魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

情報戦術の概略

 今日は情報戦についてすごく簡単に書こうと思います。情報戦とは情報に関する戦いのことです。

 

 例えば、Aという人とBという人が敵同士であると仮定します。この時、Aの人がBの人の頭の中を混乱に陥れることができれば、AとBの戦闘はAに有利になります。つまり、敵に対し情報を用いて、混乱の状態を起こすことができれば、自身の形勢を有利な方向に持っていくことができます。

 

 こうした、形勢を自分に有利な方向に持っていこうとする利己的主体はこの世界にいくつか存在するものと思われます。世界は単純な利己性だけで回っているとは言い難いところがありますが、かなり多くのことを利己的な主体を想定することで記述することも可能です。もしかすると正しさではなくて損得勘定で動く人達が増加しているのかもしれません。その点の詳しい事情については専門家に譲るとして……

 

 さて、情報戦のお話です。情報戦は様々な領域で起こります。政治的な局面で起こることもありますし、軍事的な局面で起こることも、経済的な局面で起こることもあります。

 

 選挙活動などは政治的な情報戦の例でしょうし、敵国に対する諜報活動などは軍事的な情報戦と言えるでしょう。もう少し僕たちに身近な局面で言えば、銀行強盗とか詐欺とかあるいはマーケティング領域における顧客の取り合いとか、色々な情報戦が考えられます。

 

 今回は、どちらかと言えば、僕たちに身近な存在であると言える、経済活動における情報戦について書いてみましょう。うまく書けるかな(笑)

 

 経済活動の情報戦が、単純に利己的な経済的主体によって行われるとすれば、また、その人たちが創造を行わず、既存のリソースを奪い合う類の主体であるとすれば、この時、その主体は、「より悪いものをより良いものに見せかける」ことを目指すと考えられるでしょう。

 

 なぜなら、創造を行わずに、既存のリソースを奪い合うのならば、基本的にリソースの増加は生じないので、自分が得するための経済活動を行うためには、自分以外の他者を悪い商品の方に誘導することで、自分が良い商品を確保する必要が生じるからです。

 

この時、この単純に利己的な経済的主体は、次のことを行うでしょう。

 

1.善いものに悪評を流す

2.悪いものを他人に提供する

3.善いものを自分が独占する

 

 つまり、善いものに悪評を流したり、悪いものを他人に提供したり、善いものを自分達だけが独占している場合、この時、その利己的な経済的主体はある種の情報戦を行っていると考えられます。

 

 それはどのような情報戦でしょうか?

 

 非常に一般的に述べれば、生存競争における情報戦でしょう。つまり、自分が生き残るために、こうした情報戦が行われると考えることができます。

 

 人間のこうした利己的な傾向を完全に相殺し切ることはとても難しいものなのかもしれません。そもそも、ある程度の利己性を持つことができなければ、自分に利する行為自体を取りづらくなってしまうので、結果的に、そうした非利己的な人間は生き残ることが難しくなってしまう可能性もあります。

 

 では、僕達はこうした情報戦の満ち満ちた環境においてどのような方策を講じるべきでしょうか。次のことが有効であると言えます。

 

1.利他的な人を助ける

2.利他的な人に善いものを提供する

3.利他的な人を利己的な人から守る

 

利他的な人を助ければ、善いものに対する悪評を相殺できます。利他的な人に善いものを提供すれば、利他的な人はより善くなり、そのより善くなった利他性は広く社会に波及していくと考えられます。利他的な人を利己的な人から守れば利他的な人を確保していき、利他的な人をうまく確保し、その力を適切に運用できれば、より利他的傾向の波及を見込むことができます。

 

 

P.S.なお、真の利己性と真の利他性は相反しない可能性があります。なぜなら、真に利己的ならば人間が一人では生きていけないことを踏まえて、利他的な振舞を為すであろうから。逆に真に利他的ならば自分が生き残っていなければ仲間を助けられないことを踏まえて、利己的な振舞を為すであろうから。

 

 また、「真偽」という問題も、これまた一大問題ですね(笑) 真に真なのならそれは偽でしょう。なぜなら、真とは一種の矛盾であり仏教的な「空」であるから。そして、真に偽なのならそれは真でしょう。なぜなら、偽とは一種の矛盾であり、ならばそれは一種の仏教的な「空」であろうから。真偽とは陰陽のようなものなのかもしれません。どちらかが欠けると、どちらかが欠けてしまうような何か。不思議です。

 

 

 少し情報戦術を応用してみましょう。

 

 ネットにおいてAがBの悪口を言っている。また、AもBも商売をしている。Aは利己的であり、Bは利他的であるとする。

 

 この時、Aはどのような手を打ってくるか?

 

 まず、Bの持つ美質をなかったものとし、細かな揚げ足を大量にとってくるでしょう。その上で、自分の持つ悪いものの価値を喧伝し、悪いものを人々に提供することで、儲けようとするでしょう。そして、善いものを見つければ、その善いものの価値を人々に伝えず、単純に利己的な理由でもってそれらの善なるものを独占するでしょう。

 

 では、これに対し、Bはどのような手を打つべきか?

 

 まず、自身や利他的な仲間の持つ美質を正確に把握する。次に、粗悪品の提供者を把握した上で、その粗悪品の悪い点を正確に把握および、批判する。そして、善いものを得た場合、それらを仲間と積極的に共有する。最後に、単純に利己的な人たちに利他的な行動傾向の価値を説くことで、利他的な共同体へと誘導する。そこからは心理学的な「シェイピング」を行っていくことで、単純な偽の状態から真の偽の状態へと誘導する。そして、その誘導された人が真の生き方も偽の生き方も偏りなく知り、正しい判断を下せるようになった時点で、後はその人たちがどのような人生を選ぶかを自由に自己選択してもらう。なお、これらの情報戦下にあっても、極力、攻撃や牽制、強制は行わないことが大切。どうしても必要な場合にのみ、正当防衛としてのみ、攻撃や牽制および強制という行動は取られる可能性もある。

 

 大体、こんな感じです。

The reflecting tier who is creating the euphonious future

この世界には何もないと私は思った。まったくネガティブな意味ではなく、単に「無」なのだ。

しかしこの世界には何かがあった。

それが何なのかは今一つ私にもわからなかった。

私の友人のツクツクボウシが言った。

「君は何かにつけて考えすぎる。そういうのって本当によくないと思うね。うん。本当にね」

そう言って、ツクツクボウシはブイサインをした。(^^)v

 

ツクツクボウシは数学が得意だった。私とは違う学校に通っていて、そもそも私が住んでいる場所からは遠い所からやって来た人だった。

店でコーヒーを飲んでいる時に知り合った。

たまたま同じ喫茶店で同じ時間に同じ本を読んでいたことも手伝って、私たちは存外すんなりと打ち解けることができた。

ツクツクボウシは数学の呪文を唱えるのが得意だった(私には何かの魔法の呪文に聞こえた)。

私はツクツクボウシほどには数学に卓越しているわけではなかった。ツクツクボウシの見識の広さには目を見張るものがあった。しかも、その知見の数々はかなりの洞察眼に支えられていると見えて、鋭いことこの上なかった。私も心をグサリグサリと何度も抉られる羽目になった。

