想定してみましょう。攻撃的な敵は、つぎの三つの特徴を備えています。

 

 

 1.排除的である。(攻撃するためには、排除的な性格が必要です)

 2.極端である。(「中立」であれば、排除的となりません。だから、「極端」)

 3.限られた人々の悩みだけを減らす。(攻撃するには敵にも「敵」が必要です。そのためには排除される人が必要となり、したがって、彼らは救う人を限定する必要があります)

 

 

 これは簡単に言いますと、「統治」の反対ですね。

 

 統治の能力は現状では、不完全なものです。したがって、論理的にはどうしてもあぶれてしまう人が生じてしまう可能性があります。

 

 したがって、常に、こうした「攻撃」を想定していなければ、統治されている人たちは、攻撃に怯え、これは、「悩みを減らすこと」という統治の第三条件に反します。

 

 今回は、非武装型の戦略ですので、ここで、「武装」という選択はとらないでおきます。

 

 では、どのような戦略が考えられるか。

 

 まず、完全な統治が不可能である以上、必ず、統治側にも、武装「的」な人々は存在します。武装するまでもなく(統治国家でも、軍隊や自衛隊を持っていますね)。

 

 つまり、取り立てて、武装しなくても、武装している人々はいるのです。

 

 まず、この事実が、攻撃的な敵、に対する抑止力となります。

 

 武装は解除を目指すべきであり、「みんなを救う」という理念のために必要ですが、「既に武装してしまっている人々」に、さあみんなで武装解除しよう! と呼びかけてもなかなか難しいですし、それだけでなく、僕たちの暮らしに存在するもの、棒や包丁なども「武装」となってしまいますので、完璧な非武装は現実的ではない。

 

 したがって、統治の三条件を全力で目指すことが統治の条件ですが、人間が完全にすべての多様性を包摂できる段階になるまでは、どうしても、この排除構造の制御が問題となります。

 

 したがって、自分が武装せずに、既に武装してしまい、また、武装を容易に解除できない人たちと共生するためには、その武装をうまく「制御」する術が必要となります。

 

 武装は、いかなるものも諸刃の剣です。盛者必衰、とも言いますね。一般的に、強過ぎた武力、強すぎた権力は自滅します。

 

 また、多くの場合(とは言っても、生存権や人権が適切に担保され、なおかつある程度幸福である場合に限る)、人は自分の身を命の危険にさらしたいとは思わないでしょう。

 

 したがって、本当は武装したくないと考えられます。

 

 よって、ここで、武装制御の第一要件が見えてきます。

 

 それは、「制御者が武装解除を目指している人であること」

 

 制御者が戦争好きで、戦争で人が死ぬのを見て、喜ぶ人であった場合、そのような人に自身を委ねようとは思わないであろうと推定します。

 

 したがって、武装と共生する、あるいは持ちつ持たれつになるには、その統治者が武装解除、つまり、戦争の回避(武力使用の回避)をめざしている必要があります。これは、統治の三条件における、第一条件「多様性の尊重」に該当します。

 

 では、そもそも、武装とは何でしょう? これは攻撃を目的とした道具のことです。

 

 銃とかナイフとか。核爆弾とか。

 

 つまり、武装している人たちは攻撃「的」ではあるのです。なぜ、攻撃的になるのか。

 

 それは、置かれた環境が統治の三条件に反しているためであろうと推理します。

 

 つまり、統治者は、彼らの価値観を尊重し、なおかつ他の価値観も尊重し、中立的であり、そして、彼らの悩みや不安を減らしてあげることができることが必要となります。

 

 ここで、武装制御の第二要件が成立します。

 

 それは、「統治者が、武装者の悩みや不安に親身であり、またそれらの悩みを減らしてあげることができること」です。

 

 つまり、武装者の価値観を否定したり、その悩みや不安をはねのけたりした場合、武装制御、――言い方を変えれば、武装統治は成立しません。

 

 そして、武装者にも多様性があり、人それぞれに大切にしているものがあり、守るべきものがあります(だから、武装してまでそれらを守ろうとする。それは、矜持かもしれないし、大切な人たちかもしれない)。

 

 ここから、武装制御の第三要件を抽出できます。

 

 それは、「統治者が多様な武装者の価値観を認めることで、中立的であること」

 

 さて、武装制御の三条件をまとめます。

 

 

 1.武装解除を目指していること。

 2.武装者の悩みを減らすことができること。

 3.多様な武装者の間で中立的であることができること。

 

 

 これら三つの要件を積極的に満たすことができれば、武装者は統治者に味方するであろうと推定できます。

 

 すると、その武力は、「攻撃的な敵」への抑止力となり、攻撃的な敵を包摂し、説得し、救うまでの時間を稼ぐことができます。

 

 では、「アジ―ル」とは何か?

 

 これは、統治権力の及ばない場所、のことです。

 

 はてさて、これは統治術に反するように見えます。何せ、統治権力の及ばない場所ですから。

 

 ポイントは、統治「権力」という点です。つまり、これは権力であり、「武装」の一種ですね。したがって、本当の意味での、「統治」ではないのです。したがって、一見、今回の見出しとアジ―ルは矛盾するように見えますが、趣旨からいえば、まあ、大丈夫ではないかと思います。

 

 つまり、統治は権力によってではなく、「包摂」というか一種の「優しさ」のようなものによって行われます。武装ではなく、「徳」によって統治する、ともいえるかもしれません(上記の通り、統治者が残虐であったり、戦争好き、暴力好きであった場合、その統治は崩壊するであろうと想定される)。

 

 したがって、アジ―ルとは、権力の及ばない場所、のことであり、言い換えれば、「武装の及ばない場所」のことです。

 

 完璧なアジ―ルは、完璧な太平の世に実現されると想定され、また、それを「目指した場合」のみ、その者に統治の資格があると考えられます。

 

 したがって、現行で可能なのは、「暫定的なアジ―ル」であり、これは、「比較的武装権力の手の届かない範囲」という意味になります。

 

 まず、簡単なモデルを想定してみましょう。

 

 Aという武装勢力とBという武装勢力がいた場合、これらの価値観が相異なる場合には、戦争が生じると考えられます。すると、戦争領域が発生します。戦争領域では、アジ―ルは成立しません。つまり、非戦争領域にアジ―ルは成立します。

 

 では、非戦争領域は、どのような場合に生じるか?

 

 それは、お互に、戦闘の益がない場合に生じます。

 

 つまり、戦争してもしょうがない場所においては、非戦争領域となるのです。

 これは、どのような領域か?

 

 これは、「双方の価値観にとって利益のある地帯」です。

 

 つまり、A勢力、B勢力共に、失いたくない「文化」なり「資産」がそこに根付いており、なおかつ、その資産の存在がA勢力、B勢力に知られていれば、そこは、非戦闘領域となると推定できます。

 

 つまり、きわめて創造的で、寛容であり、多様な価値観にとって益をもたらし、次々と新たな価値なり発明が生まれる、多くの資産が創り出され、それが継続的に保存されている圏内。これはアジ―ルとなると考えられます。

 

 つまり、アジ―ルの成立条件は次のようになります。

 

 

 1.創造的で、オリジナル(代替が難しい)な多様な価値にあふれている。

 2.どの武装勢力にも寛容であり、彼らの悩みや苦しみを減らすことができる。

 3.作り出した価値、文化、資産が、継続的に保存される場所である。

 

 

 これらの特質を備えた場所は、アジ―ル化すると考えられます。

 

 つまり、

 

 創造的で、多様性を認め、尚且つ大量の多様な価値を継続的に保有する人は、その人自体が一個の「アジ―ル」であるとも言えます。

 

 つまり、そのような「アジ―ルとしての人々」を結集することができれば、その地帯は、きわめて強いアジ―ルとなると考えられます。

 

 したがって、戦争を停止できるためには、これらのアジ―ルとしての人々を大切にするという戦略がきわめて有効となり、また、それは比較的すべての人の利益のために重要であろうと、考えられます。

 

 つまり、アジ―ル生成の手法とは、この「アジ―ルとしての人々を増やし、集める」ことです。

 

 以上が、統治術の概略となります。

 

 まとめます。

 

 

