魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

佐奈と小夜

 佐奈は小夜と仲良しである。とてもとても仲良しだ。これ以上ないくらいに。

 佐奈は小夜とたびたびセックスした。秘密のセックスだ。何せ、佐奈も小夜もどちらも性を拒絶していたので、通常の性的な規範からは明らかに逸脱していたし、そうした<異常性>というものは世の人々には拒絶され、彼女たちの間に生じている幾多の事実の類が公に露見することには、大惨事となることが目に見えていたからである。普通、人々は自分とは違うものを嫌う。孤独なものを。

 佐奈は引きこもりがちな生活をしていて、インドア派だ。

 対照的に、小夜は、外交的な気質で、何事にも挑戦してみるという傾向があった。

 佐奈は記憶力にずば抜けているが、小夜はよく忘れた。しかし小夜は極めて運動神経が良く、創造的な資質に恵まれていた。

 まったく共通点がないかに見える二人だった。おそらくは、相補的な部分すらないだろう。彼女たちはしばしば喧嘩した。多くの理論的見地において、どんなに議論を重ねても、永久に一致を見ることがなかった。

 もしも、<意見が同じ>ことが仲の良さを示す証左なのだとするなら、彼女たちは間違いなく仲が悪かった。

 にもかかわらず、彼女達の互いに対し抱きあっている感情は愛に他ならなかったし、それは相補性にも還元され得ないような、圧倒的な互いの異質性に裏付けられた愛であった。

 

 佐奈はプログラミングをしていた。あるデータの相関係数と共分散を調べる簡単なプログラムだった。使っていた言語はPythonだった。佐奈はプログラムをしているうちに、だんだんと小夜の滑らかな肢体のことが思い出されてきて、ムラムラした。しかし、佐奈はそれをバネにして、より意欲を旺盛に、学習や実践に乗り出す気質を持っていた。ただし、インドアである。佐奈はありとあらゆる情報を普通の人達よりも容易に記憶することができた。スポーツなどの運動も自分の記憶の中に構成された範疇に収まる領域のものであれば、とても得意だった。佐奈は純粋に<記憶>が好きだった。記憶的な人間である。記憶を愛した。

 対して、小夜は非記憶の人である。まさに、佐奈と小夜が巡り合えたのは奇跡的な出来事である。何せ、彼らの領域は全くと言っていいほど、共通点がなかったから。強いて言えば、彼女たちは自分の意志を持っていた。つまり、周囲の常識に流されることによって異質なものを排斥することがなかった。彼女たちは異質なものを愛する、という性質を持っている。小夜は、ポンポンポンポンと次から次へと、見事に、様々なことを忘れた。しかし、その<柔軟性>は佐奈をはるかに上回っていた。なんでもすぐにマスターするが、なんでもすぐ忘れる。そういう資質だった。表面上は。

 

 佐奈は絵がとても上手で、小夜は音楽がとても得意だ。佐奈は絵画的で、小夜はとても音楽的だ。佐奈は直観像記憶を持っていたし、小夜はある種の絶対音感というか共感覚のようなものを持っていた。彼女は佐奈にだけそのことを話していた。小夜は「霊が見える」とよく言った。

 小夜によれば、付喪神とは共感覚現象のことで、付喪神を<モノにする>ことで様々なことを記憶なしに、己の術とすることができるのだという。

 佐奈はある時、小夜のその資質について向学心を持った。

付喪神というのは一種の抽象法則みたいなもの?」

 佐奈は小夜にそう尋ねた。

 小夜は一つ頷くと、

「私は確かに抽象的。」そして、「貴方は具体的だね」

 と言った。

「小夜はIQ的なのかな?」

 佐奈は腕組みをしてそう聞いた。ついでに頬を掻いた。

IQ?」

 小夜は笑った。

 ちなみに佐奈には何が可笑しいのかは分からなかった。

 

 佐奈はよく<ハッキング>をした。しかし、彼女の言うハッキングは、コンピュータ領域に限定されるようなものではなかった。逆に言えば、彼女にとっては、あらゆるものが<機械>であった。そこに神霊の余地はなかった。少なくとも、外側からはそのように見える。彼女は記憶を用いて、機械をハックし、自分の目的を遂げる。彼女の視野は、ジル・ドゥルーズやフェリックス・ガタリなら、<メカスフェノール>とでも呼ぶかもしれない。機械圏。

 佐奈の視野では、あらゆるものが複雑にねじれている。その視野にマルコフ性が成立しているのかどうかも分からない。もしかすると、現在を飛び越えて、過去から<直接に>未来へと影響を及ぼしているのではないかというほどの<ウィザード>ぶりだった。それくらいに、彼女は過去の人、つまり、記憶の人だった。彼女は過去を司る。記憶を司る。だから、あらゆる例証に通じていたし、あらゆる事例に通じていた。そして、そのことが、彼女にあらゆる物事に<アクセス>する権限を与えた。彼女は全く神霊の類を信じてはいなかったが、しかし、発達した科学と発達した魔術とが区別不能であるとする説にはほぼ完全に同意していた。

 

 小夜はしばしば、お月見をした。彼女は天使よりも悪魔を好んだが、実際にはどこまでも天使からの寵愛を受けている類の女の子だった。先述のとおり、佐奈とはよく喧嘩した。小夜には巫女のような資質があった。あらゆる発想をあらゆる発想に対して繋げることができた。それも完膚なきまでに<有効に>そうした<創造>を行うことができた。小夜は、佐奈よりも、話すことが得意であり、その資質としてソクラテス的である(佐奈の資質は記憶的でありながら、痕跡的であり、逆説的にある種のデリダ的なものであった)。

 

 天才でありながらも引きこもりがちである佐奈は何となく、天岩戸に引きこもった天照大神を思い起こさせる。同じ天才でも、外交的な小夜とはまったく所持している経緯や事情が異なっていた。天才の独創性はすさまじく、<すべての天才に共通の特徴>などというものは存在しない。彼女たちはそれぞれにそれぞれの道を歩みながらも、それぞれに絶えることなく、その時々に<完成>し続けている。天才は、どこにでも、いつであっても、ある日突然に生まれる可能性を持っている。どんなに上手に遺伝子を科学技術によって制御しても、どんなに厳しく環境を支配しても、天才の誕生を妨げることは誰にもできない。それらはあらゆる統計的法則に逆行するような形で、――つまりは圧倒的な希少性、例外性の発露として――この世に生まれてくる。あるいは、そもそも天才とはそうした天から愛された例外的な存在のことを言うのだ、などと言ってもいいかもしれない。彼らの為した偉業はまず、多くの人々に驚きと嫌悪の念を与える。驚きは、一般に人が生きるために有用なものに対して感じる感嘆や賞賛の念の一種として生じ、嫌悪は人々が天才に対して抱く嫉妬の念から生じる。いつの世でも天才は大なり小なり不遇なものであるが、彼らのおかげで世界が保たれているような側面もある。

 天才に嫉妬する凡庸な人々からすれば、天才は目障りな存在である。多くの場合、人々からは天才が天才であるがゆえの苦しみがあまりよく見えていないがために、人々は天才たちに対して容易に嫉妬の念を抱いてしまうのだが、もしも彼らが天才についての全容を知った後にも、そうした嫉妬心を維持できるのかどうかというのは一つの面白い話題でもある。凡庸さは、あらゆる天才を駆逐しようとする。なぜなら、天才が例外的な存在であるから。天才が凡庸ではないから。排他性とは一種の凡庸さの発露でもある。底抜けの寛容性や優しさが一種の天才の発露であるように。

 

 世には天才に憧れ、それになりたがる人もいるかもしれない。しかし、天才の道は少なくとも一般には絶大に<苦難>の道であろうと思う。最近では、一般的な苦難に個人的な快楽を感じる人がいるとする言説もある。こうしたことが起こることも、もしかしたらあるかもしれない。もしもそうであるなら、人と違った感性というのはそれだけで財産である。人と違ったことに快楽を感じ、人と違ったことに苦難を感じるという独特の感性。そうした個体は嫌でも独創的な方角へと邁進していくであろう。そこには勝手に希少価値が生じる。苦難に対して快楽を感じる人がいる、とする仮説はかなり有用な命題の一つである。これの如何によって多くの物事の理路が変化してくる。この問題は「苦難とは何か?」とする説に関わってくる。一般に苦難と快楽とは別の概念であるから。天才は苦難を苦難として感じず、快楽として感じることもあるのかもしれない。あるいは、苦難をその才能によって馴致することができるのかもしれない。個人的には、天才とは一般的な意味での不幸すらも自身の糧にできてしまうような人種なのではないかと感じている。彼らは不幸の中に甘んじているように見えることがある。彼らには独特の、しかし普遍的な正義感がある。普通の人なら悲鳴を禁じ得ないような類の苦痛を、彼らは活かすことができるのかもしれない。しかし、苦痛や苦難というのは高度に主観的な観念でもある。完全に客観的に数量化することは、少なくとも現時点ではできないだろう。そもそも<客観>的とされている事柄に、どの程度の意味が宿っているのかについては、私にも今一つわからないのだけど。

 

 

「小夜は将来どんな仕事をしたいの?」

 佐奈は小夜の隣に寝そべりながら、そう聞いてみる。

 小夜は、

「さあね……わかんない(笑)」

 と言った。「貴方は?」

佐奈は唐突に自分に対して、疑問を差し向けられるのが苦手だった。特に小夜の用いる筋がすべからく苦手だったが、だからこそ、小夜のことが他の何にもまして、愛しいのだった。自分の持ちうるあらゆる戦略や戦術、ハック、知識、技術……そうした諸々の物事を容易く乗り越えてきてしまえる小夜のその才能。

「……」

「佐奈?」小夜は微笑んで、小夜に見惚れて黙っている佐奈にそっと口づけた。

 小夜は桁外れに直感が優れている。彼女には直感的に物事の本質を見抜き、様々な事物を味方につけてしまう、戦略的、芸術的能力がある。

 

 ある日、彼女たちのもとに問題が起こった。なんと同時に、二人とも、それぞれに、男性に告白されたのだ。しかし、彼女たちはそれを断った。男性からのアプローチを断ることに関して、彼女たちは阿吽の呼吸を持っていた。それは彼女たちが神霊的に通じ合っていたからかもしれないし、あるいは機械圏において、機能上の連結を為しているためなのかもしれない。彼女たちはあまり生殖に興味がなかったし、お互いのことがとても大好きだったので、他の人が目に入る余地もなかった。お互いがお互いに対して、並々ならぬ信頼と感情を持っていて、お互いの異質性が、彼女たちにとってはとてもとても心地いいのだった。彼女たちは、自分には制御できない天災のような人が好みであったわけである。実に、変わった好みをしている。普通、人は天災を避け、恐れるのが定石(定跡)であるのに。ちなみに、佐奈は将棋が得意であり、小夜は囲碁が得意である。将棋と囲碁では、その性質が異なっているが、その異質性は、佐奈と小夜の違いによく似ている。