ツクツクボウシは最初の頃こそ表面的な話しかしなかったが、徐々に少しずつ話の幅や深みが増してきて、それはそれで面白い話の数々だった。

ツクツクボウシは蝉なので、空を飛ぶことができる。ツクツクボウシの話はまさに空を自在に飛び回る類のものだった。そして時々木にとまって休む。ツクツクボウシはそういう蝉だった。

一方で私は蟻なのでどちらかと言えば地を這う類の生命体だった。そしてどちらかと言えば、組織に埋め込まれている――あるいは埋め込まれざるを得ない――そういう類の生物。

ツクツクボウシはある時、出し抜けに言った。

「一緒に世界を救おう!」

私にはツクツクボウシが一体何が言いたいのかわからなかった。

「世界って何?」

と私は反射的に返答した。

「世界は世界だよ!」

ツクツクボウシは言う。

しかし、まずもって言うまでもないことなのだけど、私には世界を救うだなんてそんな大それたことを成し遂げる度量などあるはずもなかった。私は小さな一匹の蟻で、どうしたってツクツクボウシのよう空を飛んだり、高い高い木々にとまり歩いたりすることなんてできなかった。木を登ることはできたけど、それは一歩一歩と歩みを着実に進めていくことでやっとできることだった。人間に踏み潰されてしまえば一巻の終わりである。それでも蟻である私には基本的に地を這う以外の選択肢はなかった。蟻なので、人権もなかった。

「世界が世界なのはわかったよ。でも私には世界って全然わからないよ」と私は言った。

「大丈夫。君と僕ならできるよ!」とツクツクボウシは言った。

「私は蟻なので、群れから離れて生きることはできないよ」

ツクツクボウシは笑う。「それは違うよ。違う」

「何が?」

「君は蟻じゃないよ。そしてついでに言えば私もツクツクボウシではない。私たちはそうだな……何かだよ」

「何かって?」

「何かは何かだよ!」そう言うと、ツクツクボウシ(仮)は例の呪文を唱え始めた。ツクツクボウシの唱える数式の数々を私は完全には理解できなかったけれど、とても説明はうまいらしくて、かなり高度らしい知識もそれなりには理解することができた。私の数学が多少なりとも上達した要因にはツクツクボウシの教授があったことが挙げられるかもしれない。独力では今よりもさらに悲惨な数学力となっていたことだろうと思われる。

「私がツクツクボウシである確率は50%。君が蟻である確率は0%。君はどちらかと言うと蝉しぐれという感じだと思う。複数なんだ」とツクツクボウシは言った。

ふむ。ツクツクボウシから見ると、私はどうやら複数らしい。複数って何だ?

「複数って何?」と私は言った。

「君の中には何人もの君が……的な話だよ!」ツクツクボウシはそう言って笑った。

私の頭はざわざわと騒がしくなってきた。

「はいはい。ストップストップスト~ップ」と言ってツクツクボウシは私の身体をギュッと抱きしめた。「大丈夫大丈夫。大丈夫だよ~ダイジョウブだとも~。ほーらあなたはここにいるよ~」

私はツクツクボウシの腕の中でしばらくじっとしていた。気付くと、ツクツクボウシと私は公園のベンチで一緒にコーヒーを飲んでいた。

「――そうなんだよ。人間の心ってとても複雑でさ……」とツクツクボウシは言っていた。

話の脈絡がよくわからなかった。

「ふーん」と言って、私は取りあえず相槌を打っておいた。こういう事は別に珍しいことでもなかった。私はどちらかと言えば、ボーっとしやすい性質の蟻(仮)のようだった。

ツクツクボウシは優しそうな目で私のことを見ると、私の冷えた手を握った。そしてぽろぽろと泣いた「大丈夫。大丈夫だからね」とツクツクボウシは泣きながら言った。

ツクツクボウシは言う。「楽あれば苦ありって言ってね。人生って結構うまくできてるもんだと思うよ。私はそう思う。君は優しいけどね、ちょっと間違ってるんだなあ」

「何が?」と私は言った。自分の間違いについて思いめぐらすとたくさんありすぎてどれがどれだかわからなかった。

「いいかい? 自分を変えるのにも限度があるんだ」とツクツクボウシは言った。「君が悪いことをしていない時は、君は悪いことをしていないんだ。もちろん、君が悪いことをした時はきちんと自分を改めなければならないかもしれない。でもさ、全てのことがそうじゃないんだよ。君が悪くないこともあるんだ。君の他の人に物事の是非についての責任があることもあるんだよ? わかるかな?」

ツクツクボウシの話は何となくわかるようなわからないような曖昧な話に感じられた。

「わかる……ような?」と私は言った。

ツクツクボウシは優しい笑みを浮かべながら言う「時には人のせいにすることだってあっていいんだよ。全部自分のせいだなんて思っちゃだめなんだよ。ね?」

ツクツクボウシが善意で私に何かを言ってくれていることはわかったけれど、今までの自分の生き様を考えてみると、どう考えても自分が悪いように感じられてその感覚を変えることはとても難しかった。

「ごめんね。困らせて」とツクツクボウシは言った。そして私の手をぎゅっと握った。

私は特に困ってはいなかったので、ツクツクボウシに「大丈夫だよ」と返答した。そうすると、ツクツクボウシはまた泣き出してしまったので、今度は私がツクツクボウシを抱きしめることになった。

ツクツクボウシどうしたの? 何か辛いことあったなら私でよければ相談にのるよ」と私は言った。

「私あなたのこと好きなの」

ツクツクボウシは言った。続けて「でもあなたは私のことが嫌いなの」と言う。

私にはツクツクボウシの言っていることが、また呪文のように聞こえた。そうこうしていると何だか眠くなってきた。風の音が聞こえた。それと抱きしめたツクツクボウシの呼吸音と心音が聞こえる。大好きなツクツクボウシの心音を聞いていると余計に眠くなってきた。

ツクツクボウシのこと嫌いじゃないよ」と私は言った。

「うん」とツクツクボウシは言った。

ツクツクボウシ泣かないでね。違った。泣いてもいいけど思いつめないで……って言うのも違うな。言葉って難しいというか、何と言うべきかわからないんだけど、とにかく大丈夫だからね」

「うん」

「大好きだからね」

「うん」

「大丈夫大丈夫」

「うん」

ツクツクボウシの話は私には何だか難しくて私にはわからないところも多いけど」

「うん」

「でもね……多分だけど……」

「うん」

ツクツクボウシのこと……」

「……」

「……」

 

 

P.S.

