魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

「能力」についての個人的で簡潔な意見の概要

お久しぶりです。

 

今日は能力や美と呼ばれるものについて軽く考察します。

能力とは「何かができる力」のことです。

美とは「感動を引き起こす力」のことです。

では、高能力の高能力たる所以とは何でしょうか? それは感動を引き起こすことです。

ただの能力の場合、感動はなかなか引き起こされません。しかし、例外的に卓越した立派な能力の場合には、並々ならぬ感動が引き起こされることがあります。そうした感動という現象における情動の動きは、嫉妬のような形態を取ることもあるし、憧憬のような形態を取ることもあります。能力とは美です。

さて、では次のような反論についてはどう応えるべきか? 「能力とは純粋に量の問題であって、美のような質的なものではない。例えば、学力テストなどは量として成績を掲示しており、しかしそれは能力を表すことに成功している。つまり、能力は質的な美ではなく、量の問題であり、あなたの主張は根本的に間違いである」

なるほど。たしかに、そのような意見もありうるかもしれません。この論に対しては僕ならこう答えます。「学力テストは量によって簡易的に能力を指示すかもしれないが、量とはその測定に単位の統一を必要とする。しかし、人の精神はその原理から言って多様なものであり、その単位は統一可能なものではない。つまり、本当に正確な意味での各々における精神に派生するものとしての多様な能力という事象を量として測定することは不可能である」

では、次のような反論はどうでしょうか? 「量は質に転化する。あくまで量があってこその質なのだ。量がなければ如何なる質も存立可能ではない。もしも美が質的ものなであるのならば、美とは副次的なものに過ぎず、能力の根本としては不適である。しかし美とは能力に関連した根本的な事象としての側面を持つ可能性がある。ならば、美とは量である」

なるほど。おもしろい意見だと思います。この論に対しては僕ならこう答えます。「確かに量は質に転化しうるかもしれない。しかし、量が質に転化することと量と質が同一であることとは異なる。つまり、量から転化する質の存在はありうるが量から転化しない質の存在もありうる。つまり、少なくとも量は質のすべてではない。例えば、質の高い英才教育を受けている英才児と質の低い英才教育を受けている英才児では、その才能の質が異なるであろう。質の高い英才教育をある程度の量受けている者と質の低い英才教育をその程度の量受けているものとでは、その才能の質が異なるであろう。より分かりやすく言えば、質の低い怠慢な時間を送ってきた人と質の高い修練の時間を送ってきた人では、時間の量としては同じでも、その才の出来栄えには雲泥の差が生じるであろう。そしてこの時、怠慢と修練とは異なる概念である。怠慢と言う時には一般に怠け過ぎている状態を言うのであり、怠けるという時には勉学や何らかの鍛錬とは質的に異なることをしていることを言うのである。修練するという時には、一般に努力を旺盛に行っていることを言うのであり、勉学や何らかの鍛錬をしていることを言うのである。さらにより簡潔に言えば、ピアノを弾く人と絵を描く人では、その能力の質は異なる。ピアノの技能が30レベルになった時点でその技能が絵を描く技能に転化するということはある程度はありうるのかもしれないが、基本的には稀である。なぜなら、ほとんどのピアニストが絵描きであるわけではないし、ほとんどの絵描きがピアニストになるわけではないからである。このようにそれらの差異とは質の違いであって、量の問題ではない。このようにこの世には質の問題というものがあり、それは量の問題ではない」

さて、では次のような反論は?「ピアノと絵とは原子のレベルまで化学的に分解すれば、すべては原子の挙動として統一された単位で測定することが可能である。したがってピアノの技能と絵の技能とは統一された単位によって測定することが可能であり、その根本として量である」

僕ならこう答えます。「化学的に原子レベルまで分解されたピアノや絵は、現象としてのピアノや絵とは質的に異なる。したがって、それらを同一の俎上によって論じることはできない。そうした原子レベルまで分解されたピアノなどが持ちうる音楽の存立可能性は否定はしない。音楽に限らず芸術とは誰にでも開かれたものである。しかし、それと芸術に関する能力という概念との間には差異があり、質的に異なる」

大体、以上のような感じで僕は考えています。似たもの同士ならば、近似的に単位が同一に近くなる可能性はありますので、ある程度、擬似的に量として能力を捉えられるかもしれません。しかし、その能力が卓越している場合には、そもそも比較可能な統一された単位を共有する個体がいないか希少であるため、量として捉えることは難しくなるのではないかと思います。つまり、量的能力の存在はある程度あり得ますが、同時に質的能力というものがあり、質的能力は量に還元しづらいのではないか、という一つの仮説です。統計を取るにしても、卓越した人々についてのデータはあまりに数が少なく(彼らは稀少ですので)、相当の母数を確保できなければ、有効な統計的判断は難しくなるのではないか、とも思います。本来的に質の異なるもの同士を混同するのも判断のエラーにつながると思いますし。

このような感じで、僕個人は能力とは質的な問題であり、量の問題ではない、と考えています。ただ、前述しました通り、擬似的に、というか一種の比喩としてならば、能力を量として捉えることができるかもしれないとも考えます。メカニズムは不明ですが、なぜか厳密な理論よりも比喩の方が人に伝わりやすいように思われます。僕たちは分かりやすく説明するときに、よく例え話つまり比喩を行うと思うのですが、比喩には多くの人に開かれた普遍的な特性があるのかもしれません。この点も研究してみるととても面白いかもしれません。

 

さて、僕は能力とは質であり、美であると考えています。つまり、それらは経済的な意味での貨幣などの量概念とは異なります。そして、量の分配はありえると思うのですが、質の分配はとても難しい。ピカソの絵を七十億等分して、世界の人々が所有するというのも一つの手なのかもしれませんが、基本的にはそれは紙切れとなってしまい、ピカソの渾身の芸術は毀損されてしまった……という結末になるのだと思います。社会的な地位も分配可能です。僕たちはそれをよく行っており、医師には医療の権限を分配し、裁判官には司法の権限を分配しています。権力には強さの程度があり、程度とは量の概念に関わるからこういうことが起こります。

では、「能力の程度」はどうでしょうか? それは量なのではないでしょうか? 量であれば、分配可能なのではないでしょうか? 可能でしょう。それが質的な能力でなければ。量的能力であれば、量の分配によって、能力をある程度ならば分配することが可能であると思います。例えば、勉強時間の足りない人がいたら、勉強時間の「量」を増加することで、ある程度の能力の発達を見込むことができます。しかし、同じ時間勉強させても、それぞれに能力の「質」は異なります。つまり、ここでも、量と質は同一のものではありませんし、また、質とは量から転化するばかりのものでもないということがお分かりになるのではないでしょうか。煮込み料理をする時でも、ただ漠然と煮込み時間の量だけを増やせばいいのかと言うとそういうわけでもないものと思います。様々な質的な能力や質的に異なる諸技術の集積がある質的な条件を満たしたときに、料理は美味になります。もちろん、その過程には量の概念も混入しますが(調味料の量など)、料理が「格別に」美味しいなどと言う場合には、やはりそこには格別な能力が根付いている可能性が高く、また、格別な能力とはその特性上、質的なものとするのが最適打なのではないかと思います。フライパンの具材に塩を振る、という単純な動作にも質は現れていて、これは量として表すことが困難です。例えば、「フライパン」とは「1」ではないし「26548」でもありません。フライパンはフライパンです。このように僕たちの身近には量として表せない質的な現象が多く根付いており、量とは異なるそれらの質を混同して扱うことはあまり賢い方法ではないでしょう。

