魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

統合失調症の長所

みなさん、こんばんは。

 

今日は「統合失調症の長所」について考えてみようと思います。

 

みなさん、統合失調症というと、「え? 精神病に長所あるの?」などと思うかもしれません。

 

ただ、僕が見る限り、この世界のものはすべて、長所と短所を両方持って動いており、長所だけのものや短所だけのものは、ひとつも見たことがありません。統合失調症が特別例外的に短所だけであったり、長所だけであったりする、ということはまず考えられないことでしょう。統合失調症は、100人に1人が罹患する症状であり、それほど例外的なものでも、特別なものでもありません。したがって、必ず長所があるはずです。今日は、その長所について考えてみましょう。

他人の悪いところはよく見えるものですが、長所というのはなかなかどうして見ることが難しいものです。自分のよいところはよく見えるのに、他人のいいところが見えなくなってしまうというのも、人間おもしろいものですね。人間はこうした「自己中心性」を必ず誰でも有しており、自分にまつわるものはすべてよく見え、他人にまつわるものはすべて悪く見える、という傾向があるようにも思われます。なかなか自分に都合の悪い部分については、見えないものなのです。ですので、基本的に、主観は絶え間ない批判により、少しでも客観的であり得るように、絶えず更新され続けなければなりません。それは、精神医学もまた、例外ではないでしょう。この世界に完璧なものは何一つ存在しません。

 

まず、では、どうすれば精神病が生じるかについて大きく考えてみましょう。精神病は次のことにより生じます。

 

1.遺伝的に心が傷つきやすい

2.環境的に心が傷付きやすい

3.その個体が堪えることのできるレベルを超えた心の損傷を受ける

 

この三つの要因がそろう時、人は精神病になると考えられます。統合失調症とは精神病のひとつになります。

 

これだけ見ると、ただ自我が脆弱なだけの短所にも見えます。しかし、これは本当に、純粋に短所と言えるものでしょうか? よくよく見てみましょう。

これは次のように言い換えることが出来ます。

 

1.遺伝的に感受性が豊か

2.環境的に感受性が豊か

3.繊細な心を持っている

 

一つずつ見ていきます。

 

まず、遺伝的に感受性が豊かなので、その個体は感受性豊かに行動します。つまり、感受性豊かに行動することで、感受性豊かな環境を自分の周りに大なり小なり構築します。また、感受性が豊かであるため、刺激に敏感であり、すこしの刺激から多くのことを感じとることが出来ると推理できます。

例えば、何の変哲もないようなものを見ても、通常の人よりも多くのことを感じとることができるので、多くの人には感じとれないことを感じとることができると推理できます。この多くの人には感じることができないけれど、その人には感じ取ることのできるもののことを、「幻覚」と仮に呼びましょう。

これは認知面にマイナスももたらしますが、プラスの作用も持ちます。マイナスに作用した場合、幻覚をうまく現実に適応させることができなくなり、生活に不適合を起こします。しかし、その多くの人に感じとることのできない情報を生活に適合的に活かすことができれば、それはプラスの素因に変わることになります。つまり、同じものを見ても、使い方によって、それが長所であるか短所であるかは変わり得る、ということです。

さて、幻覚が生じるとすると、その後の思考はどうなるか。思考も独創的なものになるでしょう。多くの人とは違った独特のものになると推理できます。この多くの人とは違う思考を、「妄想」と仮に呼びましょう。妄想はそれ自体、独創的な発想であり、幻覚と同様、多くの人には感じとることのできない思考です。これも幻覚と同様、マイナスにもプラスにもなり得ます。生活に適合させることができれば、プラスの発想として活かすことができるし、それができなければ、マイナスとなります。

妄想も幻覚も一長一短です。

 

では、どのような時に、私たちはプラスの状態になり、どのような時に、マイナスの状態になるかを考えてみようと思います。

 

まず、わたしたちは、プラスな環境に置かれると、プラスな状態になります。逆に、マイナスな環境に置かれると、マイナスな状態になります。

ここで、統合失調症になり得る人とは、繊細で感受性が豊かであることを思い出してみてください。この場合、統合失調症になり得る人は、環境の影響を通常よりも強く受けると考えられます。したがって、プラスの環境に置かれれば、よりプラスになりやすく、マイナスな環境に置かれれば、よりマイナスになりやすい、と考えることができます。

 

例えば、感受性が強く、一度に多くのことを感じ取り、情報処理することができると推理できるので、プラスな環境下では、非常に優れた処理能力を発揮できるであろうと推理できます。ここに、プラスの幻覚や、プラスの妄想が加われば、それは多くの人に発想できないことが発想できる脳の状態が構築されているということになります。従って、適切な環境を与えられれば、天才的な創造物や科学的発明をするのに比較的向いているであろうと推理することができます。

これが、マイナスのふうに出ると、マイナスの環境下において、その豊富な感受性がマイナスに刺激され、極めて強く心の損傷を受け、結果脳が損傷しやすいと考えることができます。例えば、正常な人でも気が狂うような隔離環境下に閉じ込められたり、やる気のもととなるホルモンであるドーパミンを極度に抑える薬を飲んだりした場合、これは、比較的マイナスの環境と判断することもできますので、なかなか病前の水準の知能レベルを回復することが難しくなるだろうと推理することもできます。

 

ここで、「傷」について考察します。傷は、軽く済めば、すぐに治癒し、痕も残りません。しかし、もしも、傷口を何度も何度も抉られ、傷が治癒するのにプラスになる環境を奪われ、不潔な状態に放置されたままならば、傷は化膿し、また治ったとしても、痕が残ることになるでしょう。

 

脳の損傷、脳の傷に、この推理を適用しますと……

 

ストレスも一過性のものであれば、脳の損傷は軽く済みます。しかし、何度も何度も、罵詈雑言や傷付くことを言われたり、あるいは人の温かみのない冷たい寒い過酷な環境下におかれたり、寂しい一人ぼっちのままに、長期間隔離されたり、薬漬けにされたりした場合、脳の損傷は致命的に進行すると考えられます。この場合、傷の「痕」が深く残ります。この深く傷跡が残った状態、つまり、病理が不可逆的に脳に与える損傷のことを「不可逆的損傷」と呼びましょう。

逆に、まだ傷跡が比較的残らずに治癒し得る段階を「可逆的損傷」と呼びましょう。

 

統合失調症の長所を活かすには、不可逆的損傷に陥る前に、つまり、可逆的損傷の内に、回復することが必要となると推理できます。

 

つまり、統合失調症の人の能力を活かすためには、不可逆的損傷が起こる前に、マイナスの環境からプラスの環境へと迅速に移すことが必要となると推理できます。

 

では、具体的に、統合失調症者にどのようなことが可能であると推理できるか。

 

まず、統合失調症の長所とは、幻覚妄想であり、多くの人にはない独創的な発想を得ること、また類まれな感受性でした。そのために、ストレスが適正量に保たれた状態、認知面や生活面においてプラスの環境下では、独創的に多くの仕事を処理することができると考えられます。その「仕事」が具体的に何であるかは人によるでしょう。芸術かもしれませんし、学問かもしれない。あるいは接客業かもしれないし、すし屋の職人かもしれません。なぜなら、彼らの能力は「独創性」という特徴を持っていると推理できるため、一概にこれということができないのです。少なくとも、分野別に得意不得意の差はあるにせよ、高い演算能を所持している可能性が高いと推理することができます。

 

以上のことより、独創的な仕事を成し遂げるのには、比較的、統合失調症的な素質を持っている人の方が向いている可能性があると考えることができます。

 

統合失調症的な素質を持ち、なおかつ、それを発症させないプラスの環境を持つことができれば、優れた素質を開花させる可能性が高いと推理することができます。

 

ならば、おそらく、歴史上の偉人や何らかの業績を持った人などにも、統合失調症的素因や、他の精神病的な素因をもった人がそれなりに多くいるであろうと推理することができます。

 

以上のことより、「統合失調症になるのは低能だからだ」というテーゼは否定することができるであろうと考えられます。

むしろ、統合失調症になるということは、ストレスに対し脆弱な繊細な心を持つ代わりに、高い認知力や対処能力を持っている可能性も高いであろう、と言い得ます。

簡潔に述べれば、精神病者は低能ではない」ということになります。

他人とは違う感性や思考を持つことは、必ずしも低能であることを意味しません。むしろ、それがオリジナリティ豊かな個性となり、才能を発揮できる可能性も高いであろうと推理できます。統合失調症素因を持つ人たちは、芸術などの活動にも比較的向いているかもしれません。

 

さて、この高い感受性のことを、「過度激動」と呼びましょう。過度な激動です。

つまり、感情の激しさを意味します。感受性が強ければ、高い処理能力を担保するとも考えられますが、逆に損傷しやすく、感情の激しい起伏や不安、抑鬱などを感じやすいとも推理できます。

 

そうした、過度激動という激しい感受性の資質が、プラスの環境下において、プラスに花開いた場合を、「積極的分離」と呼びましょう。逆に、マイナスの環境下において、マイナスに作用してしまった場合を、「否定的分離」と呼びましょう。

 

積極的分離は、独創的なビジョンを発掘したり、展開したり、社会の矛盾を解きほぐしたりするのに有効な資質であり、過度激動がプラスに作用した結果であると言えます。

一方で、否定的分離は、マイナスの環境下における作用ですので、精神病や自殺などの悲劇的な事態を引き起こす可能性があります。

 

積極的分離も否定的分離も、どちらも過度激動によるものですが、現れ方は随分と異なっています。このように同じひとつのものを見ても、見方や使い方によって、千変万化に姿を変えるのが、この世のすべてのものに共通して言えることであると思います。なかなかどうして、それほどお手軽には、「真実」には、たどり着くことはできないのかもしれません。だからこそ、僕たちは、自身のパターン認知や常識に安住しすぎることなく、常に、自分の認知を疑い、アップデートしていくことが必要なのかもしれません。偏見や無知、思考停止は人を傷つけるからです。

 

社会からうまく分離し、社会よりも高くレベルアップして再度、適合し直すことができれば、積極的分離。

逆に、社会からうまく分離できず、破滅的になってしまった場合が、否定的分離です。

 

いずれの場合も、現存の社会に安住することなく、社会からひとまず分離するという点では共通しています。

 

しかし、その分離の仕方が適応的でないと、否定的分離となり、精神病や自殺の原因となると推理できます。

 

つまり、統合失調症素因を持つ人たちは、積極的分離を果たすことが出来れば、良い予後と高いパフォーマンスを持つことができると推理できます。

 

正確には統合失調症には限りませんが、こうした素因、つまり精神病的素因を持った、感受性の強い過度激動を持ち、なおかつ、社会からの分離の危機を乗り越え、否定的分離に陥らず、積極的分離を果した人たちのことを、「ギフテッド」と仮に呼びましょう。

 

このように考えた場合、統合失調症の長所とは、「ギフテッドとなり得ること」ではないかと、推理することができます。

 

ギフテッドは繊細な感受性、過度激動によって、特殊な独創的知覚や思考と高い処理能力を持ちます。したがって、さまざまな分野において有効に作用し得るであろうと考えることができます。

 

さて、では、はたして「すべての統合失調症者がギフテッド」なのでしょうか?