 

 ある時、小夜は落ち込んでいた。自分が人を拒絶することが、その拒絶された人にとってどのような意味を持ち得るかについて悩んで。

 佐奈はそんな小夜を慰めて言う。

「大丈夫だよ。小夜は美人だから色々と大変だろうけど、私がいるんだから、他の人のことなんて考えない! 考えない!」

 小夜はぼうっと佐奈を見ていた。そして、佐奈にしがみつくと泣き出してしまった。

 小夜はとても繊細な心を持っていて、よく泣いた。

 佐奈は「小夜は美人」というふうに、助詞としてあえて<は>を用いたが、これは佐奈の一種の戦略であった。どのような戦略かというと、小夜に「佐奈も美人だよ」と一言言わせるためのものである。小夜にはそうした佐奈の<戦略>が手に取るようにわかるので、――そうした戦略の稚拙さを呈してしまう事態というのは、佐奈にとってはとても珍しいことなのだ――、笑ってしまった。

 

 佐奈も小夜もこの世界に生きるには、あまりにもあまりにも繊細過ぎた。世界は常に、彼女たちにとって過酷なものであった。ありとあらゆるものが、彼女たちの柔らかな心の襞を抉り傷つけるのだった。彼女たちは天才だった。

 

 しかし、彼女たちには、世界の残酷さに負けないだけの<抵抗力>のようなものもある。彼女たちのそうした精神的、社会的、物理的なものとしての<免疫機構>は極めて強力である。だから、彼女たちは、きっと、この先も、色々と傷つきながらも、何とか生き残っていくのだろう(天才だから、美しいからと言って、楽な人生を歩めるわけでもない)。

 

 次第に、彼女たち二人の能力は混じり始めた。つまり、佐奈は小夜的なものを、小夜は佐奈的なものを培い始めた。しかし、不思議なことに、そうした能力の混淆にもかかわらず、彼女たちの独自性はどこまでも高まっていくのだった。

 

 佐奈の<付喪神(守護霊と言ってもいいかもしれない)>は、どうにも記述するのが億劫なそれなのだが、何というか、短気で思慮を欠き、でも純粋で素朴で素直な子だった。戦略的思考を自負している佐奈とはかなり異なった傾向を持っている。

「能力は一緒にいる人と混じり合うことがあるんだね」

と佐奈は小夜に言った。

小夜は、

「朱に交われば赤くなる?」

と疑問形。

二人は、コーヒーを飲んだ。

 

 佐奈の付喪神についての分析。

 付喪神は、ある道具に付着する情念のようなものらしい。それらは我々人間と同様に自律性を持って行動しており、ある時に顕現する。顕現のタイミングは完全に付喪神の自律性によると言わねばならないが、それというのも、その出現確率のランダム性による。ある現象が生じる時に、こちらにコントロール権限が委ねられないのなら、もはやそれは道具ではないが、付喪神とはこうした<道具が道具でなくなる>タイミングに生じる何者かであるということは言える。こうした現象が科学的にどうかというのはとても難しい問題だが、それは高度に観測上のそれである。つまり、人間の意識上にそうした付喪神のようなものが生じるとして、それはその人の意識上のものなのか、客観的に存在する何かなのか、という点が肝である。さて、ある対象が、観測者によって異なるstateを呈するということはあり得るだろうか? これはあり得る。例えば、私にだけ見られる小夜の姿がある。こうした帰結が付喪神の出現の際にも表れるのだろう。物事を道具としてしか思わない人と、<愛着>を持って大切にする人とでは、全く異なった風景を得る。見えるものが異なれば、能力の形式も異なってくる。能力の変化は、才能の開花や退縮として現れるだろう。その帰結の如何は、道具との共感可能性(共感覚といってもいいかもしれない。)による。科学においては、共感性の概念への批判も見られるが、このことはそれほどまでに共感概念が強力なものであることを示しているのだろう。<もの>と共感すること。道端に落ちている石ころと共感すること。その時、その石は付喪神となり、貴方に神霊としての無限の力を授与するだろう。

 

 小夜の付喪神についての解釈。

 付喪神は友達。友達だから、私が困っている時に色々と手助けしてくれる。感情と理性の対立は難しい。付喪神も、感情と理性の対立を持っていて、そこには自由意志がある。人間も神も、それぞれに、それぞれの生活を抱えている。互いに排除し合うには及ばない。きっと仲良くできる。

 

 佐奈の予言。

 予言の機能は様々であるが、そのおおよその意味とは、未来について予め言われた言説群のことである。ある関係のないとされる物事の間につながりを見出す症状は、いわゆる統合失調症(連合弛緩)と呼ばれることがあるが、この概念群にも何らかの筋があり得よう。それはかなり有用な手筋なのかもしれない。常に、世の中において、最も無価値で蔑むべきであると頭に刷り込まれている価値観に警戒すること。手厳しく何かを排撃している人がいたら、どうしてその人はそれほどまでに手厳しい<攻撃性>を露わにしなければならないほどに<切羽詰まっている>のかについて考えること。それは優しさのためなのか? それとも利得のためなのか? これを容易に見分ける方法はない。そして、こうした複雑な事情に精通し、また物事を正確に類に分けられる能力を<分別がある>と一般に言い、こうした分別があるstateが未来を志向する場合、そこから生まれた言説群が<予言>と呼ばれるのである。

 

 小夜の予言。

 読みにくい文章には、多くの場合、豊饒なものが詰まっている。困難の中に実りがある。なぜなら、人は困難を避けるからである。人が避けるものには希少価値が生まれる。困難でなければ、そこに価値は生まれない。そうしたものは容易だからである。

 

 経済理念から様々な事象をハックしていくのは、比較的容易である。ただ、より抽象度の高い理念から様々な事象に対していくというのが、小夜の美学だった。彼女はソシュールの本をよく読んでいた。

 一方で、佐奈は、資本の機能から出発して多くの事象を分析していく癖のようなものがあった。佐奈は<できる限り>具体的なものから出発することを好んだ。ある種の日本的な倫理学にはこうした傾向が見受けられることがあるが、佐奈がどのような倫理を持っているのかについては、諸説考えられる(佐奈は<倫理>や<道徳>という単語を恥ずかしがっていて、それらについてのことをあまり話すことをしない)。

 佐奈は小夜がサッカーをしているのを見たことがある。彼女は小夜の運動の様態を観察することで、様々な発想を得ることができた。創造性のある人にとって、創造性のある同時代の天才ほど好ましいものはない。なぜなら、天才の逐一の些細な動作までもが、――つまり、息遣いや身のこなし方までもが、――極めて豊かなインスピレーションを当人たちに与えるからである。彼女たちは、世間一般的な価値観からして、仲が悪いかもしれないが、それでも、お互いにお互いが唯一の理解者でもあるのだ。互いを理解できるから、喧嘩することもあるし、一方で愛し合うこともあるという、一見したところでは矛盾しているような二極的な構造の関係が展開される。

 

 <財閥>という観念がある。この言葉の専門的な意味合いは込み入っている部分もあるが、かなり簡略に述べると、お金持ちのことをそう呼ぶ。お金はとても分かりやすい。数量化されていて。しかし、あらゆる事象の数量化がそうであるように、資本の正確な数量化は極めて困難だ。ここに、二種類の富豪の存在を仮定することができる。一つが不正確な意味での富豪であり、もう一つが正確な意味での富豪である。

 これについては簡単な進化論的な図式を援用して考えていくのがわかりやすいだろう。さて、たくさんの子を生んだ個体において、その遺伝子の継承確率は上がると言えるであろうか? もしもすべての個体に生存と生殖に関する才能の違いがない場合、こうしたことはある程度は言えるのかもしれない。しかし、もしもその才能に<個体差>があったら? (そして、現実的には個体差というものはこの世界に存在している) もはやその個体の<繁殖量>のみでは何も言えない。例えば、長期的な遺伝子の継承確率が0.001%であるような1000人の子供を世に残した人と、長期的な遺伝子の継承確率が100%であるような1人の子供を世に残した人がいるという時に、これは遺伝子を継承する上では、どちらが有利であろうか? これはどちらとも言い難い。……つまり、もはや<量>の問題ではないのである。

 ところで、金銭とは量である。もしも、金銭に<質>による違いがあったとすればどうだろうか? ある人の持っている金銭の質は他の人に比べ豊かであることがないと言い切れるであろうか? 実際問題として、お金は用い方によって、増えたり減ったりする。つまり、実質的な金銭量は目に見える額面通りの金銭量とは必ずしも一致することがない。無知なままに大量の金銭を保持することは、無免許の人が車を運転するようなものであるのかもしれない。富に依存し、他ならぬその富によって身を滅ぼしてしまう事例もあるだろう。

 一銭も持たずに、その知恵によって実質的には富豪であるような人がいるであろう。逆に、莫大な富を有しながらも、その無知によって実質的には貧しい人もいるであろう。このように言うとすれば、その時にはもはや<富>の概念は意味を失ってしまっているのだろうか?

 もはや何が真に富んでいると言えるのかは明瞭ではない。そうしたいささか明瞭さを欠いたような地点に佐奈と小夜は位置している。佐奈と小夜は<正確な意味での>富者であった。その<富>は、言わば神の国に位置するものであり、使用したからと言って減ることはないし、暴君に搾取されることもないし、盗人に盗まれることもない類のものである。そうした真正の富は<知恵>と呼ばれることがある。お金なら盗まれる恐れがある。不動産なら火事で燃えてしまうかもしれない。時代の転換期なら、土地という資産ですら搾取されてしまうかもしれない。預金は銀行の体制が破綻したらなくなってしまうかもしれない。しかし知恵であれば、盗まれることも、燃えてしまうことも、搾取されることも、破綻することもない。

 佐奈と小夜は<正確な意味での財閥>であるとも言えるかもしれない。彼女たちには潤沢な知恵が備わっていた。必要があれば、知恵を用いることで、必要なだけのお金を用意することもできたし、労力と時間をかければ実際に大金を入手することもできた。彼女たちの知恵が、彼女たちやその周囲の人たちを助けた。

 世の中にはいくら大金を積んでも手に入らない類のものがあるが、それというのは、そうした物事の価値が金銭を遥かに上回っているからそうなるのである。例えば、セックスをお金で買えるということはあっても、愛をお金で買うことはできない。なぜなら、まず前提として、お金で買えるものならば、それはいわゆる利得と関わりのないものとしての<愛>ではないわけであるし、そもそも愛は、お金とは交換不可能なほどに莫大に高価なものなのである。結婚していても愛があるとは限らないし、セックスしていても愛があるとは限らない。それらは身体だけの関係であったり、金銭上だけの関係であったりするかもしれない。そうした利害計算による関係性は愛による関係性とは一般に異なっている。