直観術は比喩です。

勉強のメリット

今日は「勉強のメリット」について考えてみます。



まず、「勉強」とは何か。



これは、「学ぶこと」です。



「学ぶ」とは何か。



これは、「知ること」です。



「知る」とは何か。



これは、「理解すること」です。



また、理解するとは、「秩序づけること」です。

例えば、「数学を理解する」という時、それは、数学の体系を自分の中で「秩序づけること」を意味します。もしも、体系がバラバラで、秩序立っていないのなら、少なくともそこにいわゆる「意味」は成立することが難しくなります。これを「無意味」と呼ぶこともあります。しかし、無意味にも機能はあります。例えば無意味を一概に否定してしまうと、意識においてまだ意味を持っていない曖昧模糊とした感情などの現象が否定され、ないものとされます。本来あるものをないものとするのは錯誤になります。よってエラーが起きます。ならばこうした認知錯誤を極力避けるためにも、一種の「曖昧さ」、つまり秩序立っていない、未だに意味を理解されていない、「無意味」なものをあまり潔癖に否定し過ぎないことがある程度有効になります。無意味には曖昧さを守る機能があり、曖昧さは様々なスペクトラムにおける「グレーゾーン」を守ります。白黒つけることだけでは、こうした曖昧さとしてのグレーゾーンは守ることができません。

さて、ここで、私は、この文章によって、「無意味」に「意味」を持たせています。つまり、「無意味」を秩序立てています。しかし、秩序立ったものは意味を持っており、本来、無意味ではないですので、ここに記述された無意味は、本当の無意味ではない、とも言うこともできます。つまり、本当に無意味を守るためには、「無意味には意味がある」と言うのではなく、「無意味は無意味である」と言う必要がある、と言うこともできます。つまり、「無意味は無意味だからこそ意味がある」、という逆説的な構造になります。この時、次のことが言えます。



1.意味は無意味である

2.無意味は意味である



つまり、秩序立てること(意味を理解すること)は秩序をバラバラにすること(無意味にすること)と、ある意味、表裏一体である、とも言えます。よって次のことが言えます。



1.秩序立てることは秩序をバラバラにすることである

2.秩序をバラバラにすることは秩序立てることである



ここで、秩序立てる行為、意味を理解する行為を「勉強」と呼んでいることに着目してみましょう。では、無意味な行為は何と呼ばれるでしょうか? 勉強の反対の概念であるこれを、「遊び」と呼びましょう。この時、次のことが言えます。



1.勉強とは遊びである

2.遊びとは勉強である



この時、勉強と遊びは表裏一体となっています。

ところで、遊びとは一般的に言って、楽しいものですね。

したがって、遊びが勉強そのものだと考えた場合には、勉強はある程度楽しいものであると考えることもできます。



勉強とは、秩序をバラバラにしたり(無意味な遊び)、秩序を構築したりすること(意味ある理解)です。



つまり、勉強とは、「秩序を絶えず再構築し続けることだ」、と言えます。



勉強とは「無意味だから意味がある」という類のものになります。



なぜなら、既に書いたとおり、「無意味が曖昧なグレーゾーンを守る」からです。

もしも、これらのグレーゾーンが失われた場合、どのようなことが起こるかについて考えてみます。



世界から曖昧さを排除すれば、すべてをプログラムしようとして、その上ですべてをルーチンで動かそうとすることになります。その世界では白黒はっきりしたものしか着目されず、曖昧なグレーゾーンは徹底的に排除されます。こうした排除を許す場合、曖昧な領域に属する多くの人や事柄が排除されます。



例えば、男なのか女なのかわからない容姿や心を持った人を想定しましょう。ここに、先ほどの「白黒はっきりさせる」という原則をそのまま適用すると、この人は基本的に排除対象となることになります。なぜなら、男なのか女のか、「曖昧」だからです。



もしも、白黒はっきりと決定しない曖昧な領域としての「無意味」が守られるのならば、こうした排除をあらかじめ防止できる可能性があることになります。



こうした例は基本的にたくさん挙げることができますので、みなさんも気が向いたら、色々考えてみると面白いかもしれません。参考までにもうひとつくらい例を挙げておきます。



例えば、時に「恋」というのは、それ自体安定的ではなく、感情の起伏を伴った不安定で曖昧とした感情であるともある程度言い得る場合もあると思います。そうしたはっきりとしない恋は、「淡い恋心」などという言葉で呼ばれることもあります。しかし、そうした濃淡のはっきりしない、淡い恋心はその存在の曖昧性から、白黒をはっきりさせるという環境のもとでは、排除の対象になります。このことから、無意味が失われて、過剰に意味づけばかりがもてはやされると、淡い恋心が社会から排除されてしまうと考えられます。



このように、グレーゾーンの排除、曖昧さの排除、無意味の排除は社会から中間的な多くのものを排除し、多様性を損ないます。多様性が損なわれれば、人々の生き方が画一化して、自由な生き方を選ぶ権利や自分のことをそれぞれに自由に判断する権利も損なわれることになります。プログラムから逸脱した自由な領域、曖昧なグレーゾーンの領域が、「無意味」という姿を取って、人間の自由な行動をある程度守っています。



そして、勉強とは、絶えず秩序を再構築し続けることであり、それ自体、プログラムから逸脱(無意味)的であるとともに、プログラム(意味)的でもあります。

絶えず秩序の再構築をし続けるということは、絶えず秩序の破壊と構築がなされ続ける状態であるとも言えます。つまり、勉強とは、秩序を新しく作り変え続けること、であるとも言え、「創造し続けること」であるとも言えます。創造はそれまでなかった新しいものを創り出すことですから、それまでなかったものはすぐには理解されないことも多く、つまり、すぐには「意味」を持ちづらいです。ならば、創造とは、基本的に「無意味」なものです。そして、その無意味なものが、やがて僕たちの生活に多大な意味をもたらす場合があります(冷蔵庫とか洗濯機とか創造した人はすごいですね。彼らの行った「無意味」のおかげで、私たちの生活は便利になり守られています)。



その意味で、勉強とは、絶えず「変化」し続けることである、と定義づけることもできます。



ならば、自分を変化させたい場合には、自分が勉強をすることが有効となります。



どのように自分を変化させていくかは、人それぞれであり、一概に白黒はっきりとは言えず、曖昧で、グレーゾーンです。なぜなら、創造、変化とは、無意味であり、それ自体曖昧なものなのであり、それが「勉強」の正体である、ともある程度言えるからです。