 1.統治には寛容さが必要。

 2.武装を制御するのにも寛容さが必要。

 3.アジ―ルを作るのにも寛容さが必要。

 4.すべての人の利益のためには寛容な人が必要。

 5.とにかく何をするにも本当の意味での「優しさ」が大切。

 

 

 

 

P.S.はあ、疲れた(笑)

正直、統治術書こうかどうか迷ったんですよね。だって、下手なこと書いて、僕逮捕されたくないし(笑)(笑いごとじゃないですね、すみません)

治安維持法とかみたいな時代にならないといいですよね。あれは、包摂の反対であり、排除ですから、国家が破綻する戦略であると、少なくとも合理的には、推定されます。

もしも、僕が逮捕されたら、後はみんなに任せた(笑)頼むぜ☆

少しでも、みなさんの利益になることが書けるといいのですが。なかなか難しいですね。文章を書くというのはとても奥が深いです。

おもしろいこと書こうとがんばってるんですが、なかなか難しい。

むずいなあ。

むずかしい

むずかしすなあ

むずがゆいなあ

むずむずするなあ

こうしてみると、「むず」って言葉、なんか共通性がある感じしますね。一個のニュアンスというか。

別々に見えるものでもこうしてつながっているものなのかもしれませんね。世界はつながっているのかもしれません。

人間もうまくつながれるといいですね。

僕も、「優しい人」を見つけたら、保護することにします(笑)

みなさんも、ぜひ、優しい方々を大切にしてみてくださいませ。手をつないで協力し合えたら最高ですね。くれぐれも人を傷つけないでください。暴力もダメだぞ♪ 「芸術的な暴力」、人を説得するための「比喩的な意味での暴力」なら、多少はありかもしれませんね。例によって、僕の言うことは、鵜呑みにはせず、ご自分の頭で検証してみて下さいね。おそらく僕もたくさん間違っているはずですから。みんなですこしずつよくして行けるといいですね。

 

ではでは~

 

みなさんにNeruの『ハウトゥー世界征服』を送ります。

 

 

優しい人にならなくちゃ

心が悴む前に(Neru,『ハウトゥー世界征服』,歌詞より引用)

 

罵倒術(邪術編)

 みなさん、こんばんは。

 

 今日は、ちょっぴりダーク? な感じにしようかなと思います。

 

 効果的な罵倒手法について。

 

 まず、「罵倒」とは何か。

 

 これは、「相手を正しくないと否定すること」です。

 

 つまり、成否の問題となります。善悪というか。

 

 概ねのところで言えば、罵倒とは、「相手は間違いであり、自分は正しい」といった主張のことです。この主張の程度が激しければ激しいほど、その行為が「罵倒」と呼ばれる率は高まるのではないでしょうか。

 

 では、なぜ、罵倒は「自分は正しい」と間接的に主張することになるのか。

 

 まず、罵倒という一つの主張が、自分の心理にとって有効性をもつためには、自分で、その主張を、仮初にせよ、正しいと思っている必要があるからです。自分がまちがっているという心理状況では、(その局面においては)罵倒は出づらいのではないかな、と思います。自分が正しいと思っているからこそ、相手の間違いを指摘するのであろうという理屈です。

 

 実際には、正義はどうしても多様であると考えざるを得ないので、何が正しく、何が間違っているのかは、厳密には決定不能です。

 

 しかし、それで無法状態になっても困るので、みんなの決まりはある程度は、守られねばなりません(決まりが厳密すぎると、それはそれで窮屈になりすぎてしまうかもしれません)。

 

 リスクヘッジしておくのなら、多様な価値観を認めておくのも有効です。

 また、どの価値観にどの程度の投資を行うかは、その人の自由に委ねられる部分も大きいと思いますので、深刻な他害がなければ、ある程度は排除的な行動(罵倒など)も認めておくのは、有効かもしれません。

 

 罵倒が暴力であるかどうかというのは難しい問題かもしれません。これが、「暴言」とか暴力になり得るのかもしれませんが、あんまりモラルハラスメントの概念などを強くし過ぎると、正当な示唆などにも、モラルハラスメントのレッテルが貼られてしまいかねません。とても難しいです。

 

 だからと言って、口では何を言ってもいいのか、というと、これもむずかしいです。人を深く傷つける言葉も中にはあるかもしれません。

 

 だからと言って、傷つけることを否定してしまうと、心からの付き合いみたいなことができなくなります。相手を傷つけないようにと気を使いすぎて、お互い疲れてしまい、また、本音を出せなくなってしまうこともあるかもしれません。いつもいつも本音を言うべきではありませんが、ある程度本音で話し合える友というのもいるかもしれません。そういう時に、相手に気を使いすぎるのは、多少無粋となることも、場合によってはあるかもしれません。

 

 では、どうすればいいのか?

 

 まず、悪口を全面的に禁止する場合。これは表現の自由の観点から、ちょっと危険かも。

 

 では、悪口を全面的に肯定する場合。これは「理念」としてはいいかもしれません。ただ、ある程度は礼儀にも注意しないといけないと思うので、そことの兼ね合いが難しい。自由な発言は認められるべきですが、できれば、礼儀もある程度は、堅苦しくない程度には、守られた方がいいかもしれません。

 

 すると、まず、極端に悪口を否定するとか、肯定するとかいうのは、あまり合理的ではないかもしれません。それこそ、「中庸」というものが大切になってくるのかもしれません。

 

 グレーゾーンですね。むずかしいです。

 

 ならば、ひとまず、公的には表現の自由を担保して、悪口を言うことは法的な罪には問わず、法律ではなく、「礼儀」として悪口を、ある程度は、「自粛」しておく、というのが方針としてはいいのかもしれません。これなら、規律が強くなり過ぎず、また、弱くなり過ぎない、微妙なラインを何とか守れるやもしれない。

 

 微妙ですよね。けっこう多くのことって。ホントに分からないことだらけです。

 

 多分、悪口を行ったことで、逮捕されたりすると、大変なことになると思うのです。ですので、この辺りで手を打つのが現実的な所かもしれません。規律が厳しすぎると、それ破りたくなるのも人情ですからね。厳しすぎず、ゆるすぎず、が大切かも。

 

 ここのところを、グレーゾーンではなく、かっちりと定めようとしてしまうと、それはそれで、大変なことになるかもしれません。「曖昧さに耐える力」が大切なのかもしれませんね。簡単に言うと、「悪口は言ってもいいけど、あんまりしつこく言いすぎると嫌われるかも」、みたいな感じなのかもしれません。ひとつの考えとしてご参考下さい。

 

 さて、では、罵倒の効用を分析してみたいと思います。

 

 罵倒には大きく次の三つの機能がとりあえずあるのではないかな、と思います。

 

 1.相手の価値を低減する。

 2.自尊心を維持する。

 3.相手を威嚇する。

 

 さて、ひとつずつ見ていきましょう。

 

 まず、価値の低減。

 

 これは、相手の価値を落とすことによって、その落とした価値を自分に流入させることを目指す手法です。つまり、相手を落として自分を上げる、ということですね。「マウンティング」などの概念はこれに相当するかもしれません。

 

 いくつかパターンがあります。

 

 先ず、「表面上」という言葉をつかった論法。

 これは、相手のすぐれた特質のまえに、「表面上」という言葉を付着させることで、相手の価値を低減させる論法です。罵倒としてはある程度有効な論法かと思います。「表面上美人」つまり、「雰囲気美人」などの概念はこれに相当します。「表面上頭いい」→「雰囲気頭いい」。「表面上魅力的」→「雰囲気魅力的」→「中身は空っぽ」などなど。取りあえず、「表面上」という意味合いの言葉を付着させることで、相手の価値を低減させます。

 

 もう一個紹介。

 

 これは、概念としては、「無知」を用いる論法です。つまり、相手に無知のレッテルを貼ることを目指します。

 例えば、相手が何かを発言した時、それに対し、「あなたはものを知らないからそう思うのだろう」と主張する。それに対し、相手が何か反論して来ようとしたら、「もう少しものを知ったほうが良い」という論法に持っていく。