 

これについてはつぎのように推理できます。

 

まず、今回まだ、統合失調症者の長所にしか触れていませんので、これでは意見に偏りが出るため、非統合失調症者、あるいは非精神病者いわゆる「健常者」のメリットについても軽く触れます。

 

精神病者は、感受性が、精神病者に比べて、確率的に、低く出る可能性があるであろうと推理できます。

 

感受性のメリットについて触れた後ですので、感受性が低いというとまるで、能力が低いかのような印象があるかもしれませんが、そうではありません。

 

感受性が低いということは、認知の独創性においては劣るかもしれませんが、その分傷つきづらく精神的に「タフ」であることを意味します。

 

これは厳しい現代社会を生きる上では、きわめて有効で優れた資質とも言い得るでしょう。今回は統合失調症者の擁護を目的としていますので、詳しくは触れませんが、健常者にもたくさんの長所があることを一応指摘しておきます。要は、人それぞれに、みんないいところがあるということです。

 

さて、閑話休題

 

ここで、では、健常者は統合失調症に100%なり得ないのか? という問題を考えます。なるほど、何事につけても、100%ということはあり得ません。僕の理論も多分に不完全なことでしょう。したがって、タフな人でも、統合失調症になる可能性はあることになります。つまり、いくらタフな人でも、過酷な環境下におかれれば、精神病様症状が出てもおかしくはない、ということです。

この場合、特別に感受性が強いわけではなくても、統合失調症になり得ることになります。この場合、その人は、感受性が強いわけではないので、ギフテッド的な資質からは外れるであろうと推理できます。

 

つまり、「精神病になる因子というものは、ギフテッドになり得る確率をある程度高くはするが、すべての精神病の人がギフテッドだとは限らない」ということです。

 

ギフテッドの判別は、全体的な多彩な指標に基づくのが好ましいと考えられるため、非常に難しいです。

 

しかし、少なくとも、言えることは、「精神病は無能の証ではない」、ということです。精神病になった人でも優れた人はたくさんいることでしょう。

 

あるいは、明らかに高い能力を有しているにも関わらず、精神病の診断を受けている人などは、もしかすると、大なり小なり誤診で、その実ギフテッドであるという可能性もあるのかもしれません。

 

日本では、ギフテッドという概念はさほど普及しているわけではありませんが、この概念は、ある程度、傷付きやすい繊細な人たちの心を保護する役割があると、僕個人は期待しています。

 

世間では、精神病への悪口や偏見がしばしば散見されますが、それに比して、その長所や機能を積極的に見出していこうという動きは驚くほど小さいです。

 

自分の悪い面ばかりが暴き立てられては、さすがに精神病の人たちも参ってしまうのではないかと思うのです。精神病の人たちの持っている特性や素質が、短所もあるにしても、長所になり得る部分もたくさんあるのだということを少しでも示唆できれば幸いです。

 

どんな人にも悪いところもありますが、必ず善いところもあると、僕は信じています。

 

ポイントは、「どんな人でも」です。

 

健常者も非健常者も、「みんな」です。

 

どんな人も一長一短。

 

だから、統合失調症や精神病だけが、「悪いもの」であるとするのは、多少意見として偏りすぎているであろうと思います。

 

悪いように見える一つの物事でも、見方を変えることができれば、瞬く間に財宝へと変質するということが、世の中にはしばしばあるようです。

 

多視点化し、さまざまな視点から物事を見ることができる能力というのは非常に価値が高いと思います。みなさんも、気が向いたら、色んな物事をいくつもの視点から多角的に考察してみる癖をつけると、なかなかにおもしろいかもしれません。

 

そして、いつものことですが、みなさんもこのブログの意見を鵜呑みにすることはなく、御自分で多角的に論理や推理に穴がないかを検証してみてくださると、筆者としてはこれ以上の喜びはありません。

 

一緒に色々な物事の善い面を発見していくことができたらいいな、と思います。

 

まとめます。

 

 

今日のポイント

 

1.統合失調症者には才能を持った人もいる

2.統合失調症は無能の証ではない

3.どんな人でも才能を活かすだけの適切な環境が必要

 

 

参考文献
KAZIMIERZ DABROWSKI,"PERSONALITY SHAPING Through Positive Disintegration"

結婚術

みなさん、こんばんは。

 

今日は、「結婚する方法」についていろいろと考えてみようと思います。

さて、では、「結婚」とは何でしょうか?

これは、一般的には「男女が経済的協力とセックスの関係を継続的に契約すること」を指すようです。今回はこの仮説にしたがって話を進めます。

 

つまり、結婚には二つの機能があると考えられます。



1.両者の経済的協力

2.両者の性的協力



では、経済的協力はどのようにすれば可能か。

 

まず、「協力」とは何か。

これは、「力を合わせる」ことです。

 

力には、さまざまな種類があります。読書能力もそうでしょうし、楽器演奏能力もそうです。他に、経済力や、社会的地位、なども力に当たるでしょう。

 

つまり、協力とは、そうした諸々の力を互いに合わせることです。

ならば「経済的協力」とは主に、経済に関する協力のこと、であると考えることができます。

 

では、経済とは何か。これは「人間の生活に必要なものについての社会関係」のことです。よって、経済力とは、「人間の生活に必要なものをどれだけ持っているかの程度」のことであると考えることができます。

 

人間の生活に必要なものはたくさんあります。娯楽も見方によっては必要でしょうし、言語能力、コミュニケーション能力、学校の勉強に限らず色々なものごとを知る力、ある程度の運動能力、人の良さや優しさ、和み、食料、住居、衣類、教養、柔軟な物事への見方、ある程度の頭脳、相性、場合によってはある程度自分好みな容姿、一緒にいて楽しいかどうか、二人で暮らしていくのに必要なだけのお金かそれに代替するもの、ある程度現実的な物事への見方、あるいは他者への想像力、魅力、愛、絵や楽器演奏や歌唱などの芸術的素質、お金についての詳細な知識、他人のことを思いやれるかどうか、適切な自己主張能力(アサーション)、家事能力、子供を作るなら子供が好きかどうか、などなどこの手のものは人それぞれなところがあり、挙げようと思えば、いくらで挙げられるところがありますみなさんも気が向いたら、ご自分で色々と想像なさってみるのも一興かもしれません。

人間は基本的に強欲なものなのかもしれません(笑) あまりに強欲すぎても、それはそれで「過ぎたるは猶及ばざるが如し」、ということでうまくいかなくなってしまうかもしれませんが。人間の力はどうしてもこうしても「有限」なところがありますので。

 

言ってしまえば、「生活していくために役立つもの」なら、何でも経済の範疇として考えることもできるかもしれません。経済力とは、究極的には、この世界のすべてに対する知識や能力、「資本」なのかもしれません。とは言え、人間の力は有限ですので、そのような万能の理想的状態は現実的に存在せず、どんな素敵な人にも欠点が多くあるのが普通です。何か物事を見るときは、善い面と悪い面の両方に目を向けていく癖をつけるのは、結婚の問題について考える際にはある程度有効かもしれません。

 

互いのことが好きで、結婚を考える場合には、こうした様々な相手の能力指標をある程度観察してみるのも、一興かもしれません(お互にお互いのことが好きでお互に結婚したいのなら、あまり深く考えず結婚するのもありなのかもしれませんが)。

 

要は、経済力とは、「生活力」であると言うことができるかもしれません。どれくらい生活力があるか。生きていく力。「生命力」と言ってもいいのやもしれません(必ずしも、現行の医学的な「健康」である必要はないかと思います。どんなに病んでいても、生命力の強い人というのはいるものと思います。「美人薄命」、「才子多病」です)。

 

つまり、経済協力とは、「共に生きていくための同盟」と考えることができます。

 

同盟の類似概念に、「主従関係」があります。

ただ、基本的には、夫婦は主従関係ではなく男女平等であると考えることができますので、これは「同盟」であると考えることができます。

 

つまり、夫が上でもないし、妻が上でもない。夫婦の関係に上下関係は基本的にない、ということです。

 

ここで、一夫多妻制と、多夫一妻制を考えてみます。

 

一夫多妻制は、夫一人に対し、妻が複数結びつくことになります。この場合、夫一人の価値を仮に100とした場合、経済的に考えると、これと釣り合う価値総量は100となりますので、例えば妻を四人娶れば、妻一人当たりの価値は25となり、妻の価値は下落します。これは男女平等ではないので、あまりうまくはないかもしれません。基本的に男女には優劣はありませんね。男女平等の場合には、夫が100なら妻も平等に100と考えられますので、思想的には一夫多妻制は難しいのではないかと考えることができます。

多夫一妻制の場合も、基本的に同様です。

では、男女平等を撤廃すればどうか、という案があるかもしれません。これは人権保護の観点から危険と言えるかもしれません。なぜなら、男女平等が撤廃されると、女性蔑視や女性への不平等が成立する可能性が生じるからです。女性の人権が著しく阻害されるリスクがあります。世の中にはただでさえ、いろいろなものを蔑視する人がそれなりに多くいらっしゃるようにも感じますので、そこに「男女不平等を導入すれば、人権問題が起こるのではないかと、懸念いたします。

 

例えば、一夫多妻制にして、夫が妻を多数娶った場合、これはどういうことになるのかを具体的に推理してみます。

 

まず、これは一部の男性に女性が集中しているモデルとなります。この場合、男性の私有財産に限りがあるため、所有される女性量に限りがあります。また、一部の男性と総女性量を比較すると、一部の男性の方が数が少なく、女性は一部の男性を巡って、「競争」をする状態となります。

この競争が熾烈になるほどに、女性は搾取されることになると推理することができます。

一部の男性のもとに女性が集中し、一部の男性の価値が増大した結果、女性はその価値に見合うためにより多くの労力を要し、極めて強く搾取される状態となると推理できます。つまり、女性から一部の男性への価値の流入が起こると推理できます。

このように「競争」によって生活が逼迫することは大いに想定できることかもしれません。多夫一妻制の場合には、これとは男女が逆になります。よって、男女平等と人権保障は極力は維持したほうがよいと考えられます。うまく嫉妬心を抑制し、強欲になりすぎず、「満足」を行うというのは一つの見識かもしれません。ご参考下さい。

 

したがって、残る選択肢は、フリーセックスか一夫一妻制となります。

 

フリーセックスの場合には、「所有」や「私有財産」が撤廃されていることが必要になります。なぜなら、結婚とは現行のもの言えば、相互を相互に所有し合うという側面を持っており、この所有や私有財産を認めるということと、結婚におけるお互いのお互に対する所有契約を認めるということとは重なり合うからです。夫や妻とは、お互いがお互いにとっての私有財産であるということになりますので、フリーセックスを行うには、私有財産という概念を撤廃する必要があります。しかし、私有財産を撤廃すると、基本的に共産主義の発想となり、歴史的にはあまり上手くいかない可能性があるのではないかと推理できます。

 

そのように考える場合には、基本的な正着打は一夫一妻制となります。

 

よって、このように考えた場合には、理想的な結婚様式として「一夫一妻制」を上げることができると考えられます。

 

また、一夫一妻制の効能は次のようにも説明することができます。

 

まず、多様な環境が好ましいと仮定します(優生思想を否定するということ)。

 

この場合、遺伝的多様性、性的多様性、生殖的多様性を確保できることが好ましいことになります。

したがって、繁殖行為が一部の人に集中せず、さまざまな人に分散され、多様にリスクヘッジされた方より好ましいことになります。

 

ならば、一夫多妻制や多夫一妻制よりも、一夫一妻制によりより多様な人々が繁殖する機会のある環境の方が、遺伝学的に、人間の長期的生存への戦略の観点から望ましいであろうと推理できます。

 

したがって、経済的にのみならず、生物としての人間」という側面からしても、一夫一妻制による生殖が基本的に望ましいであろうと推理することができます。

 

また、人間は、嫉妬心や私有財産、所有欲を手放すことができない限りは、不平等により必ず熾烈な競争が起こります。そして、多くの場合、今のところは私有財産を手放すことは人間には不可能でしょう(もしも手放せていれば、今頃、貧富の差も、嫉妬心も、所有欲も存在しないと考えられるため)。

 

現実的に競争や嫉妬心、所有欲など消去し切ることは非常に難しく、ならば一夫一妻制によって繁殖するのが正着打となるのではないかとも考えることはできます

 

さて、では、理想的な結婚様式とはどのようなものかについて推理してみようと思います。

 

まず、男女の総量が同一くらいであると仮定します。

 

この場合、男女平等のもとで一夫一妻制を採用するなら、各々の男女は、「一人の人しか好きにならないこと」が究極的には望ましいことになります(一般的には不可能かもしれませんが(笑))。

 

そうすることで、うまく一夫一妻制を成立させ、遺伝的多様性を保ちつつ、周囲の人たちの嫉妬心が刺激され過ぎずに繁殖することが可能になると推理できます

 

したがって、理論的には、最も望ましい結婚相手は、「純潔」であることになります(自分以外とは性交しない相手、ということ。もちろん理想論です。現実はそれほどうまくはいかないかもしれません。「一途さ」というのはなかなかどうして貴重なものなのかもしれません)。

 

よって、理想的には、貞節は大切にされてよい、と考えられます。

 

貞節を守れず、不倫を行った場合など、必ず嫉妬心から軋轢が起こります。こうした人々の嫉妬心を無闇に煽らないことは、生存戦略としては、また社会秩序の維持の観点からは、ある程度有効です。

 

つまり、結婚まで童貞や処女を守るという戦略も、現実的に有効性が高い、と推理することができます。非常に賢い戦略の一つなのだろうとは思います

 

少なくとも、結婚相手としては、貞節な人の方があまり性的に奔放すぎよりも向いている可能性もあるかもしれません。

 

また、余計なトラブルやリスクを避けるという意味では、浮気しない人が交際相手として現実的であることにはなります。

 

理想的な結婚戦略とは、「結婚まで純潔を守り、一人の人に対し生涯、病めるときも健やかなるときも、自分を捧げ続けること」ということになります(結婚したくない場合には、必ずしも無理には結婚する必要はないと思います。人それぞれでしょう)

 

その観点から言うと、離婚などはあまり有効な手段ではないのかもしれません。非常に手間のかかる軋轢であるように感じます(やむなく離婚する場合はあるものと思いますが。ここに書かれたことは理想論の話です)。

 

モテる人とても素敵ですが、純潔な人とても素敵かと思います。

 

これらの概念をどちらも合わせて考えると、理想的には、モテてなおかつ純潔である人、がもっとも好ましいということにはなります。

 

そのような人が実際に存在するかどうかは僕のような経験不足な人間には今一つ定かではありませんが、理論上、可能性としては十分にあり得ます(この点については、当ブログの「童貞/処女の長所」という記事を気が向いたらご覧ください)。

 