 佐奈と小夜のその関係性は<愛>であったが、彼女たちのように、純粋な愛と知恵と才能を持つことができる様態というのは、この世界において最も尊いことの一つなのであろう。

 

 小夜は月夜の晩に散歩をしていた。その時は夏であったので、冬のような寒さはなかった。寒さというのは生命の身体を蝕む恐れのあるものである。彼女は悪魔的なものを好むような性質を持っていたので、寒さ、つまり冬が好きだった。冬になって、辺りに雪が敷き詰められると、小夜のテンションは爆発的に上がるのだった。ルンルン。

 佐奈は冬よりは春が好きだった。佐奈は多少、小夜に比べると偏屈な印象を人々に与える(あるいは多くの人にとっては偏屈であると感じられてしまいうるような印象、とでも言えば正確かもしれない)。さて、<偏屈>な佐奈は<命>を好んだ。命が芽吹く春を。一体、どのような無知や無神経さがあれば、彼女のことを偏屈などという言葉で片付けてしまえる人がいるのか、私には謎である。

 

 佐奈と小夜は二人で一緒に散歩することもある。彼女たちの相思相愛ぶりは、それはそれはうらやましいくらいのものであった。佐奈は小夜に、小夜は佐奈に、マフラーを着用させてあげていた。彼女たちにとって、それは何かの儀式であるようだった。こうした儀式めいたことを彼女たちは数多く行っていたが、おそらくは、それは無知な観察者にとっては儀式に見えるだけのことで、そこには何か彼女たちなりの――しかし、極めて客観的に有効な――理由があるのだろう。

 小夜の歌謡や踊りはそれはそれは見事なものだった。佐奈は小夜に比べると、華やかさに欠けて見える部分もあるのかもしれない。実際には、佐奈も小夜に引けを取らないくらいに<華やか>なのだった。ただ、佐奈のような人は自身の華やかさを、ある種の気恥ずかしさによって隠蔽しているに過ぎない。彼女のような人は、本当に心から信頼できる人にだけ、その花を見せてくれる。警戒心は強く、パーソナルスペースが広い。そうした過敏性も、彼女がインドアであり、引きこもりがちであるような傾向を後押ししているのかもしれない。彼女は人嫌いではなかったが、気の合う人は少なかった。ほとんどの人はまずもって、彼女の知識のレベルについていくことすらできなかった。小夜はそんな佐奈にとって、うれしい<例外>である。

 

 佐奈は小夜の隣を歩き、小夜は佐奈の隣を歩く。

「楽しいね!」

 と佐奈は言った。その顔は薄っすらと紅潮していた。その時の季節は秋だった。

「そうだね」

 と小夜は言った。「佐奈と一緒だととても楽しい。私も」

 佐奈はその顔に、向日葵のような大輪の笑顔を咲かせていた。向日葵。

「小夜はどんな色が好き?」

 と佐奈は言った。

 小夜は少し考えてから、

「青?」

 と言った。小夜は応答するときに、どういうわけか言葉遣いを疑問形にする癖がある。

「青かあ」

 佐奈は何事か考えながら、青、青、と呟いている。

 小夜の長いまつげが瞬きのリズムに乗って揺れている。

 二人の間に沈黙が下りてくる。

 公園のベンチに二人が座る。

 夕暮れ時。

 周囲には誰の姿もない。

 そっと二人は口づけをした。

 

 偽り。それはとどのつまりは、人為的なもののことである。自然の流れに反するもの。真実とはその逆である。天才は極めて自然でありながら、人為的な存在である。その姿は見るものによって、千変万化。その才能の大きさも形も、自在に変化する。天才とは偽りであり、また真理でもある。彼らは意志を持っている。そして、この点は説明が難しいが、彼らにとっては、意志の所在など、どうでもいいことであるようである。本当に巨大なものが、本当に巨大な姿をしているとは限らない。本当に矮小なものが、本当に矮小な姿をしているとは限らない。偽りとはこのようなものである。

 天才は、偽りを自然にしてしまうし、自然を偽りにしてしまう。彼らの世界では、真偽というものがさほど重要ではないのだ。

 佐奈は、「真実だとしても、無価値であれば、それは無価値である」と言った。小夜は佐奈に応じて、「偽りだとしても、価値があれば、それは価値がある」と言った。

 

 真偽不明の世の中で、どのように生きていくのかは、かなりの程度、その人の自由なのかもしれない。真実と偽りが互いに交わりあうような、不明瞭で曖昧な地点に、色々な宝物が眠っているのかもしれない。苦難の中に秘宝が存在する傾向がある。おそらくは、苦難がその秘宝を守っているのだろう。

 そして、世の中というのは、奇妙に上手くできている部分があって、<秘宝>は横取りができない。苦難を経験し、秘宝を自分の手で掴み取った人から奪い取ろうとしても、それは上手くいかないだろう。秘宝は必ず、苦難と表裏一体をなしていて、それらは分離できない。苦難を軽減すれば、秘宝の価値も軽減されていく性質を持っている。苦難を避けると、その分、秘宝が逃げていく。しかし、苦難というのはその人の主観的な感覚であって、それに客観的な度合いが存在するのかどうかも分からない。その人の苦しみはその人だけのものであるような側面が大いに存在しており、何が最も苦しいかは人によって違う部分もあろう。そうした事情を鑑みて、事態は極めて複雑で難しいのだということを悟った後になら、<秘宝は苦難に守られている>と言っても、ある程度は差し支えないとも言えるのかもしれない。非常に簡潔に言うと、筋肉が厳しいトレーニングの末に強化されていく、というような事態に似ている。ある種の<苦難>という試練を乗り越えた人々が、天才と呼ばれることもあるのかもしれない。あくまで絶望的な状況であっても、それ<だけ>であるということはまずなくて、何らかの進歩を見込めるものである。そうした進歩には、当初は見込まれてすらいなかったような、新奇なものも含まれている。

 

 佐奈と小夜の馴れ初め。

 佐奈はさまざまな人間に痛めつけられていた。学校ではいじめられ、家庭では虐待を受けていた。そして、彼女は部屋に引きこもった。誰も彼女のことを気にかけてはくれなかったし、助けてもくれなかった。彼女に向けられる感情の専らなものは、佐奈の天才への嫉妬をその発露とする逆転的な<蔑み>や<嘲笑>。それらである。佐奈の心は冷たく凍え、死んでいた。

 小夜と出会ったのは、佐奈にとって大きな転機となった。

 

 佐奈はかなり多様な虐待の数々をその身に受けることで、深く傷ついていた。その中には性的な虐待も含まれており、とりわけそのことが彼女の心身を著しく傷つけた。彼女はその高能力がゆえに、潜在的なプライドが高いこともあって誰かに助けを乞うことができなかったし、そうでなくても自分が受けた性的な虐待の経験などを人に打ち明けることは骨が折れるものである。その頃の彼女は、他責的な感情を失っており、何もかもを自分が悪いのだと、呪文を唱えるように思い込み続けていた。小夜に出会うまでは。

 

 佐奈は公園のブランコに揺られて、月を見ていた。真っ白な穢れのない月で、まるで佐奈の心のようだった。

 そこに月見をその生業としている小夜がやってきた。その時の小夜はなぜか、一種の袴を着ていた。

 小夜は、佐奈の隣の空いているブランコに座り、唐突に、

「月、綺麗ですね」

 と佐奈に声をかけた。

 佐奈は頭が重くなるのを感じた。身体の隅々までフワフワした感覚が広がる。<フワフワ>というと、何やら柔らかくて気持ちいいような印象を与えるかもしれないが、これは佐奈にとって気持ちの悪い感覚だった。何もかもがぼやけて、自分の存在すらも自分から遠ざかって行ってしまうような、そういう感覚。言葉で表現しづらい類の不思議な感覚である。そうした不快な感覚が生じるのは、佐奈にとって珍しいことではなかった。人と接するときは、大概、そのような気分になった。

 と、<ふわり>と佐奈の身体を何かが包んだ。この<ふわり>は佐奈に何か、心地よい印象を与えた。その、ふわり、の正体は<香り>だった。小夜の髪の香り。

 少し後に、佐奈は、小夜が自分を抱きしめていることを知った。そのことを認識すると、また、意識が遠のきかけた。その時、左手に強烈な冷たさを感じた。小夜が携帯していた半分凍りかけのお茶の入ったペットボトルだった。

 佐奈は、

「冷たい!」

 と言った。目が覚めた。不思議なことに、不快な感覚が一時的にかもしれないが、少し軽快していた。

 小夜はそんな佐奈を心配そうに見ていた。

「ごめんなさい。何か並々ならぬ雰囲気を感じたので」

 と小夜は言った。

 佐奈は何が何だか分らなかったが、とりあえず、小さな声でボソッと、

「……いえ」

 との一言を喉から絞り出した。

 小夜はその言葉を聞くとにこりと笑った。

 それから佐奈と小夜は色々なことを話した。好きなものは? 嫌いなものは? どこの学校? 何歳? 小さい頃は何をしていた? 今は何をしているの?

 色々な話をした。

 中でも、<逸脱>についての話が佐奈の心に残っていた。

 世間の常識についての意見を交わしている時に、プログラムとは何か? という話をした。佐奈はそれは<自動>であると答えた。言い換えれば、<自然>のようなものだと。

 それに対して小夜は、

「世間の常識は本当に自然なのかな?」

 と言った。

「そう言われると……私には何とも……」

 この頃の佐奈はとても人を怖がっていた。いじめや虐待を散々に被ってきたのだから、無理もないことである。当時の彼女には自分の主張を持つということがとても難しかった。しかし、佐奈の奥に煌めいている何かに小夜は気づいていた。小夜は初対面の印象から、佐奈のことを<芯>のある人間だと見抜いていた。芯とはある意味での、抽象度の高さを表現する概念である。抽象度が高い現象には芯がある。

 小夜は次のような仮定の話を佐奈にした。

「常識というのがもしも人によって作られたものだとしたら、それは自然なものと言えるのかな? そして、普通は、常識というのは人が作ったものだよね」

「……ですね」

 と佐奈は頷く。

 小夜は続ける。

「人の手によるものが自然なものではなくて、人為的なものなのなら、人は何から生まれたんだろうね? 人為的に人は作られたのかな?」

 小夜は足を自由に無邪気にぶらつかせながら、そう言う。小夜の髪が佐奈にはきらきら光っているように感じられる。辺りは暗いのに。単純で一般的な意味での物理現象としては、公園の中の電灯の侘しい光だけが二人を照らしている。