 この論法がなぜ有効なのか。

 まず、誰しも、自分が、「無知」であるということは避けて通ることができません。すべてを知っている人はいませんので、その人の不得意分野の質問を重ねられれば、必ず、一種の「無知」を露呈してしまいます。したがって、百パーセント、この論法で、相手に付け込むことができるというメリットがあります。また、相手に良心がある場合には、これは特に有効に作用し、相手は、「自分は確かに無知だ」と認め、引きさがってしまいます。年長で立場の強い人が、若くて立場の弱い人に対し、使うことが多い論法でもあるかもしれません(勿論、逆もあるとは思います)。

 本来は、ある事柄について無知であるからと言って、万事において無知とは言えない面もあるのですが、厳密には、人間の知っていることは何一つないというか、あったとしても、ごくごくわずかなものに過ぎないので、この論法は、実践的にはいついかなる場合も成立してしまいます。

 分かりやすい例で言えば、お互に、「馬鹿」と言いあっている状況は、お互いのことを、「無知」と言いあっている状況に相当します。相手も相当手練れである場合、こうした論法は通じません。

 回避手法についても書いておきます。

 まず、大前提として、この論法が完全に近い有効性をもっているのは、「誰もが無知であるから」です。したがって、その完全な攻撃性が今度は仇になります。なぜなら、相手に無知のレッテルを貼っている本人もまた無知であることには変わりないからです。このようにして、不毛なレッテル張り大会が始まることもありますが、なんというべきか、頭の回る人? は、話を少しずつずらして、不毛なやりとりを避けるかもしれません。

 基本的に、罵倒というのは、「表面上」、の論法にせよ、「無知」、の論法にせよ、こうした万能性をもっており、誰にでも何にでも通用してしまうので、何かを差別化する上では、あまり有効ではないかもしれません(合理的には)。

 しかし、合理性の問題を別にして、世の中には、賞賛すべき行為や、非難すべき行為が存在しますね。それは理屈とはまた別の次元のお話なのですが。

 だから、これらの罵倒用語が、合理的には無意味だとしても、一律に、無価値だとは言いづらいかもしれません。つまり、合理性とは無関係に樹立される「価値」が存在する。それは、その人の「信念」なのかもしれませんね。ここも色々と考えられておもしろいところかもしれません。

 

 では、なぜ、これらの罵倒によって、自尊心が維持されるのか。

 

 先ず、Aという人がいて、Bという人がいて、AがBに嫉妬した場合、Aの自尊心はBによって揺るがされることになります。そこで、Bという存在、あるいは存在価値自体を否定することで、自分のアイデンティティを保ってしまえばよい。

 ……というふうなロジックかと思います。

 

 単純に生存競争と考えれば合理的に見えます。しかし、実際には、先述の通り「礼儀」の問題が絡んできますので、このように単純なロジックのみで、相手を否定していると、うまくいかなくなることも時にはあるかもしれません。実際には嫉妬したのなら、それをばねに自分の能力を伸ばすモチベーションに変換できるといいかもしれませんね。人を落とすよりも、自分を上げる方が、全体的な効率からしても、また、お互いにとっても、生産的です(気が向いたら、「学習術」などについても書いてみようかな、と思っています。これはすこし研究に時間がかかってしまうかもしれませんが。暫定的な手法ならアップできるかも!?)。

 

 また、罵倒の論法のひとつに、「自尊心」という概念を利用したものもあります。これは相手の行動の動機を「自尊心を守るため」と解釈する論法です。基本的には、誰にでも自尊心がありますので、この論法はどんな相手に対しても適用することは可能です。例えば、誰かが募金をしていたとしますよね。それに対し、「あの人が募金をしたのは、自分の自尊心を守るためであって、利他心のためではない。つまり、あの人は利己的で下品な存在である」と解釈する論法です。こういうものもあります。罵倒も奥が深いですね。ご参考下さい。

 

 次が、「威嚇効果」について。

 

 威嚇は相手のためを思ってのものもありますし、自己保身のためのものもあります。

 例えば、大人は、子供が車に引かれそうになったら、「あぶないことするな!」と激しく怒りますね。これは威嚇です。つまり、威嚇によって、子供があぶないことをしないようにと願うのです。これは普通にあることかもしれません。こういう相手のために行われる威嚇もあります。この点が、モラルハラスメントとの兼ね合いがむずかしい所でもあります。単純にハラスメントの問題にしてしまうと、それはそれで規律が強すぎて問題だし、かといって、この善意の威嚇が体罰(つまり、暴力になってしまう)などになるとこれもまた、難しいところですが、ある程度は問題となり得ます。とても難しく、グレーゾーンになります。これについては、先述した通り。

 そして、自己保身のための威嚇も存在します。

 これは他者の身ではなく、自分の身が危ないので、威嚇する行為です。追い詰められれば、誰だって、威嚇したくなるかもしれません。窮鼠猫を噛む的な。これもしょうがないことですね。できれば、あんまり危ない目にあわないで済めばいいのですが(笑)

 人生、うまくいかないことも多いですので、なかなかどうして難しいのかもしれませんね。

 

 このように考えてきた場合、罵倒にも機能があり、罵倒するべき局面、罵倒するべきでない局面があるようです。明らかに危機状態にあり、即刻救う必要があるのに、そこに手を差し伸べないのは、いささか道徳的ではない。かといって、罵倒が暴力的になってしまっても、上手くない。

 

 グレーゾーンです。とても難しいことですね。あるいは、芸術家の人などは、こうしたことが人よりうまくできるのやもしれません。この点も掘り下げてみたら面白そうです。

 

 罵倒は、合理性の問題というよりも、どちらかというと、「気持の問題」としての側面が強いように思われます。

 

 したがって、この問題は、各々が気持ちの問題として処理するのに適した課題なのかもしれません。法は人の心までは縛るべきではないと思いますから、原則としては、思想の自由を担保しておくのがいいのではないかと、ひとまず考えています。

 ただ、あんまり悪口ばっかり言っていると、嫌われちゃうこともあるかも。

 そんな感じですかね。とても難しいです。

 

 法は万能ではないのだろうと思いますので、どちらかと言えば、人々の「良心」に賭けたいな、と個人的には思っています。法と良心がうまくかみ合って、バランスよく機能するといいのですが。

 

 罵倒は合理的ではないかもしれませんが、気持の問題として考えれば、すこし共感しやすくなることもあるかもしれませんね。そうしたら、罵倒してくる相手の気持ちに少しは気づくこともできるのやもしれません。相手と一体になりつつ、なおかつ別々の個体同士でもあり得るようなそういう感じなのかな? 共感って。互いに溶けあいつつ、別々でもあるような。そんな感じなのかなあと、漠然と思います。この状態は、「愛」とも呼ばれるのかもしれませんね。ある種の曖昧さに耐えるために、愛を役立てるのが有効かもしれません。

 

 

 まとめます。

 

 1.一口に「罵倒」と言っても色々なものがある。

 2.善い罵倒も悪い罵倒もある。

 3.善悪は一概に言えないけど、だからと言って罵倒を野放しにもできない。

 4.だから、罵倒についての是非の判断は、大体グレーゾーン。とても難しい。

 5.「曖昧さに耐える力」がある程度有効かも。

 6.罵倒は合理性というよりはどちらかというと「価値判断」の問題。

 7.価値判断は、必ずしも合理性ではないので、「情念」の問題かも。

 8.価値は人それぞれで多様。差別はあまり合理的ではないかも。

 9.人として最低限の良心があれば、どの価値を選ぶかはあなたの情念の如何による。

 10.ただ、最低限の礼儀は、守っておいた方が良いのかもしれない。

 

 

 

「統合失調症」について

 みなさん、新年あけましておめでとうございます。

 

 さて、今日は、統合失調症について考えてみたいと思います。

 

 統合失調症とは何か?

 

 統合失調症とは、「思考、行動、感情を一つの目的に沿ってまとめていく能力(統合能力)が低下する症状」のことです。

 

 さて、では、ひとつずつ、考えていってみましょう。

 

 まず、思考とは何か。

 

 これは、「筋道を立てること」です。

 

 では、筋道とは?