また、性的な情報や統計は強がりや嫉妬心が強く出るとも考えられるので、なかなか鵜呑みにできないかもしれませんので、その点は一応提言しておきます(このブログも「推理」に過ぎないので、過剰に信じ込んだり、鵜呑みにしたりしないでくださいね☆ ご自分で文章に論理の穴がないか、逐一思考し、検証していただけると、著者としてはうれしい限りです)。

 

何事につけて、基本的前提からスタートして厳密に考証していくのがまずは第一歩かと思います。

 

ポイントをまとめます。

 

1.モテる人も素敵

2.純潔な人も素敵

 

さて、では、以上の結婚についての分析を基礎にして、次は、具体的にどうすれば結婚できるかについて考えてみたいと思います。

 

まず、結婚の機能を整理します。

 

1.力を合わせる

2.愛を育む

3.生殖する

 

つまり、基本的に結婚は、自分が楽になるためにするというよりも、「自分が相手と力を合わせるためにするものと考えられます。したがって、相手に依存的であったり、頼りきりであったりするのは基本的に望ましくはないかもしれません。心理的援助にせよ、経済的援助にせよ、社会的援助にせよ、なんらかの援助を相互的にし合う関係が「結婚」であると考えることができます。そうした共同作業をともにするうちに、愛を育んでいくというのが、基本スタイルかと思います。できることは有限で、どんな人もみんな限りがありますが、可能な限りは、配偶者のことは全力で助けていける関係でいけるのが愛としては理想的なのだろうな、と個人的には思います。子供が欲しい場合には、生殖を行うというのも、結婚の機能になり得ます。愛を育んでいるうちに、子供ができることも、もしかしたらあるかもしれません。

いずれにせよ、結婚の起点となるのは、「援助能力」であると考えることができます。また、そうした能力には、家事から教養から色々とあることは前述したとおりです。

 

つまり、非常に簡潔に言えば、「能力の養成」が結婚に向けた行為の基礎となるものと思われます。自分の価値を上げていく、ということですね。

 

単に結婚を考える場合には、必ずしもモテる必要はなく、また、理想的には純潔が好ましいとも考えることができるので、童貞や処女を恥ずかしく思ったり、そのことを焦ったりする必要はないと思います。

 

要は、あなたのことを見初めてくれる一人の人に出会うことができれば、それでいい、ということです。

 

人事を尽して天命を待つ、というか、できることをして後は運に身を委ねるのが基本的結婚手法かと思います。

 

とにかく能力を磨く。それはファッションでもいいでしょうし、ダイエットでもいいでしょうし、勉強でもいいでしょうし、音楽演奏でも、コミュニケーションでも、何でもいいでしょう。とにかく、自分の能力を磨くことが、基本になるかと思います。

 

したがって、結婚をしたい場合、逆説的ですが、結婚に直接に向かうよりも、自分を磨いた方が利率が高いかもしれません。

 

徹底的に自己投資をして、とにかく様々な多様な能力を自分なりに磨いてみる(この点については、当ブログの「勉強術」という記事がありますので気が向いたら、ブログ内検索などからご覧ください)ことが、結果的に、結婚につながるのではないかと、推理します。

 

嫉妬や排除は現実的に存在しますし、なかなか理想通りにはいかないかもしれませんが、それでも理想は現実の進む方向性はある程度決めることができますので、たとえ達成できなくとも無意味ではないかと思います。

 

ひたすらに能力を磨き、あとは天命を待つ、というのが正着打なのかもしれません。

 

まとめます。

 

1.結婚するには徹底的にあらゆる能力を自分なりに向上させることを考えるといいかも(人事を尽して天命を待つ)

2.結婚するには時期を待つことも時に大切かも(合縁奇縁)

 

P.S.配偶者選び」について。

 

配偶者選びについていろいろと推理してみようかと思います。

まず、基本的には、非論理的な「直観」で選んでいいと思います。これが基本かと思います(合縁奇縁)。また、「とにかく結婚したい!」というだけなら、選り好みをしなければ、単純には割に高確率で結婚できると推理することもできるかもしれません。あんまり強欲になりすぎたり、選り好みが過ぎたりすると、少なくとも結婚の対象になる相手となり得る人の数が減少するので、結婚確率は減少することになるかとも思います。

 

ただ、「それじゃあ、何の指標にもならないじゃないか! 合理的に何か考えてくれ!」みたいな方のために、一応、それっぽく考えてみようと思います。

 

まず、配偶者に適している程度のことを、「配偶者資本」と定義してみましょう。

では、配偶者資本には、どのようなものがあると考えられるか。

 

基本的には次のような資本があると考えることができます。

 

1.心理資本(心の豊かさ)

2.経済資本(お金の豊かさ)

3.社会資本(コミュニケーションの豊かさ)

 

これらの資本を大量に所有しており、総合計資本量が多い個体ほど、結婚に適しているであろう、みたいにとりあえず考えることはできます。

 

資本の所有量やそのバランスは多様でしょう。心理資本に卓越している人もいれば、社会資本や経済資本に卓越している人もいるでしょう。人それぞれです。

逆に考えますと、これらの資本に卓越することが結婚への近道となるというふうに考えることができます。

 

つまり、心が豊かで、お金持ちで、コミュニケーションが豊かな人になるのが、結婚への基本的な道筋となると推理することができます。

 

もちろん、どのパラメータにどの程度の労力を払うかは、人それぞれであり、心理資本が得意な人はとにかく心理資本だけは誰にも負けないようにするというのも一つの手になりますし、自分はコミュニケーションが苦手だからその代わりに経済資本だけは磨いていこう、と考えるのも一つの手だと思います。

 

複数の資本をバランスよく保有するのもいいと思いますし、自分の得意な資本に特化するのも有効だと思います。ホントに人それぞれです(その人それぞれの資本保有量のバランスがその人の「個性」にもなるかと思います。個性の豊かな人は素敵ですね)。

心が豊かな人も、お金が豊かな人も、コミュニケーションが豊かな人も、どの人も基本的には素敵ですね。魅力的かと思います。

 

また、どのような資本を好むかは、相手の人の好みにもよると思いますので、その辺は自分のターゲットとなる人のことをリサーチして合わせてみるのも手かもしれません。

 

例えば、相手の人が、心が豊かな人が好きなのだったら、心理資本を充実させてみるとか。コミュニケーションが上手な人が好きな人だったら、コミュニケーション能力をとにかく磨いてみるとか。いろいろです。

 

これらの資本バランスは多様で一向に構わないと思います。それぞれの人にそれぞれの魅力や個性があります。もっと言えば、「普通な人」もとても魅力的ですよね。普通というのも個性です。その意味では、基本的によくよく人のことを観察することのできる目が身につきさえすれば、すべての人が個性的で素敵です。ですので、必ずしも、他人と違う部分を恥じてしまったりとか、欠点と感じてしまう必要はないと思います。もちろん、なんらかの改善を試みたいと「あなた自身が」心から欲望するのならば、それを改善するために乗り出すのはじゅうぶんにアリだと思います。

実際には、これら三つの資本以外にも、この世界には無数の資本が存在します。能力資本もありますし、容貌資本もありますし、ユーモア資本、知能資本、教養資本、家事資本、優しさ資本、愛情資本、魅力資本、創造力資本、他者への想像力資本、配慮資本、礼儀資本などなど。とにかく多様です。

理想的にはこれらのパラメータをすべて網羅したうえで考察できるといいのですが、これは(笑)

本が一冊かけてしまいますね(笑)(一冊で済めばいいけど(笑))

ということですので、今日はこの辺にしておきます。

 

ああ、あと、ふと気になったんですけど、共謀罪(悪事を企んでいると判断されるとそれが罪になるようです)について世間で色々と意見が飛び交ってるじゃないですか。あれって「夫婦」も「共謀」にカテゴライズされたりしないんですかね?(笑) 「結婚」って一種の「共謀」(結婚は愛する人と共にする謀りごとのひとつだと思います)だと解釈することも不可能ではないと思いますし。なんか、罪の対象になる範囲があんまり広すぎて、一体何が「共謀罪」になるのか今一つわからないんですよね。例えば、夫婦で、「最近の日本はダメだよね」みたいな会話して、共謀罪になったりとかね(笑) もしもそうならちょっとヤバいと思います。さすがに。なんか共謀罪について発言すると、僕のところに逮捕状が来るんじゃないかという極度の杞憂に陥ってなかなか話せないんですよね(笑) 笑いごとじゃないけど。怖いですね。法律って、結構拡大解釈みたいなのとかある感じしません? 法律の拡大解釈の手にかかれば、犯罪なんてできない小心者の僕のような一般庶民なんて余裕で有罪にできるんじゃないかと思いますし。ちょっと共謀罪について記事上げてみるのも手かもしれませんね。けっこうほとんどの人たちが、一度は、「日本くそだな」とか思ったことあるんじゃないかと思うんです。すると、社会の趨勢について話し合ったり、日本や政治に文句言ったりしたら、それでもう共謀罪になったりして……とか思うと、ちょっと恐いですよね。共謀罪については、そのうちまた。もしかしたら急いだ方いいのかな? みなさんも気が向いたら、共謀罪についてお調べになってくださいませ。僕もまだよくわからないので、色々と調べてみようかな。政治家の皆さん、テロが怖いのかもしれませんね。それでみんなのことを力で抑えつけたいのかな? 世界でけっこうテロ起こってますもんね。でも、力で抑えつけても基本的には何も解決しないと思うんですけどね。政治をしっかりするしか手段はない気もする。テロは民衆に不満がたまることで起こるのだと思いますので、その不満を取り除かずに、力で抑えつけようとすれば、より一層揺り戻しが強くなって、テロが過激になるのではないかという気がしないでもないのですが、どうなのでしょうね。「無為にして治まる」ということわざがありますね。もしかしたら、今の日本のトップには人徳のある人がいないのだろうか。色々と想像できて面白いところです。とか言いつつ、この「個人的空想」が共謀罪と判断されたりしたら恐いですけどね。「そこのお前! 今悪事考えたな!」とかって(笑) 僕悪事とか考えてないよ。ただ怖いだけだよ。なんて言っても政治家とか官僚の人には分かってもらえないのかもしれませんけど。怖いです。リアルに怖いです。みなさんも、共謀罪にならないために、悪いことは一切考えないようにしたほうがいいかもしれません。国の悪口とか偉い人の悪口とかも言えなくなるのかもしれませんね。全部、上の人たちの言いなりに。そうなってしまえば、個人の自由もへったくれもないですね。みなさんも、ある程度自由が欲しい場合には、共謀罪についていろいろと考えてみるのも一つの手かもしれません。ご参考下さい。こういう共謀罪のような感じの切羽詰まった、民衆のことを力で抑えつける方針が出てくるということは、政治家や官僚の皆さん相当苦労なさっているのかなと、憶測いたします(あるいは外国による日本への分断工作か。規制を強くすると、かえって揺り戻しが強くなったりしますね。麻薬犯罪とか、禁酒法時代の酒とか。テロの規制を強くし過ぎると、かえって民衆にストレスが溜まってテロが増えるやも。そのまま内乱を起こせれば日本は分断されるので、ある種の外国にとってはウハウハなのかもしれません)。なんとか頑張ってほしいと、小市民な僕は思ったりもします。民衆も政治家も官僚も、みんなそれなりに幸せに暮らせるといいんですけどね。うむ。世の中難しいですね。共謀罪については、僕も考えてみますね。みなさんの意見も聞きたいかも。よろしくお願いします☆

 

ではでは~☆

 

 

童貞/処女の長所

みなさん、こんばんは。

 

今日は、童貞/処女のことについていろいろと「憶測」してみようと思います。

 

ではまず、いつもどおり、基本的な言葉の用法から確認し、徐々に思考を深化していきましょう。

 

童貞/処女とは「セックスしたことがない人」のことを概ね指すようです。

 

つまり、「初めて」の人です。こうした解釈から派生して、いろいろな童貞概念、処女概念があり、何か特定の事柄について経験していない場合に、比喩的に「童貞」や「処女」という言葉が使われることもあります(この派生からは、色々な童貞処女が考えられます。「カラオケ童貞(カラオケ未経験)」「挑戦童貞(挑戦未経験)」「学歴童貞(学歴未経験)」「料理処女(料理未経験)」「ファッション処女(ファッション未経験)」「サブカル処女(サブカル未経験)」、などなど、いろいろと概念を生成できて、おもしろい点ではあります。とにかく何か経験していないことがあれば、拡大解釈してそれらを童貞処女と呼ぶ潮流は存在するようです。その意味で言えば、あらゆる人が、何かしらの童貞処女であるとも言えます。人間の力は有限ですので、なかなかどうしてすべてを経験しつくすことは難しいです)。ただ、概ねの意味としては、これらの言葉は、性領域、特に「セックス」(これを表わす意味として特に強いのは、「膣への陰茎の挿入行為および射精」となるようです。実際には同性愛や無性愛などがあるように、さまざまな愛の表現としての「セックス」があり得るわけで、このように一概にセックス行為を限定することはできませんが、とりあえず、今回は、このセックスの定義で話をすすめます)についての経験に限定されているようです(一般にセックス概念は、非常に限定された概念であり、それの領域の情報のみを特権化して批准すると、情報が激しく限定されてしまう恐れがあると個人的に思います。世の中はセックスだけでできているわけではありませんので、その点はいま一度強調しておきます)。