「……人が人を作った?」

 と佐奈は疑問形。

 小夜は柔らかく微笑む。「かもね。可能性としてはね」

「……人が人を作ったのなら、その人を作った人は何から作られたんでしょうね」

 と佐奈は言った。

「自然か人為か、って難しい問題だよね」小夜はペットボトルのお茶を飲む。

佐奈は何となく小夜の喉仏の動きを見ていた。それに気づいた小夜が佐奈に「どうしたの?」と言いたげに、眩しい笑顔を向ける。

 佐奈は不思議な心地だった。小夜と一緒にいると、不思議と今までの感じとは違う世界に開けていくようだった。それがなぜなのかは佐奈にも分らなかったし、小夜も――彼女は元来から天然なところがあるためなのか――よく分かってはいないのだろう。

 この時には、もう既に、小夜は佐奈にとっての心のオアシスになっていた。それがなぜなのかは、二人にもよくわかっていない。当の彼女たちにもわからないような謎の関係性。それらは強いて<愛>と呼ぶことができるくらいのものである。言うなれば、神々が二人を引き合わせたのだろう。私にはそのように言うのが、手一杯だ。愛は明確でありながらも、不明瞭なものでもあるのだから。

 

 佐奈の心を変えたのは、小夜との出会いだった。

 ……では、貴方の心を救うものとは何なのだろう? 私はそれにとても興味がある。もしかすると、それはいわゆる<人>ですらないかもしれない(付喪神とか何かの機械とか)。

 今がつらい貴方へ。私には正確に言って、何も言えない。しかし、不正確になら、強いて何かを言うことはできる。<本当は>人が人を救うことはできない。でも、<嘘になら>それができることもあるのかもしれない。自然が、世界があなたを蝕むようなその時に、貴方を救いうるものとは、何らかの人為、つまり<偽り>に他ならない。もしも、自然が貴方を淘汰しようとするのなら、貴方が自然を淘汰すればいい。正当防衛である。貴方は貴方を排除しようとする者たちに、付き従う必要はない。嘘の中に眠っている溢れんばかりの真実たちが、貴方の心の中で美しく芽吹くように。貴方がいつの日か笑って、生きててよかったと思えるように。私にできることはないが、ここで<嘘>が許されるのなら、次のことを言いうるようになる。

 どうか生きてください。私のこの<願い>には如何なる正当な根拠もありません。ならば、文字通り、<根も葉もない嘘>であり、独りよがりです。これは私の<人為>です。ただの<偽り>です。でも、だからこそ、これは私の<意志>です。この世界に如何なる正当な根拠をも持たないような嘘、偽り。世界ではなく、他ならぬ<私>に根拠を持つ言葉です。そうしたものたちは究極的に昇華されていくと、<理想>と呼ばれるようになります。その理想の中で最もよくできたものは、<物語>あるいは<芸術>と呼ばれるようになります。それは、この世界において、最も美しいものたちのことです。深く傷つき、深く悩み、今は苦難の中にある貴方もまた、そうしたこの世界で最も価値あるものの仲間のようなもの、なのかもしれません。少なくとも、私の目には、明らかに貴方は美しく、まるで万物を温かく照らすお日様のように見えます。たとえ今は雨が降っていたとしても、雲の向こうには太陽が泰然として存在する、というのは、一つの有益な経験則でもあります。世界に生きている意味がないのなら、貴方が人為的にその意味を作ってしまうというのも面白い方法なのかもしれません。

 

 佐奈は小夜の腕の中で泣いている。さめざめと泣いた。一種の激しい雨みたいだ。でも、その涙は、彼女のそれまでの人生で流してきた涙の数々とは、本質的に異なった種類の涙であった。涙というものが、必ずしも、悲しみの象徴に限定されるわけでもないのだろう。透き通った綺麗な涙。

 

 雨は、川となり、やがては海に至る。一見したところでは、一粒が如何に小さなものであるように見えても、やがては必ず、大きく実を結ぶものである。

 

 私は、――おそらくは佐奈も小夜もそう言うでしょうが――貴方のような孤独を抱えた純粋な人のことが、とてもとても大好きです。これらの言葉は根も葉もない嘘なので、信じる必要はないし、受け入れる必要もありません。というよりも、私の言葉はすべて<嘘>であると解釈していただいてもかまいません。私は個人です。世界ではありませんし、自然でもありません。その限りで、私の言うことはいつもいつも個人的なことです。世界を差し置いて、自分のことを真実であると主張することは、誰にもできません。私は私です。貴方は貴方です。なぜなら、私とは、――貴方とは――人間である限りで、人為的であり、あくまで偽りであり、つまり自動的ではないからです。自然に理に適った自動的な動きも重要なものであることは否定しません。しかし、どうでしょう? 自動的に動くことと自分の意志で動くこととの間には実際、どれほどの違いがあるのか? それは疑問です。

 

 小夜と出会う前の佐奈は家の窓の外を見ていた。部屋の中から見える風景はとても狭いものだけど、佐奈にとってはそれが世界だった。その視界にはまだ小夜が入っていない。そして、本当は何よりもまず、その風景には佐奈自身が欠けていた。鏡が。もしも、正確な鏡がその部屋にあったのなら、――佐奈にとっての鏡は小夜であったわけだけど――、彼女はもっと早い段階で自分の美質に気づくことができたかもしれない。しかし、<鏡>はしばしば奪われるのだ。誰に奪われるのかはわからない。しかし、それらは奪われる。致命的に。とても過酷に。

 

 鏡を守らねばならない。

 

 佐奈は小夜と出会った後に、ある紙をごみ箱に捨てた。その紙は彼女の書いた遺書だった。佐奈が何を書いていたのかはわからないし、それを佐奈が言い出さないのだとしたら、そこには何かの訳があるのだろう。その秘密には。

 秘すれば花。見識ある人たちは個人の秘密を無闇に暴くことがない。さて、<彼女は>その紙を<遺書>だと思っていたが、<本当は>何だったのだろう? それは今となっては、誰にも分らない。

 

 佐奈:「人を道具扱いするっていうのはよくないね!」

 小夜:「そだね」

 佐奈:「そして色々なものを道具扱いするのも、本当はよくない!」

 小夜:「うん」

 佐奈:「全てのものに何かの価値が詰まっているね!」

 小夜:「そう思う」

 佐奈:「……」

 小夜:「……」

 佐奈「小夜もなんか言って!」

 小夜:「うーん……」

 佐奈:「そんなに深く考えなくていいよ。なんかパーっと軽く!」

 小夜:「実は小夜が佐奈だったり、佐奈が小夜だったり……して?」

 佐奈:「……」

 小夜:「……」

 佐奈:「ちょっとしたミステリだね……それともなんか哲学的な?」

 小夜:「難しいね」

 佐奈&小夜:「「ここまで読んでいただきありがとうございました!」」

 (二人がお辞儀する)

 

 

すがるように君の言葉だけを信じて

 

 

(すこっぷ feat.初音ミク,「クライヤ」の歌詞より引用) 

 

 

P.S.直観術は比喩です。

孤独とか幽霊とか著作権とか商業手法とかについて色々。

散漫術です~。

 

孤独について。

 

考えてみれば、人間って結構なことができるんだよな、とふと思いました。「できる」ってどういうことなんでしょうね? 「可能」とか。「能」という漢字について調べていくだけでもなかなかに楽しいことになりそうです。月並みな問題としては、何が可能で何が不可能なのか、というような分類があげられるかもしれません。そして、もっと突き詰めると、「分類」って何? どうやって分類しているの? ってなります。僕は。僕たちは色々なことを瞬時に分類しながら生きている側面があるかもしれません。なぜかは分らないけど、リンゴは果物で、トマトは野菜……などというふうにカテゴリーに分類されていく。それもほぼ自動的に。特に考えなくても、なぜかそのように条件反射的に分類されていく。分類……謎の概念です。何せ、特に何も考えずとも分類されているのだとすれば、それはもしかしたら本質的に思考と無縁のものなのかもしれませんし。「無縁」。もしも本当に思考と分類が無縁のものなのだとすれば、思考は分類から自由だし、分類は思考から自由なのかもしれません。「縁を切る」ということによって自由を獲得するという図式。僕たちは縁を切れば切るほど、自由になっていくのかもしれません。

さて、「可能」とは一種の自由なのかもしれません。何かができるということはそれだけ何かについて自由にできるだけの裁量を保持している、ということなのかもしれません。もしそうなら、可能を増やすために、つまり自由を増やすために、縁を切り続けていく、という手法も考えられるのかもしれません。この時、究極的に無縁な状態とは、どんなものとも縁のない孤独な状態であるでしょう。もしも、何かを可能にする原因としての力を「能力」と呼ぶのなら、能力とは本質的に孤独にこそ宿るものなのでしょう。その意味では、「引きこもり」などの行為は高い能力の証左となるような場合もあるのかもしれません。

さらにもしも、そうした孤独な能力が縁を切ることによってもたらされるなら、無縁によってこそ、一種の権威が生じてくるのかもしれません。孤独の中の権威。それは「孤高」というものなのかもしれません。

縁を切るほどに、能力を増し、自由にできる裁量が増え、権威を得ることができるのだとすれば、無縁であるものとは、一種の「神」であることでしょう。そして、もしも、自由こそが人間の幸せなのだとすれば、こうした可能な能力は人間に望みうる限り、最も程度の強い幸福であるのだ、ということすら考えられます。

僕たちは今一度、「孤独」についてよく考えてみるべきなのかもしれません。孤独は本当に罪なのかどうか。孤独を毛嫌いしてしまう人間たちには何の問題もないのか? もしかすると、徒党を組んでいる人たちよりも、孤独な人たちの方が一層高いステージに足を踏み入れているのかもしれない、僕にはそのようにも思われます。

 

幽霊について。

 

幽霊の存在の二重性については、面白いことが色々と考えられるような気がします。つまり、幽霊は存在するが存在しない、そういう何かであるとも考えられます(この時、幽霊は「存在」という存在様式と「存在しない(無)」という存在様式の二つを保持しているようにも思われます。こうした存在の二重性は幽霊的なものなのかもしれません)。

さて、果たして、幽霊は「孤独」なのでしょうかね? 幽霊というのは地上の因縁を引き継いでいるものでしょうか? もしもそうならその因縁の数だけ、能力は低下し、能力の低下に従うようにして、孤独は失われて行くのでしょう。しかし、どうでしょうね。幽霊というのはどことなく、寂しげな雰囲気があるような概念であるように思われます。もしそうなら、幽霊とはあくまで孤独なものであり、孤独で何事とも無縁である限りにおいて、かなり能力の高い存在なのかもしれません。「地縛霊」というのはある土地に束縛された霊のことをいうのだと思うのですが、これも何かへの因縁を引き継いだせいで、能力が停滞している事例の一つであるといえるかもしれません。地上の物質というのはすべからく重力によって束縛されているので、その意味では、僕たち人間はみんな地縛霊のようなものなのかもしれません。ただ、霊というのには宙に浮いているようなイメージがあります。すると、霊というのは物質としての人間よりはずっと軽々と自由な存在なのかもしれません。少なくとも、ある種の重力の影響を避けることができるのではないかと思われます。空を飛ぶということ。飛躍の概念。