いずれにせよ、今がどんな状況にあるにせよ、もしも、なんらかの変化を求めるのならば、時に勉強をすることが有効な手段になり得るとは言えるのではないか、と思います。



以上のことから、勉強のメリットをまとめます。





1.何らかの「変化」をしたい場合には勉強が有効

2.勉強は無意味で曖昧だから創造的でなおかつ意味がある

3.勉強は無意味で曖昧なものだからこそ多様性と自由を守ることができる



今の自分から変わりたい人には、「無意味」で「曖昧」な「勉強」がおすすめです。

新卒制度についての分析

こんばんは。



今日は新卒制度について分析してみたいと思います。



新卒とは、「その年に新しく学校を卒業することです」



大学の新卒なら、その年に大学を新しく卒業すること、あるいはした人のことを示します。



就職における新卒制度とは、「新卒でなければ受けられない就職制度」のことを示すものとして、ここでは考えてみます。



新卒と既卒(新卒でない人)の主な違いは、「年齢」です。



ならば、新卒と既卒を差別する意味とは、「年齢差別」を意味しています。



新卒のみを採用するという制度の場合、その根底の欲望としては、「年齢の若いものほど良い」という価値基準が根付いていると推理できます。



よって、新卒一括制度とは、基本的には、「年齢が若いものほど優れている」という一種の差別思想となります。



つまり、新卒一括採用をしている企業ほど、年齢という要素が相対的に強く重視されるものとして推理することができます。



こうした年齢で強く人を差別する思想傾向を、今回「年齢主義」と呼びましょう。



では、なぜ、こうした年齢主義による差別思想が現れてくるのかについて考えてみます。



まず、年齢主義によって、どのようなメリットが得られるか。



年齢主義によって、企業など組織体は「若い人」を採用することができます。



つまり、彼らが求めるのは若い人であり、つまり、「若い」ということに付随する何らかの特質がこうした年齢主義を助長しているものと考えられます。



若さには主に次の特徴があります。



1.経験が浅い

2.発展途上

3.柔軟性が高い



経験が浅ければ、思想傾向や行動傾向などは確固としたものにはならず、柔軟性が向上すると推理できます。発展途上で人間として成熟しきっていないのなら、成熟しきって完成した個体に比べると発達過程に柔軟性があると推理できます。以上のことから、若さの特徴とは、「柔軟性」であると推理できます。この仮説が正しければ、年を取ると、人格などがしっかりと固まってきて、一種の「頑固性」などが出てくるという推理も成り立ちます。一貫した強い人格は、一面から見ると、頑固であるというふうに見え、頑固というと悪いことに思えるかもしれませんが、思想、行動の「一貫性」という点から見ると、時に一つの優れた資質であると言えます。一貫した行動が求められる局面はそれなりにあるものと思いますので、頑固という特質は時に必要な場合もあろうと言うことができます。



さて、若者の話にもどります。



若さの特徴は、柔軟性です。



では、企業はなぜ柔軟性を求めるのかについて考えてみます。



柔軟であれば、「形を変えられる」と推理できます。つまり、企業は、柔軟な若者を、自分好みの仕様にアレンジすることができます。したがって、若者を自社に適合する形に操作、コントロールしたい企業は、新卒一括採用を強く行うであろうと推理できます。ならば、新卒制度を採用する企業は、比較的他者に対するコントロール欲求が強いであろうと推理できます。



つまり柔軟性を求める企業、若い人を求める企業とは、「自分たちがコントロール可能な人たち」を求めている、ということになります。こうした人物像は、主に、「素直な人」と呼ばれます。



以上のことより、新卒制度を採用する企業の目的とは「素直な人」を採用することであると、言うことができます。



素直な人には、柔軟性という特徴があります。

頑固な人には、どのような形にせよ多様な形での完成性という特徴があります。



柔軟すぎれば、自分の考えがないことになります。

頑固すぎれば、他者のことを考えないことになります。



つまり、新卒制度を採用する企業とは、自分のことを差し置いて、他者のことを考える人のことを採用したい傾向にあるのではないかと推理することができます。



したがって、新卒制度における就職活動を制したい場合、極力素直な人、つまり、自分の考えがなく、他者の考え(例えば、就職活動の対象となる企業に対し適合的な思想)を持った人になることが有効性を持つ可能性が出てきます。



この場合、新卒制度を採用する企業とは、自律的な人は排除し、他律的な人を求めていると推理できます。



こうした組織体には、自律的な人間は少なくなり、主に他律的依存的な人間が集まっていくことになります。



人間は、誰しも、多少なりとも自律的であり、多少なりとも依存的ですが、少なくとも、依存的な人が集まれば、全体のその企業の傾向としては依存的な組織となっていると推理することができます。



よって、次の要望を持つ人は、新卒制度を利用することが有効であろうと推理できます。



1.他者に依存したい

2.自分では考えたくない

3.コントロールされたい



逆に、次の要望を持つ人に対しては、新卒制度は有効に作用しないのではないかと推理することができます。



1.自律的に活動したい

2.自発的に考えたい

3.自由が欲しい



よって、企業は、コントロールしやすい人材が欲しい場合には、新卒制度を利用することにメリットがあり、自発的に考え行動する人材が欲しい場合には、新卒制度(年齢主義)を撤廃することが合理的判断となると推理できます。



他律的な人も自律的な人も社会においては、どちらもそれぞれに有効性があり、そこに優劣はありませんが、その都度の目的に応じて、新卒制度と非新卒制度を使い分けていくと、より適切な選抜が可能になるかもしれません。



まとめます。





1.自発的に働く人が欲しい場合には新卒制度の撤廃が有効

2.指示待ちで働く人が欲しい場合には新卒制度の採用が有効

3.自由が欲しい人は非新卒制度を採用している企業に就職することが有効

4.縛られていた方がいいという人は新卒制度を採用している企業に就職することが有効





P.S.自律的な人と他律的な人の特徴についての簡単な分析。



詳しくは後日またにしますが、簡単に自律的な人と他律的な人の特徴について触れます。



自律的な人は、次の特徴を持ちます。



1.自分で考えて行動する

2.自分で考えて学習する

3.自分で考えて協働する



他律的な人は次のような特徴を持ちます。



1.他人の指示によって行動する

2.他人の指示によって学習する

3.他人の指示によって協働する



以上のことから、自律的な人は基本的に、勝手に行動し、勝手に学習し、勝手に協働します。したがって、相対的に勝手に育っていくと考えることができます。その意味で言えば、劣悪な環境でさえなければ、相対的に言って「勝手に」様々な技能に習熟していくと考えられるので、一緒に行動する際にかかるコストは少なくすむかもしれません。



他律的な人は基本的に、指示によって行動し、指示によって学習し、指示によって協働します。したがって、ケースバイケースに、素早く簡潔に的確に指示を出し続けていなければ、基本的に行動しない傾向にあるであろうと推理できます。この場合、行動するために逐一の指示が必要であることから、指示者の労力はかさむ傾向にあると推理できます。