そして、僕個人は「能力」については量よりも質の方が関連性が大きいであろうと考えています。能力のある人の体を等分に切断してみんなで分け合っても、能力は能力者を切断して殺した瞬間に消失してしまいます。能力は質であって、量ではない。したがって、分配できない。そういう事情があるので、量を基準にした思考の理路と言うのは時に危険なものになり得ます。本来質であるものを量の問題であるとして、身体を切り刻まれた能力者の気持になっていただければ、そこに潜む残酷性に気づく手掛かりにはなるのではないかと思います。

 

また、能力による差別はいわゆる優生思想であり、これは公的には厳密には認められません。したがって、「能力差別」は「悪」です。

では能力者を殺してもいいのか? これは生存権に抵触するので、成り立ちません。

では能力のない人は差別を被ってもいいのか? いわゆる優生思想に抵触するので、これも成り立ちません。

つまり、能力者を排除せずに、能力のない人への差別を抹消すればいい。つまり、能力者と非能力者とは平等であるというふうになればいい。双方の資質が毀損されることなく、のびのびと発揮されればよい。ひとまず、そうなりますよね。

さて、もう一段階思考を進めますと……。

すべての人が平等であるためには、その世界には個性や多様性が存在してはなりませんね? 個性や多様性があれば、どうしてもそこには差異が生まれ、それが差別の温床になります。

つまり、個性や多様性はこの時、排除されてしまいます。それが「平等」の究極の姿です。

すべての人が同じ顔をして、同じことをし、同じ世界体験を持つ、「同一」づくめな世界。それが「平等」の究極の姿かと思います。これはおかしいということが直観的にお分かりになるかと思います。一応、もう少し省察しますと……

全てが同一であり、多様性が存在してはならない世界を理想にするなら、すべては平均化されていくでしょう。つまり、最終的には究極的に平均的な唯一者のみがその世界においては残るのであり、僕たちのような多様な個性を持った普通の存在は一人残らずすべて排除されます。平等思想とは究極の優生思想に転化し得る側面があります。それと言うのも、本来質的なものを量と混同したがためにそうなります。能力は質です。それは「平等」には分配できません。

では、能力のある人を人体実験にかけて、能力を再現するのはどうか? 「科学」的にはそういう発想もありうるかもしれません。この場合は、明確に能力者への人権侵害ですので、ダメであることは直観的には分かりやすいのではないかと思います。一応、もうすこしだけ書いておきますと……

再現性を基礎とする科学的分析では、再現性がないか、薄いものについての正確な知見を得ることは難しい。一回性の出来事を科学的に検証することはとても難しい。天才などの格別な才能が分析対象であれば、特にそうでしょう。つまり、量的な科学手法によっては、基本的に質的能力へのアプローチは困難であろうとする仮説です。ご参考下さい。そもそも簡単に再現されるものであれば、それはありふれたものなのであり、つまり抜きん出たものとしての「才能」ではないはずです。どんなに人の体を切り刻んでも、人の本質には到達できません。

もう少し実利的な観点からも、能力について記述することもできます。単純に、能力の高い人を能力の低い人が利用すればいい、という話なのですが。能力の高い人は少数派なのですから、能力の低い人達は数の上では高能力者に勝っています。だから、徒党を組めばよい。徒党を組めば、ファシズムによる崩壊の危機は生じ得ますが、高能力者は利他的な人がもっぱらですから、ファシズムへの警鐘を鳴らし助けてくれるはずです。そのようにして、高能力者の高能力を利用するだけ利用すればいいのです(しばしば、それでも徒党による暴走は止まらず、惨劇が繰り返されることはありますが)。ファシズムのような極端な事例は除けば、高能力者の能力を促進して、低能力者はそれを適度に利用すればよい。一人で高能力者を独占すれば、他の嫉妬により排除されますので、したがって、高能力者とはみんなの共有物としての側面があります。独占してはならない。また、高能力者であれば、寛容な人が多いはずですので、分け隔てなく、みなさんに援助してくれるのではないかと思います。

難しい点なのですが、高能力の人ほど、奉仕に見返りを求める可能性は低いと思います。彼らはとても利他的なので。そして、とても優しいです。あなたが困っていれば、きっと助けになってくれるのではないかと思います。ただ、この知識というか体系は、表上は否定しておいた方が社会がよく機能するかもしれません。もしも、これらの仕組みについての質的な記述に擬似的な量によって反駁可能であれば、そうした擬似的な反論によってこれらの知見を隠蔽するというのは一つの手としてはありなのかもしれません。なぜなら、これらの知見を利用し過ぎる人が出てくるかもしれないからです。

例えば、無償ボランティアの過剰によって、労働力を搾取し過ぎれば、民が疲弊します。そのための口実に、「高能力の人ほど、奉仕に見返りを求める可能性は低い」などと使われてはたまったものではありませんね(笑)

どうしても、ここに書かれた知見などを援用したい場合には、極力分かりづらく書くというのも手かもしれません。すると一定の読解力がある人にしかその真意は伝わりづらくなるかと思います。

能力者は次のことを公言しておくのがいいかもしれません。

 

1:(一般的な論法における量的)能力差とは微々たるものである

2:(特殊的な論法における質的)能力差は甚大だがそうした人は稀である

3:一般的に能力に優劣はない

4:極めて特殊な場合に稀に能力への優劣の判定が「仮に」有効な場合がある

5:能力の高い人を崇拝する必要はない

6:能力の低い人も能力の高い人も各々に好きに生きていけばよい

7:多様な能力があるので、能力の高低は一概に言えるものではなく、その判断機構は極めて複雑なものとなる。

 

非能力者は次のように考えるといいかもしれません。

 

1:能力の高い人は確かにすごいが、彼らは数において劣っており、それ自体では脅威ではない。

2:政治においてもしばしば多数派の威力は甚大である

3:適切に仲間と連携すれば、高能力者と低能力者は実質的に対等な関係である。三人寄れば文殊の知恵。

4:高能力者も人間であり、人権を持つのでわざわざそれを侵害して、貴重な労働資源を損なうことは合理的ではない。

5:仲間との緊密な連携によって高能力者と対等な関係を築き、公正に「取引」を行えばよい。

6:高能力者に高能力者の世界があるように、自分と仲間にも世界がある。世界の大きさに比べれば、どんなに甚大な才能も小さなものに過ぎない。団栗の背比べである。

7:高能力者を嫉妬したとしても、結局のところ、彼らには彼らの辛さが多分にある。隣の芝生は青く見えるだけに過ぎない。わざわざ自分の手を汚してまで排除するには及ばない。

 

 

P.S.