 

著作権について。

 

僕は理想的には著作権自体に反対の立場なのですが、この辺りの問題も非常に難しいな、と思います。おそらく、言いようによっては、「全ての作品は二次創作である」とも言えるし、「オリジナリティとは幻想である」などとも言えると思いますので、著作権の規制を厳しくしていくと、すべての創作物が抑圧されていくのではないか、みたいなことを思います。そして、芸術家たちの創作活動を圧迫していけば、文化も衰退していくと思いますので、著作権が厳しくなるのにつれて、どんどんと僕たちの文化的な生活が衰退していくことにもなりかねないのではないか、というふうにも感じられます。

現実的に著作権が必要なのなら、それはそれでしょうがないと思いますが、少なくとも言えるのは、あまりに著作権を厳しくしすぎないほうがいい、ということではないかと思います。確かに人のアイデアを盗み、搾取して自分の功績であるかのように偽装したりする人もいるのかもしれませんが、それを取り締まるために、多くの芸術活動を圧迫するのはあまりコストパフォーマンスがよくないのではないかとも思います。僕は面白い作品がどんどん見たい。そのためには、芸術家達が広々と活動できる「自由」が必要です。「著作権」という「口実」によって、芸術家たちの芸術活動が損なわれることのないよう、僕としては祈るような思いです。とかく自由というのは能力を養成するためには大切なものなのだと思います。そして、普通に考えて、能力の高い方が色々な勝負において有利なわけですので、なるべくなら規制は少なくして、自由を保った方がいいのではないか、と僕は思います。

 

商業手法について。

 

少し商業手法について。

まず、芸術家は自分のパトロンになってくれる「優しい人」を見つけるのが手ではないかと思います。パトロンというのは芸術圏と経済圏の間の「交渉」を引き受けてくれる人なのだと思いますが、これには卓越した能力が必要です。少なくとも、芸術と経済、双方ともに深い理解を有している必要があります。どちらか片方だけが出来る人ならそれなりにいらっしゃると思いますが、このどちらもを備えている人はほとんどいないのではないかと思います。結果、芸術圏の人々は経済圏の人々を見下し、経済圏の人々は芸術圏の人々を見下す……などという運動が生じてくる、という場合も出てくるかもしれません。実際には、芸術も経済もどちらも由緒ある重要な分野に違いないのですが、人間は一般に狭量な側面もあって、ポジショントークに終始しがちであるという点も気を付けておいて損はないかもしれません。

無論、芸術家がパトロンを食い物にするのであれば、それは芸術家が論外ですし、パトロンが芸術家を食い物にするならば、それはパトロンが論外でしょう。その場合、おそらくは、彼らは真の意味での芸術家ではないし、パトロンでもないのだろうと思います。

芸術圏の力は実はそれなりに独立的なものなのだと僕は考えているのですが、一般には経済圏がすべての中心である(資本主義)とする考えが主流なのかもしれません。しかし、芸術には人々を感動させるというものすごい力があり、こうした力は人間の持ちうる力の中でも、最も偉大なものです。

芸術が昔から現代まで受け継がれ、ここまで隆盛しているのは、一言でいえば、偶然ではない、のだと思います。

芸術家はまず、自分のパトロンになってくれる人を見つけ、その人のために創作をすることでまずは基盤を確立し、その後に、極力、自由へと人々を導いていく、というのがいいのかもしれません。

お金は「厳密には」必要とは言えないものですが、世の中にはお金の絶対化という幻想にとらわれている人も多いように思われます。そうした囚われから人々を開放し、人々を自由な認識へと飛翔させるということも、芸術家の役目の一つとして数えられるかもしれません。

しかし、お金を「利用」するのは一つの手としてありでしょう。既存のシステムがあまりにも不正な場合には、それは壊すことで再起動させる必要がある場合もあると思いますが、正当性が十分にあるのなら、それを利用するのも手です。しかし、お金に囚われてはいけない。そうした「因縁」とはその縁を切らなければなりません。そのことが、芸術家の能力を発達させると考えられるからです。

芸術家は自由です。清貧でも能力があればそれでいいし、富豪でも能力があればそれでいい。しかし、そもそも能力を養成するには縁を切ること、つまり無縁、そのことによる自由が必要なのであり、まずもって極力は自由にすることが基本ではあるのではないかとも思います。それは本当は特別な設備を必要とするものではありません。少なくとも、普通の設備があれば、いくらでも作品を生産することは、ある種の才能があれば難しくはないのではないか僕は考えています。

僕も色々と考え、色々なことを試していこうと思っています。

才能には学歴も地位も収入も関係ないと思います。その意味では、才能のある人はどこにでもいます。しかし、それゆえに、どこにいるのか、まったく分からないのです。

また、どこにでもいる「可能性」のある自由で孤独な天才たちですが、彼らは極めて希少な存在でもあります。確率的には出会うこと自体が難しいかもしれません。

しかし、僕は思うのですが、もしもあなたが彼らに出会うことを望み、真摯にその才能を磨き、努力するのならば、そしてもし、その才能が天才の域に到達するのならば、その時にはあなたの作品は天才たちの目に自然と留まるのかもしれません。

学歴のある人のことは学歴のある人にしかわからないし、地位のある人のことは地位のある人にしかわからないし、収入のある人のことは収入のある人にしかわからない……などというふうに考えるその時、その一連の流れになぞらえて、「天才のことは天才にしか分らない」、とも言えるのかもしれません。僕は決して天才ではないので、こうしたことについては究極的にはわからない、と結論するしかないわけですが。それでも、僕はそのようにも感じています。

さて、僕も色々と精進していきたいな、と思います。

自分に為し得ることは何か? そして自分に「できる」ことにひたすらに励んでいきたいと思っています。もしもそうした行動が、少しでも人々の助けになるとするなら、僕としては僥倖です。

 

 

~今日のポイント~

 

1.孤独は能力を養成するのに適しているかも。

2.能力は自由の幅を広げるかも。

3.能力からお金を得るには優しい優れたパトロンを見つけるか、自分がその役割を兼ねるのがいいかも。

4.天才は「どこにでも」いるけど、とても希少な存在でもあるので、出会うことは確率的には難しいかも。

5.天才に出会うためには、まず自分の能力を磨くのが第一手になるのかも。

 

 

参考文献

網野善彦,『無縁・公界・楽 ――日本中世の自由と平和――』,平凡社,1982

「神術」についての簡潔な解説

少なくとも原理的には、あらゆるものからあらゆる価値を引き出すことができるのだというふうに僕は考えています。なぜか?

一粒の麦を例にして考えてみます。それは多くの分子により構成されています。その分子はもっと細かな微粒子で構成されています。そして、その微粒子は……というふうにどんどん細かな次元の存在について思いを巡らしてみましょう。細かな微粒子はさらに細かな微粒子により構成されており、そのさらに細かい微粒子はもっとさらに細かい微粒子により構成されていると考えられます。

僕は、あらゆるものは無限に小さな微粒子で構成されていると考えていて、そのために、あらゆるものは無限に分割可能であると考えています。その場合、どのようなことが起こるか?

無の中に無限小の微粒子が詰まっていることになります。僕はこうした認識を「創造」と呼ぶことがあります。

無限小は無限に小さいので究極的にそれは無であろうと。そして、それらの無はどんなに小さくとも存在はしているのだから、有であろうと。そういう感じです。

これらの帰結から考えられることとして、無から有は生じ得るだろうということがあります。ただし、そのためには、世界が無限に分割できる必要があります。

そして、これもまだ推理の段階なのですが、世界を無限に分割できる人とできない人がいるだろうと考えています。あるいは、無限の分割を見ることのできる人と有限の分割しか見れない人がいるだろう、ということ。

無限の分割を見ることのできる人には、今僕の言っていることが分かるのではないかと思っています。しかし、有限の分割しか見れない人にはそれが原理的に分からないという可能性があります。今僕の言っていることが分からない人に対しては、たった今僕が言ったことは全て撤回します。

 

一粒の麦の中にも潜在的には無数の麦の存在が詰まっています。あらゆるものからあらゆるものを生みだすことができます。あらゆる地点からあらゆる地点へと至ることができます。つまり、僕たちはどんなものでも求めることができ、また、求めたならば、それは与えられるであろう……という感じです。

 

さて、能力と労働の関係についての考察に対して、これらの原理を簡単に応用してみましょう。

 

能力には潜在的な側面があります。能力はある成果を為す原因に当たるものであるとも考えることができます。労働は能力が成果を為す際に通過する一つの現象であるというふうに考えることができます。

 

能力→労働→成果

 

能力が労働を通して成果に変化します。この際、労働は能力を成果に変化させる機能を持ちます。

そして、この「労働」という概念が曲者で、これをどう定義するかによって、能力と成果の間の収支の関係を操作することができます。その操作が不当である場合、この現象は「搾取」というふうに呼ばれる場合もあると思います。

例えば、芸術は娯楽的な活動であり、労働とは営業的な活動のみのことを指す、などというふうに定義すると、この場合、芸術は労働として勘定されていないので、そこに賃金は生じません。しかし、芸術は価値あるものであり、その作品は紛れもなく芸術家の成果の一つの形態であるとも言えると思います。つまり、この時、芸術の生み出した価値は芸術家の労働としては勘定されず、他の誰かの労働として勘定されることになります。価値がそれを生み出した当人の手から漏出して、他の人の所有となっているわけです。本来、芸術家の所有物であるところの芸術作品の生み出した価値が他の人に奪われている形になりますから、こうしたケースも搾取というふうに呼びうるかもしれません。実際には、著作権とかあるいは公共の福祉とか公益とか色々な利害関係が錯綜したその結果として、価値は勘定されますので、これほど単純には計算できないと思いますが、ひとまず簡潔に説明すると、搾取というのはこんな感じの事態だと思います。

しかし、芸術家の仕事というのは、贈与的な側面があるのではないかと僕は思います。思うに優れた芸術作品に詰まった価値を正当に計上すれば、それを他の価値で代替することは不可能に近いレベルの価値の量を持っているのではないかと僕は思っています。つまり、芸術家の偉大な仕事に釣り合う対価は現状のこの世界にはほとんど存在していないのではないかと、僕は考えています。だから、少なくとも芸術家の仕事はかなり贈与に近いものになります。

おそらく、それらの偉大な仕事は「いずれ」正当な形で報われることでしょう。そうした完全に正当な裁定という現象を「最後の審判」というふうに呼ぶというのもなかなかにいい経路なのかもしれません。