以上のことより、それぞれ次のメリットがあります。



自律的な人のメリット



1.手がかからず、指示・指導コストが少なくて済む

2.指示・指導コストが大きくかからない分、比較的簡単に技能熟達、および成長を示す

3.指示待ちの時間分が節約されるので、その分の時間が自律的行動に費やされ、独自的な着眼点を発揮しやすい



他律的な人のメリット



1.指示がなければ基本的に動ないので、きめ細かく指示を与えさえすれば、組織内の齟齬が少なくなる

2.自分の考えを比較的強くは持たないので、自然と付和雷同的となり、極端な逸脱行為が少なくなり、行動が予測しやすい

3.他律的な行動を取るので、イノベーションなどの能力は期待しづらいが、逆に言えば、単純なルーチン作業には優れている



以上のことから、次の場合新卒一括採用を行うことが合理的となります。



1.組織内齟齬を少なくしたい

2.組織内の行動を予測しやすくしたい

3.単純なルーチン作業を強化したい



逆に、次の場合には、新卒制度を撤廃することが合理的となります。



1.指導・指示コストにおける費用対効果を上げたい

2.社員や企業における自律的で高度な成長を達成したい

3.他にない独自の新しい着眼点や発想がたくさん欲しい



現在の日本の場合、新卒制度が主なものとなっているようですから、どちらかと言えば、日本人は単純なルーチン作業を重視した戦略をとっているのかもしれません。

したがって、他律的な人の方が比較的生きやすい社会であると言えるのやも。



しかし、自律的な人も決して他律的な人に劣っているわけではないので、その点は念押ししておきます。



「新卒制度」(年齢主義)にたとえうまく適応できなかったとしても、そのことが直ちに、その人の価値を決定するわけではないということはお分かりいただけたかと思います。自律的な人にも他律的な人にも、各々にメリットがあります。



ただ、基本的には、年齢主義は、一種の差別思想ではありますので、それ自体、「悪」であることは注意しておく必要があると思います。理想的には、老若男女問わず活躍できる社会が良いことにはなると思います。ただ、現時点では、企業も全ての人を採用できるわけでもありませんし、万能の検査基準でもって完璧に人を篩い分けることができるわけでもありませんし、絶対の基準もないですし、かと言って、何の基準も設けなければ企業もパンクしてしまうし、という諸々の事情により、一応、たとえ「必要悪」であったとしても、こうした差別思想が必要になることも、もしかしたらあるのかもしれません。



しかし、差別思想は、基本として、非常に危険な思想ですので、いくら注意し過ぎてもしすぎることはないと思います。少なくとも、でき得る限りは、多様な組織作り、というか、多様性を尊重した共同体作りを行っていくことができるのが理想的であるということは言えると思います(この点にご興味おありの方は、当ブログの「分術」という記事をご覧ください)。

多様性の観点からは、組織を作る際にも、多様な人々をコストが多少かかっても理想的には採用するべきだと思いますから、年齢主義に頼りすぎるのは危険だとは思います。理想的には老若男女、さまざまな年齢層の人たちがその企業なり組織に所属しているのが好ましいとは言えるでしょうから。

ただ、それこそ「コスト」の問題があって、どこの企業もなかなかに余裕がないのかもしれません。余裕を持てなければ、逼迫状況は改善しづらいですから、既存の依存的他律的な企業のケースの場合には、なかなか改革は期待しづらいのではないかと、個人的には思います。

既存の他律的な性質の企業にはない、自律的なある意味で、「余裕のある会社」なり組織を作れるといいな、と個人的に考えていますので、こうした「余裕のある居場所作り」にご興味おありの方は、お気軽に、ご連絡ください。コメントでもメールでも。



では今日はこの辺で失礼いたします~

 

信じること

「この荷物重い」

 と私は一人こぼした。

 ――やれやれ、荷物と言うものはどうしてこうも重いのか。マジで困った。

「その荷物には何が入っているの?」

 と相棒のピエが言った。

 ピエは猫だった。黒猫だ。

 ピエは随分と絵が上手かった。

 あまりにも綺麗な猫だったので、私としては、液体窒素で凍らせて冷凍保存してしまいたいくらいだったが、もちろん、ピエはそんなこと嫌がった。

「僕は生きているので」

とピエは言う。

 なるほど。たしかにピエは生きている。

 しかし、ピエは何事につけても集中することを知らない。集中せず、自堕落に分散して生きることに価値を見いだしている特殊な猫だった。

結果、ピエは精神科で統合失調症と診断されるにいたった。

実に特殊な経緯である。黒猫が統合失調症を発症するという事例研究についてついぞ私は聞いたことがなかった。

 ピエはネズミを探していた。しかしピエはネズミを食べることはなかった。本当に食べなかった。そうではなく、捕まえるまでの過程を楽しんだ。そして、いざネズミがつかまりそうになると、そのネズミをまた逃がして、しばらくするとまたネズミを探すのだった。まるで、ネズミを食べることには意味などない、とでも言いたげだった。

 私は一度、ピエに、どうして、ネズミを食べないのかと聞いたことがある。すると、ピエは、

「必要がないからさ」

と言った。

 そうなのだ。ピエは、食物と言うものを必要としない。いわば、生命からは程遠いもので、その意味では、その存在自体が、極めて霊的だった。

 ピエはしばしば口を酸っぱくして言った。

「ダメだよ。創造的じゃないと。とにかく創造的じゃないとダメなんだ」

「創造的ってどういうこと?」

 と私はピエに聞いてみた。

「人のことを一人にしないってことだよ」

 とピエは言った。

「一人にしないこと?」

「そうだとも」

 と言って、ピエは鷹揚に頷いた。そしてもう一度繰り返す。「そうだとも」

「どうして、人のことを一人にしてはいけないの?」

「寂しいからさ」

「誰が寂しいの?」

「人さ」

「人?」

「そう、ヒトさ」

 ピエによると、人は寂しいもので、一人でいると基本的に生きていけないように設計されているらしい。ピエと一緒にスキーに行ったときに、そうした話をした。その時、ピエは、白猫のシロちゃんに恋をしていて、そのゾッコン模様と言ったら、なかった。本当にすごかった。マジで。

「じゃあ、ピエは猫だから、寂しくないね? それなのに恋をするんだね?」

 と私はピエに聞いてみた。

「うん」

 と言って、ピエは頷いた。「僕は寂しくないよ。一人でいることがまったくもって苦にならないんだ。まったくもってね」

 ピエは寂しがらない。それが防衛機制なのか、強がりなのか、嘘なのか、虚構なのか、は私にはわからなかった。

 私はふと、ピエの一人称が「僕」であることについて気にかけたことがある。ピエには、雄の象徴が無かったからだ。

「ピエは男なの?」

 と私はピエに聞いてみた。

「私は女だよ」

 とピエは言った。

「そうだったの?」

 と私はびっくりして尋ねた。

「そうそう」

 とピエは言った。「私は女なんだよ。君はよくわかっていないみたいだけど」

「じゃあ、なんで、一人称が「僕」なの?」

「女が自分のことを「僕」って言っちゃだめなんて法律はないよ。人権侵害だよ!」

 と言って、ピエは怒った。

 ピエが怒るのが珍しかったので、私は驚いた。ピエはしばしば頭がおかしかったが、それでも「根」は、まともだった。極めて。

 ピエは、平常運転の時から、おかしいことばかり話すが、それでもその根には、常識が根付いていた。つまり、「狂人のふり」をしていた。無論、そうしたファッションな狂人ぶりを発揮することには、多くの虚構を構築することができる才能が必要となる。そして、虚構を成立させる才能とはとどのつまり、この世界で最高峰の才能の一つである。なぜなら、虚構とは、この世界に存在しないものを、存在しないままに成立させる術だからである。それは創造であり、その意味では、神の所業だった。