 

 これは、「正しい順序」です。

 

 つまり、筋道を立てるとは、正しい順序を立てることです。

 

 では、何が正しい順序なのか。

 今のところ、いったい何が正解なのかは、何事にしても不明です。

 かといって、自分の所属する文化を「正しい」として、正義を振りかざすだけでも、うまくいかないだろうと思います。なぜなら、他者には他者の価値観があるからです。自分にも自分の価値観があるように。自分の価値観を否定されたら、誰だってむっとしてしまうかもしれません。そうしたら、思わずヒステリックになってしまったり、いっぱいいっぱいになって、混乱した状況に突入することもあるかもしれません。

 ならば、今のところは、多様な価値観を受け入れ、ある意味、「正しさは人の数だけある」と考えるのが、人々が共生していく上では、ある程度は合理的です。

 

 よって、筋道は人の数だけある。したがって、「正しい思考は人の数だけある」、と考えるのが妥当でしょう。少なくとも、自分の正義を他者に押し付けても、経験的には何も解決しないように思われます(むしろ、他者の持つ正義を積極的に肯定してあげると、態度が軟化することが多い。否定するとかえってヒステリックになったりもするかも)。その人の置かれた状況によって、その人の適応様式が多様に異なること自体は、当たり前の事かもしれません。その中に一種のヒステリーが含まれていたとしても、それはある意味しょうがないことであり、一概に否定できませんね。むしろその人はヒステリーによって自分を守っているのだと考えれば、それを頭ごなしに否定するのは「共生」の観点からするとあまり合理的ではないかもしれない。むしろ、積極的にヒステリーを肯定し、包摂することで、その人の心を解きほぐすことを目指し、ヒステリーという「防衛」を使わなくても済むような環境を構築するために、そのヒステリー衝動を役立てるのが先決かもしれません。つまり、短所に見えたヒステリーですが、その中には、強い訴えが潜んでおり、その訴求性はかなり強力なものです。その意味では、境界性人格障害などは、社会において既得権益に都合よく設定されたあらゆる「基準」、つまりあらゆる「境界」を侵犯する「尖兵」として行動しているのであり、その意味では、「病者」である彼らは、社会の利益を再分配する役目を果たしている、とも言うことはできます。特定の誰かに都合よく設定された「基準」を大なり小なり侵犯することで、その基準からすると都合の悪い立場にいる人たちに利益を再分配しているわけですね。少なくとも言えるのは、人格障害は単なる「障害」ではなく、社会の自浄作用のひとつとして存在している、ということは言えるのではないでしょうか。基本的に世の中になんの役割もないものは存在しませんね。あらゆる人はその必要があるから存在している面があると思います。その意味では、人格障害者にせよ、なんらかの病者にせよ、根本的に生きる価値のない人というのは、存在しないと言えるでしょう。すべての人に生きる価値があると考えるのが、ある程度妥当かと思います。人格障害は、ある観点から見れば、悪に見えますが、別の観点から見ると、一種の「英雄」である面もあります。構造的には、人格障害者などは、大なり小なり恵まれない人たちのために戦っている面がある、という感じでしょうかね。ご参考下さい。

 

 つまり、正しい順序、正しい筋道、正しい思考は、人それぞれです。強いて言えば、その人の所属する文化に適合するか否かが、成否の判断の基準ということになるかもしれません。無論、その文化が絶対のものであるなどと言うことはありませんが。状況は刻一刻と変化するものですので。その意味でも、特定の価値観に固執せず、ある程度柔軟性をもち、多様な価値観を認めるのは有効。

 

 では、「行動」とは何でしょうか?

 

 行動とは、「目的を持ち、それに向けて何かをすること」です。

 

 つまり、行動が成立する要件は主に二つ。

 

 1.目的を持つ。

 2.その上で何かをする。

 

 人の目的は様々ですし、目的達成の手法も人によってさまざまに考えられます。

 少なくとも、今のところ、ひとつの正解、というものはないでしょう。

 

 ならば、ここでも多様な目的や、多様な目的達成の手法を一応認めておくのが有効です。つまり、多様な行動を認めるのが有効。

 

 最低限の決まりは僕たちが共同生活していくうえで守らなければなりませんが、それをできる限り、最低限に抑えることが有効です。つまり、実質的な害が生じないうちは、できる限り、どんな人に対しても、どんな目的に対しても、どんな手法に対しても、どんな行動に対しても、自由を認めておくのが有効です(多様性を確保しておくのにはリスクヘッジの意味もあります。セキュリティ性の問題ですね。つまり、投資を分散し、ポートフォリオを組むことで、人類全体の生存確率の向上を図ります。そのために、多様性の尊重が有効となります。当ブログの『政治術』など参照。)。

 

 では、自由をどこまで認めるか。これは人を人として扱うかぎりにおいては認められるべきかもしれません。つまり、他害しない限りは。

 

 人を奴隷として扱う行動には、つぎの三つの特徴があります。

 

 1.自由を剥奪する。

 2.搾取をする。

 3.従わせるために暴力を行使する。

 

 したがって、できる限りは、人を人として扱うことを目指し、これら三つの行動を避けることが、他害を避けるうえで有効です。

 

 つまり、無闇に他人を閉じ込めたり(自由の剥奪とか)、その人の自由や時間を不当に損害したり(搾取)、自分に理解できない他者であるからと言ってその価値観を排除したり暴力で押さえつけたり(自分とは考えの異なる人の意見を頭ごなしに否定したり、本人の同意なく、その人の認知資源などを奪うような薬を無理矢理に暴力的に投与したり)、これらのことは、たとえ、多少の不便があろうとも、できる限り、禁止されるべきであろうと考えます。つまり、人間は人間として扱われるべきです(道徳療法など参照)。そして、これは、いかなる人間においても、基本的にはそうであろうと言えるかと思います。

 

 他者を奴隷化しないこと。自分の理解を超えたものとしての他者を尊重するのが、ある程度合理的でしょう。いかなる人も、奴隷ではない。

 

 さて、では、「感情」とは何か?

 

 これは、「心に抱くもの」のことです。その意味では、思考や考えも感情の一種かも知れません。

 

 では、心とは?

 

 これは、表立って見えないもののことです。

 

 つまり、表立って見えないものの中にあるもののことを、感情と言います。こういった概念は、「内面」と呼ばれたりもしますね。逆に、感情が、表現になると、それは「外面」と呼ばれたりもします。

 

 感情はとりあえずは計測不能です。人の心を数量化してとらえるべきかどうかは、とても難しい問題でもあり、これは、統合失調症だけの問題ではなくなってしまいますね。また、自分は悲しいと主張している人に対し、その感情や心を否定するのも、何かおかしい気もします。おそらく、これは、その人の価値観を否定しているので、多様性の尊重にある程度は反するのでしょう。

 

 したがって、僕たちは、計測不能な心を持った存在としての「他者」を尊重するべきでしょう。

 

 他者とは自分を越えたものであり、こちらの持つ尺度だけで測り切れる存在ではありません。だからこそ、常に、自分を越えたものを想定し、少しでもみんなの生活をよくするために少しずつできることをしていくのが合理的であると言えるかもしれません(つまり、今の自分の生活を越える生活、社会を越える社会、ある面において自分を越える他者、理解不能な他者が存在するであろうと思う事が大切かもしれない)。一つの意見としてご参考下さい。

 

 さて、以上の帰結を簡単にまとめてみましょう。

 

1.正義は多様である。

2.世界に存在する人や機能は多様であり、原則として何の機能もない者は存在しない。

3.人によって目的は多様であり、その達成手法も多様である。

4.人によって統合の仕方は多様であり、その統合手法も多様である。

5.人によって統合は多様であり、何が「統合失調」であるかは多様である。

6.統合失調症の定義は、原理的に多様なものとなる。

7.深刻な他害をしない限り、自由をできるだけ認めるのは人権的に合理的である。

8.治療としては、病者を抑えつけるのではなく、「活かす」のが合理的である。

9.定義上、何が統合失調症であるかは決定不能である。

10.ならば、ある意味では、「すべての人間が統合失調症」であるとも言えてしまう。

 

 つまり、原理的には「なんでも統合失調症と呼ぶことができる」ということになるかと思います。

 

 したがって、そもそも統合失調症とは何であるのかが今一つよくわからないのです。

 

 このような状態でいくら統計をとっても、そのデータはなかなか正確な利用がしづらいのではないかと思います。そもそも、統合失調症とはなんであるかが判然としないので。

 