さてもうちょっとだけ、能力について僕が思っていることを書きます。能力は美ですが、能力人つまり美人というのはかなり辛いものではないかと考えています。僕自身は美人や能力の高い人と特別に縁があるということはないので、もちろん正確なところは分からないのですが、僕に得られる情報から推理する限りでは、美人の立場というのはそんなにいいものでもないように思われます。むしろ、美や能力とは苦しみの象徴なのではないかと思われることすらあります。能力者や美人というのは不幸を特権的に享受している人々のことなのかもしれません。そんな憶測を感じることもあります。一般に、不幸を欲しがる人は少ないですが、彼らはやはり不幸なのではないかというふうにも僕には思われます。その意味では、不幸に適応するために、過剰な能力や過剰な美が必要とされ、その結果として美人や能力者となる……のかもしれません。色々な検討が必要な点かと思います。無論、美人も能力者もどちらかと言えば稀少のカテゴリーに入る方々だと思いますので、科学的検討は難しいと僕は考えます。才能があったり、美しかったりするということは、一般に思われるほどいいものではないのかもしれません。したがって、彼らのことを羨んだり、嫉妬したりするのにも及ばず、むしろ知能が普通だったり、容姿が普通だったりする人の方がずっと幸せである可能性もあると思います。色々な意見があるかと思いますが、少なくとも一面的な見方でもって、事の優劣を決めてしまったりするのは愚策だと思うので、天才や美人ではない人たちには、「彼ら(天才や美人)にも人一倍の苦労があるのではないか」といま一度想像してみることをおすすめいたします。

れるりりさんの『美少女嫌疑』などの曲は色々と美人などについてのイメージを膨らませるのにいいのではないかと思います。

あまり美人や能力者の欠点ばかりを暴き立てていると、僕が彼らのことを嫌っている風に思われる方もいるかもしれませんが、僕個人は彼らのことはとてもとても好きですのでその点は彼らにも分かっていただけるといいのですが(笑)

個人

人はどこかに向かっているのだろうか? だとすれば、それはどこに? そのようにいくら自問してみても、答えが出ることはない。それは一つの世の摂理だった。答えはない、という摂理。

では、世界の持つ諸所の仮定を考慮してみればどうだろうか? うーん……。それでもやっぱり答えはない。

言葉の上では何とでも言える、とするような言説もある。これは言葉が極度に理念的であり、その概念の機能が現実から相対的に切断されることが可能であるために起こる現象である。だから、僕たちはフィクションを紡ぐことができる。虚構を構築することができる。

物質とは何の集積なのか? 物質とはその基礎としてはある種の穢れの集積である。精神的な物象とはそれらに対しては高潔なもので、より上位のものである。精神は集積しない。または、精神に付随的な傾向とは非集積性である。

精神とは、力であり、意志であり、資本であり、純正のエネルギーである。精神的であることはその基本として貴い。

一般には物質的であるほどにそれは堕落であり、精神的であるほどに立派である。

例えば、金品に釣られて行動する人間はどちらかと言えば、高潔とは言われにくい傾向がある。一方、精神的に行動する場合には相対的に物質から自由であり、そうした状態は人々の尊敬を集めやすい。自身の身体という物質を捨てて誰かのことを守ろうとすることとか。こうした極限的な状況において、人間が守っているものとは物質と言うよりも、より精神的な宝物である。人間が何らかの物質を守ることもあるかもしれないが、その場合にはあまり感動的ではない。ある人が恋人の形見の指輪を守るという時、その指輪という物質そのものを守っているというよりは、それらに付随した様々な精神的な記憶や思い出などを守っているとするのが、より現実味のある説明ではないかと思う。恋人の形見の指輪。

そうした精神的な現象としての「指輪」は様々な形を取ることがある。思い出、約束、友情、愛情、品格、魂、それこそ精神そのものであったりもするだろう。

精神の領域は物質の領域よりも流れが速い。だから、僕たちの精神はしばしば、物質界の説話を追い越すことになる。想像力や創造力と呼ばれる力によって。こうした精神の働きは「予期」と呼ばれる。精神が様々な思考や演算を行うことで、僕たちは様々な物質の行く末をある程度予期することができる。しかし、その精神界の流れはあまりにも速いがために、正しく認知することは至難の業なのであり、僕たちはよく「思い違い」をする。そうした正しくない予期は「妄想」と呼ばれることが多い。

妄想と言うと、否定的なニュアンスが強いかもしれないが、それとはつまり精神的なものなのであり、その意味で、現実界と呼ばれる物質の集合に比しては、より高潔なものである。

妄想は行き過ぎていたり、足りなかったりする。

不足的にせよ、過剰的にせよ、「丁度よくない」のである。

多くの現象についてのリズムはいたずらに速すぎてもうまくないし、遅すぎてもうまくないものである。ヘーゲルを持ち出すまでもなく。

妄想には活力は備わっている。しかし、その「量」が丁度よくないものとして、一般には認識される。

つまり、活力の強度を場面ごとに適切な量となるように調整してやることができれば、妄想はもはや妄想ではなく、優れた予期として現れることになるであろう……などと「予期」することもできる。

あらゆる論理は万能ではない。それらは形式的なものに留まることも多いだろう。また、言葉は多様な論理で構成されているようである。

AならばBである。そのような概念の接続とはとどのつまり何であろうか? もしもそうした論理が足りなかったり、過剰であったりすると、私たちはそこに妄想を認知するだろう。バナナならば高分子化学である……このままでは意味不明である。

しかし、そこには確かに活力がある。要はそのエネルギーをうまく振り分けてやることが重要なのである。意味不明に見えるそれらの「無意味」の中に未だ見出されていない真理が潜んでいる、とも言える。

僕たちは、妄想に囚われて行動している人間に強く関心をそそられる。人の関心を呼び起こすということは、それ自体心、つまり精神に関わった事象なのであり、高潔な事象なのである。恐れと畏れとは無関係なものではない。

妄想が一貫していても、分裂していても、妄想は妄想である。どんなに一貫した体系を持っていても妄想として判断される事象はあり得る。分裂している場合には「支離滅裂」などの概念に見られるように、分かりやすく妄想のレッテルが貼られやすい。

そして、僕はあらゆる人が多くの支離滅裂さを持っていることを知っている。むしろ、態度や行動が一貫している人の方が少ないように思われる。多くの場合、人は支離滅裂さと一貫性の両方を抱え、それらの中間にある。それが「正常」と呼ばれやすい状態である。中間に真理があるとする言説は珍しいものではない。かなりの人がそうした構造に気づいてもいるであろう。過ぎたるは猶及ばざるが如し、というのは一つの真理である。一方で、ある種の過剰さに価値を見い出す思想もあるだろう。論法によっては、中間が過剰であるなどというふうにも持っていける。例えば、「中間の取り過ぎ」などと一言言ってしまえば、容易くそのような帰結を生じさせることができる。全てのものは脆い。そのままでは。

だから、強度を上げなければならない。さもなくば、全てのものが崩れ去ってしまうから。全てのものが崩れ去り、幾多の残酷的な放射が直接的に人々に降り注ぐその時、そこには理想も法も道徳も良心も愛も世界も存在しないだろう。夢も希望もない。「残酷さ」とは、丁度そういうものである。