 

色々なことを経験すること、挑戦することは、能力養成の観点から有効性があると推理することもできます。その意味で、セックスへの経験、挑戦も、それらのうちの経験の一つとして捉えることはできます(無理にセックスする必要はないということ。あくまで「色々なこと」への経験や挑戦が重要なのであり、セックスという概念が特権化されるわけではないということ。この点の多様性の尊重はある程度重要かと思います。セックスはしてもいいし、しなくてもいい。あるいは一つのその人の特性を表す指標ではあり得ますが、あくまで部分のみではなく、「全体」を見て判断を下すべきとも考えられますので、セックス経験の有無だけで、その人について判断するのは多少愚策の感が否めないような気がします。人を判断する際には、でき得る限り、この世界のありとあらゆる指標を考慮して動くべきでしょう。恐らく必ずしもセックス経験がなくても、いろいろなことに挑戦し、経験していて、能力の高い人も存在するでしょう。世界は多様です。世界は基本的に、僕たちよりも大きく、僕たちの思考や発想をはるかに超越しているように感じられることもあります)。

 

では、それらのことを考慮した上で、童貞処女について深く推理してみようと思います。

 

まず、「人間はセックスがしたい」というふうに仮定します。

 

次に、「セックス欲求は非常に強いものである」というふうに仮定します。

 

そして、「大切なものは防衛される」と仮定します。

 

さて、今日はこれらの前提で遊んでみましょう。

 

まず、これらの前提から引き起こされる結果として、次のことが起こるでしょう。

 

1.セックスにコミットしようとする

2.セックスを重大視しようとする

3.セックスを重大視するあまり、セックスに関する諸々は防衛される

 

簡単に言うと、セックスをしたいとは思うが、それをあまりに重大なこととして捉えるために、セックスにまつわることが怖くなってしまい、避けてしまう(自己防衛してしまう)ということです。

 

つまり、童貞処女(セックスをしない/していない人たち)には次のような特徴があると考えられます。

 

1.セックスはしたいと思っている

2.セックスをとても大切なものとして考えている

3.セックスが大切なことであるあまり、セックスについて強がってしまう

 

これらの心理構造が成立している可能性が高いと推理することができます。

 

簡単に言うと、非童貞非処女よりも、童貞処女の方がセックスを大切にしている、というふうに考えることができます。

 

よって、童貞処女には次のメリットがあると推理することができます。

 

1.大切にセックスについて考えてくれる(ただし、「強がり」がある)

2.大切にセックスをしてくれる(ただし、「強がり」がある)

3.性対象を大切に思ってくれる(ただし、「強がり」がある)

 

さて、これらの強がりのことを、「自己防衛」と今回は呼びましょう。

 

つまり、これらの自己防衛的思考および行為さえ避けることができれば、童貞処女は、自分の欲求を感じる対象をとても大切に考え、行為してくれると推理できます。

 

さて、次は、「性対象」とは何かについて少し考えます。

 

性対象には、異性愛もあり、同性愛もあり、無性愛もあり、またトランスジェンダーなどもあり、極めて多様な性があります(言うなれば、「性」は人の数だけあると言えるでしょう。代数学的表現を使えば、「n個の性」が存在します)。

 

フェティシズムまで含めれば、異性にまつわるものや色々なものごとが性対象になり得ます。

 

つまり、性対象の範囲は極めて多様です。人間の欲望というのは本当に多様なものであり、たとえば、小説に欲望する人は作家になるかもしれませんし、音楽に欲望する人は音楽家になるかもしれません。性対象は、セックス以外にも潜在的にたくさん存在しているように見受けられます。あるいは、「多様なセックス」が存在するというふうな表現もすることができるかもしれません。「小説を書く」というセックス、「音楽を演奏する」というセックス。さまざまなセックスがあり得ます(このように、セックス概念というのが非常にデリケートで難しい概念であるということは一応お伝えしておきます)。

 

そして、厳密には、これらの欲望は、おそらく潜在的に、全ての人が持ち得るものであると思います(性にまつわることには、文化の影響を受けるものも多くあります。必ずしも先天的要因が特権化されるわけではないかと思います。理論的には、陰茎があっても女性であり得るし、陰茎がなくても男性であり得ます。「多様な性」ですね。つまり、性はn個あります)。

 

人間の欲望は多様な形を取って現れるもので、その意味で、多様な性が存在すると考えられます(必ずしも「性欲」だけが特権化されるわけではありません。人間はセックス以外にもたくさんしたいことがあり、またそのキャパシティも十分にあると思います。問題となるのはいつも、「自分が何をしたいのか」という自分の欲望であり、「自分の性」であって、他人の指図ではありません)。

 

では、どうすれば、自己防衛(強がり)を避けて、童貞処女と愛を育むことができるのか。

 

今回の仮定の場合には、次の手順を踏むことで、これらの強がりをある程度避けることができると考えられます。

 

1.童貞処女へ自分からアプローチする

2.あらかじめ強がりを想定し、冷たい態度に動じない

3.時間をかけて、じっくり優しくする

 

(注意点は、「ストーカーにならない」、ということかもしれません。しかし、正当なアプローチとストーカーの区別手法などについては、これは非常に難しい問題であり、整理が難しいです。この点はまたの機会に)

 

閑話休題

 

以上の行為を焦らず行うことで、童貞処女の強がりを解きほぐすことがある程度可能であろうと推理できます。簡単に言うと、「好き避け」みたいなことだとお考えください。この理論で言えば、好きな人のことほど避けてしまって、本命の恋ほど実らなくなるとも推理できます。うまく素直になることが大切かもしれません。

 

ただし、これらの自己防衛、「強がり」には次のような戦略的有効性があります。

 

1.強がりにより、性対象の価値を貶めることで、他の人がその性対象に群がるのを防ぐ

2.強がりにより、自分の好意を隠すことによって、性対象に対し優位に立つ

3.強がりにより、性対象の自信を挫くことによって、自分の他の異性にアプローチするのを防ぐ

 

強がりには、こうした戦略的有効性があります。ただし、こうしたものは、自分の利益を考えた「損得勘定」であり、純粋に利他性を持った方が戦略的有効性も高いとは個人的には思わないでもないですが、人それぞれでしょう。簡単に言えば、利己的な人と利他的な人では、利他的な人の方が自分に奉仕してくれる確率が高いので、より好まれる確率が高いのではないか、という推理です。ご参考下さい。

 

これらの考察から推理できることとして言えるのですが、美人(あらゆる「性」における「美人」です)は、この「強がり」を見抜くことができないと、恋愛機会に恵まれづらくなってしまう可能性があるかもしれません。なぜなら、強がりとは、基本的に自分に対し優勢な相手に対して行われる自己防衛だからです。美人は少なくとも容姿については相手に対し優位に立っていますので、非常に強い強がりを受ける可能性があるのではないかと推理できます。つまり、一般の人の恋の場合よりも「好き避け」がされやすいのではないか、という推理です。簡単に言うと、あんまり美人過ぎると、相手の人が萎縮してしまう可能性がある、ということです。あるいは、美人は、通常の場合よりも、嫉妬による攻撃を受け易いのではないか、という推理でもあります。なぜなら、強がりとは、要は「嫉妬」のことであるからです(強がりとは、相手の持っているものに対し嫉妬し、その資本の簒奪を試みる戦略であるため)。美人の周りには嫉妬が渦巻く可能性が高いと思われます。結果、人間不信に陥ったり、恋にコミットできなくなったりするということも予想されます。したがって、美人でも童貞処女であることは、理論的にあり得ます。美人の方々は、おおらかな心で、嫉妬してくる人たちのことをやさしく包んであげることができると、理想的かもしれません(攻撃し返しても、軋轢が生じるだけだから)。

 

また、これは美人に限ったことではなく、嫉妬されうるあらゆる資本を持った人に言えることかと思います。嫉妬による攻撃で、人間不信になれば、頭のいい人でも、愛情深い人でも、人間に絶望してしまいます。したがって、頭のいい人も、愛情深い人も、つまり、何らかの長所を持っている人も、童貞処女である可能性自体はあることになります。

 

よって、次のことから、「童貞処女は低能である」というテーゼは、否定することができる、と考えられます。むしろ、童貞処女であるということは、以上の帰結から、善い素質を持っている可能性すらあると言い得るかと思います。少なくとも童貞処女だから劣っているとか、非童貞非処女だから優れているとか、そういうお話ではないと、推理することができます。つまり、「童貞処女の問題は優劣の問題ではない」、という推理です。童貞処女に限らず、セクシャリティの問題は優劣の問題ではないかと思います。人それぞれです。

 

これらのことは、進化論的に考えると次のように推理することもできます。

まず、次の仮定をします。

 

1.質が高いものが繁殖する

2.量の多いものが繁殖する

3.質の高いものは嫉妬により排斥される

 

美人を質の高いものであると、とりあえず定義しておきましょう。この場合、美人に対し嫉妬による排斥行動がなければ、世界に繁殖している生命体は美人であふれているであろうと推理できます。しかし、実際には美人は少数派とも考えることはできると思いますので、したがって、美人に対する嫉妬による排斥は存在すると推理することができます。ならば、美人の繁殖機会は、嫉妬により著しく阻害されているであろうと推理できます。

 

美人に限らず、何らかの美質を保有している人はその点ご注意するのも、一つの手かもしれません。

 

また、性に関する情報や統計は、嫉妬や強がりが強く出ると推理できるので、あまり鵜呑みにしない方がいいかもしれません。この情報も、もちろん鵜呑みにせず、合理性に穴がないか、みなさんの方で、検証してみてくださいませ。どこか論理に穴があったら、できれば、僕に教えてくれると嬉しいです☆

 

さて、では、今日のポイントをまとめましょう。

 

1.童貞処女はセックスを大切にしてくれる可能性があるかも

2.童貞処女であることと能力の優劣は関係ないかも

3.童貞処女にアプローチする際には、強がりを少しずつ優しさで解きほぐしていけるといいかも(ストーカーにはならないようにする)

少子化術と多子化術(たくさんの子供を産み育てる方法の概略)

みなさん。こんばんは。

 

今日は、「少子化」について考えてみたいと思います。

 

まずは、どのようにすれば少子化を起こせるか、について考えてみましょう。

その次に、どうすれば少子化を起こさないか――つまり、その逆の「多子化」を起こすことができるかについて考えてみます。

 

少子化とは、「子供が少なくなること」です。

多子化とは、「子供が多くなること」です。

 

さてでは、まず少子化から考えてみます。

 

どのようになれば、子供は少なくなるのか。

 

次の条件があるときに子供は少なくなります。

 

1.恋愛が減る

2.セックスが減る

3.避妊が増える

 

子供は、基本的には、愛し合うもの同士のセックスによって誕生します。そして、この際、避妊をしていると、子供は誕生しません。

 

そして、現在、少子化が進行しているということは、つまり、上記の三つの要項を満たしていると考えることができます。一つずつその理由を考察してみましょう。

 

なぜ、恋愛が減るのか。

 

これには次の三つの理由が考えられます。

 

1.恋愛する時間がない

2.恋愛する場所がない

3.恋愛するお金がない

 

恋愛以外の他の二項についても基本的に同様に考えることができます。

 

つまり、

 

1.セックスする時間がない

2.セックスする場所がない

3.セックスするお金がない

 

避妊については、逆演算になりますので、

 

1.妊娠する時間がない(避妊する必要のある程度の時間しかない)

2.妊娠する場所がない(避妊する必要のある程度の場所しかない)

3.妊娠するお金がない(避妊する必要のある程度のお金しかない)

 

となります。

 

よって、次の政策が単純には考えられます。

 

1.人々に「時間」を与える

2.人々に「場所」を与える

3.人々に「お金」を与える

 

では、「時間」とは何か。

 

これは一種の「暇」のことです。もしもスケジューリングがぎゅうぎゅう詰めで他にするべきことが一杯、なおかつ恋愛やセックスをしている暇ながないのなら、この場合、少子化が起こるであろうと推理できます。

 

次に、「場所」とは何か。

 

これは、一種の「共通法則」のことです。例えば、学校なら、「みんなが勉強する」という共通法則があります。職場なら、「みんなが仕事をする」という共通法則があります。それらは、みんなが勉強するという「場」であり、みんなが仕事をするという「場」でもあります。場所とは、こうした、「共通前提」のことです。一種の「共同幻想」と言ってもいいかもしれません。みんなが、「この場所は勉強するという共通法則を持った場所なんだ」という幻想を抱いていれば、そこには、勉強する、という共通法則が立ち現れます。この場合、恋愛やセックスをする際にきっかけとなるお互いの共通前提、すなわち「場」が不足していると、少子化になると考えることができます。共通前提とは、「コミュニケーションのためのきっかけ」と考えると分かりやすいかもしれません(人はお互の共通前提に立ってコミュニケーションを取っていくかと思います)。