 例えば、戦略としては、体制にとって都合の悪いものに統合失調症のラベリングをして、それに認知能力を下げる薬を投与し、差別しておけば、既得権益には有利になりますね。

 

 現行の統合失調症の判断基準では、こうしたことが可能になってしまうのではないかと思います。

 

 例えば、イスラム国は統合失調症であるとか、オウム真理教統合失調症であるとか。

 

 もっと言えば、キリストは統合失調症であるとか、ブッタは統合失調症であるとか。

 

 そもそも宗教は統合失調症であるとか。

 

 そういう話しになってしまう可能性もあるということです。

 

 もう一例あげれば、知能の低い問題行動をした人を連れてきて、その人に統合失調症ラベルを貼り、統計を取れば、「統合失調症は知能が低い」という差別を容易に作り出すことができますね。これにより、既得権益を富ませることもできます。

 

 つまり、僕たちは、まず、何が統合失調症であるのかを明らかにすることが先決であろうと思います。

 

 僕たちの世界はわからないことだらけですね。

 

 その中でもできる限り、確かと思えることを積み上げ、少しずつみんなで社会を良くして行けるといいですね。

 



*以下、面倒臭い文章となりますので、面倒くさい方は読み飛ばしていただいてOKです。





 P.S.さて、では、現状で僕に考えられることを大まかに書いてしまいましょう。みなさんも何か統合失調症についての意見があれば、どしどしネットにアップしてみてくださいませ。参考にさせていただきます。

 

 まず、統合失調症において、なぜ、脳の萎縮現象が観察されるのかについて。

 

 これについては前にも書いたのですが、まず、萎縮が必ずしも悪いとは限らない、ということ指摘しておきます。脳の機能はなかなかわからない点もまだ多いかと思いますが、脳の体積が多い人が優れているというわけでも必ずしもないかと思います。もしかしたら、通常の脳サイズよりも小さい人でも、立派な業績を残している人はいるかもしれません。そういう人は、「脳が小さいからこそ業績を残せた」可能性もあるでしょう。検証の必要のあるところかと思います。

 

 さて、それを踏まえたうえで。

 

 これには二つの原因を想定できるかと思います。

 

 1.薬による萎縮。

 2.統合失調症による萎縮。

 

 まず、統合失調症による萎縮は、簡単で、統合失調症が何であるにせよ、薬以外の要因によって脳が萎縮していると考える思想です。

 

 例えば、ドーパミンが出過ぎて、脳が損傷した、とか。そういう仮説。

 

 しかし、これはこうも考えられてしまいます。

 

 薬によりドーパミンを抑制したために、脳が損傷した。統合失調症の定義が定まらない以上、十分に考えられることです。

 ドーパミンは意欲をつかさどるホルモンかと思います。しかし、これがおさえられると意欲が出なくなります。すると、脳への刺激が減ります。すると、頭が回らなくなります。すると、知能が低下します。すると、能力や社会適応が低下します。すると、ますます、脳への刺激が減ります。すると、ますますドーパミンが出る機会が失われていき、結局は陰性症状に突入する、というふうにも言えてしまいます。

 

 つまり、統合失調症の知能低下は,薬によっているとも言うことはできてしまいます。

 

 統合失調症については、本当に何もわからないのが現状なのではないかと、個人的には思っています。

 

 また、性ホルモンとドーパミンのあいだにも関係があるかと思います。すると、ドーパミン(性欲にもかかわるホルモンかと思いますので)を抑えることで、愛情などの人間としての根本的な感情が欠落する(プレコックス感)上に、性欲に作用した結果として性腺の活発化を抑制するとすれば、性的魅力が薬によって減退する可能性がある、とも言えてしまうかと思います(統合失調症の定義自体が定まらないので、なんとでも言えてしまうのです(笑))。つまり、統合失調症者に薬を投与することは、明らかにリプロダクティブヘルスライツに反している……とかね。言いたい放題できます(笑)

 

 例えば、この仮説が正しければ、ドーパミン量の多い人は、異性を獲得する能力が強いであろうと考えることもできます。とか。

 

 何にしても、統合失調症とは何なのかがわからない。そのため、統合失調症反対派も、賛成派も、なんとでも言えてしまうのです。

 

 また、知能だけではなく、天才性、つまり創造性も減退するとも言うことはできます。

 

 例えば、ドーパミンは意欲と攻撃性を司るホルモンでもあるかと思います。芸術には暴力的な一面もありますね。

 

 しかし、意欲や攻撃性、さらに知能まで、薬によって奪い取られてしまえば、それはどうなるでしょうか?

 

 その人の人生は、パッとしないものになってしまうかもしれません。これは、一種の「ロボトミー」であり、明らかな人権侵害である……とかね。

 

 なんとでも言えるわけです。

 

 いずれにせよ、薬にはかなり副作用があるのではないかとは、個人的に考えています。

 

 そもそも、統合失調症とは何であるかもわからない状態で、適切な処方など行うことは不可能なのではないか、とかね。

 

 ある意味、芸術の任務とは、精神病領域における成功であるとも言えるかもしれません。



 防衛機制の昇華、自己治癒をめざした行動。

  

 「奇行」とは、防衛機制であるということ。防衛機制は、なんらかの攻撃に対する防衛であり、ヒステリーの一種であるということ。そして、ヒステリーにも機能があるということ。ならば、統合失調症にも機能はあるということ。そして、統合失調症とは、防衛機制である限りで、その人の適応形態であるということ。その適応手法や適応目的を無理矢理に奪ってしまえば、治るものも治らない、ということ。境界例および統合失調症の果たす役割とは、「脱特権化」であり、あらゆる既得権益への反抗であること。また、価値を特権化しないことは、多様性の観点から合理的であること。つまり、統合失調症の病理は、「合理的」である、と言えてしまうこと(合理的とか無分別とかの問題ではなく、結局は感情というか「情念」の問題であること。)。統合失調症の抑圧とは、特権化であり、ファシズム性であること(当ブログの『政治術』参照。統合失調症の抑圧には社会保全の「速効性」はあると考えられる。しかし、長期的には破綻リスクが高い。中庸や中間は重要な面もある(理念)が、政治(実践)的中立自体は不可能である)。つまり、統合失調症および人格障害とは、きわめて強い「政治的機能を持つ存在」であると言い得ること。精神医学は、現状の治療の場合(薬物投与)には、速効性はあるが、世界全体のセキュリティ面からすると、危険性があると考えられること。



 そして、端に合理的であるだけでは、このようにいくらでも言いたい放題できてしまうこと。つまり、もはや多数のもの(他者)を一つのもの(自分)に収斂させる機能を持つ「解釈」の問題ではないこと(特権化されたものとしての精神分析の問題ではないということ)。むしろ、多数であること。他者を尊重すること。それらは、「情念」の問題であること。自分ではなく「他者」へ。つまり、共同体の外に出ること。専門家(特権性)としてでなく。





 今回の結論



 現状では、統合失調症とは何であるかすら判然としない。言うなれば、すべての人が統合失調症であり、すべての人が統合失調症ではない。定義は自分の思い通りに操作可能である。不完全な概念のもとで得られる統計や治療は、不完全なものとなる。その意味で言うなら、あなたがいつ「統合失調症」と命名され、隔離され、薬を投与されてもおかしくはない。



P.S.2 

 何やら今日はものすごく混沌とした記事になってしまいました(笑)。一応一晩寝かせてみたのですが、どうしても話が回りくどいですね(笑) 精進が必要な所です。多分、わかりづらいところとか、たくさんあると思います。すんません。

 そもそもからして、精神医学は、眼に見えない人の「心」を扱う部分もあると思いますので、端から難しい学問ですよね。僕にも正直、よくわからんです。いくら本を読んでも、いくら考えても。

 まず、心やクオリアのすべてを脳に還元できる、っていう根拠からしてないですよね。もうそこからして大変。

 人の心は複雑怪奇にも見えることもありますので、大変です。

 だからこそ、一概には言えないし、よくよく考えてみなければならない点もたくさんあるのでしょうね。

 本当は、今回の記事にも書き足りない部分がたくさんあるのですが、あんまり書くと、記事がわかりづらくなってしまうと思いますから、このへんにしておこうかな、と思います(笑)