さて、あなたが信じるものとは何だろうか? どのような装置を経由してどのように強度を上げるのだろうか? 分かりやすく問うならば「何を信じる?」だろうか? あなたは何をどのように媒介してどのような決断を下し、どのような行動を取るだろうか? 誰かと愛し合うのだろうか? 友情を育むのだろうか? セックスに溺れるのだろうか? 孤独を貫くのだろうか? それはあなたの自由である。いずれの場合にも、あなたが精神の強度を向上させようと努めるのならば、如何なる障害もあなたの意志を妨げることはできないだろう。あるいは、死すらも。

何が正しいのか? それは殺生をしないことであり、生きることである。理念的には全てのものが生かされなければならない。ただ一つとして殺されるものがあってはならない。そして自由であることである。ただ一つとして奴隷があってはならない。最後に愛することである。ただ一つとして排除されるものがあってはならない。それが正義である。そしてこれは自明であり、なおかつ、誰にもその根拠を証明することはできまい。どのような思考もそこに至ろうとするなら、アンチノミーに粉砕されて見事に一巻の終わりである。僕はそうした打ち上げ花火を何度も目撃してきた。あなたにはおすすめしない。無論、あなたのその強度豊かな高潔な魂が求める道なのであれば、その行く手を遮るものはないであろうけども。あなたが知ったことは何だろう? あなたが失ったものは何だろう? 僕に言えることは、何であったろう?

あなたの意志があなたの道を切り開くだろう。これも予期である。あるいは一種の夢であるのかもしれない。僕の。個人的な。

 

 

もう少しくらい大人でいれたら なんて言えただろう?

 

(Aimer, "Ref:rain" 歌詞より引用)

 

 

 

P.S.直観術は比喩です。

誤読

読書って、難しいですよね。ふと僕はそう思いました。

果して読書に正解というものが存在するのか否か……

うむ。難しい。これは僕の手に余る問題だ。

これはとても難しい問題です。

 

Este é um problema muito difícil.

 

ポルトガル語って、字面で何となく意味が分かるところがありますよね。おそらくポルトガル語自体を勉強したことがなくても。これってなんでなんでしょうね?

 

まず、’problema’とか’difícil’とかは何となくわかりやすい気がします。前者が'problem'で後者が'difficult'とかかなって感じられますな。すると’problema’は名詞でしょうので、その前にある'um'は冠詞なのでしょう。’difícil’が形容詞だとすれば、'muito'は何らか副詞的なもの。最もメジャーに考えると、'とても' とか 'たくさん' とかの類の意味になるかな。実際、スペリングも'muito' と 'much' ではかなり似ている。t⇒chというふうに歴史的な変遷において綴りが読み替えられていると考えれば意味も通るし、言語的にもさほど不自然ではない。すると ’problema’と’difícil’ は文型で言うところのO(目的語)C(補語)に当たりますから、残る'Este' と 'é' はそれぞれS(主語)とV(動詞)に当たると推理できます。'Este' はドイツ語の 'ist' に発音が似ています。つまり、これは何らかbe動詞的なものかあるいはそれに近接することの多い概念であると考えられる。また、主語ですので、動詞というよりは名詞でしょう。つまり、be動詞のそばにありやすくて、なおかつ何らかの短縮の作用を受けるほどの高頻度で使用される言語がこれにあ当たると考えられます。これはおそらく代名詞でしょう。では、'Este' に似た代名詞とは? st の形態が混入していますので、stが混入している代名詞を英語で考えると、これは 'this' 。発音的にも、'Es' と 'te' を裏返して読むと、'Tees' となるので、音素的にも 'this' に近いと言える。もしかすると、鏡文字的な読み方をした人の流派が現代にまで残存した結果、現代のポルトガル語では、'this'  的なものと 'este' 的なものが関連するに至ったのかもしれません。例えば、日本語の「か」や「し」はそれぞれ 'ka' , 'si' といったようにそれぞれ複数の音素でもって一つ当たりの文字の形態素が成立していますが、これに鏡文字的な作法を持ち込むと、「かし」⇒「しか」となりますので、音素的に見ますと、'kasi' , 'sika' となります。二つの音素を一組に考える形態素を鏡文字的に読み込むことによって、'this'と'este'のような照応関係が観測されるのかもしれません。色々と考えられて、興味が尽きませんが……。さて、最後は、'é' 。これはおそらくbe動詞でなおかつ、これに英語で近い形態素と言えば、字面の長さ的にも 'is' が考えられます。発音的にも結構近いと言えるかもしれません。すると、そのことから、'é' の前にある 'Este' は三人称単数の代名詞。ますます 'this' と関連する確率が高い……などというふうに色々と考えられます。こういう事を考えているのはとても楽しいです。

 

言語の組成とは、非常に複雑なものであるように思います。その変遷や歴史まで遡るのなら、相当量の美術的、音楽的、言語学的、歴史学的、その他諸々の様々な知識や学問に習熟する必要があるように思われます。

 

さて、そうした複雑な事情を踏まえた上で……

 

では読書とは?

 

謎です。

 

少なくとも言えるのは、読書ということを一律の基準で測り、一律の基準を他人に押し付け、例外や個性を排除し、自己中心的な仕方でもって、強制的で単純、さらに一律な「読書論」なるものを提言することはいささか、うまくは状況を反映できていないのではなかろうか? ということでしょう。様々な物事の状況とは非常に複雑なものであるように思われます。

 

「読書一つとっても、これほどに難しい問題であるのだ」、ということは言えるのかもしれません。

文章を読むという行為は非常に奥深いものであるように思われます。下手すると、電子情報と紙媒体の情報では、認知される情報自体が異なっている……などという結末もあり得るでしょう。そんなこんななので、私は紙媒体も電子媒体もどちらも尊重することにしています。実際、個人的な体験の範囲で言えば、紙媒体と電子媒体では、自分の脳にインプットされる情報が異なるように感じられます。この点はみなさんの経験なども随時調査していく必要がありそうです。

 

僕は本は好きに読めばいいというふうに思っています。

 

さて、そこで突き当たるのが「誤読」という概念です。これがまた肝です。何が誤読なのか? 何が正しい読書なのか?

 

おそらく、この問題は、人間の手の内を超えたものなのではないでしょうか。

 

僕達は神ではありませんので、物事の正邪や正誤を完璧な精度でもっては成し遂げることができない程度の器しか持ち合わせてはいないでしょう。

 

その中で、少しでも「正しい読み」なるものをしていこうと心がけることは大変殊勝な事でしょうし、場合によっては尊敬に値することなのかもしれません。ただ、僕はいわゆる「誤読」にも機能があるのではないか? というふうに考えています。

 

例えば、その世間において、正しいとされるものとは、その世間において権威とされるものに限られるでしょう。では、権威のないマイノリティは間違っているのでしょうか? もしも正しいもののみに存在価値が認められるのだとすれば、その時、マイノリティは排除を受けることになります。これはうまくない。大なり小なり争いが起こってしまいます。

 

ならば、その時代において正しいとされる権威の潮流意外に、マイナーなものの居場所としての「誤読」にもその位置を担保することが必要となるのではないか。

 

「誰が」正しい読書なるものを決めるのでしょうか?