 

では、「お金」とは何か。

 

これは、あらゆる意味での「資本」のことです。あらゆるものが資本であり得ます。衣服は資本ですし、不動産も資本ですし、髪留めも資本ですし、感情も資本ですし、学歴や地位も資本です。ありとあらゆるこの世界のものが資本です。その中で特別、「お金」というものを名指して、日本においてこの言葉を使う場合、それは「日本銀行券」などを指す場合が多いように思われます。つまり、生殖適齢期の人たちの間でこの日本銀行券が不足すると、少子化になると考えることができます。

 

よって、次の三つの対策によって少子化を起こす、あるいは促進することができます。

 

1.人々から暇を奪う(恋愛はある程度余裕がないとできない)

2.人々からコミュニケーションのための場を奪う(人々の間の共通前提を分断する)

3.人々からお金を奪う(金銭の搾取を行う)

 

では、どうすれば、少子化を避け、多子化を起こすことができると予想できるか。単純にはこれらと逆のことをすればいいと推理できます。つまり、

 

1.人々に暇をあたえる

2.人々にコミュニケーションのための場を与える

3.人々にお金を与える

 

しかし、果たして、現実的に人々に、これらの資本を再分配することは可能なのか、という問題があります。

 

みんな忙しいですし、余裕も必ずしもあるものではないかと思います。

 

また、「単純な」労働効率で考えれば、暇を与えず、馬車馬のごとく働いた方が高い可能性もあります。

 

問題となるのは、人間は、「単純ではない」ということでしょうか。

 

単純な労働効率だけでは、なかなか測りがたい部分を人間は持っています。

 

現行の人間の文明が完璧であるわけでもありませんので、全てのパラメータを可視化できるわけでもありません。

 

とても難しい問題かと思います。

 

ただ、子供を産み育てる、という観点から見るに、「余裕」はある程度必要なものかと思います。

 

あんまり忙しすぎると、子育てに支障は来すのではないかな、と思わないでもないです。

 

人間というのはけっこう強いところもあるようで、どんな劣悪な環境にも適応しようと思えば、できてしまうところもあるかと思いますし。

 

たとえ、少子化しても、それは必ずしも悪いことではないのかもしれません(正確に言うと、悪いとは「認識されない」ことなのかもしれません)。

 

さて、対策の概要は以上の通りになるかと思いますが、まだ問題はあります。

それは、これらの施策はできる限りは、上意下達的に政府によって行われるよりも、民衆のそれぞれが自分の力で行うことができる方が望ましいだろう、ということです。なぜなら、あんまり政府に依存し過ぎると、政府が誤りを犯しそうになったとき、それを民衆が修正することができなくなってしまうと考えられるからです。

 

そこで、そうした「個人的な」多子化術は次の三つの分野をもって研究されるのがよい、というふうに考えることができます。

 

1.如何に暇を作り出すか(「暇」生成術)

2.如何にコミュニケーションの機会としての共通法則を作り出すか(「共通」生成術)

3.如何にお金を作り出すか(「金銭」生成術)

 

それぞれの術式の詳細は取りあえずおいておくとして、概括的に簡単に考察してみようと思います。

 

まず、暇とは余裕です。

 

そして、コミュニケーションとは、他者への関心の贈与です。例えば、あなたが相手の人とコミュニケーションを取る、という時、あなたは相手に自分の関心を差し向け、自分の時間や労力を相手のために使っている、つまり、相手に「贈与」しているということを意味します。これは、余裕がなければできません。つまり、コミュニケーションは相手への贈りものなので、その源泉は「余裕」そのものです。

 

金銭とは根本的に突き詰めると「労力」とも考えられます。今回はこの説を採用します。例えば、あなたが労力をかけて一定時間働くとその労力量に応じて、金銭が発生します。そして、労力もまた、コミュニケーションと同じく、「余裕」を消費するものです。つまり、金銭の源泉もまた、「余裕」です。

 

したがって、多子化術とは全般的に、「余裕を如何に作り出すか」という分野の研究項目であると考えられます。

 

つまり、「余裕」が、コミュニケーションを作り出し、金銭を作り出す源泉となると推理できます。

 

さらに推理すると、コミュニケーションや金銭を得る行為をする際には、なるべく余裕のある態度を心がけることはそれなりに有効に作用するのではないかとも、推理できます。

 

以上のように考えるとすれば、「余裕」というのが、子供を生み出す源泉であると、推理することができます。

 

簡潔に述べれば、「余裕がなければ、子供は作れない」。逆に、「余裕があれば、子供を作れる」、という推理です。

 

従って、次の二つのポイントがこの点の考察に有意義に作用すると考えられます。

 

1.何が余裕を奪うのか

2.何が余裕を与えるのか

 

さて、では、まず何が余裕を奪うのか、から考えていきましょう。

 

余裕を奪う原因は主に次の点であると考えられます。

 

1.急がせる

2.拘束する

3.危機感

 

つまり、急げば余裕はなくなり、拘束されると余裕がなくなり、危機感を感じると余裕がなくなるだろう、という推理です。

 

ならば、余裕を与えるにはこれと逆のことをすればいいのではないかと推理できます。したがって、

 

1.ゆったりとする

2.自由にする

3.楽観的になる

 

つまり、ゆったりとできれば、余裕ができ、自由にすると余裕ができ、楽観的になると余裕ができる、というふうに推理します。

 

さらに一つずつ見てみます。

 

ゆったりとするということは、ゆとりを持つことであり、ゆとりとは必要な分以上の余分な時間なり資本などを与えられている状態です。時間はお金の一種とも言え、極めて重要な資本ですから、時間がたっぷりあるということはある種のお金持ちの状態であるとも言えます。余裕はコミュニケーションや金銭の源泉とも考えられましたから、余裕のある人とは、そうしたコミュニケーション上の出会いの源泉、あるいは金のなる木、となり得る可能性を持っているのではないかと、単純には推理できます。

 

自由にすれば、多様なデータを収集する機会に恵まれるので、より正確な判断が可能になると考えられます。逆に、相手を間違わせるためには、自由を奪い、拘束すればよい、というふうにも推理できます。また、自由にすれば、多様な「場所」へと赴くので、多様な共通前提を収集することができ、さまざまな出会いに恵まれる確率をある程度高めることができるであろうとも推理できます。自由にできるということは、ゆとりがあるということですので、コミュニケーションや金銭の源泉となり得る可能性を持っているとも推理できます。要は、「急げば急ぐほど、生活は切迫していく」のではないかという仮説です(この辺りの事情については、ミヒャエルエンデの『モモ』を参照してください)。簡単に言うと、「泣きっ面に蜂」、みたいなことなのかと思います。切迫している場合には、半ば無理矢理にでも、心理面だけでも余裕を持つように努力するというのは一つの手段かも知れません。

 

楽観的にすれば、悲観的に追い詰められることが無くなるので、少なくとも心理面での余裕を持つことができるようになると考えることができます。前記の通り、余裕を持つことは、さまざまな観点から有効性があるとも言え、非常に肝要な点かと思います。また、人はおそらく、基本的には、楽しいことが好きで、悲しいことから楽しいことへと向かおうと動くように思われますので、楽観的にしていれば、悲観的な場合に比べ、人との出会いなどに恵まれやすいと考えることもできます。このように、楽観性は、一つの余裕とゆとりを生みだし、それはコミュニケーションや出会い、ひいては金銭を得る機会などを引きつける機能をある程度有しているのではないかと推理できます。

 

余裕には大きく次の種類があると考えられます。

 

1.社会的余裕(一種の人脈やコミュニケーション機会など)

2.時間的余裕

3.金銭的余裕

 

時間的余裕と金銭的余裕の意味は分かりやすいかと思います。

 

時間的余裕は、あれもこれもとスケジュールを詰め込み過ぎることで失われると考えられます。つまり、「強欲」によって消失する類の余裕です。

 

金銭的余裕も基本的には、「強欲」によって消失します。あれもこれもと購入しているとお金は減っていきます。

 

社会的余裕というのがすこし難しいかと思います。これはどのような余裕なのか。

ここで、「社会」というものを、一種の「場」として考えるのならば、それは何らかの共通法則であるということになります。社会は、共通の「ルール」によって回る、というふうに考えてみます。この場合、社会の決まりから逸脱し過ぎて、あれもこれもと動き回りすぎると、「ルール違反」となり、社会から排除される、つまり、社会という場を消失する、社会的余裕を消失する、というふうに考えることができます。ルール違反は、もっぱら「犯罪」と呼ばれますが、これも、強い欲、「強欲」によっている場合があると推理できます(この点は非常に複雑な構造を持っています。例えば、末端の犯罪実行者は強欲なのではなく生活に切迫しているために、やむなく犯罪を行った、というふうにも考えることができます。この場合、強欲なのは、末端の貧しい人たちを放置し、搾取を行った既得権益であるということになります。いずれにせよ、根本原因自体は、「強欲」であると推理できます)。

 

以上のように、余裕を失わせる根本原因は、「強欲」であるとも考えることができます。

 

つまり、単純には、強欲を脱することができれば、余裕を得ることができ、かえって、コミュニケーション機会や金銭などの余裕を得ることができるかもしれない、という推理を持つことができます。

 

「追えば追うほど遠ざかる」、みたいなことですね。

 

基本的にあまりにも過激に競争しすぎると、身を削ることになります。この構造は、先述の「急げば急ぐほど、生活は切迫する」という構造にとてもよく似ています。

 

これらのことからも、強欲が余裕を奪う根本原因であるのではないかという説は補強されることになります。

 

つまり、強欲をうまく脱することができれば、少子化を改善できる可能性があると推理できます。

 

例えば、人間には次のような欲があります。

 

1.金銭欲

2.地位欲

3.学歴欲

 

こうした欲がある場合には、これらの欲に囚われないようにすることで、かえって、生殖を行いやすくすることができると考えられます。

 

具体的に考えてみます。

 

まず、金銭を強欲に望み過ぎると、生殖や恋愛機会は遠のくと推理できます(「年収1000万でなければ結婚しない」などの強い金銭への欲求が例として挙げられるのではないかと思います)。

 

同じように、地位を強欲に望み過ぎると、生殖や恋愛機会は遠のくと推理できます(「相手がハイソサエティでなければ結婚しない」などの強い地位への欲求が例として挙げられるのではないかと思います)。

 

学歴についてもそうで、そうした欲求を強く望み過ぎると、余裕を消失し、生殖や恋愛機会は遠のくと推理できます(「相手がハーバード大卒でなければ結婚しない」などの強い学歴への欲求が例として挙げられるのではないかと思います)。

 

他にも、「相手が美人でなければ結婚しない」とか、「相手が天才でなければ結婚しない」とか、いろいろな種類の強欲が考えられますが、いかなる欲求にせよ、強欲がその人から余裕ある態度を奪い、少子化の一原因となるというふうに考え得るのではないかと推理できます。

 

さて、問題は山積みであり、まだまだあります。

 

例えば、「結婚すれば生殖するのか?」という問題など。簡単に考えると、強欲がなければ、関心がある程度分散されるのではないかと推定できるので、それに応じてある程度生殖にも関心が分散され、生殖が生じ得るとは考えることはできると思います。この場合も、生殖や恋愛を妨げる原因は「強欲」ではないか、と推理することができます。

 

詳細な部分の議論は山積みですが、概要としてはこんな感じになるかと思います。

 

要は、足るを知るものは富む、ということなのかもしれません。

 

とりあえず、今日のポイントをまとめます。

 

 

1.少子化の原因は「余裕」がないことであると考えることができる

2.余裕がない原因には「強欲」があると考えることができる

3.恋愛などには、「余裕」を持つことが重要であると考えることができる

 

 

P.S.競争について

 

簡潔に、「競争」について触れます。

なぜ、競争が熾烈すぎると、搾取されるのかについて簡単に。

 

例えば、あなたがお金を欲しているとします。

しかし、お金持ちになれる人は基本的に少数です。

 

そこで、その少量のお金持ちのポストを巡って人々は「競争」することになります。

 

この場合、お金持ちのポストを目指す人が多ければ多いほどに、そのポストの価値は上昇します(欲しがる人が増えれば、価値が上がるから)。

 

また、相対的に、ポストの価値が上昇すれば、相対的にそのポストにつけなかった人たちの価値は低下します(つまり、お金持ちになれなかった人からお金持ちの人へと価値が流入することになり、要は「搾取」されます)。このようにして、お金持ちは、人々の「嫉妬心」を刺激し、「競争」をあおることで、効率よく、人々からお金を搾取することができるようになります。

 

つまり、どのようにすれば、搾取を避けることができるかは比較的明白であり、要は「競争しなければいい」と考えることができます。

 

どうすれば、競争せずに済むのか。

 

それは、他人を嫉妬しなければいい、と考えられます。

 

どうすれば嫉妬せずに済むのか。

 

それは、嫉妬心を刺激してくる言動やマーケティング、またはプロパガンダに注意していればよい、と考えられます。

 