「ピエには根があるね」

 と私は言った。

「根?」

 ピエは首を傾げた。「何のことだろう?」

「根っこだよ。植物の」

「あるかもね。なんかセフィロトっぽいやつ」

 と言って、ピエは笑った。

 猫が笑うというのはなかなかにすごいことである。動物が笑うというのは薄気味悪いように感じる人もいるかもしれないが、ピエの笑いは随分とすっきりしたもので、それはそれは猫らしい孤独癖とさっぱり加減を反映したもので、その笑顔を見ていると、私は、なかなかに嬉しく、楽しくなるのだった。

「それにしても、僕ってすごくセフィロトっぽいよね」

 とピエは言う。

「セフィロトっぽさって、どこから出てくるんだろうね?」

 と私は言った。

「そりゃ、僕の「根」から出てくるんだろうさ。「僕の」ね」

 つまり、この猫は、自身に自我が存在していると主張しているのだった。なるほど。ここまで会話できれば、確かにその主張は認められる。これは私見だが、おそらく猫には、あるいは人間以外の動物には、「理性」が存在し、彼らは意識し、自覚的に行動し、生きている。その意味で、動物と人間の差はそんなにないように思われた。ピエはしばしば私よりもずっと頭が良かったし、芸術方面の技術も卓越していた。

 まるで、私は、ピエに操作されているかのような感覚を持つことがあった。ピエが卓越し過ぎた絵画技術を有していたため、私よりもずっと上の階層にピエが位置しているのではないか、そんな思いがよぎっては、自分がピエにコントロールされているのではないかという危惧が、しばしば私の胸のうちに去来するのだった。

 しかし、一方のピエはというと、そんなことはまるでお構いなしで、むしろ、私のことを褒めるのだった。

「操作されてるという感覚を持てるということは、あなたに才能がある証拠だよ。武者小路実篤がそう言ってた」

 とピエは言った。

 なお、武者小路実篤をピエが読んでいたということもひとつの驚きだが、それは別として、武者小路実篤が、果たして本当にそんなことを言っていたのかどうかは、私には定かではない。それも、ピエが作った、即興の「虚構」かもしれないのだ。

 ピエの描く絵画は、極めて自然的なもので、一種の自閉症スペクトラムを思い起させるものであったが、しかしそれは思い違いのようで、彼女はありとあらゆる絵を描けるようだった。模写がとても上手い。特に、配色のセンスが絶妙なものだった。もはや、色の見え方そのものが、私とは異なっているのであろうことを暗示させる独創的配色であるのに、同時に高度に自然的であった。こうした矛盾的傾向を両立させ得る資質というのは、まことに得難いものである。

 ピエには、豊かな創造の才能があった。

 ピエは、基本的に何をやってもうまくできたが、その中で、彼女の失敗とかろうじて呼び得るものが一つある。それも、道徳的には失敗のレッテルを張ること自体が間違っている類のものである。

 ピエはある時、どこぞで妊娠してきたのだが、その妊娠が上手くいかなかったようだった。どうもピエの飲んでいる薬があまり上手く作用しなかったらしい。

 このことは、ピエにとって、きわめてショックな出来事だったようである。

 妊娠したことのない私にはそのショックは計り知れないが、しかし、とにかくピエの落ち込みようときたらなかった。

 驚くべきことに、そんな傷心しているピエのことをあざ笑う人達もいたが、無論、ピエの豊かな才能に嫉妬している人たちだった。

 なので、私は、ピエに、「彼らの言うことは気にするに当たらない」と言おうとしたが、そもそもピエは、鉄の精神――あるいはそのように見える精神――を持っていたので、私に言われるまでもなく、気にしていない「よう」だった。

 とは言え、ピエが子供を失ったことで、傷ついていることは火を見るよりも明らかなことだった。そして、驚きだったのが、傷ついた猫を見て、平気であざ笑うことのできるという人々のその神経だった。まさに世界は謎で満ちている。思わず、「駆逐してやる!」などと、思ってしまった浅学な私であったが、いやはや早くすべてのことを許すことのできる、心優しい聖人君子になりたいものである。しかし、傷ついたピエを放っておくのはまったく私の本意ではなかったので、私はしばらくは聖人君子になることはないのだろう。思うに、時に怒りは正義となり得る。この世界に、まったく無駄なものなんて、そんなにない、というふうに安易な自己正当化をしておこう。この私のつつましやかな生存戦略など、ピエの圧倒的才能に比べれば、いずれにせよ小さなことだ。

 ――しかし――

 ピエはこう言った。

「相対的に言って、私は幸せだよ。何せ、才能を認めてくれる人たちがいるしね。なんだかんだ言ってもさほど孤独でもない」

 ピエはそう言って、走り去って行った。その背中は随分と孤独であるように私には見えた。ピエの周りには誰もいなかった。いわゆる、「孤高」と呼ばれる状態だった。

 ピエの周りには誰も立っていないようだった。

 それは、ピエが極めて、独創的な猫であることを間接的に証し立てていた。

 私もピエの後を追って、重い荷物をしょい、歩き始めた。

 私にはピエほど軽やかな才能はないが、それでも、鈍重に荷物をしょいながら、一歩一歩歩くことで、ピエの隣を歩くことがかろうじてできるであろうと楽観的な期待を抱きながら、これからの人生を生きていくのだろう。

 ピエには随分と深刻な傷が根付いていた。その傷のもたらす悲しみが彼女に一種の才能をもたらしているのやもしれない。

 ピエのお話については、より詳細に書きたいことがたくさんあるが、それは私が書くどのような物語にも共通していることである。

 私に書くことのできる物語の量に比べ、人生はあまりに短い。

 しかし、できることなら、ピエと、またどこかで出会えたなら、私はピエにこう伝えたい。

 

「あなたのことを色々と今でも信じています」

 

 無論、私はストーカーではないのだが(黒猫に付きまとうストーカーとはまことにシュールである)。

 思い出というのは、時に、どんな現実よりも精彩なものである。そのことを、ピエが私のところに残していったいくつもの色鮮やかな絵が思い出させてくれる。

 その絵は、空気でできており、私以外の人間の目には見えないのだが、思うに空気とは極めて本質的なものである。すべては空気でできていると言ってもいいかもしれない。

 空気は目にみえず、手にも触れられないが、たしかに存在しているものである。そういうものを大切にすることが、おそらくは、黒猫のピエや私のような人間を守ることにつながるのであろう。

 過ぎ去ったものが戻ってくることはないが、思い出は意外にすぐ近くにあるもので、ふとした拍子に、思い出しては、顔が綻んだり、懐かしいような、楽しいような、切ないような思いにさせてくれる。とても大切な「空気」である。