 

なるほど。正しいものにのっとる事、それ自体は大切な事でしょう。しかし、僕たちの正義とは常に不完全なものです。正義はそれ自体、多様性であるような側面もあるように思われます。ならば少なくとも、他人に自分の正しさを単純に強制することは間違っているとも言えるのではないか? 僕にはそのようにも思えます。

 

また、誤読にはプラスの側面もあり得るのではないかと、僕は考えます。何故なら、誤読とは一種のエラーだから。

 

そのエラーには偶然性が根付いているかもしれない。そして、多くの発明は法則的なメソッドでというよりも、統計規則に反した天才的、あるいは奇跡的な所業によって、その存在を現すというのが専らな事であるように思われます。つまり、想定外の「エラー」によって、何らかの創造的な出来事が起こる可能性があるとも考えられるのではないでしょうか。

 

僕は、「誤り」を単純には否定したくなくて、そうしたレッテルを貼られた人たちを排除したくもない。だから、僕は「誤読」を積極的に肯定したいのです。

 

誤りは誰にでもあるものでしょう。それには負の側面が伴うこともあるかもしれない。でも、もしもその誤りを将来のために活かして、自身を積極的に発展させていくのであれば、その誤りは決して無駄ではない。

 

あなたの誤りも、僕の誤りも。

 

誤りとは、恐らくはコロコロと歴史という名の変遷を経ながら、その川の中を流れているうちに、角がとれて丸くなり、誰にでも受け入れやすいものとなった一つの形態なのではないかと感じることがあります。「丸」というものはこれまたとても意義深いものであるように思われます。「何が」丸なのか? 丸というものは正誤判定にも深く関わっている概念のようで、私達はしばしば、正解に対して、「丸」をつけます。丸とは一つの正義を指示しているようです。では、そうした丸を細かく砕いて、それらの砕石を厳密に整理するとどうなるのか? そこからは実に様々な方角へと分岐した石の傾き、接線が見受けられるようになります。自身の現時点で所有する方角を基軸として、あるものは東。あるものは西を指示すでしょう。少なくとも、その位相にあり得る限りのあらゆる方角を指示し得るのではないでしょうか。丸いものにはそうした一種の「広さ」が見受けられます。

 

x^2+y^2=r^2

2x+2y\frac{dy}{dx}=0

\frac{dy}{dx}=-\frac{x}{y}

 

広さには、「器の広さ」などというような概念もあり、才能の広さや徳の深さなどを表す機能があるように思われます。僕もできる限りは、「広く」ありたいものだなと思いますが、 そのためには、「丸く」なれなくてはいけない。そうでなくては、あらゆる方角という一つの集合を見極めることはできない。そのためには、歴史という名の川の中を流れに流れることで、ごつごつとした角を取らなくてはならない。そして、最短距離で何にもぶつからずに滞りなく進むというのではいけなくて、むしろ様々なものに激突しながら進むのでなければ、角は取れぬまま、温存されてしまうことになるのです。

 

したがって、僕は自分というものをどこまでも微分することで、その砕石をこの世界に広く行き渡らせるということを試みたい、というわけなのです! 発音素の同一性に基づいた意味の連関を認めるとすれば、或いは一種の精神の分析の技法としましても、この「石」は「意志」を指示し得るとも言い得る。意志を砕いて無意志に至るところにこそ、真に意志があるとも言えるのかもしれません。僕たちはたくさん間違って、それでも進むから、正しい方角へと絶えず向き直ることができる……のかもしれません。

 

 

P.S.直観術は比喩です。

Schizophrenia as a process

What kind of functions does schizophrenia have as a kind, universal one? For me it seems a bit somewhat unclear. Do you judge schizophrenia as a special symptom? Or do you judge it as a universal symptom? There will be such problems raised. In any case, I think that it is important to organize various definitions concerning schizophrenia. Because it seems that "What is schizophrenia?" Is not generally well understood.

Let us assume that schizophrenia is a universal symptom. At this time, schizophrenia is a universal symptom, so its symptoms should be universally observed. And since these symptoms are universally observed, that means they have a universal nature. If schizophrenia has a universal nature, the symptom of schizophrenia will be observed as a sort of property within many things, as the strength of its universality is extraordinary .

If schizophrenia is universal, common characteristics should be seen with other universal matters. For example, there is a possibility of having a strong relationship with art with universal power. Why can art have universal power? It is a phenomenon that can be judged by observing the function of a work of art. What is called a work of art can generally exert something on an unspecified number of people. A piece of art may impress a specific individual, but if it is understood only by that particular individual, it will generally be less likely to be considered a work of art. A work of art universally is regarded as a work of art when it resonates with an unspecified number of people. If a work of art is not universal, there will be no work of art universally acting beyond the times and national boundaries.

Also, if schizophrenia is a special event, schizophrenia remains in a special area to the last, and they will have abundant individuality in each case. In this case, as long as schizophrenia is extremely special, the theoretical typing based on some universality becomes difficult. When schizophrenia is a special one, it is difficult to make a typological judgment of "schizophrenia" itself. At this time, schizophrenia is the original creative movement each of which is so named, with its own mechanism.

But, is there such a thing? Currently there are types of "diagnostic criteria" for schizophrenia. Then, is schizophrenia universal? Or is circumstance turning back, is it a special thing?

Well, art has originality. Then, art will be special. In other words, art seems to have universality and also have special characteristics. Art is a special, yet universal one.

How about schizophrenia? Is schizophrenia special? Is it universal? If schizophrenia is related to art, schizophrenia should have an artistic nature. In other words, schizophrenia should be universal and have special properties.

For example, in the case that schizophrenia can be universally typed and there are special individual differences in each aspect, it is considered that there may be some association between schizophrenia and art . Even for art and schizophrenia, there is a feature that attracts attention. They stand out. Also, art is easy to bring a good impression, schizophrenia tends to give bad impression.

The judgment for discrimination of schizophrenia may include a moral judgment of good and evil. Art and schizophrenia both have the power to gather public attention. However, in the case of schizophrenia, the mechanism that converts evil into good may not work well. In the case of art, the mechanism works well.

Then, if it is possible to change the power of schizophrenia from the stagnant evil state to the good flow, it may be possible to sublimate schizophrenia into art. Based on these hypotheses, in thinking about schizophrenia, schizophrenia is a state in which various powers are exploding and it is in a state where it is difficult to control their powers .

And judgment of right and wrong is a moral judgment. That is, for schizophrenia, moral therapy may be effective. Morality is a mechanism to judge what is abnormal runaway and what is in a normal state.

There are various causes for causing a psychological state stagnating in humans.

However, if a person with schizophrenia can sublimate himself / herself in a morally reasonable way with marvelous vitality that schizophrenia possibly possesses, extremely enormous results can be obtained. There is such a possibility.

If you can cure schizophrenia without using any medicine, patients will no longer suffer from side effects of medication. Personally I think that expansion of psychotherapy for schizophrenia is an urgent need for human rights.

People who want to take medicine have the right to take medicine. However, those who do not want to take medicine have the right not to take medicine. In order to guarantee the right not to take medicine, it will be necessary to provide options other than medicine treatment.

I think the concept like 'open dialogue' is very interesting. Logically, it is easy to see that the dialogue can have effectiveness against symptoms such as schizophrenia. Because, in the sense that dialogue is an exchange between self and other people, it is a dynamic flow field. It can be thought that they can have the effect of converting stagnation into dynamic flow. However, those who have creative talent to actually practice it may be a minority at this time.