なぜ、嫉妬心が刺激されるのか。

 

それは他人と自分を単純に比較するためかもしれません。

 

例えば、「偏差値」などの概念はこれかと思います。

 

偏差値は単純な価値観に基づく競争をあおります。例えば、みんなが東大に行きたいと思えば、東大に価値が集中します。つまり、東大が特権化されます。逆に、みんなが東大を特別視せず、地元の国立大学でも、私立大学でも「満足」だ、というふうに考えるのなら、東大から地元の国立大学や、私立大学に価値が流入し、名誉資本、権力資本の再分配が起こります。要は、民衆の意志がその時代の価値を決定しています。だから、民衆との力というのは絶大なもので、馬鹿にはできませんね。時たま、おかしな方向にその力が発揮される可能性もあるので、注意は必要ですが、みんなの力というのは有効に使うことができれば、非常に善い結果をもたらす可能性があるのではないか、とも思います。このように、「満足」するということは極めて強い武器にもなりえ、それは不満足(現状に不満だから、改善に積極的に乗り出せるという長所もありますね。この世界には一概に善いものや悪いものは大概は存在しないのかもしれません)と同様に、使いようによっては、有効な手段となり得ます。「足るを知る者は富む」ですね。

 

極論で言うなら、「他人と自分を比べなければ、嫉妬しなくてすむ」、というふうにも考えることはできます。嫉妬したくない方は、試してみるのも手かもしれません。

 

「隣の芝生は青く見える」と言って、他人と自分を比べると切がない部分はあります。それらの一見不毛に見える行為にも、有効性がないことはないと思いますが、とりあえず、嫉妬したくない人などは、人と比べないというのが一つの戦略として有効かもしれません。

 

 

おまけ☆

 

恋愛して子供を産み育てるための実践的な思考プロトコルをちょっとだけ考えてみる。

 

1.まず、精神的余裕を持つ(その人なりに焦っていない状態)

2.次に、身体的余裕を持つ(その人なりの健康など)

3.そして、社会的余裕を持つ(コミュニケーションの際の余裕)

4.本当に自分たちに必要なものはなにかを見極める

5.世間から必要だと思いこまされてるものはないかと考える

6.名を取らせて実を取る

7.見栄を張らない、競争しない(競争したほうがやる気の出るタイプの人もいる可能性はある)

8.盛者必衰の理を理解する(ソースティン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』など参照)

9.隣の芝生は青く見える、ということを理解する

10.足るを知る者は富む、ということを理解する

11.自分にとって本当に必要なものを見極めたうえで、パートナーを探してみる

12.自分に与えられたものに満足したうえで、いろいろな人と積極的にお話してみる

13.判断の際には、いかなる世間の情報も鵜呑みにせず、自分で考えてみる

14.自分が欲しいものは、本当に自分が心から望んでいるものだろうか、と考えてみる

15.持っていないものを数えるのではなく、持っているものを数える

16.必ずしも最適な選択でなくても、満足してみる

17.本当に自分の欲しいものはお金だろうか?

18.本当に自分の欲しいものは地位だろうか?

19.本当に自分の欲しいものは学歴だろうか?などなど、具体的にいま一度考えてみる

20.本当に大切なものとは何なのだろうか? と考えてみる

 

とりあえず、そんなふうなことについて考えてみるのも、一興かもしれません。ご興味のおありの方は、気が向いたら試してみてくださいませ。

 

個人的には、この「大切なもの」に当たるものとは、おそらく、「愛」なのかな、と思います。

 

お金がなくても、地位がなくても、学歴がなくても、美人でなくても、料理が上手でなくても、最適な選択をできなくても、完璧な愛でなくても、兎に角「愛」(安全基地)がある程度あれば、一般に人はそれなりにうまく適応していけるものなのかもしれません。

 

具体的な思考の整理法やプロトコルについても考えてみたいのですが、文字数が8000字を超えているので今日はこの辺にしておきます(笑)

 

みなさん、僕の拙い長広舌にお付き合い下さりありがとうございました~

 

 

今日のポイント

 

1.心の余裕を持つと、恋愛や結婚、生殖はうまくいきやすくなるかも

2.心の余裕を持つには、強欲になりすぎないことが大切かも

 

 

組織術

 みなさんこんばんは。

 

 今日は、「組織の作り方」について書きたいと思います。

 

 どのように組織を作るべきか。

 

 まず、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」、と言って何事も度を超すといいことがありません。

 

 組織が団結しすぎるのも、団結しなさすぎて孤立しすぎるのも上手くない。

 状況に応じて、団結の度合は使い分けるのがいいように思います。

 

 強く団結することもあれば、弱く団結することが有効なこともある。

 

 状況は色々です。

 

 では、組織の構築手法について考えていきたいと思います。

 まず、これについて知るためには、「護身術」について知ることが有効かもしれません。

 

 最近は、「共謀罪」などのようななんか怖い言葉を聞きますので、これからどんどん規制は厳しくなってしまったりするのかもしれません。

 

 個人的には恐いので、やめてほしいなと思うのですが(笑)

 

 友達と仲良くしているときに、「共謀罪だ!」とか言われて逮捕とかされたらいやだな、と思って。わかんないですけど(笑)

 

 むずかしい問題ですが。

 

 閑話休題

 

 さて、そういう恐い世の中ですので、まずもって、犯罪レッテルを貼られることに警戒しておくのはある程度有効かもしれません。

 

 そこで必要なのは、「正しくあること」です。

 

 常に「正当性」のあるものごとに批准すること。すると、正当性が大義名分になって、ある程度、あなたの身を守ってくれます(詳しくは、当ブログの「非武装型護身術」などの記事をブログ内検索などからご覧ください)。

 

 では、組織とは何か。

 

 これは、「人と人との団結」です。

 

 団結とは何か。

 

 これは、「絆」です。

 つまり、組織とは人間関係を結ぶことです。

 

 では、人間関係を築くにはどうすればいいのか。

 

 このためには、お互に信頼を築くことができればよい。

 

 では、どのような人を信頼するのか。これについては、当ブログの「信頼できる人の特徴についての分析」という記事をご覧ください。

 

 信頼できる人は色々なことについて考えていて「思慮深い」、という特性を持っています。

 

 つまり、相互信頼を築くためには、お互に、思慮深い人間になることが第一歩です。

 したがって、組織を作りたい人は、まず、自分が思慮深い人間になることが有効であると考えられます。

 

 思慮深い人間になればなるほど、あなたは信頼できる人間であると判定できます。

 

 その為には色々な情報に触れ、いろいろなことを経験し、いろいろなことを考え、分析して、いろいろな情報を所有した、いわば、「情報資産家」になることが有効です。

 

 しかし、世の中には多くの「詐欺」があるものと思います。違法な詐欺から脱法的な詐欺まで色々です。

 だから、みんななかなか人のことを信頼することができず、そのため、組織や仲間を構築できず、分断されてしまいます。

 

 分断されてしまうと、人間は孤独に打ちひしがれる場合もあり、その場合、メンタルヘルスにもよくなく、健康被害や自殺などの行為が生じる場合もあるうえに、人は協力し合うことで力を発揮する社会的動物であるという側面がありますので、人間一人一人の力が団結を極端に阻害されることで、非常に弱くなってしまいます。

 

 例えば、あなたが敵を倒したいと思ったら、敵の組織を分断させること、「分断工作」が有効に作用すると推理できます。

 

 そのため、私たちは、さまざまな詐欺に立ち向かっていくためには、逆説的ですが、「人を信頼すること」を覚える必要があります。人を信頼できなければ、詐欺により搾取され続けるだけです。

 

 しかし、だれかれ信じれば、詐欺にかかってしまうかも知れません。そこで、「本当に信頼できる人」を僕たちは探し当てる必要があります。

 

 簡潔に言えば、そうした人は、「思慮深い人」であることは、前記した通りです。しかし、この指標だけでは大雑把すぎて、まだ騙される可能性が払しょくできず、不安です。

 

 ここでは、騙されないための手法について徹底的に考察してみたいと思います。

 

 まず、ここで、こちらの組織を分断させようとしてくる組織体を想定してみましょう。

 

 そうした組織はどのように行動するか。

 

 こちらの組織を分断させようとして行動してくるはずです。

 

 つまり、人間関係を作らせまいとして、人間の持っている基本的信頼感を奪い、疑心暗鬼に陥らせようとしてきます。

 こうなってしまえば、敵の分断工作は成功してしまい、僕たちは団結力を奪われ、敵への交戦能力を失うことになります。

 

 そうした、分断された組織は、非常にもろくなるでしょう。したがって、例えば、国家という組織を見るなら、その成員の一人一人が、極めて思慮深い人間になることが、そうした分断に対抗する一手段として考えられます。

 

 その為には、思慮深い人間を教育するにはどうすればいいかを、絶えずアップデートしながら、考えていく必要があるでしょう。

 

 このように、「他人を信頼する力」というのは「極めて強い武器」になります。まずは、こうした信頼感を持っていなければ、満足に組織をつくることはできないし、分断工作に対抗することもできません。

 

 思慮深い人について深く考察してみます。

 

 思慮深い人はとにかく様々な可能性について考えます。その行動が時に衝動性にみえることもあるかもしれません。それくらいとにかくべらぼうに様々な可能性を検討します。ときには杞憂もあるくらいかもしれません。

 

 そして、そのうえで、思考が無限であることを知っています。

 思考にキリがないことを知っていると同時に、思考にある程度の実効的機能があることをも知っています。

 

 ものを考える際、単純にというよりも、さまざまな複雑体(コンプレックス)を考えます。

 

 つまり、物事というものが、なかなかシンプルに割り切れない、難しい事情で出来上がっていることを知っており、そのうえで、必要ならば、シンプルな考えを掲示したりもします。

 

 目的や手段についての思考にも通じており、何が目的で何が手段なのかを理解しています。例えば、組織をつくること自体が目的なのではなく、それは手段であって、目的は、大切な人たちを守ることであるということを知っています。もしも、この手段と目的との関係が逆転してしまったら、大変です。本当は大切な人たちを守ることが目的なのに、組織をつくることが目的になってしまったら、組織作りにばかりかまけて、肝心の大切な人たちを救済できなくなってしまいます。これでは、本末転倒です。

 

 さて、なぜ組織を作るのか。

 

 信頼に基づいた組織には、分断工作に対抗するという機能の他にも様々な機能があり、例えば、一緒に「起業」したり、ビジネスをしたりすることもできるし、シェアハウスをすれば、家賃などを極めて効率的に節約することができます。これらは全て、「信頼」のなせる業です。このように、他人を適切に信頼する才能を持っている人は、金銭を節約したり、お金を稼いだりする能力を持つことができます。それくらい、信頼というのは極めて有効な才能になります。

 

 したがって、他人を信頼する人は、とても貴重で、大切にすると、自分にも周り回っていいことがあるであろうと推理することができます。それくらい、信頼感というのは重要な事です。

 

 なので、一つの戦略としては、どんなに裏切られても、他人を基本的に信じる姿勢を崩さない、というのは有効な見識になり得ます。

 

 質の悪い詐欺師にはまると、そこから抜け出せなくなる可能性があるため、リスクはあるのですが、人を全く信頼しないというリスクに比べると、僕の目には低リスクにも見えます。

 

 適切に疑い、適切に信頼することが、重要と考えられます。

 

 そのためには、まず、次のプロセスを行ってみるといいかもしれません。一つの案としてご参考下さい。

 

 1.すべてを疑ってみる

 2.すべてを信じてみる

 

 疑いの段階では、全てを疑い、究極的には、この世界に論理的には絶対のものはない、ということを悟るのに役立ちます。すると、信じる段階に、移行し易くなります。逆説的ですが。なぜなら、全てのものが疑わしいからこそ、「全てのものが疑わしい」という論理的事実すらも「疑わしい」ということになるからです。

 

 この論理に至ることができれば、言わば、「無条件の信頼感」をつちかうことができる可能性があると思います。なぜなら、「全てのものが疑わしいにもかかわらず、それでも人を信じる能力」がこの無条件の信頼感だからです。

 

 「信頼」は極めて強力な武器ですので、有効に使いたいところではあります。

 

 さて、では、基本的信頼感を会得したら、次は何を為すべきか。

 

 先ずは、自分がもっとも思慮深いと思う人を見つけて、その人を試しに、信頼してみることです。

 

 そして、相手の「善意」を「信頼」して、相手に「接触」してみることです。

 

 ブログならコメントでもいいし、メッセージ機能を利用してもいいでしょう。

 

 相手に声をかけるというのでも構いません。とにかく接触ならネットでも現実でもなんでもよいです。

 

 なぜこれが有効なのか。

 

 それは、前記の通り、信頼にはお金を稼ぐ効力があり、また孤独を融和することで健康を向上させる効果が想定でき、さらに敵対者にたいする防衛手段ともなる機能があり、きわめて重要だからです。

 