 実は、これ、「主体性」のお話でもあるんですよ? これね。むずかしい所なんですけどね。僕は、このブログでは、主体性をもった方がいいって最初の方で、言ってましたでしょ? でも、これ苦肉の策、という面があります。端的に奴隷になるよりは主体性をもった方がいいのは確かだと思うのですが、本当は主体性というのは誰かに「操縦」されてしまう危険性があるので、そういうものはもたない方がいい面もあるのです。「自我を解消する」というか。仏教ですよね。こういうのって。例えば、主体性っていう概念があったら、「主体性のある人の特徴」とかって列記すると、みんなその特徴に操縦されてしまいますよね。主体性のある人になりたくて。こういう事にも注意しておくのもひとつの見識かもしれませんね。僕が、専門家と魔術師を区別するのも、この主体性の問題なんです。主体って、「主なもの」のことですから、これは「特権化」ですよね。だから、大なり小なりファシズム性なのでは、みたいな。専門家というのも、ある特定の分野への「主体化」「特権化」ですよね。これはよくないのではないかと。なので、魔術師という言葉を専門家に対抗するというか、対置する形で使っております(何事につけ、特権化したくないんですよね。何かを特権化してしまうと、そこからあぶれた人たちは排除の対象になってしまいますから)。だから、寛容であるためには、特権化しないこと。ある意味、「専門家ではない分析家」であること。つまり、一種の魔術師であること。これが人によっては大切なのかもしれません(もちろん、深刻な他害さえなければ、多少排除的な面はあってもいいのではないでしょうか。それは実は排除ではなく、その人なりの包摂の仕方なのかもしれませんし)。

 今回は、「ある意味みんな統合失調症」という驚くべき結論ですが、あんまり鵜呑みにはせずに、御自分で「統合失調症とは何か」についてよくよく考えてみてくださいませ。謎について考えるのはおもしろいですよ。その中で、少しでも、僕の文章が役に立つことがあったなら、それは幸いです。今に満足している人にとっては、より良いものを目指すためのものに、そして、今に不満のある人にとっては、今と違う生き様へと飛躍するための、なんらかの助けになれるといいのですが。この世界には知らないこといっぱいですね。まったく飽きないですよ。

 

 みなさん、よいお正月を~♪

 

P.S.3

8000字越えてしまいました(笑)ごめんなさい(笑)

書き足りない部分はひとまずがまんして、そのうち、ということで。読んでくださった方々、本当にありがとうございました。

 

地位術

 みなさん、こんばんは。

 

 今日は、「地位」について書こうかと思います。

 

 さて、地位とは何でしょうか?

 

 これは、「立場」とか「境遇」のことです。

 

 では、立場とは?

 

 これは、いわゆる、「面目」というものであり、わかりやすく言えば「様子」のことです。

 

 境遇とは?

 

 これは、「状況」のことです。

 

 つまり、地位とは、その人の立場、面目、様子、そして、「状況」のことです。

 

 さて、状況は刻一刻と移り変わるものです。したがって、地位も移り変わるものと考えられます(リストラや昇進などは地位の変動の一種として考えられる)。

 

 状況のパラメータは無数にあります。

 

 学歴もその一つ。収入もその一つ。血筋や家柄もその一つ。技術や経験、知識などもその一つ。技術とひと口に言っても、絵を描く技術であったり、ピアノを演奏する技術だったり、プログラムを組む技術であったり、無数です。同じように、学歴価値観も無数(大学は外国にもありますね。外国には外国の文化があるでしょう)、収入価値観も無数。家柄の種類も無数。

 

 そして、「蓼食う虫も好き好き」と言って、人の好き嫌いも色々です。この無数のパラメータの中で、何を重視するかは、人によっても異なり、また文化によっても異なるでしょう。

 

 地域の文化もあるでしょうし、ある特定の共同体の中でのみ通用する文化もあるでしょう。

 

 少なくとも、価値観は一元的ではないのでしょうね。おそらく、人間は一元的なものではないと思いますし。そもそもが多様なものかと。

 

 美人の基準も文化によって違いますよね。何が優れているかとか、序列の問題というのは、結構文化によって異なるかと思います。もっと言えば、人にもよりますし。

 

 つまり、階層形成の手法も人それぞれであり、強いて言えば、その所属する文化においての階層がその人にとっての事実なのかもしれません(これも絶対のものではないのはもちろんなのですが)。

 

 つまり、その人の状況はその人の所属する文化によって異なってくるでしょう。ある文化のもとでは、いわゆる上の序列に位置することもあるかもしれませんし、比較的下の序列と呼ばれる位置に置かれることもあるかもしれません。

 

 いずれにせよ、地位は、時と場合によってその都度変わり得るものですので、なかなかその実態を特定するのは難しいというか、骨が折れるかもしれません。

 

 とりあえず、日本で言えば、東京大学卒とか官僚とかが、地位の高さを表すというふうに捉える人が多いのかな? この辺はよくわからないですが(ただ、そういう価値観が強いのかもしれません。この点はみなさんで検証してみてくれるとありがたいです。僕も折を見て調べてみます)。

 

 とりあえず、地位は生ものなのだと思いますので、また、非常に色々な地位があると思いますので、ここでは、「一般的普遍的な地位」というものを策定することは避けておきます。したがって、ここでは、僕の思う「個人的な地位についての価値観」について少し考えてみたいと思います。地位は文化によって決定の仕組みがある程度異なりますので、みなさんはみなさんで、自分の「地位価値観」を策定してみてください。みなさんの地位価値観とか、めっちゃ興味ありますね(笑) 気が向いたら、ブログにでも書いて、ネットにアップしてくださるとうれしいです。

 

 まず、僕の個人的に持っている、地位についての価値観では、地位に優劣は仮定しません。つまり、地位によっては、人々の優劣は決定しないでおきます。

 そして取り立てて、「嫌いな人」というのも決めません。本質的にはあんまりいないので。

 したがって、僕の地位価値観は、「僕の好み」によって決定されます(笑)。

 

 つまり、「地位が高い人が好き」、なのではなく、僕にとっては、「僕の好きな人が僕にとって地位の高い人」であるということです。みなさんは好きな人がいますか? その場合、僕の個人的な認識としては、そのあなたの好きな人が、あなたにとっての憧れであり、立場の高い人、つまり、地位の高い人なのであろうとひとまず見ます。ひとつの見解というか、価値観? として気が向いたらご参考下さい(笑)

 

 なぜ、このような見解を僕が持つかというと、地位についての見方が文化によって割に多様で、また、人によって重視している価値観が著しく異なり、多様ですので、であれば、地位についての見方も人によって異なるのだろうと考えた次第です(笑) おそらく、どの価値観にも大体は、それなりに正当性があるのでしょうので、できるだけ、色々な地位についての価値観を認めたほうが合理的だろう、みたいな感じです。

 

 したがって、ここに書く地位価値観は、僕の好みです(笑) ですので、「へえ、プルプルタンはそんな人が好きなのか(ニヤニヤ)」みたいに思ってくれればいいかと(笑)

 

 さてでは、第一階層から第五層(一から五にかけて地位が高くなっていく)まで、僕が地位が高いと思う、つまり、僕の好きな人物像を書いていこうと思います。

 

 

 第一階層 「普通な感じ」 地位レベル1

 

 僕にとって普通に好き? な感じの人。

 特徴はこんな感じ。

 

 1.排他的なところがある。

 2.排除的なところがある。

 3.好き嫌いが普通にある。

 4.趣味が特にないこともある。

 5.あんまり難しいことは考えない。

 6.勉強は好きじゃない。

 7.普通にエロい。

 8.どちらかというと保守的というか、周りの目をけっこう大切にする。

 9.何かに挑戦するのよりは、まったりするのが好き。

 10.なんかかわいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

第二階層 「好きな感じ」 地位レベル2

 

 1.まずまず器が大きい。

 2.あんまり怒らない。というかいっぱいいっぱいになることが少ない。

 3.結構色々と挑戦する。

 4.勉強は普通。

 5.わりに多趣味。

 6.適度に自由な感じ。

 7.器用。

 8.なんか何やってもそれなりにうまい。

 9.エ……ロい………

 10.なんかかっこいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

階層三 「かなり好きな感じ」 地位レベル3

 

 1.は? 何でそんなに数学できんの?