I myself have a diagnosis of schizophrenia, but I never felt I was inferior in particular. Each person has its own good point, there is no superiority or inferiority. That is the same for me as well as you. I personally think that my schizophrenia is a gift from God.

What if I was not schizophrenia? At that time, I realize I might not have been able to deeply involve both natural science and art. Perhaps I feel that I like science and art more than many people. Even though a person is diagnosed with schizophrenia, I think that there is a case that a schizophrenic predisposition of that person leads to some talent.

What I am writing here is only a hypothesis. However, it is true that I was given a lot of awareness and experiences from various symptoms seen as schizophrenia. Because I had such experience, I am now. I think that such a thing can be said. Schizophrenia may be a better process for life.

 

P.S.僕の未熟な拙い英語にお付き合いいただきありがとうございます。微力ながら、あなたの幸せを心からお祈り申し上げます。

情報戦術の概略

 今日は情報戦についてすごく簡単に書こうと思います。情報戦とは情報に関する戦いのことです。

 

 例えば、Aという人とBという人が敵同士であると仮定します。この時、Aの人がBの人の頭の中を混乱に陥れることができれば、AとBの戦闘はAに有利になります。つまり、敵に対し情報を用いて、混乱の状態を起こすことができれば、自身の形勢を有利な方向に持っていくことができます。

 

 こうした、形勢を自分に有利な方向に持っていこうとする利己的主体はこの世界にいくつか存在するものと思われます。世界は単純な利己性だけで回っているとは言い難いところがありますが、かなり多くのことを利己的な主体を想定することで記述することも可能です。もしかすると正しさではなくて損得勘定で動く人達が増加しているのかもしれません。その点の詳しい事情については専門家に譲るとして……

 

 さて、情報戦のお話です。情報戦は様々な領域で起こります。政治的な局面で起こることもありますし、軍事的な局面で起こることも、経済的な局面で起こることもあります。

 

 選挙活動などは政治的な情報戦の例でしょうし、敵国に対する諜報活動などは軍事的な情報戦と言えるでしょう。もう少し僕たちに身近な局面で言えば、銀行強盗とか詐欺とかあるいはマーケティング領域における顧客の取り合いとか、色々な情報戦が考えられます。

 

 今回は、どちらかと言えば、僕たちに身近な存在であると言える、経済活動における情報戦について書いてみましょう。うまく書けるかな(笑)

 

 経済活動の情報戦が、単純に利己的な経済的主体によって行われるとすれば、また、その人たちが創造を行わず、既存のリソースを奪い合う類の主体であるとすれば、この時、その主体は、「より悪いものをより良いものに見せかける」ことを目指すと考えられるでしょう。

 

 なぜなら、創造を行わずに、既存のリソースを奪い合うのならば、基本的にリソースの増加は生じないので、自分が得するための経済活動を行うためには、自分以外の他者を悪い商品の方に誘導することで、自分が良い商品を確保する必要が生じるからです。

 

この時、この単純に利己的な経済的主体は、次のことを行うでしょう。

 

1.善いものに悪評を流す

2.悪いものを他人に提供する

3.善いものを自分が独占する

 

 つまり、善いものに悪評を流したり、悪いものを他人に提供したり、善いものを自分達だけが独占している場合、この時、その利己的な経済的主体はある種の情報戦を行っていると考えられます。

 

 それはどのような情報戦でしょうか?

 

 非常に一般的に述べれば、生存競争における情報戦でしょう。つまり、自分が生き残るために、こうした情報戦が行われると考えることができます。

 

 人間のこうした利己的な傾向を完全に相殺し切ることはとても難しいものなのかもしれません。そもそも、ある程度の利己性を持つことができなければ、自分に利する行為自体を取りづらくなってしまうので、結果的に、そうした非利己的な人間は生き残ることが難しくなってしまう可能性もあります。

 

 では、僕達はこうした情報戦の満ち満ちた環境においてどのような方策を講じるべきでしょうか。次のことが有効であると言えます。

 

1.利他的な人を助ける

2.利他的な人に善いものを提供する

3.利他的な人を利己的な人から守る

 

利他的な人を助ければ、善いものに対する悪評を相殺できます。利他的な人に善いものを提供すれば、利他的な人はより善くなり、そのより善くなった利他性は広く社会に波及していくと考えられます。利他的な人を利己的な人から守れば利他的な人を確保していき、利他的な人をうまく確保し、その力を適切に運用できれば、より利他的傾向の波及を見込むことができます。

 

 

P.S.なお、真の利己性と真の利他性は相反しない可能性があります。なぜなら、真に利己的ならば人間が一人では生きていけないことを踏まえて、利他的な振舞を為すであろうから。逆に真に利他的ならば自分が生き残っていなければ仲間を助けられないことを踏まえて、利己的な振舞を為すであろうから。

 

 また、「真偽」という問題も、これまた一大問題ですね(笑) 真に真なのならそれは偽でしょう。なぜなら、真とは一種の矛盾であり仏教的な「空」であるから。そして、真に偽なのならそれは真でしょう。なぜなら、偽とは一種の矛盾であり、ならばそれは一種の仏教的な「空」であろうから。真偽とは陰陽のようなものなのかもしれません。どちらかが欠けると、どちらかが欠けてしまうような何か。不思議です。

 

 

 少し情報戦術を応用してみましょう。

 

 ネットにおいてAがBの悪口を言っている。また、AもBも商売をしている。Aは利己的であり、Bは利他的であるとする。

 

 この時、Aはどのような手を打ってくるか?

 

 まず、Bの持つ美質をなかったものとし、細かな揚げ足を大量にとってくるでしょう。その上で、自分の持つ悪いものの価値を喧伝し、悪いものを人々に提供することで、儲けようとするでしょう。そして、善いものを見つければ、その善いものの価値を人々に伝えず、単純に利己的な理由でもってそれらの善なるものを独占するでしょう。

 

 では、これに対し、Bはどのような手を打つべきか?

 

 まず、自身や利他的な仲間の持つ美質を正確に把握する。次に、粗悪品の提供者を把握した上で、その粗悪品の悪い点を正確に把握および、批判する。そして、善いものを得た場合、それらを仲間と積極的に共有する。最後に、単純に利己的な人たちに利他的な行動傾向の価値を説くことで、利他的な共同体へと誘導する。そこからは心理学的な「シェイピング」を行っていくことで、単純な偽の状態から真の偽の状態へと誘導する。そして、その誘導された人が真の生き方も偽の生き方も偏りなく知り、正しい判断を下せるようになった時点で、後はその人たちがどのような人生を選ぶかを自由に自己選択してもらう。なお、これらの情報戦下にあっても、極力、攻撃や牽制、強制は行わないことが大切。どうしても必要な場合にのみ、正当防衛としてのみ、攻撃や牽制および強制という行動は取られる可能性もある。

 

 大体、こんな感じです。

The reflecting tier who is creating the euphonious future

この世界には何もないと私は思った。まったくネガティブな意味ではなく、単に「無」なのだ。

しかしこの世界には何かがあった。

それが何なのかは今一つ私にもわからなかった。

私の友人のツクツクボウシが言った。

「君は何かにつけて考えすぎる。そういうのって本当によくないと思うね。うん。本当にね」

そう言って、ツクツクボウシはブイサインをした。(^^)v

 