 したがって、投資としては、裏切られる可能性を過度に想定するよりも、相手をある程度信頼して、「この人は思慮深いので、きっと私を無下にはしないだろう」という想定の下に接触したほうが、そのコミュニケーションがうまくいくかどうかにかかわらず、全体として利率が高いであろうとも推理できるからです。

 

 信頼する方法については、そのうち、「信頼術」としてブログに書くかも知れません。信頼は極めて強力なツールです。みなさんも気が向きましたら、ぜひ、思慮深い人を信頼してみてくださいませ。

 

 まず、詐欺にかからない方法を検証してみます。

 

 これは、簡単かと思います。

 

 1.そもそもお金を要求してこない

 2.そもそも見返りを要求してこない

 3.そもそも意見を強制してこない

 

 これらの条件を満たしていれば、まず、返報自体を要求していないので、原理的には詐欺には合わない可能性がそれなりに高いと推理できます。

 

 これをより、厳密に整理すれば、

 

 1.あなたに対し見返りを求めない

 2.あなたに対しコントロール欲求がない

 

 となります。

 

 つまり、非常に素朴には、見返りを求めず、コントロールしようとしない人、つまり、あなたの自由を極力尊重してくれる人が信頼出来る人であると考えられます。

 

 簡単に言えば、他人を束縛しようとしない人です。

 無論程度問題ではありますが。

 完璧に束縛がないというのも、なんか悲しい気がしませんか?(笑) 愛がないような(笑) その辺は好みかもしれませんね。

 

 つまり、究極的には、信頼出来る人とは、

 

 あなたに純粋に贈与してくれる人であると考えることができます。

 

 逆説的ですが(今日逆説的な事しか言ってないですが(笑))、「見返りを求めない人に対し、見返りを与えるのが有効」、ということです。

 

 贈与するものは何でもいいです。

 

 情報でもいいし、にんじんでも、それこそ人間関係でもいい。

 

 とにかく相手のために何かをすること。

 そうした人ほど、信頼に値する、と単純には推理できます。

 

 先ほど、接触の話をしましたが、接触についてもこれと同じことが言えます。

 

 「自分から接触するほど、勇気がいるので、自分から接触を行うことは、相手に人間関係を贈与すること」になります。

 

 みなさん、せっかく話しかけても、拒絶されたら傷つきませんか?

 

 誘われる側の方が立場が強くなっちゃいますよね。誘う側よりも。

 

 だから、誘うのって、自分を不利におくことで、とても大変だと思うのです。

 

 だからこそ、その不利な立場を甘んじて受け入れて上げることが、あなたの器の広さを示し、また相手を慮ることになります。

 

 したがって、理想的には、自分から声をかけていくこと、接触していくことが有効

です。

 

 拒絶されるのは怖いです。僕もですよ(笑)

 

 でも、せっかく目の前に信頼できるかもしれない、貴重な人がいるのに、それに声をかけないというのはいささかもったいないような気もします。

 

 自分で自分のチャンスを潰しているような。

 

 ポイントは、「ほんの少しの勇気」です。

 

 自分から声をかけること。積極性。

 

 迷惑がられるかもしれないし、拒絶されるかもしれませんが、しかし、信頼できる人は、少なくともあなたに暴力を振るったり、詐欺をしたり、傷つけたりはしないはずです。

 

 だから、相手が素敵な人だとか、信頼できる人だとか思ったのなら、なるべくなら、相手を「信頼」して、自分から声をかけていくのがいいと思います。

 

 とても勇気のいることですが、だからこそ、その勇気ある行為に、希少価値も生じるため、経済合理性もあります。

 

 そのように、「自分から積極的に相手を信頼し、他人に声をかけていく」ことにより、組織は形づくられて生きます。

 

 そうして、信頼関係によって出来上がった組織は、生産性や防衛性を生み出し、僕たちのことを守ってくれると考えられます。

 

 だから、みなさん、思慮深い人なり、素敵な人なり、見返りを求めない人なり、魅力的な人なり、優しい人なりが、いましたら、ぜひ、積極的に自分から声をかけてみるのがいいかもしれません。

 

 信頼とは、非常に大切な人間の技能だと思います。

 

 信頼という技法に卓越することで、人は有効にお金を稼いだり、自分の身を守ったりすることができます。

 

 さて、では、詐欺師が、この記事の考察を読んだ際に、どのようにあなたをだまそうとするかを想定しておきます(その方がみなさん安心でしょうので)。

 

 まず、「利他的なふり」をしてくるでしょう。つまり、「見返りを求めないフリ」です。したがって、最終的には尻尾を出すように、見返りを求めてくるはずです。ですので、尻尾が出るまで「待って」みましょう。

 

 完璧に純粋に利他的、というのもまた、難しい話になりますし、完璧に利己的でない人もいないかもしれませんので、その辺は難しいです。

 

 したがって、これは程度問題になります。

 

 少なくとも言えるのは、見返りを求めるのを我慢できないほど、その人は信頼しづらいのではないか、という仮説です。

 

 したがって、これを見るには、「待つこと」が有効です。判断に時間をかけ、ゆっくり吟味すること。

 

 先ずは接触してみて、相手のデータを収集してみるのも有効だと思います。そのうえで、相手の思慮深さを計測していく。

 

 例えば、次のようなプロトコルが考えられます。

 

 1.三日ほど観察してみる。

 2.声をかけてみる。

 3.いろいろと無作為に話して、相手のデータを収集する。

 4.声をかけた際に見返りを求めるかどうかを観察する(気前よくあなたに応じてくれるかどうか。あるいはあなたと話すことにメリットを過度に要求するかどうか。見知らぬ人の声掛けに反応しないのは「いわゆる普通」のことではあるかもしれない。しかし、もしも見返りを求める傾向が少ないならば、あなたにある程度は時間を気前よく割いてくれる確率が高いと推理できる。「陰口」の有無なども参考になる。表面上気前よく見えても、声をかけたあなたに陰口を言っているのならば、その人はあなたに割いた時間を快く思っていないと推理でき、つまり、程度問題にせよ、見返りを求める傾向が強いと推理できる)。

 5.まずはできるだけ目的なく対話してみる(目的ない対話をカットするならば、その人はあなたとの対話に見返りを求めている。したがって、程度問題として、思慮深い人ではなく、信頼できない可能性が高い)。

 

 などなど。

 

 色々と考えられます。

 

 もしも、相手が見返りを求めない人であれば、それは、信頼感を持った人であるということになり、あなたが思慮深い人であれば、あなたのことを信頼してくれるでしょう。

 

 さて、今日のポイントをまとめてみましょう。

 

 

 今日のまとめ

 

 1.組織を作るにはまず、自分が信頼できる人になることが大切。

 2.信頼できそうな人がいたら、まずは、自分から相手を信頼して、自分から接触してみる。

 3.相手に接触するのはとても勇気のいること。だから、そこに希少価値が生じる。

 4.そのようにして、信頼の輪を積極的に広げることで、組織はできていく。

 5.組織には経済的な価値や防衛的な価値がある。

 6.組織は適切に機能すれば、あなたのことをある程度守ってくれる。

 7.あなたを弱体化させるために、「分断工作」を用いるのは敵にとって有効な戦略である。

 8.だから、分断工作に備えて、「他人を信頼する才能」を身につけることが大切。他人を信頼できるのは一つの優れた才能。

 9.基本的信頼感が育っている人は、思慮深くなるので、いろいろなことを知っているかも。結果、いろいろと能力が高い可能性も高い(情報資産家)。

 10.気になる人がいたら、まず相手の善意を「信頼」して、声掛けしてみるのは有効。ただし、相手の善意を無下にはしないこと。応じてくれたら精一杯相手を楽しませてあげること。

気になっていた女の子

 ずっと桜の花びらが散っているのを見ていると、自分の心まで散っていくような気がします。どうして、このような感覚になるのでしょうね。不思議です。さて、今日は何のお話をしようか決めていないのですが、散漫に散文を書いていこうかと思います。散漫術です、というかエッセイのようなものです。最近は色々な本を読んだりとかしていて、そのせいで少し忙しめです。読みたい本というものが、世間にはたくさんあって、本当に大変です。今日は改行すくなめにしてみます。そして、「開業」のことについて考えます。「何か開業したい!」というどこからともなくやってくる欲望が僕にはあって、しかし、何を開業したいのか今一つ定まっていないという体たらくなのです☆ 「いいんだ、それでもいいんだ!」と自分に言い聞かせながら日々を送りつつ、いろいろと勉強しています。経済関連の本を読むことが多いかもしれません。そのうち、生成文法の本を読まないといけないな、と思っていて。生成文法が現在トレンディーなのです。僕のトレンドは、常に変転し続けていて、それこそ、世間の流行並みに変転し続けていて、自分でもついていくのがたいへんです。マジで。なんというべきか、こうして、改行せずに文章を書くというのも乙なものですね。ぎっしり詰まっていると、読みたくなくなる人がけっこういらっしゃるかもしれませんが(笑) しかし、自分で書いている分には、思考が止まらなくて気持いい感じ。改行しすぎると、流れが無くなって、今一つ書いていて気持ちよくないんですよね。たいへんです。そんな大変でもないか。

 僕には好きなお菓子がたくさんあるのですが、みなさんはどんなお菓子がお好きなのでしょうね? 男女平等なお菓子でしょうか? それとも男女差別なお菓子でしょうか? 世の中には色々なお菓子があります。そして、お菓子のお菓子性というのはとどのつまり、無駄性であって、それ以外ではないのではないかと思うこともあります。しかし、お菓子はけっこうおいしいですよね。きっと身体がそれを欲しているということはある程度大切なのだろうという気がします。

 お菓子やお酒やたばこは嗜好品として消費されるものですが、しかし、そうした「嗜好品」という概念にも色々なものがつまりに詰まっていて、それこそ廣松渉の本くらいいっぱい色々な概念が詰まっているのかもしれません(別に廣松渉でなくても一向にかまわないのですが。しかし、今の僕のトレンディーが廣松渉だったようです。ふしぎです)。

 共同的な主観の軸で、お菓子について考えてみるとこれはこれはおもしろいことになります。

 お菓子の一つ一つに主観があって、そのお菓子が林立している。いろいろなお菓子的な主観が林立していて、そこに共同性がある?

 ほう……

 ほう( ^ω^)・・・

 一体どんな共同性があるのかとても気になります。お菓子は一つ一つ別個の個別なお菓子なのであって、それ以外ではないのではないかと思うのです。僕はそう思います。これは僕の主観ですが。つまり、僕のお菓子がそう告げているのです。そう、僕の中のお菓子が。

 しかし、お菓子を食べていると様々な快楽があるのですが、これは世の中にはさまざまなアーティストがいるということと関連しているのかもしれません。そして、さまざまな詐術もあります。みなさんもお気を付けくださいませ。詐術は怖いものです。僕たちの生活というのはもっぱら詐術的お菓子にまみれているもの、なのかもしれません。詐術的お菓子の代表格は覚せい剤かもしれません。依存症も。セックス依存症とか。たいへんですね。セックスに依存するとか、お前どんだけセックスしたんだって話ですけど。なかなかに世知辛いことです。 

 ビルゲイツが機械に税金をかけるべきみたいなことを言っていた、みたいな記事をどこかで見かけた、気がしないでもない、みたいな、気がしないでもない、みたいな気がします。

 そして、ここで、ドゥルーズの出番なのです。つまり、リゾーム。根はモジャモジャです。この文章みたいに。

 そして、ここで、私はドゥルーズになりきりたくなってきます。しかし、到底そんなことはできません。才能の量に雲泥の差があります。大変です。

 才能の差というのは時間の差なのかもしれません。時間の量の差。つまり、余暇の量が、いろいろなものを良い方向にもっていく気がします。すると、ベーシックインカムとか導入すると、みんなの余暇が増えてウハウハになるのではないかという気がするのです。なぜ、「ウハウハ」かっていうと、だって、暇な人が増えると、ナンパがしやすくなるじゃないですか。これは楽しいですよ。みんな忙しそうだと、なかなかどうして、時間を取ってもらうのがたいへんというか、申しわけない気もします。現代人はみんなあくせくしていますからね。だから、こんな時代にこそ、僕は、「暇」の大切さを説きたい!! 心の底からそう思います。そう暇は大切。大切です。これは真理です。いま、僕が創った真理。僕は神のようです(どやっ)嘘です。ごめんなさい。恥ずかしいことを書いてしまいました。しかし、僕は統合失調症を患っているというふうな側面もないことはないですので、その辺は一種の誇大妄想として許していただきたい。僕の溢れ出るリビドーこと、溢れ出る妄想的文章はこうしてどこまでもどこまでもとめどなく流れ続けるのです。すべてのものが流れていきます。すべて妄想となって。何もかも流れていくのに、そこに何かの形が残って見えるのってすごく不思議。なんでなんでしょう? これは僕が思うに、ナンパの問題に深くかかわっているのです(どんだけナンパの話好きなんだ? とか言わないでね☆ 僕もこの文章けっこう恥ずかしいんですから(笑))。直観で書いた文章ですからね。そりゃ、ナンパとリビドーは関係してきますし、妄想とリビドーは関係してくると思いますよ。そして、こうした、リビドーの強さが、とてもナンパにおいて大切なのではないかという気がしないでもない。疲れてくると、欲望とか減退してくる気がして。ある意味で、正しく欲望を持てるというのは、一種の幸運であり、殺菌作用であり、清潔的芸術ではあると思うのですが、それはそれとして。――さて、ヘーゲルならなんというでしょうね。弁証法で何とかするのでしょうか。どのようにナンパと欲望を「アウフヘーベン」するのでしょうか。とても気になります。ヘーゲルに会ったら、ぜひ聞いてみたい。カントのごとく、超自然的ともいえる仕方で、分析判断と総合判断を分離させるというのも手だとは思うのですが、なかなかどうして、僕程度の才能では、そこまで気が回らないのです。