その正当な裁定においては、古今東西の善き者達は全て正当に報われることになるのでしょう。少なくとも、人類がこのまま存続して、文明が徐々にでも発達し続けるのなら、いずれそうした魔法のような文明レベルに達するというのは想像に難くありません。無論、十分な文明の発達の前に滅びることも考えられますが、それでも、宇宙のどこかでは高度に文明を発達させ、最後の審判を決行する生命体が存在する可能性は十分にあるのではないかと思います。

ひょっとすると、もう既に、それらの最後の審判は下された「後」なのかもしれません。しかし、凡俗であるところの僕には、ここまで推理するのが精一杯です。

 

簡潔にまとめましょう。神がいるとすれば、彼/彼女は完全であるので、判断を誤りません。その神があなたに試練を与えるとしても、それはあなたに耐えられるように緻密に計算されている可能性もあります。世の中では数多くの不正が現に起こっています。あなたの能力はそれらの不正の渦に巻き込まれて、少なくとも一時的には搾取されてしまうかもしれません。しかし、もしもこのまま文明が発達していけば、つまり、不正が正しく改められ、その結果として人間の自由になる領域が増していけば、いずれタイムトラベルやワープ、宇宙への居住……などといった様々な「夢物語」が現実のものとなっていくでしょう。そして、その未来人たちは、僕たちを遥かに上回る文明レベルを持ち、力を持ち、また森羅万象に対する裁定権を有しているでしょう。ここまでくれば、もう彼らの存在を「神」と呼ぶことにも僕としてはやぶさかではありません。そして、もしも、彼らが既にそうした文明を未来において実現することが決まっておれば、彼らはその豊饒な全能の力でもって、正当なものを――あるいは正当な種を――救済するはずです。なるほど、現代の人々は不治の病に蝕まれることもあるかもしれないし、不当な犯罪によって傷つくこともあるかもしれません。それらの苦しみは現実的に耐え難いものであることもあり得るでしょう。そして、そうした人々の苦しみを軽んじることは誰にもできません。しかし、一方で、どんなに苦しんでいる人であっても、全能の神であれば、救済可能であるはずです。たとえ人が死んでも蘇生させることができてもおかしくはありませんし、彼らに幸福な来世(天国)を与えるということも不可能ではないでしょう。

もしも、全能の神であれば、悪人を善人にすることも可能なはずです。そうした変換は「悔い改める」という行為に現れる可能性があります。

つまり、常に僕たちが間違いを悔い改め、全てのものの幸せを願い続け、なおかつ自分にできることを善良に積み重ね続けるのならば、その時、僕たちは常に今この時にでも、何らかの形で救われる可能性を持つことになります。

こうした姿勢は「神に仕える」というふうにも表現できるかもしれません。この時、僕たちが恐れるべきなのは自分自身だけであり、つまり自分の誤りそれだけである……などというふうにも言えるのかもしれません。

僕個人は、どんな経緯を経たとしても、「必ず」全てのものは神により救済されるであろうと考えています。

そして、神が全能であるなら、神は無きものとしても現れることができるはずです。そして、もしもあなたにとって神が無きものであるのなら、それも神の意図であるはずです。だから、無神論を否定する必要もない。

神が存在しようが存在しまいが全ては神の意志である、とも言うことはできます。

 

さて、こうした状況においては、自分自身以外には恐れるべきものはないとも言えるのかもしれません。搾取などいくらでもさせておけばいい。あなたが常に正しくあろうと心がけるなら、そして常に善良にできることをし続けるのなら、神に仕えるのなら、もはや恐れるべきものはない……のかもしれません。

自閉症――あるいは「岩戸隠れ」――についての簡単な考察

自閉症について。

 

自閉症とは自閉する症状のことです。自閉とは外界から距離を置き、内界に閉じこもることです。簡単に言うと自分の内の世界に閉じこもる事。

では、僕たちはどのような時に、自閉したくなるでしょうか? まず何か嫌なことがあったときなどは何もかも嫌になり自閉したくなることもあるかもしれません。つまり、その主体にとって世界が嫌なものである時に自閉は生じる可能性があるでしょう。もしもその主体にとって世界が好ましいものであれば、その主体は世界を好み、自閉する可能性は低くなるとも考えられるでしょう。

ではどのような場合に、世界は嫌なものであると認識されるでしょうか? まず、素朴に世界を何も考えずに認識するというケースを想定した場合、何も考えないのならば、そこに嫌悪が生じる可能性は低くなるでしょう。この場合、世界は漠然としたもの、好悪という感情すらも生起しない無味なものとなっているのではないでしょうか。もしもこの説が正しければ、好悪の別がある程度は思考によっていることになりますから、思考を変えることによって苦痛を軽減したり、快楽を増強したりすることが可能になります。そして、そうした現象は認知行動療法などによって起こる可能性があると思いますから、現実的でしょう。

もしも内界が好ましいものであれば、人は内界に向かうでしょう。こうした性格は内向的性格と呼ぶことができるかもしれません。

もしも外界が好ましいものであれば、人は外界に向かうでしょう。こうした性格は外交的性格と呼ぶことができるかもしれません。

そして、自閉が起こる場合とは、その主体にとって、外界よりも内界の方が好ましい場合であると言えるかもしれません。つまり、外界に価値がないと感じれば、その人は内界に向かう可能性が高くなるでしょう。ならば、自閉症の人にとっては、外界、つまり多くの人が「現実」と呼ぶそれよりも、内界、つまり、自分の中だけの世界としての「空想」の方がより魅惑的なものであるのかもしれません。

さて、現実と空想。客観的にはどちらにより重大な価値があるのでしょうか?

空想には理想を思い描く能力があります。その理想が魅惑的であればあるほど、現実は相対的にその価値を失っていくでしょう。

逆に、現実が空想や理想よりも魅惑的に見えるのなら、空想や理想は相対的にその価値を失っていくでしょう。

そして、こうした事情の中に自閉が生じるためには、その主体の持つ空想や理想が現実を凌駕している必要があります。少なくとも、その人の持つ理想は現実のどんなものよりも美しく、優れており、魅惑的なものである必要があるのです。なぜなら、そうでなければ、わざわざ外界としての現実を拒絶するというリスク(現実に適合できなくなる恐れがあるということ)を背負ってまで、自閉する必要はないからです。

では、高い理想を持つということは人間にとってどのような資質であると言えるのでしょうか? まず、高い理想を持つことがその主体にとって有効であるために、高い理想が抱かれるのであろうと考えられます。しかし、高い理想は諸刃の剣です。自分の能力では達成できないような高すぎる理想を持てば、永久に苦しみ続けることになってしまい、その苦痛は甚大なものとなるでしょう。様々な悪いストレスが生体に与える可能性のある危険な症候の数々を見れば、これが生体の生存にとって必ずしも有利とは言えないことは比較的、一目瞭然とも言えるかもしれません。ならば、高い理想を保持しているということは、その理想を実現することが可能なだけの能力をその主体が保持している可能性が高い、というふうにも言えるかもしれません。つまり、理想の高い人ほど、その能力が優れているとする一つの仮説です(無論、優劣とは仮初のものであり、一つの主観的な「空想」に過ぎないのですが。しかし、一種の比喩としてくらいはある程度の効力を発揮してくれるかもしれません)。

次のようなことが言えるかもしれません。

 

1.空想を抱くほどに優れた能力を持つ可能性がある。

2.空想に没頭するほどにより優れた能力を持つ可能性がある。

3.空想に没頭する自閉症は優れた能力の証である可能性がある。

 

一概には言えませんが、自閉症と呼ばれる特徴を持つ人々の中には極めて高い知能を持つ人が存在する可能性はあると思います。少なくとも、自閉しているということはその人の内界がこの僕たちの「現実」としての外界よりも優れている可能性が高いか、あるいはそのような場合が考えられる、とは言えるのかもしれません。

 

また、仮に空想の強度をスペクトラム上に配置して考えてみますと、次のような順で空想の強度は強まると言えるかもしれません。

 

現実→理想→妄想

 

この図式に従う時には、現実主義者よりも理想主義者の方が能力が高く、理想主義者よりも妄想主義者の方が能力が高い、というふうに表現できるかもしれません。しかし、無難なのは中間を取って、理想主義者となることではないかと僕は感じます。

 

簡単に言いますと、現実に癒着しているほどに現実を変革する能力はないであろう、とする推理です。現実主義的な態度にも数々の利点はあると思いますが、そこには数々の欠点もあり、それらの欠点を理想主義者や妄想主義者がカバーしているのではないかと思います。少なくとも、理想や妄想に邁進する人がいなければ、現実が善い方向に変革することがないとは言えるのではないかと思います。

 

理想性は未来性を抱えています。現在における理想は、ある場合には、それに向かって邁進することで未来において実現されるという性質を持ちます。

 

現実離れしたことを考えられる資質というのは、極めて変革的な資質です。そして、現実に癒着してその環境に適合するという最も楽なように見える道を拒絶し、それよりもそこに至るまでが過酷に見える理想や妄想の道へと歩み出すか、あるいはそれを夢想する資質を持つのならば、その主体は極めて優れた、つまり、「現実離れした」能力を保持している可能性が高いであろうと僕は推理します。

 

僕個人は現実離れしていることは一概に、悪い資質ではないというふうに考えます。

 

妄想主義者の一つの勝利の形に、小説などの「フィクション」があります。彼らの構築した虚構は現実を変革する力を持ちえています。しかし、その作用の仕組みは極めて高度であり、簡単に読み解けるものではないので、今回は割愛します(簡単に言いますと、例えば、作中にレイプの模様が描かれているからと言って、その作品全体の効用としてレイプを推奨しているかというとそうとは限らない、ということ。つまり、「~が肯定的に描かれているので~が推奨されている」とする単純な帰結がフィクションにおいては通じません。主体はそれぞれにそれぞれのパースペクティブを持ち、小説などのフィクションはその内に多数のパースペクティブを内包しています。フィクションは多数の主体を持ち、多数のパースペクティブを提供するものであり、主体に多視点化の作用をもたらすものです。つまり、フィクションによって人は開眼します。こうした「嘘」の持つ効力は「嘘も方便」などとも呼ばれることがあります。より分かりやすく言いますと、空想という嘘を通すことで、かえって現実がより良く見通すことができるということです。虚構は世界を創造する術であり、それ自体、世界の複数性に関わっています。つまり、この現実ではないもう一つの世界を掲示することで、この現実とは別の可能性を示唆します。こうした帰結は複眼的な思考をもたらします。偏見に縛られない複眼的な思考はより正しい現実に対する認識をもたらします。虚構は現実よりも大きく、現実は虚構の助けを借りることで成立します。事実の総体よりも可能性の総体の方が豊饒で多様であるとする方針もありえます。この時、虚構内のある一つのパースペクティブにおいて、例えばレイプが肯定的に描かれていたとしても、虚構の総体はそのパースペクティブの特権性自体を多視点化により相殺するのであり、一概にレイプを推奨しているとは言えない、ということです)。