ツクツクボウシは数学が得意だった。私とは違う学校に通っていて、そもそも私が住んでいる場所からは遠い所からやって来た人だった。

店でコーヒーを飲んでいる時に知り合った。

たまたま同じ喫茶店で同じ時間に同じ本を読んでいたことも手伝って、私たちは存外すんなりと打ち解けることができた。

ツクツクボウシは数学の呪文を唱えるのが得意だった(私には何かの魔法の呪文に聞こえた)。

私はツクツクボウシほどには数学に卓越しているわけではなかった。ツクツクボウシの見識の広さには目を見張るものがあった。しかも、その知見の数々はかなりの洞察眼に支えられていると見えて、鋭いことこの上なかった。私も心をグサリグサリと何度も抉られる羽目になった。

ツクツクボウシは最初の頃こそ表面的な話しかしなかったが、徐々に少しずつ話の幅や深みが増してきて、それはそれで面白い話の数々だった。

ツクツクボウシは蝉なので、空を飛ぶことができる。ツクツクボウシの話はまさに空を自在に飛び回る類のものだった。そして時々木にとまって休む。ツクツクボウシはそういう蝉だった。

一方で私は蟻なのでどちらかと言えば地を這う類の生命体だった。そしてどちらかと言えば、組織に埋め込まれている――あるいは埋め込まれざるを得ない――そういう類の生物。

ツクツクボウシはある時、出し抜けに言った。

「一緒に世界を救おう!」

私にはツクツクボウシが一体何が言いたいのかわからなかった。

「世界って何?」

と私は反射的に返答した。

「世界は世界だよ!」

ツクツクボウシは言う。

しかし、まずもって言うまでもないことなのだけど、私には世界を救うだなんてそんな大それたことを成し遂げる度量などあるはずもなかった。私は小さな一匹の蟻で、どうしたってツクツクボウシのよう空を飛んだり、高い高い木々にとまり歩いたりすることなんてできなかった。木を登ることはできたけど、それは一歩一歩と歩みを着実に進めていくことでやっとできることだった。人間に踏み潰されてしまえば一巻の終わりである。それでも蟻である私には基本的に地を這う以外の選択肢はなかった。蟻なので、人権もなかった。

「世界が世界なのはわかったよ。でも私には世界って全然わからないよ」と私は言った。

「大丈夫。君と僕ならできるよ!」とツクツクボウシは言った。

「私は蟻なので、群れから離れて生きることはできないよ」

ツクツクボウシは笑う。「それは違うよ。違う」

「何が?」

「君は蟻じゃないよ。そしてついでに言えば私もツクツクボウシではない。私たちはそうだな……何かだよ」

「何かって?」

「何かは何かだよ!」そう言うと、ツクツクボウシ(仮)は例の呪文を唱え始めた。ツクツクボウシの唱える数式の数々を私は完全には理解できなかったけれど、とても説明はうまいらしくて、かなり高度らしい知識もそれなりには理解することができた。私の数学が多少なりとも上達した要因にはツクツクボウシの教授があったことが挙げられるかもしれない。独力では今よりもさらに悲惨な数学力となっていたことだろうと思われる。

「私がツクツクボウシである確率は50%。君が蟻である確率は0%。君はどちらかと言うと蝉しぐれという感じだと思う。複数なんだ」とツクツクボウシは言った。

ふむ。ツクツクボウシから見ると、私はどうやら複数らしい。複数って何だ?

「複数って何?」と私は言った。

「君の中には何人もの君が……的な話だよ!」ツクツクボウシはそう言って笑った。

私の頭はざわざわと騒がしくなってきた。

「はいはい。ストップストップスト~ップ」と言ってツクツクボウシは私の身体をギュッと抱きしめた。「大丈夫大丈夫。大丈夫だよ~ダイジョウブだとも~。ほーらあなたはここにいるよ~」

私はツクツクボウシの腕の中でしばらくじっとしていた。気付くと、ツクツクボウシと私は公園のベンチで一緒にコーヒーを飲んでいた。

「――そうなんだよ。人間の心ってとても複雑でさ……」とツクツクボウシは言っていた。

話の脈絡がよくわからなかった。

「ふーん」と言って、私は取りあえず相槌を打っておいた。こういう事は別に珍しいことでもなかった。私はどちらかと言えば、ボーっとしやすい性質の蟻(仮)のようだった。

ツクツクボウシは優しそうな目で私のことを見ると、私の冷えた手を握った。そしてぽろぽろと泣いた「大丈夫。大丈夫だからね」とツクツクボウシは泣きながら言った。

ツクツクボウシは言う。「楽あれば苦ありって言ってね。人生って結構うまくできてるもんだと思うよ。私はそう思う。君は優しいけどね、ちょっと間違ってるんだなあ」

「何が?」と私は言った。自分の間違いについて思いめぐらすとたくさんありすぎてどれがどれだかわからなかった。

「いいかい? 自分を変えるのにも限度があるんだ」とツクツクボウシは言った。「君が悪いことをしていない時は、君は悪いことをしていないんだ。もちろん、君が悪いことをした時はきちんと自分を改めなければならないかもしれない。でもさ、全てのことがそうじゃないんだよ。君が悪くないこともあるんだ。君の他の人に物事の是非についての責任があることもあるんだよ? わかるかな?」

ツクツクボウシの話は何となくわかるようなわからないような曖昧な話に感じられた。

「わかる……ような?」と私は言った。

ツクツクボウシは優しい笑みを浮かべながら言う「時には人のせいにすることだってあっていいんだよ。全部自分のせいだなんて思っちゃだめなんだよ。ね?」

ツクツクボウシが善意で私に何かを言ってくれていることはわかったけれど、今までの自分の生き様を考えてみると、どう考えても自分が悪いように感じられてその感覚を変えることはとても難しかった。

「ごめんね。困らせて」とツクツクボウシは言った。そして私の手をぎゅっと握った。

私は特に困ってはいなかったので、ツクツクボウシに「大丈夫だよ」と返答した。そうすると、ツクツクボウシはまた泣き出してしまったので、今度は私がツクツクボウシを抱きしめることになった。

ツクツクボウシどうしたの? 何か辛いことあったなら私でよければ相談にのるよ」と私は言った。

「私あなたのこと好きなの」

ツクツクボウシは言った。続けて「でもあなたは私のことが嫌いなの」と言う。

私にはツクツクボウシの言っていることが、また呪文のように聞こえた。そうこうしていると何だか眠くなってきた。風の音が聞こえた。それと抱きしめたツクツクボウシの呼吸音と心音が聞こえる。大好きなツクツクボウシの心音を聞いていると余計に眠くなってきた。

ツクツクボウシのこと嫌いじゃないよ」と私は言った。

「うん」とツクツクボウシは言った。

ツクツクボウシ泣かないでね。違った。泣いてもいいけど思いつめないで……って言うのも違うな。言葉って難しいというか、何と言うべきかわからないんだけど、とにかく大丈夫だからね」

「うん」

「大好きだからね」

「うん」

「大丈夫大丈夫」

「うん」

ツクツクボウシの話は私には何だか難しくて私にはわからないところも多いけど」

「うん」

「でもね……多分だけど……」

「うん」

ツクツクボウシのこと……」

「……」

「……」

 

 

P.S.