 総合判断で、ナンパできたら素敵ですね。何の脈絡もなく、ベッドイン☆ ほお。これはすばらしい。それにしても、僕はいったい、何の話がしたいのかについてそろそろみなさん気になってきたかもしれません。それはですね。「気になっていた女の子」ということについて僕は語りたいのです。どういうことだと思いますか? 十秒待ちますので、考えてみてください。善かったらね。強制はしません。

 

 ハイ、十秒経ちました。みなさん、何をどのようにお考えになりましたでしょうか。さて、まず、ポイントをまとめますよ。

 

1.ナンパ

2.欲望

3.アウフヘーベン

 

 そう。ナンパと欲望をどのようにアウフヘーベンするのか。

 欲望がたぎりすぎると、女性の方ドン引きしてしまうやも。例えば、このような文章などは、極めて「キモい」文章であることは間違いないでしょう。できれば、そのキモさにファブリーズを施して、なんとか脱臭できないかという気もしないでもないのですが、如何せん臭いものは臭い。臭いものには蓋をするに限り、それというのも、みんな「成長」したくないからなのです。みんな「アウフヘーベンなんてしたくない」。僕はそう思います。

 なぜ、統一しなければならない? 主体? 統一? では、その主体から除外された人はどう過ごせばいいのやら。やれやれ、としか言いようがない。

 主体について語りだすと、止まりませんので、やめておきます。

 そして、主体という言葉も、これもまた面倒臭い言葉で、言語化が難しいどころか、不可能なものに仕立て上げる哲学者もいる始末。やれやれです。本当に。

 つまり、ここにおいて、ナンパと欲望は分離されております。ならば、アウフヘーベンはされない。すると、ナンパと欲望は対立項目ということになるのか。おそらく、そうはならない。全ては余暇の問題、つまり、「暇」の問題なのです。そもそもある程度の余裕がなければ、何かを欲望できない。馬車馬のようにくるくるくるくる資本的に回転するだけです。そうして、どんどんどんどん搾取されて、挙句の果てに、この文章のようにキモくなってしまうのです。やれやれです。そして、この文章の生みの親たる僕は、その自分のキモさに終始辟易してすごしていかなければならないのです。やれやれです。これもまた、ひとつの不幸としては一種の機能、有効性を持っているともいえるかもしれません。僕は不幸が大好きです。嘘です。嫌いです。幸せになりたい。

 しかし、それはとても難しいことです。それこそ、大好きなものに対し、大嫌いだなんて言ってしまうくらいにそうなのです。

 人間の心というものは日々こうした反動形成に曝されているのであって、なかなかに思うようにならないものです。

 すると、性欲が主体なのでしょうか? この文章の主題は性欲なのでしょうか? おそらくそうはならない。なぜなら、性欲と主体は「分離」されているからです。この事実は重要かと思います。

 実は、今日の隠れた目的は、徹底的にキモい文章を書いてみようということなのです。これは、キモいとは何か、ということを確認するための、ひとつの実験です。実験は大切。何度でも実験したい。

 百回くらい実験すれば、なんとかなるかもしれない。それがダメでも、百一回目がある、というふうに生きております。希望の無限連鎖。きりがない。希望は無限。絶望も無限。本当にきりがない。どうしようもないな、と思う今日この頃です。しかし、無限というものもそれほど悪いものではないのかもしれません。それらは目に見えずとも、不死の魂でもって、僕らの動向を見守ってくれている、のかもしれません。そう考えると、この文章も多少、ロマンチックになるかな、という希望的観測を持っています。以上です。

 とどのつまり、気になっていた女の子とは、一種の男にとって無限以外の何物ではない、ということに尽きるのかもしれません。やれやれ。

「信頼できる人の特徴」についての分析

みなさん、こんばんは。

 

今日は「信頼」とは何か? そして、「信頼できる人はどのような特徴を持っているか」について考えてみたいと思います。

 

さて、では、信頼とは何でしょうか?

 

これは、「正しく助けてくれるものとして疑わない」ことです。

誰かを信頼した場合、その誰かが自分を正しく助けてくれるものとして疑わない、ということ。

 

つまり、信頼の成立要件のポイントは三つ。

 

1.正しい

2.助けてくれる

3.疑わない

 

つまり、信頼できる人とは、

 

1.正しい人

2.助けてくれる人

3.疑わなくて済む人

 

のことであると考えることができます。

 

一つずつ見ていきます。

 

まず、正しい人は、「多様な情報を大量に論理的に保持」しているでしょう(当ブログの正義術など気が向いたらご参照ください)。

 

では、助けてくれる人はどのような特徴を持っているでしょうか?

大きくは次の三つの特徴を持っているでしょう。

 

1.寛容である

2.誠実である

3.優しい

 

 まず、寛容でなければ、困っている人を助けようとはせずどちらかと言えば見捨てるでしょう。

 それに、誠実でなければ、立場の弱い人や困っている人のことをだましたり、搾取したりするでしょう。

 そして、優しくなければ、わざわざ自分の身を削ってまで、人を助けようとは思わないでしょう。

 つまり、あなたを助けてくれる人は、「寛容」で「誠実」で「優しい」というふうに考えることできます。

 

 さて、「疑わなくても済む人」とはどのような人か。

 

 まず、「疑う」とはどういう意味なのでしょうか?

 これは、「本当かどうか不安に感じること」です。

 

 つまり、相手があなたに対し「嘘」を言っている可能性がある場合、こうした不安が生じます。

 

 では、嘘とは何か?

 これは、「正しくないこと」です。

 

 つまり、「疑わなくても済む人」とは、「正しい人」のことであるというふうに考えることができます。

 

 以上のことから、信頼できる人はまとめて、次の六つの特徴を持っていると考えることもできます。

 

1.多様な情報を保持している

2.大量の情報を保持している

3.論理的な情報を保持している

4.寛容である

5.誠実である

6.優しい

 

 さて、これらの特徴をさらに分析してみましょう。

 

 まず、「寛容」でなければ、自分とは違うものを受け入れることはしないでしょう。したがって、寛容でなければ、多様な情報や大量の情報は保持しないと考えられます。

 次に、「誠実」でなければ、自分に都合のいいものにだけ肩入れするので、所持している情報に偏りや偏見が生じるでしょう。つまり、多様な情報ではなく偏った情報を所持することになってしまう。

 そして、「優しく」なければ、間違った論理を平気で人に押し付けてしまうでしょう。つまり、人が間違ったことをして損をするのを平気で見ていることができてしまう。

 

 つまり、

 

1.多様な情報を所持している

2.大量の情報を所持している

3.論理的な情報を所持している

 

 ことと、

 

1.寛容である

2.誠実である

3.優しい

 

 こととは、同じことであると考えることができます。

 

 つまり、信頼できる人とは、「寛容」で「誠実」で「優しい」人のことであると考えることができます。

 

 さらに分析します。

 

 まず、「寛容」であれば「優しい」でしょう。「優し」ければ「誠実」でしょう。「誠実」なら「寛容」でしょう。

 

 よって、次のことが言えます。

 

 寛容=優しい=誠実

 

 以上のことより、「信頼できる人とは誠実な人のこと」、であると推理することができます。

 

 また、信頼できる人には、次のようなメリットがあると、これらの帰結から考えることができます。

 

1.正しい有利な情報が得られる

2.こちらが正しいふるまいを日頃から心がけていれば、いざという時に助けてもらえる

3.詐欺にあわなくて済む

 

 したがって、有利な情報が欲しかったり、困ったときに助けてもらいたかったり、詐欺にあいたくなかったりする人は、極力、誠実な人とお付き合いするのもひとつの手かもしれません。

 

 誠実な人には、このようにかなり有利なメリットがありますので、みなさん誠実な方を見かけましたら、大切にしてあげてください(笑)きっとあなたが困った時に助けてくれると思います。

 

 では、次に、「信頼できる人の具体的な見分け方」について考えてみましょう。

 

 まず、信頼できる人とは、誠実な人のことでした。

 

 したがって、この誠実さを測定することができれば、その人が信頼できる人か否かをある程度見きわめることができると考えられます。

 

 さて、ここで例の式を思い出してみます。

 

 寛容=優しい=誠実

 

 この式を利用しましょう。

 

 つまり、誠実な人とは、寛容で優しい人のことです。

 

 まず、寛容さを測ってみましょう。

 

 これを行うには、相手の懐の深さを測ってみます。

 つまり、相手の予想外のことをしてみて、それで相手がどの程度パニックを起こすかどうかを調べてみるなどの手法が考えられます。

 もしも、あなたが予想外のことをした結果、相手がパニックを簡単に起こすようでしたら、その人はあまり寛容ではないのかもしれません。

 逆に、パニックを起こさず、あるいはパニックを乗り越えて、あなたに向き合ってくるようでしたら、その人は寛容な人である可能性が高いであろうと推理することができます。

 

 次に優しさを測ってみましょう。

 

 これを行うには、相手の思いやりの深さを測ってみます。

 つまり、「思慮の深さ」を見てみればよい。

 相手が思慮深いほど、その人は優しい可能性が高くなります。逆に、思慮が浅いのであれば、その人はあまり優しい人ではないのかもしれません。

 

 よって、相手が信頼できる人であるかどうかを見るには、次の二つの項目について測定してみればよいと考えられます。

 

1.パニックの起こしやすさ

2.思慮深さ

 

 パニックを起こしやすいほどその人は信頼しづらく、思慮が浅いほどその人は信頼しづらい、というふうに推理することができます。

 

 つまり、信頼できるパートナーを見つけたい場合には、パニックを起こしづらく、思慮深い人を探せばよいということになります(完璧にパニックを起こさない人というのはおそらくいないかもしれませんが(笑)これは程度問題ですね)。

 

 しかし、こうした人は、おそらくなかなか目立ちづらいので、なかなか見つけるのは大変かもしれません。「深い川は静かに流れる」というふうなことわざもありますね。

 

 逆に言えば、そういう優良な人は結構見つけづらかったりしますので、うまく出会うことができて、あなたが相応に正しい行いをしていれば、仲良くなるのにはさほど苦労しないかもしれません。何せ、相手は寛容で優しく誠実な人なわけですから。

 

 また、「残り物には福がある」とも言って、善いものというのはけっこう見つけづらかったりしますので、みんなが取りこぼしていることもよくあるようです。そんなわけですので、遠慮深い人思慮深い人に回ってくる「残り物」の中に、意外に善いものが回ってくるようにできているようです。ですので、残り物というのはそんなに悪いものではないのでしょうね。世間では、「売れ残り」などというふうな自虐も存在するようですが、そんな人も、残り物の中にある「福」である可能性が高いと思いますので、あまり卑下なさることはないと思います。優れたものが必ず評価されるわけでもありませんね。

 

 我先に、と人を出し抜くよりも、優しい誠実な人になった方が、結果的に得をしやすいのかもしれません。

 

 誠実な人に出会いたい場合には、まずは自分が誠実な人になるのがいいのかもしれませんね。「お金のため」、とか「肩書のため」、とか「体目当て」、とかじゃなく。誠実に真心で人と向き合うことができたら、それが理想と言えば、理想なのでしょうね。極めて難しいですが(笑)難しいからこそ、「希少価値」があるということもありますね。「誠実な愛」というのは、この世界で最も希少価値の高いものであるかと思います。

 

 僕もがんばって、極力誠実であれるようには頑張りますが、なかなかに世知辛い世の中ですからね。

 

 人生の荒波にもまれて、結構性格歪んじゃってるかも(笑)

 

 みなさんは、僕みたいに性格歪んだ人間になっちゃだめだぞ☆

 

 ぜひ、誠実な人間になって、誠実な人と結ばれてくださいませ~♪

 

 

P.S.とは言え、不誠実な人も場合によっては魅力的ではありますよね(笑) ダークな魅力とかあるじゃないですか。そんな感じ。

できれば、誠実な人と不誠実な人を両取りしていきたい気も(笑)

いけないいけない……

  

あんまり欲張りになると罰が当たりますね(笑)

 

誠実な人が好きな方は誠実な人と、不誠実な人が好きな方は不誠実な人と、結ばれるのが一番いいのかもしれませんね。

 

 

今日のポイント

 

1.信頼できる人はパニックを起こしづらい

2.信頼できる人は思慮深い