 2.は? 何でそんなに科学できんの?

 3.は? 何でそんなに文学できんの?

 4.は? 何でそんなに経済学できんの?

 5.は? 何でそんなに語学できんの?

 6.は? なんでそんなに運動できんの?

 7.は? なんでそんなに性格いいの?

 8.は? なんでそんなにエロ……う℉サ氏おf邪お🅹ふぃおフォア~~☆

 9.は? なんでそんなにきれいなの?

 10.は? ……は?…………は?……意味わかんねえし……死ねよ……

 

 

 

 

 

 

 

 

階層四 「大好きすぎた感じ」 地位レベル4

 

 1.大好き。

 2.理由わからん。

 3.なんでこの人のこと好きなんだろう?

 4.全然わからん。

 5.やばい、好きすぎて死ぬ。

 6.心臓が死ぬ。

 7.あ……かわいい……

 8.カッコよすぎて反則……

 9.もうだめ。何もわからない。

 10.死ぬ。

 

 

 

 

 

 

 

 階層五 「」 地位レベル最大

 

 好き

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……てな感じです。

 

 このように、プルプルタン的な序列は、プルプルタンの独断と偏見によって構成されているのです(笑) みなさん、決して当てにしないでください(笑)

 

 良い子は真似しちゃだめだぞ☆

 

 以上、「地位」についての独断と偏見でした~(笑)

 

 

 P.S.今日は微妙にギャグ回みたいになってなってしまった感がありますね(笑) まあ、いつもギャグみたいなことばっかり言ってますから、今更ですが。

 

 さて、「高地位」について。これは、ハイソサエティって呼ばれるのかな? 地位を表す言葉にも色々ありますね。

 

 何がハイソサエティかは、前提として文化によってある程度変わるのではないかと思います。人によっても。

 僕の個人的に思う、ハイソサエティな人についての意見は、上記に書いたとおりです。

 

 要は何でも、ある共同体があって、その中に何かリーダー層みたいなのがあったら、それが「ハイソサエティ」と呼ばれるのだと思います。

 

 したがって、共同体の数だけ、ハイソサエティがある。共同体の規模自体はさほど気にしなくてもいいのかもしれません(少なくとも劣等感は必ずしも持つ必要はないかと。「鶏口となるも牛後となるなかれ」とも言いますね。)。

 

 劣等感は必要ではないですが、探求心は必要でしょうね。「井の中の蛙大海を知らず」という言葉もありますし。狭い特定の価値観にとらわれず、色々な多様な価値観に触れていくのがいいと思います。色々なところに行って、色々な人の話を聞くのがよいかもしれませんね。いろいろな本を読んだり。

 

 僕の価値観も、この広い世界の価値観のひとつに過ぎませんから、みなさんはみなさんの価値観を探してみてくださいませ。

 

 そうすれば、あなたのいるべき場所、状況、あなたのつくべき「地位」が見つかるかもしれません。いろいろと探し見てくださいませ。

 

 一つの価値観を、無理に特権化しないことは結構大切なのかもしれません。世の中には色々な人がいますので。

 

 

既知の要件が結果を説明するに十分であるからと言って、この既知のものに誤った重要性が与えられると、由々しい弊害が生じることになるのである(クラウゼヴィッツ,『戦争論 (上) 全三冊』,篠田英雄訳,岩波書店,2011,p.204より引用)。

 

 みなさんがあるべきところに、――幸福になれる状況に――至れることをささやかながら、お祈り申し上げます。

収入術

 みなさん、こんばんは。

 

 今日も思ったことをつらつらと書きます。

 

 さて、今日は何のお話をしましょう。

 

 今日は少し、お金のことについて考えてみたいと思います。

 

 いわば、「収入術」ですね。

 僕も収入が豊かな人間ではありませんから、とても興味のある話題です。

 

 みんなでみんなの収入を増やす方法について考えていければ、と思います。

 そのための助けに少しでもなれば幸いです。

 

 さて、では、お金とは何か?

 

 これについては、以前に、「経済術」というこのブログの記事に書きました。よろしければ、そちらをご覧ください(経済術の記事はたしか三つあります)。

 

 かんたんに言うと、誰かが何かの価値を信じるとき、その信心の対象が、「お金」です。対象は原理的には何でもよいです。鰯の頭も信心から、と言いますね。

 

 つまり、如何にお金を獲得するか、という問題は、如何に信心を獲得するか、という問題であり、宗教の問題に似ています。

 では、「収入」とは何でしょう?

 

 これは、金品を得ることです。

 

 金品ですから、品でもいいわけですね。品はお金で取引されますね。つまり、「品」や「物」もお金なのです。

 

 このように考えると、原理的にはありとあらゆるものがお金になり得るわけですが、それが実効的にお金としての機能を獲得するためには、誰かの「信心」が必要になります。

 

 その品物の価値を信じてくれる人が一定数いなければ、その品物を売ることはできませんね。つまり、如何に、その品物に価値があったとしても、その品物の価値を信じてくれる人がいなければ、それはお金にはならないのです(逆に言えば、信じてくれる人さえいればどんなものでもお金になるということではあります)。

 

 では、人はどんなものに価値を信じるのでしょうか。

 

 これは、一般的には、「快楽」を与えてくれるものでしょう。

 

 逆に、「苦痛」を与えるものからは避けるであろう、と考えられます。

 

 例えば、自分とはまったく異なる価値観に遭遇した時、人はそれにストレスを感じるかもしれません。すると、ストレス反応により、ヒステリックあるいは排他的となり、そのストレス源となった(その人にとっての)異物として認識された「他者」を攻撃するかもしれません。

 

 一方で、異物認定された側にも異物認定された側なりの認知があり、そこにも正当性は存在することでしょう。

 

 つまり、異物もそうでないものも、どちらも基本的には同じ人間なので、そのどちらにも正当性は認められるものと思います(意見や思考が互に違うだけ)。ここにおいては、他者の立場を想像すること、思いやることが重要になると言えるかもしれません。なぜなら、自分と異なる価値観に対し排他的となった場合、「先進的な新しい価値観」に対しても、排他的となってしまうであろうからです。

 

 例えば、この現代社会においては、その現代テクノロジーに対し、いちいちヒステリックになっているとなかなか生きづらいところがあるかと思います。

 

 道路を車が通りすぎるたびに、「車なんて現代テクノロジーに乗っかっていけ好かない奴だ!」と怒っているのは、少々疲れる生き方でしょう。

 

 非常に極端な例を出しましたが、時代は進みゆくものであり、ある程度はそれに適応することが、現実的には誰しも必要になるのかと思います。

 

 だから、常に、自分とは異なる価値観を認める余地を自分の中に確保していくのは、ある程度この社会に適応して生きていく上では、合理的と言えるのではないでしょうか。

 

 また、「自分とは異なる価値観」を認めるメリットは他にもあります。

 例えば、それは、お金の生成メカニズムに由来します。

 

 お金は、誰かが「価値」を信じることによって生み出されます。つまり、お金を、収入を得るためには、まず、価値を「創造」しなければいけないからです。

 

 信じるに値すると人々が思ってくれるような「新しい価値」をなんらか創造する必要があるわけですね。

 

 既存の価値に乗っかれば、既存の価値を創出した人たちのもとに利益が流入します。ネット産業ならけっこう、グーグルとかに流入するのでしょうね。多くの利益は。

 

 新しいものは、最初は異物として認識されることも多いですので、その点は注意していおいたほうが良いかもしれません。新しい価値を自分で拒絶してしまえば、そこから得られるはずだった利益もまた拒否してしまうことになりますね。もったいないです。

 

 そんなわけで、自分とは違うものとしての「他者」のことを認める姿勢を持つことは、それなりに意義のあることであろうと結論付けられると思います。俗な言葉で言えば、多様性の尊重、というやつですね。これは、美徳だと思いますが、端に美しいだけではなくて、それなりに収入面において実効的な機能を持つのかもしれません。

 

 今、異物と認識されているものが、次世代のスタンダードかもしれないわけです。ですので、利益を最適化するためには、できるだけ多くの多様性を認めていけるといいのかもしれませんね。

 