直観術は比喩です。

勉強のメリット

今日は「勉強のメリット」について考えてみます。



まず、「勉強」とは何か。



これは、「学ぶこと」です。



「学ぶ」とは何か。



これは、「知ること」です。



「知る」とは何か。



これは、「理解すること」です。



また、理解するとは、「秩序づけること」です。

例えば、「数学を理解する」という時、それは、数学の体系を自分の中で「秩序づけること」を意味します。もしも、体系がバラバラで、秩序立っていないのなら、少なくともそこにいわゆる「意味」は成立することが難しくなります。これを「無意味」と呼ぶこともあります。しかし、無意味にも機能はあります。例えば無意味を一概に否定してしまうと、意識においてまだ意味を持っていない曖昧模糊とした感情などの現象が否定され、ないものとされます。本来あるものをないものとするのは錯誤になります。よってエラーが起きます。ならばこうした認知錯誤を極力避けるためにも、一種の「曖昧さ」、つまり秩序立っていない、未だに意味を理解されていない、「無意味」なものをあまり潔癖に否定し過ぎないことがある程度有効になります。無意味には曖昧さを守る機能があり、曖昧さは様々なスペクトラムにおける「グレーゾーン」を守ります。白黒つけることだけでは、こうした曖昧さとしてのグレーゾーンは守ることができません。

さて、ここで、私は、この文章によって、「無意味」に「意味」を持たせています。つまり、「無意味」を秩序立てています。しかし、秩序立ったものは意味を持っており、本来、無意味ではないですので、ここに記述された無意味は、本当の無意味ではない、とも言うこともできます。つまり、本当に無意味を守るためには、「無意味には意味がある」と言うのではなく、「無意味は無意味である」と言う必要がある、と言うこともできます。つまり、「無意味は無意味だからこそ意味がある」、という逆説的な構造になります。この時、次のことが言えます。



1.意味は無意味である

2.無意味は意味である



つまり、秩序立てること(意味を理解すること)は秩序をバラバラにすること(無意味にすること)と、ある意味、表裏一体である、とも言えます。よって次のことが言えます。



1.秩序立てることは秩序をバラバラにすることである

2.秩序をバラバラにすることは秩序立てることである



ここで、秩序立てる行為、意味を理解する行為を「勉強」と呼んでいることに着目してみましょう。では、無意味な行為は何と呼ばれるでしょうか? 勉強の反対の概念であるこれを、「遊び」と呼びましょう。この時、次のことが言えます。



1.勉強とは遊びである

2.遊びとは勉強である



この時、勉強と遊びは表裏一体となっています。

ところで、遊びとは一般的に言って、楽しいものですね。

したがって、遊びが勉強そのものだと考えた場合には、勉強はある程度楽しいものであると考えることもできます。



勉強とは、秩序をバラバラにしたり(無意味な遊び)、秩序を構築したりすること(意味ある理解)です。



つまり、勉強とは、「秩序を絶えず再構築し続けることだ」、と言えます。



勉強とは「無意味だから意味がある」という類のものになります。



なぜなら、既に書いたとおり、「無意味が曖昧なグレーゾーンを守る」からです。

もしも、これらのグレーゾーンが失われた場合、どのようなことが起こるかについて考えてみます。



世界から曖昧さを排除すれば、すべてをプログラムしようとして、その上ですべてをルーチンで動かそうとすることになります。その世界では白黒はっきりしたものしか着目されず、曖昧なグレーゾーンは徹底的に排除されます。こうした排除を許す場合、曖昧な領域に属する多くの人や事柄が排除されます。



例えば、男なのか女なのかわからない容姿や心を持った人を想定しましょう。ここに、先ほどの「白黒はっきりさせる」という原則をそのまま適用すると、この人は基本的に排除対象となることになります。なぜなら、男なのか女のか、「曖昧」だからです。



もしも、白黒はっきりと決定しない曖昧な領域としての「無意味」が守られるのならば、こうした排除をあらかじめ防止できる可能性があることになります。



こうした例は基本的にたくさん挙げることができますので、みなさんも気が向いたら、色々考えてみると面白いかもしれません。参考までにもうひとつくらい例を挙げておきます。



例えば、時に「恋」というのは、それ自体安定的ではなく、感情の起伏を伴った不安定で曖昧とした感情であるともある程度言い得る場合もあると思います。そうしたはっきりとしない恋は、「淡い恋心」などという言葉で呼ばれることもあります。しかし、そうした濃淡のはっきりしない、淡い恋心はその存在の曖昧性から、白黒をはっきりさせるという環境のもとでは、排除の対象になります。このことから、無意味が失われて、過剰に意味づけばかりがもてはやされると、淡い恋心が社会から排除されてしまうと考えられます。



このように、グレーゾーンの排除、曖昧さの排除、無意味の排除は社会から中間的な多くのものを排除し、多様性を損ないます。多様性が損なわれれば、人々の生き方が画一化して、自由な生き方を選ぶ権利や自分のことをそれぞれに自由に判断する権利も損なわれることになります。プログラムから逸脱した自由な領域、曖昧なグレーゾーンの領域が、「無意味」という姿を取って、人間の自由な行動をある程度守っています。



そして、勉強とは、絶えず秩序を再構築し続けることであり、それ自体、プログラムから逸脱(無意味)的であるとともに、プログラム(意味)的でもあります。

絶えず秩序の再構築をし続けるということは、絶えず秩序の破壊と構築がなされ続ける状態であるとも言えます。つまり、勉強とは、秩序を新しく作り変え続けること、であるとも言え、「創造し続けること」であるとも言えます。創造はそれまでなかった新しいものを創り出すことですから、それまでなかったものはすぐには理解されないことも多く、つまり、すぐには「意味」を持ちづらいです。ならば、創造とは、基本的に「無意味」なものです。そして、その無意味なものが、やがて僕たちの生活に多大な意味をもたらす場合があります(冷蔵庫とか洗濯機とか創造した人はすごいですね。彼らの行った「無意味」のおかげで、私たちの生活は便利になり守られています)。



その意味で、勉強とは、絶えず「変化」し続けることである、と定義づけることもできます。



ならば、自分を変化させたい場合には、自分が勉強をすることが有効となります。



どのように自分を変化させていくかは、人それぞれであり、一概に白黒はっきりとは言えず、曖昧で、グレーゾーンです。なぜなら、創造、変化とは、無意味であり、それ自体曖昧なものなのであり、それが「勉強」の正体である、ともある程度言えるからです。



いずれにせよ、今がどんな状況にあるにせよ、もしも、なんらかの変化を求めるのならば、時に勉強をすることが有効な手段になり得るとは言えるのではないか、と思います。



以上のことから、勉強のメリットをまとめます。





1.何らかの「変化」をしたい場合には勉強が有効

2.勉強は無意味で曖昧だから創造的でなおかつ意味がある

3.勉強は無意味で曖昧なものだからこそ多様性と自由を守ることができる



今の自分から変わりたい人には、「無意味」で「曖昧」な「勉強」がおすすめです。