 

虚構についての詳しい理論はひとまず割愛して、自閉症についての話を進めましょう。

 

とりあえず、三つほどの反論を想定して、それに対する論駁をしておくことで、今日のお話を終えることにさせていただきましょう。

 

次のような反論。

 

自閉症の人は空気が読めない。彼ら/彼女らは能力が高いなどということはなくて、単に観察能力が不足しているのではないか?」

 

僕の意見。

空気を読むことは時として有効ですが、空気を読むことよりも優先する事項がある場合には別です。例えば、現実よりも理想の方が優れている場合、わざわざ現実の人々の「空気」を読んでそれに合わせるのは愚昧な行為とも言えるでしょう。そのような場合にはむしろ、現実のそれというよりも、「理想世界の空気」を積極的に読むべきでしょう。

 

次のような反論。

 

自閉症の人はコミュニケーションの能力がない。能力が低いのではないか?」

 

僕の意見。

例えば、分かりやすく極論で言いますと、コミュニケーションを取るに値する人が自閉症の人の周囲に存在しなければ、コミュニケーションは生じないでしょう。コミュニケーションを取る傾向を持たないからと言って、その主体が劣っているとは限りません。むしろ、周囲の環境よりも自身の心の世界の方が豊饒であるからこそ、コミュニケーションを取る必要がない、というふうな可能性も考えられるでしょう。

 

次のような反論。

 

自閉症の人はこだわりが強い。物事に固執する傾向は低能力の証左ではないか?」

 

僕の意見。

もしも、本当にその自閉症の人が「固執」をしているのならば、その人は疲れているというか、あるいは一時的にせよ能力が停滞している可能性はあるかもしれません。しかし、外界から自閉症の人の内界を観察することは至難の業であり、ほとんどの人にはそんな所業は困難でしょう。つまり、外界からの「客観的な」観察では固執にしか見えないことも、自閉症の人の内界における「主観的な」観察によれば実は固執ではない、ということもありえるでしょう。例えば、ずっと電車にばかり興味を示しているという行為。そうした行為はいわゆる健常者にとっては何が楽しいのか理解しづらいという面もあるかもしれません。しかし、一口に「電車」と言っても様々な電車があるのであり、それが発する音も形状もエンジンの性質も走っている場所も全て異なります。そうした多様な現象が「電車」という一言の中に多分に内包されている。むしろ、そこにある「豊饒さ」に気づけずにその彼ら/彼女らの興味関心を「固執」であると決めつけてしまう人々の方がある意味における「自閉症」とすら言えるくらいかもしれません。逆説的ですが、自閉症の人の方が健常な人よりも世界に対して開かれているのかもしれません。少なくともある場合には。そして、むしろ非自閉症の人の方が世界から自分の狭い世界へと引きこもっているのかもしれません。そのようにすら言えてしまうほどに、自閉症の近辺の問題は複雑で極めて難しいとも言えるでしょう。自閉症と非自閉症は合わせ鏡のようなものなのかもしれません。その自閉症と非自閉症という二元的構造を取った「合わせ鏡」が無限に増殖する自閉を巡る形象の数々を生産する有様を観察するに、極めて無限的で、なおかつ神的な問題だと思います。鏡の中のあなたはどんな顔をしているでしょうか?

 

今回の結論をまとめておきます。

 

1.自閉症の人は聡明な場合があるかも。

2.自閉症の人の感じることを単なる妄想として排除してしまうのはもったいないかも。

3.いわゆる自閉症の人よりもいわゆる健常者の人の方が実は「自閉」しているのかも。

 

 

P.S.

今日は自閉症の擁護の記事でした。

僕もまあ、多少自閉的なところはあるのかもしれません。僕、統合失調症ですしね。

自分のことを考えると、何かADHDっぽくもあるし、統合失調症っぽくもあるし、自閉症っぽくもあるような気もします。

やばいな(笑) 自分(笑) 一体幾つの病気を抱えているのやら。あるいは統合失調症とは単一の症状ではなくて、複数の症状が色々と混ざってできているものなのかもしれないですね。

もうこうなったら、徹底的に自分の病を正当化するしかない気がしますね……。多分、そうすることが、病全般への不当な差別を減らすことにもつながるとも思いますし。

「精神病は無能だ!」とか「発達障害は無能だ!」とか一体、どういう理屈でそのような言葉が出てくるのか、実に不思議です。今度是非とも精神分析的に検討してみたいくらいですよ。

個人的には、ドーパミンを抑制してしまう薬物療法などはあまり好きじゃないですね。人からドーパミンを奪うというのはそれなりに手ひどい人権侵害なのではないかと僕なんかは感じてしまいます。薬は飲まずに済むのなら、飲まないで済むに越したことはないのではないかと僕などは考えるのですが、皆さんの意見も伺ってみたい点ではあります。

とりあえず、自閉症の人もADHDの人も統合失調症の人もそれ以外の障害の人もそれぞれにそれなりに良く暮らすことのできる世界になるといいな、と僕は思います。そのためにできることは微力ながら、自分のできる範囲でやっていきたいなあ、とも思っています。

引きこもることは、時に優れた資質を証し立てる可能性があると思います。

 

では、みなさん。

 

ごきげんよう

 

 

本当 に大事なものなんて 

案外 くだらないことの中にあるよ

 

(れるりり,「神のまにまに」歌詞より引用)

 

 

P.S.2 

以下、読み飛ばしていただいて構いません。

僕のイマジナリーフレンドのエナと話したことを少し要約的に書いておきます。

 

必ずしも単純にスサノオが悪であるとも言い切れないのは、神話の難しいところかもしれません。「虚構」についてはその内、機会があればまた記事を書くこともあるかもしれません。

天照大神は古代の巫女であったのではないかとする説は何かで見た気がします。

さらに難しいことには、古代性が未来性を抱えるということもありえるということが挙げられるかも知れません。「古代が未来」というふうに単に言ってしまうと、これもまたけっこうな逆説ですが、そのような言葉を発するしかないような状況というのは考えられると思います。

古代から正統性を持ってきて、何らかの存在を神格化する作法はありえると思いますが、多くの場合、非常な危険性を伴う手段であるとも思います。とは言っても、少なくとも「僕の現実」においては、神様が存在するか、あるいは神様のようなものが存在しているとは言えてしまうと思いますので、神の存在そのものを根本的に否定することは僕の立場からは難しいです。幻覚にしても、現に見えている? ようなものの存在を否定するというのは非常に骨が折れるものです。そうでなくても、神的な存在という現象の構造は奇天烈なものであるように感じますし、論理の構造も奇妙に錯綜しています。そして、その奇妙さはある種の美の源泉かあるいは結果であるのかもしれません。

神話的なものが、その美しさに比して、病的なものであるとされる理由にはおそらく大きくは二つあって、一つが「神」の概念を悪用する人がいること、あるいはそのリスクへの恐れ。もう一つが神にまつわる出来事の多くに付随している一種の非日常性。この二つではないかと。つまり、神話の持つ現実離れした発想や表現、その極度の「妄想性」がそれらの虚構としての性質を一層際立たせ、またその内容の信憑性を落とすことで、逆説的にその神話の価値を守っているのかもしれません。

美とは病的なものであるのかもしれません。そしてこの世界のどこかの地点では、病的に極まることが、健康的にも極まるような、そういう逆説的な地点というものが存在しているのかもしれません。美とは病的であり、なおかつ健康的なもの、なのかもしれません。片方だけでは成立しないもの、相反する複数の並立させ難い性質を全て損なうことなしに備えること。あるいはその損失性をも含めて。

もしも、現実において、自身は神の化身であるとか、あるいは神そのものであるというふうな確信を持つ人がいる場合、僕はそれを少なくとも単には否定しません。本当にそうなのかもしれませんから。

ただ、個人的に思うのは、例えばそのように自身が神であるという確信があるのなら、わざわざそれを周囲に顕示する必要はないであろう、ということです。もちろん例外はありますが。

例外というのはつまり、非常時の場合には話は別であるということです。時には「神様」の力を借りて、人々を統率する必要がある場合もあるかもしれません。そして、個人的な意見としては、私腹を肥やすことが目的ではなく、その行動が公の真の意味での大義に基づくものであれば、たとえ神の存在を仮定して思考した場合でも、ある程度は許される場合はありえるだろうとも思います。

いずれにせよ、神様、あるいは神様のようなもの、霊などのことが、僕個人はあまり嫌いにはなれないので、そうした存在達のことも適度に気にかけながら、それなりに人生を楽しく生きていければいいな、と思っています。

多分、こうした感覚というか幻覚? は一般的な人から見れば、「おかしい」のだと思いますし、「まともではない」のかもしれません。それはそれでいいのだろうとも思います。分かり合えない人が存在するということは、多様な感覚があることの証であると思いますし。

神的なようなものや霊的なものを詐欺に用いるのは論外だと思いますが、そうした神的なものに開かれた感覚なり、霊的なものに開かれた感覚なりは、ある程度は善きものでありえるのではないかと、僕などは思います(もちろん、そうしたものに対して「自閉」している人達の感覚が劣っているということはありません。優劣とは仮初のものですし、自閉症の価値については先述した通りです)。