 では、次に、「価値とは何か」について考えようと思います。

 

 価値とは、なんらかの「有効性」です。

 

 有効性とは、「願わしい結果があること」です。

 

 つまり、人々の願いが叶うこと。

 

 つまり、価値を生み出すためには、まず人々の願望について整理しておく必要があるものと思われます。

 

 人々は何を求めているか。

 

 これを知るには大きく二つの方法が考えられます。

 

 1.他者の願望を調べる。

 2.自分の願望を調べる。

 

 まず、他者の願望を調べるという方法はわかりやすいと思います。他者の信心を獲得するために、他者の求めるものに気を配る。それだけです。

 

 次の自分の願望を調べるという方法もそれほど難しくはないかもしれません。これは、自分がよほど希少な存在でない限りは、必ず同類がいるであろう、という推定のもとに成り立つ手法です。

 

 実際、希少なものとは希少ですので、多くの場合、必ず同類がいるはずです。

 

 ならば、自分の願望に心底忠実で、なおかつ法的、道徳的に破綻しなければ、その願望はそのまま商売になり得る潜在的可能性をもっています。なぜなら、同類がいるということは、自分の欲するものを欲している人が、この広い世界のどこかには一定数必ずいると推定されるからです。

 

 そして、多くの場合、他者の心底の気持というのはなかなか明らかになりませんし、無理強いをして、相手の本心を聞きだすわけにもいきません。ならば、より簡易なのは、自分の願望を調べることになります。

 

 そして、その自分の願望に沿った商売をすれば、――つまり、自分の好きなことをすれば――そこにはほとんど必ずニーズがあるはず。

 

 例えば、僕の場合で言えば、「魔術師になりたい」という願望があるわけですので、ということは、僕の他にも、広い世界には、魔術師になりたいと考える人たちが一定数いるであろうと考えられるわけです。ならば、潜在的には、魔術師稼業はニーズが一定数あるため、成立し得るであろうと考えられます。

 

 いわゆる貨幣だけではなく、物もすべて「お金」なわけで、もしかしたら、ツイッターやブログなどをやっていれば、何か本や、にんじんや、お米や、何かいわゆる貨幣以外の物品をくれる人もいるかもしれません。これは、商品の授受の関係が成立していますので、既に商売となり得ているわけですね。

 

 もっと広義の利益の授受関係で言えば、例えば、僕がこうして、みなさんにささやかながらも情報を提供しますよね。

 

 すると、誰かが感謝してくれるということも、もしかしたらあるかもしれません。そうしたら、僕はそれだけでも嬉しいわけです。

 

 この場合、僕はその誰かに、「元気」というお金を分けてもらっているわけですね。そして、元気になって活動すれば、より良い活動ができるかもしれません。より良い活動はより良い金品をもたらすかもしれません。

 

 実際、精神的な「やる気」という「お金」はとても貴重なもので、人間やる気があれば、結構なことができてしまうものです。

 

 やる気がでなくて悩んでいる方もたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。それくらい、この「やる気」というものは大切なもので、それをくれる読者の方も、僕にとってはとても大切な人たちです。

 

 僕は、みなさんのおかげで、こうして勉強して、――ちょっとしたものにすぎませんが――情報を提供できているわけです。ですので、いつも皆さんには感謝しています。本当にありがとうございます(お世辞ではないです)。

 

 いずれにせよ、あなたが「本当にやりたいこと」で、何らか「ファン」がつき得る事業に関しては、必ずビジネスチャンスがあると言えるのではないでしょうか。

 

 とは言え、それをビジネスにまで育てるには、ブログなら長く続けなければならないでしょうし、どんな技術でも一朝一夕にどうにかできるものではありません。継続することが大切です。

 

 「継続は力なり」ですね。

 

 このブログも長く続けられるようにがんばります(笑)

 

 閑話休題

 

 まとめます。

 

1.収入を得るには価値が必要である。

2.価値を得るには継続が必要である。

3.新しい収入を得るには新しい価値を創り出すことが必要である。

4.価値は、自分の願望の中にある。

5.自分の願望を継続的に表現し、そこに賛同者(ファン)がいれば、ビジネスチャンスがある。

6.お金とは他者が価値を信じてくれる物品のこと。

7.誰かがあなたの価値を信じてくれるということは、その人はあなたにお金をくれたのと本質的には同じこと。

8.誰かがあなたの価値を信じてくれたということは、あなたはその誰かに快楽(願望の充足)をある程度あげられたということ。

9.新しい価値を創り出すためには、自分とは違う価値観を認める姿勢を常に持っていることが大切。

10.どんな経緯があるにせよ、あなたが今この社会で生活できているということは、誰かがあなたの可能性に投資してくれたということ(食物、金品、給料、生活必需品、生活保護、元気、やる気、平穏な心、etc……何でも)。その意味では、誰かが僕たちの価値を信じてくれたその思いのおかげで、僕たちは生きていくことができる。ならば、基本となるスタンスとしては、大なり小なりみんなに感謝するのが妥当。

 

 

P.S.「高収入」という概念について少し。

 これは収入が高いことです。ただ、今回のように考えるなら、収入とは極めて多元的な価値観であり、例えば、お金があっても、そのために健康をくずしてしまえば、かえって全体としての「収入」は低下してしまうものと考えられます。単純に金銭価値観で考えても、治療費が高くついてしまいますね。あるいは、精神を病んでしまえば、働くこともむずかしくなってしまうかもしれません。無理は禁物です。つまり、収入というのは、「あらゆる種類のお金」のもとに集計されるべきものであり、高収入とは、あらゆるお金を多角的に数えたうえで決定されるものである、とも考えられます。つまり、貨幣もお金、健康もお金、やる気もお金、容姿の美しさもお金、食べ物もお金、衣服もお金、何でもお金、ということです(「ひとつの」考え方としてご参考下さい。これがすべてというわけではありません。例えば、「愛」などをお金に換算してしまうのには抵抗を感じてしまう方もいらっしゃるかもしれません。それはそれで、とても正しい感覚かと思いますので、どうかその感覚を今後もお持ちになっていてくださいませ)。それにしても、長所と短所はしばしば表裏一体のものかと思います。短所を取り除こうとすると、長所までなくなってしまったりとか。これでは本末転倒。するべきことは、短所を取り除くことではなく、長所を活かすことかもしれませんね。例えば、統合失調症なら、妄想を取り除くことではなく、「妄想を活かすこと」が、真の治療と言えるのかもしれません。病理的なものというのは、身体の免疫反応であることも多いと思いますので、上手くその「免疫」をアシストすることができれば、その人の人格の再生に寄与する可能性があるのではないかと思います。つまり、「病理を正当化する」ということですね。異常だと決めつけて排除するのではなく。すると、その異物に見えたものの中から、新しい価値が芽吹くこともあるかもしれません。いわゆる病気が本当に「病気」かどうかはとても難しい問題ですね。もしかしたら、体が回復しようとしているだけかもしれませんし。その回復行動を薬で取り除いてしまったら、精神病(そもそも本当に精神「病」なのかどうかも定かではないのですが)が治らないのもある種当たり前とも言えるのかもしれません。統合失調症についてはわからないことも多いように思われますので、みなさんも色々とお考えになってみてくださいませ。「謎」について考えるのは大変面白いです。統合失調症に限ったことではありませんが、世の中の大半は謎ですので、考えようによっては、なかなか面白い世界かとも思います。

 資本には、貨幣や不動産以外にも、「文化資本」や「人的資本」などもありますので、ご参考下さい。いずれも測定超難しいですが(笑)

 

 最後に僕の個人的な思いを少し書きますと、僕自身はすべてがお金であるとは必ずしも考えたくない方かもしれません。お金は生きていくためにある程度必要であるにせよ、お金以外の価値観はあるのではないか、というふうに考えています。お金がすべて、と言ってしまうと、なんだか寂しい気もします。今回は、収入のお話でしたので、お金になぞらえて思考してみましたが、必ずしも思考の基準はお金でなくてもいいと思います。例えば、今回は少ししか触れていませんが、「お金」ではなく「情報」を基準にして、思考してみると、とてもおもしろい成果が上がるのではないかという予感があります。そのうち、気が向いたらやってみようかな、と思います。