 私は今日も元気いっぱい空気を吸い込んで、身体を代謝し、エネルギーを回しながら、広大な地球の循環の中で生きていくわけであります。

 そして、それは、ピエのような甚大な才能を有している猫にしても、同じことなのだろうと思う。

「いやはや、空は今日も青いな」

 と心の中のピエが言った。

 その声は、そこら中の空気の中を伝わって、世界中に広がっていくようだった。

負け犬の長所

今日は極力手短に文章をまとめる練習をしようと思います。あんまり長くならないといいな。

 

「負け犬の長所」について。

 

負け犬とは、「負けて、逃げた人のこと」です。

 

つまり、負け犬の成立要件は、主に次の二つです。

 

1.勝負に負ける

2.勝負の場から逃げる

 

まず、「負ける」とは何か。

 

これは、「相手に抵抗できず従う」、ということです。

 

例えば、会社において、社員の解雇の権限が会社に与えられているというケースを想定した場合、社員は解雇されないようにするために会社の方針に抵抗できず、大なり小なり従うことになります。この場合、社員は基本的に、会社に対し、敗北し、「負けている」ということになります。よって、正社員などの社員は、一つの「負け犬」と呼ぶことができます。

しかし、正社員になるということは、一般的には、「勝ち組」とされる向きもあります。これらのことから、負け犬とは時に勝ち組である、ということが分かります。こうした現象を、「負けるが勝ち」と呼ぶことがあります。

 

では、「逃げる」とは何か。

 

これは、「不利な状況に陥らないように危険を避ける」、ということ。

 

例えば、ブラック企業に勤めている場面を想定した場合、自分の心身を損なってしまう前に、その企業を辞めて、転職や起業などの新しい生活手段を模索する、と言った場合、これを、「逃げる」と言います。つまり、何か一つの手段が上手くいかない時に、他の新しい手段を研究したり、創出したりすることを、「逃げる」と呼ぶと考えられます。以上のことから、「創造」とは「逃げる」ことであると考えられます。新しいものを生みだす人は、みんな「逃げている」ということになります。ならば、こうした逃走者のことを、新しいものを産み出す人、という意味で、「イノベーター」あるいは「芸術家」と呼ぶことができます。ならば、イノベーター、芸術家とは、基本的に「負け犬」であると言うことができます。つまり、負け犬が「逃げることによって」新しい世界や資本を創出している、と言うこともできます。そして、こうした新しい発明などを行う人がいることで、私たちの生活は便利になったり、豊かになったりします。負け犬たちの逃亡のおかげで、私たちは生活を保持したり、発展させることができます。これを、「逃げるが勝ち」と呼ぶことがあります。

 

以上のことから、負け犬には多大なメリットがあることが分かります。つまり、ある側面においては、「負け犬とは勝ち犬のことである」、と言うことができます。負け組は勝ち組である、と言い換えても構いません。これは矛盾していますね。こうした一見矛盾した論理の様相からわかることの一つとしては、「勝ち負け」というものが非常に複雑なものであり、一概に、絶対的に勝っているとか絶対的に負けているとか、そういうことは、言うことができない、ということでもあります。人間が不完全な生き物である以上、ある部分に秀でていれば、ある部分では劣っているのが普通であり、「完全な人間」は存在しない、という事情もあります。こうした帰結から、通常負け組とされている人も時に勝利することがあり、通常勝ち組とされる人も往往にして負けることがあります。人間は神ではないので、基本的に、「絶対的勝利」はあり得ないわけです。よって、絶対的な勝ち組も絶対的負け組もあり得ない、ということになります。勝ち負けはその時々によって、ケースバイケースに移り替わる概念であり、それ自体とても不安定なものでもあります。したがって、あまり勝ち負けにこだわり過ぎると、自分の心身が不安定になってしまうと推理できますので、勝負ごとに、自分を委ね過ぎるのも考えものです。あまり過度に、勝ち負けを気にする必要自体はないので(もちろん、勝負のスリルが欲しい場合には勝ち負けを気にすることは「娯楽」として有効に作用するとも推理できる。人それぞれ)、あまりにも過度に「負けること」を気にして、新しいことに挑戦できなくなったり、心身に不調をきたしてしまったりするのであれば、そもそも「勝ち負けにこだわらない」という生活指針を取ることも十分にアリであろうと思います。行動方針も考え方も感じ方も人それぞれです。絶対の正解というものは基本的に論理的にはあり得ません(非論理的にはあり得る。この点については気が向いたら後日)。

 

 

今日のまとめ

 

1.負けるが勝ち

2.逃げるが勝ち

3.負け犬は勝ち犬

 

 

好きな人が好きな人

みなさん、こんばんは。

 

今日は、「散漫術」です。

 

何個か、書き溜めてる記事があるのですが、ちょっと過激なので、どうにかマイルドにできないかと、推敲中です。

 

最近はちょっくら忙しかったので、ブログの更新が滞ってました。

 

やれやれです。

 

その間も時間を見つけて、色んな方のブログなども見ていました。毎度のことながら、勉強になります。

 

ネットにはさまざまに欠点がありますが、何といっても優れているのは、誰でも簡単にネットに情報を発信できるということではないかと思います。

 

検索エンジン的なものも、いっぱいあって、それぞれの情報検索にそれぞれの味があり、一概にネットと言っても、手に入る情報が大分異なってくるように思います。

 

例えば、はてなブログをやっていなければ、手に入らない情報というものもあるようで、そうした情報はグーグルからはアクセスできませんし、図書館でもアクセスできません。

 

それぞれの検索エンジン的なものに、それぞれのキュレーション能力があり、本当に面白いです。

 

ホントにそれぞれです。

 

最近気づいたのですが、図書館って書庫が開架であったとしても、ずいぶんと小さいように感じます。昔は、とても膨大な情報がそこに眠っているように感じたのですが、――確かに膨大と言えば膨大だとは思うのですが――それでも、昨今では、ひところに比べると、そこに眠っている情報も随分と限られたものであるように感じます。

 

まず、日本に入れば、そこに入っている洋書は外国よりは、少ないわけですので、そうしたことを考えると、すべての著作物を開架にするというのは非常に理想的であるとともに、とても難しい事でもあるように思います。

 

僕は空いている時間はかなり勉強に当てているのですが、勉強はやはり楽しいですね。最近気づいたことですが、数学と語学ってそんなに違わないような気がしますね。数学も言語でできていますし。やはり、言語というのはとても不思議で、とても優れたツールであるように思います。

 

言葉に命を賭けている人などにとっては、言語は「ツール」ではないのかもしれませんが。

 

ふと、「出会い」の技術について考えたりもします。出会いとは何か。

 

これは、考えてみたのですが、どうもシンプルに何かの集まりに所属することが、出会いを産むようにも思います。

 

学校とか職場とか。

 

後は、フィットネスクラブみたいな感じとか、勉強会とかみたいな感じですよね。

 

それ以外だと、本格的にナンパっぽくなってくるように思います。

 

そのように考えると、ナンパというのはおもしろいなと思います。

 

どんな場合でも、さっと相手との関係性を生成する術ですから。

 

ナンパが他の出会いに比べ、特殊にも見えますが、実際に分析してみると、それらが連続体というか、地続きになっていることが分かります。

 

ふつうの出会いとナンパの出会いを区別することは厳密には無理なのだろうと思います。

 

スペクトラムになっているようで。

 

それでもっと見てみると、人というのは、かなり多くの場合、何というべきか、引きこもりとかニートとかでなくても、大なり小なり精神的に孤立している傾向があるようにも感じます。

 

一人でいても誰かと一緒にいても、精神的に孤立してしまえば、特に差異はないというか、悲しい部分ではあるように思います。

 

機能不全家族の数も多いようで、この辺りの問題は、非常に難しいように思います。

 

このようなことを考えていると、時々、他人と一緒にいることの価値というものを疑ってしまうこともあるのですが、時折、この人と一緒にいられてよかったと思える人との出会いもないことはないので、プラスマイナスゼロなのかもしれません。

 

関係性にはとても面倒な面が多く、それ自体関係を切ってしまう方が利率が高い場合も随分と多いようにも感じます。

 

「集団極化」とか、「集団浅慮」とかいう言葉とかあるんですけど、こういうのは一応、気にしていた方がいいのかもしれません。リスキーシフト。

 

集団になると、意見がけっこう変な感じになってしまったりとかするように思います。

 

一人一人は特におかしい人ではなくても、集団になるとおかしくなってしまうという特徴は人間にはあるように思いますので、その辺りは、みなさんもご注意なさると、いろいろと面白い発見があるかもしれません。

 

じゃあ、分断すればいいのかというとこれも難しくて、孤独が苦手な人も多いように思います。

 

関係性は、ある時には、面倒とかストレスになり得ますが、ある種の仕事を為すには必要となることも事実的なことかと思います。

 

どの程度団結し、どの程度分断するか、という問題。

 

バランスが大切。

 

ストレスとかもまったくないと味気ないですけど、過度なストレスはこれはこれで困りもの。

 

過ぎたるは猶及ばざるが如し。

 

最近、ネットで見たんですけど、社会資本というものがとても大切なようですね。人間関係の良好さ、みたいなもののようです。

 

社会資本。

 

味わい深い概念です。

 

多分、恋愛関係とかも、ある程度社会資本と関係あるのかな、と感じます。

 

そもそも人間関係に恵まれていなければ、恋愛しようもないので。その場合、相手がいないので。

 

ネットで「非モテ」について調べてみたんです。

 

すると、非モテについてはとてもたくさんのことが書かれていました。長所を発掘している記事から、短所を突いている記事まで色々。

 

どんなものにも長所と短所の両方がありますので、当たり前のことかもしれませんが。

 

当たり前のことって大切だと思いますね。かなり多くの場合、当たり前のことが見過されていることで、致命的な間違いなどが生じるようにも思います。

 

そういう時には、集団浅慮なり、リスキーシフトなりが起こっているのやもしれません。内集団バイアスとか外集団均質化効果とか色々。

 

コロンブスの卵」、という言葉がありますので、当たり前のことには注意して注目していけたらいいなと思います。

 

何事も人それぞれですよね。

 

少なくとも、自分に分からないものだからという理由で、その対象を排除しないように注意したいな、と常々思います。

 

人それぞれに、様々な機制を持っているはずですし、僕たちはそれらのすべてを知り尽くすことができるわけではなく、そこには常に、手の及ばないものとしての他者があるようにも思います。

 

精神分析だとそれらのさまざまな機制は性欲に収斂してしまうのかもしれませんし、進化論だと生存競争とか繁殖競争がこの世界のすべてだ、みたいな話になってきてしまうのかもしれません。

 

思うのですけど、この世界は、性欲だけでできてはいませんし、生存競争だけでできているわけでもないのではないかと。

 

そのように考えると、特に非モテとか気にしなくてもいいような気が、個人的にはします。

 

少なくとも、僕個人は、相手が非モテだから嫌だとかモテだから好きだとか、そういうことはないので、この辺はよくわからないのですが。好きな人が好きな人ですね。トートロジーですが(笑)

 

この点も、おそらく人それぞれのさまざまな機制が働いているのだろうと思います。生きがいは人それぞれだし、人生も人それぞれですね。すべてを見通すことができるような人もいるわけではありませんし。

 

色々な人がいて、基本的に人は自分が所属しているものに関する分野が上位で、自分が所属していない分野を下位に見積る傾向があるようにも見えます。

 

それも人それぞれの、「好み」なのかもしれません。

 

僕個人は、いろいろなことに手を付けてみた結果、結局、あらゆることはとても面白いのだろうなという推理を得るに至りました。何でもやってみると奥深くて面白いのだと思います。

 

どんな人もそれぞれに長所があって面白いですし。

 

長所が見えてくると、短所も味なものだな、と感じますね。

 

こういう「味」はステレオタイプ的に物を見ると、失われてしまうものなのかもしれません。できれば、ステレオタイプ的に物を見ないようにしたいものです。それぞれにそれぞれの特徴があります。

 

何かの人や集団を見る時、でき得る限りは、決めつけは排除して、「その人自身」を見ていけるといいな、と思います。

 

非モテというのもステレオタイプなのかもしれませんね。一種の。実際には、非モテという一言では表し切れないほどに人間の特質は多様です。その人はポテトチップスが好きかもしれませんし、スポーツが大好きかもしれませんし、お好み焼きを作るのが得意かもしれませんし、スペイン語を話すかもしれませんし、数学の天才かもしれませんし、美人かもしれません。このように多様な特質を考慮していけば、非モテという特徴は、その人の中のほんの一部分に過ぎない、ということになります。その人の特徴の0.00001%とか、そのくらいのもの。考えようによっては、それほど極端には重要なことではないかもしれません(重要度の事象別の割り振りはそれぞれが好きにすればいいと思います。非モテを気にしたいのなら、気にするのも一つの手だと思います。本当に好きにしていいと思う。本当に)。

 

人間をひとくくりにしてしまうことには、ステレオタイプでものを見てしまう危険が常につきまとっています。

 

なので、僕の好みとしては、ステレオタイプ的でない人が好きかもしれません。どちらかと言えば。

 

極力は、ゼロベースで考えていけるといいな、と思います。

 

ステレオタイプで判断すると楽なんですよね。考えなくていいから。

 

思考は決して万能ではありませんが、適度であれば、有効性もあるものと思いますので、ステレオタイプも上手く利用しながら、思考も適度に利用していけるといいな、と思います。

 

まとめます。

 

 

1.ステレオタイプ思考よりもゼロベース思考が好き

2.非モテという一言だけで人の特徴を表現しきることはできない

3.好きな人が好きな人