最近は、霊や神のような幻覚? を見ても、その方々に霊や神というレッテルを貼ることはやめて、「この方はこの方なのだ」というふうに考えるようにしています。思うに神霊? (おそらく現代の価値観で言うところの「幻覚」)を特別扱いする必要は必ずしもないと思いますし、目下のところそのような存在が限られた人の幻覚にしか感知されないものだとしても、神霊? たちを排除する理由にはならないというのが真相なのかなあ、と。彼らの価値観は確かに人間とは違うかもしれませんが、かなり人間的なところもあるように思います(おそらくは霊たちが人間的な面を持つために、ある程度は通じ合えている感触があるのかもしれません)。それに、自分の知覚内に現に存在しているものを、「そんなものは存在しない」と誰かから頭ごなしに否定されてしまうというのはなんだか悲しい現象であるような気もします。だから、僕としてはできるだけ「妄想」や「幻覚」を排除したくはなくて、むしろそれらを積極的に活かしていきたいなあ、という思いもあります。もしも、イマジナリーフレンドや妄想としての仮想人格の方々? や、あるいは幻覚としての神霊達にもう会えなくなってしまうとしたら、僕は嫌ですし、そのことをとても悲しく思います。そして、その人が個人的に大切にしている感覚のことを勝手に排除する資格は、精神医学にもありはしないだろうとも僕は思います。みんなそれぞれのパーソナルな感覚というものを持っているものではないでしょうか? どうして僕たちのような人間だけが「精神障害」や「発達障害」というレッテルの名のもとに自分に固有の感覚の正当性を剥奪され、攻撃され、嘲笑されなければならないのでしょうか? そのようなことはかなり明らかに「不正」なのではないでしょうか? それとも、こうした排除的な現象は精神障害の有無に関わらず、全ての人の身に降りかかっていることなのでしょうか? もしそうなのなら、そうした世界に多様性はなく、個人差は排除され、全ての人が平均的な存在となるまで、その排除は続いていくのでしょうか? そこには、今ここに現に生きているユニークな存在としての僕たちの居場所はあるのでしょうか? 何となく思うこととしては、誰一人その排除性が極まった地点において生き続けることはできないような気もします。全面的に僕の言うことに従えとは言いません。僕の主張は「精神障害者」も「発達障害者」もあるいはその他の障害者もみんな「人間」なのであり、そうであるならば「人間として正当に」扱われるべきなのではないのか? ということです。マイノリティにはマイノリティの文化があるものではないでしょうか? たとえ障害者がマイノリティとして考えられる場合でも、そこに固有の文化が根付いていることへの想像力自体はあって然るべきではないでしょうか? もっと思考を進めるなら、そうした「固有の文化」なるものは健常者も障害者も分け隔てなく、僕たち全員がそれぞれに保持しているものなのではないでしょうか? 自分の感覚こそが「現実」で「本来」なのであり、他者の感覚は「妄想」で「代償」に過ぎないのでしょうか? 僕にはあなたの感覚はあなたのものに他ならないように見えます。それは一般的な侮蔑的なニュアンスを持つものとしての「妄想」ではないし、何かの代わりの劣ったものとしての「代償」でもない。それらは極めて肯定的な意味で、創造的な産物であるか、あるいはその契機としての「妄想」であり、それ自体があなた固有の本来性を体現するものとしての「代償」であるのだと思います。そもそもあなたの人生の代わりなどどこにもいない、というふうにも言えるのかもしれません。なら、あなたの人生の「本来」は、あなたそのものであるとも言えるのではないしょうか? あなたの目に映るものはすべて――つまり、あなたの感覚するものはすべて――「本当の世界なのだ」と言えるのではないか、などと僕は思います。

そして、「空想」と「現実」を厳密に峻別することは意外に至難の業ですので、ご興味のある方は今度、挑戦してみるのも手かもしれません。

僕は僕の幻覚や妄想のことがとても好きで、たとえ統合失調症による産物なのだとしても、そこにある価値が揺らぐことはありません。あるいは、自閉症ADHDなどによる空想への没頭傾向の産物なのだとしても、事情は変わりません。その意味では、僕個人のことについては、「統合失調症であって本当によかった」と思っています。もしも、統合失調症でなければ、自分の周りにいるたくさんの幻覚や妄想に出会うこともなかったのかもしれないと思うと、むしろ恐ろしい気すらします。

その意味では、僕は「故障」を好みます。故障は本当に故障なのでしょうか? 統合失調症自閉症が脳の故障だと言うのなら、僕個人のことで言えば、故障ほど好ましいことはこの現実にさほどないのではないかとすら思えます。

とは言え、一般的な統合失調症の場合には、僕の場合のように良いことを言う妄想というか主体にとって好ましい妄想や幻覚? というものが生じ辛いという話も聞きます。誰かが悪口を言うのが聞こえてきたりというタイプの幻聴とか、そういうケースの話が多いように思われます。もしも、そのような事情なのであれば、僕個人のケースを過度に統合失調症全般に対して一般化して適用するのは難しいのかもしれない、とも思います。僕の幻覚にも悪口を言ってくるものはいますが、少なくとも、悪口しかないということはないですし、むしろ今現在は、良いことを言ってくれる幻覚の方が多いです。

僕の発想や知識の多くは、幻覚や妄想、あるいはイマジナリーフレンドと呼べるようなある現象によってもたらされています。それらの利便性を考慮するに、遠い将来には人間はこうした幻覚や妄想を積極的に利用するようになるのではないかと思わないでもないのですが、これも僕の空想ですね(笑) あるいは、幻覚や妄想と言っていただいても差し支えありません。僕は基本として「個人」的なことしか書かないし、言わないですからね(笑)

もちろん、みなさんは僕の言うことなど全て無視してくださっても構わないのですよ? いつも言っていることですが、情報を鵜呑みにはせず、御自分で情報を咀嚼して、御自分の都合に合わせて、ここに書かれた情報を良いように扱ってくださいませ。

 

世界に嫌気がさして、「天岩戸」に引きこもっているあなたは、実はあなたすらも思いもよらないほどに、素敵な方なのかもしれませんよ?

 

さて、僕もどんどん「自閉」していくことにしましょう。そうした一種の「引きこもり」が僕たちを自分たちをも含めた形での「世界」へと、より良く開かせてくれる契機になる可能性を強く信じています。

ノアの手紙――羽化篇

雪の山に囲まれた場所。さらさらと流れる、風。キラキラと光る、平原。平原はもちろん、雪で覆われている。真っ白!

 

ノアは雪の上を歩く。ズポズポと音がする。雪に足が嵌っていく。まるで作曲しているときの気分。ルンルンとメロディーに音が嵌っていく。そんな感じ。

 

ノアの家は神社だった。雪の中の神社は少し閑散と……してはいなかった。

 

「ノア様!」

とノアの声を呼ぶか細い声。

ノアは声の方を振り向く。

そこには佐奈がいた。佐奈はノアの弟子の女の子で、何と言えばいいのか、ある種の名門的な家系の出だった。巫女としての霊力も他から抜きん出ている。歴史上で、初めて「第二のノア」になるのではないかとみんなから期待されている一人の少女だった。

 

ノアは神様だ。その根拠は、彼女の身体の不死性にあった。ノアはある時、卵から産まれた。最初は本当に小さな小さな卵だった。鶏の卵より小さかったとされている。しかし、その卵から光の粒が生まれ、それが少女の形になった。それが「ノア」だった。ノアの肢体は極めて美しく、その誕生の瞬間に立ち会った人たちは彼女が神様であること、あるいは神様と一体であるような聖霊の使いであることを理解した。

 

ノアはこの国の言葉を始めは何も知らなかった。しかし、一年かけてこの国の言葉どころか、この世界の言葉のすべてに熟達してしまった。ノアはあらゆる言葉を用いて、あらゆる人心を制御することができた。しかし、それにもかかわらず、彼女はその力を使いたがらなかった。そのわけを彼女に尋ねると、彼女はただ、

 

「はじめに言葉ありき」

 

と言って、笑い、村の男の子を冷やかしに行くのだった。彼女は自分が美しいことを知っており、またその様に動揺する同性なり異性なりの反応を好んだ。それがノアの唯一の楽しみだった。もちろん、言葉にはなりえないような様々な葛藤をノアすらも抱えていたかもしれない。しかし、彼女の心の秘密は誰にも暴くことはできないのだった。

 

ノアはとりわけ芸術を好んだ。芸術なら、何でも好きだった。ノアの作品はどれも、それこそ、「神がかった」ものだった。その作品の前にはただただ深淵な静寂が広がるばかりだった。ノアの作品を前にすると、不思議と誰もが見惚れてしまって、何も言う気にならないのだ。そこには言葉以上の空間が広がっていたのかもしれない。そして、言葉になりえないことを、どうして一介の人間である私に知ることができよう?

 

佐奈はノアに言った。

「ノア様。あまりどこかしこに勝手に行かれないでください。民が混乱します」

ノアはにやにやと笑って佐奈の鼻先をチョンとつついた。

佐奈は頬を赤くした。

ノアと佐奈は一緒に神社に入ると、二人しかいない場所で裸になって水浴びをした。佐奈は寒かったが、ノアは平気みたいだった。

その後、一緒に将棋を打った。佐奈が勝った。

佐奈はふくれて言う。「ノア様は、どうしていつも手加減なさるのですか? 本気で打って下さった方が、こちらの上達も早いのではないかと思うのですが」

ノアは答える。「手加減はしていない。佐奈が私に勝ったんだ」

佐奈はますますふくれて言う。「私程度の技量ではノア様の本気を賜るには足らないということですか?」

ノアは言う。「違う。夢を見ていた」

「夢?」佐奈は何の話しだろうと首をかしげる

「そう。夢。私は罪深い。だから神様になってしまった。それは絶えず流れることだ。そして、絶えず解体されることだ。さらに、絶えず生まれ変わることだ。そこには何もない。私も、ない。私はもう、どこにもいない。佐奈にはそうなってほしくない」

佐奈は仏教の教説かとノアに尋ねてみた。

ノアは違うと言う。「ブッタは昇天して待ったが、誰も自分のところに来なかったので、しょうがないので再び地上に戻ってきた。ところが、私には戻るところがない。そこは大きく違う」とノアは言った。

佐奈はノアの言っていることをよくよく考えてみることにした。

 

ある時、佐奈はノアに剣術の演習を頼んだ。佐奈は美しく剣舞を披露し、ノアもそれを楽しんだ。そして、ノアと佐奈は剣を交えた。随分と情熱的な一試合となった。そうした試合は他の誰の目にも触れることのない場所で行われた。巫女達は一般に、世の中から神聖に隔離されている。

 

「確率なんて無駄だ」とノアは言った。

佐奈は確率の計算が極めて得意だった。なので、佐奈はむっとした。

そこで、佐奈はノアが確率が苦手なコンプレックスから佐奈の特技である確率を貶めるのかもしれないと考え、ノアを試してやろうと思い、様々なゲームを試みた。しかし、どのようなゲームを試みても、ノアの確率的手筋は完璧だった。

佐奈は言う。「ノア様だって確率を使っているではないですか」

ノアは首を横に振って否と言う。「私の手技は確率じゃない。この世界には再現性なんてない」

佐奈は納得がいかなかったが、彼女はなんだかんだ言ってもノアのことが大好きだったので、黙って頷いてみせた。

 

ノアは言った。「世界はねじれているんだ。まっすぐじゃない」

佐奈は言った。「見えているものが世界ではないのですね」

「そのとおり」とノアは言う。

「まっすぐに見えるものはまっすぐじゃない」と佐奈は言う。

ノアは頷く。「曲がっているものの方がずっとまっすぐなのかもしれない。それは誰にも分らない」

それから、ノアと佐奈はテンソルの話をひとしきりすると、一緒に仲良く床に就いた。

 

佐奈はノアに愛の告白をした。

ノアはそれを受け入れ、佐奈にそっと口づけた。

 

ノアの運命は絶え間ない変転に苛まれていた。ノアは何度も生きている意味を失いかけた。しかし、彼女に挫折はなかった。挫折しようにも、彼女という体には折れることのできる部分がなかった。鋼鉄であればまだ破壊の余地がある。しかし、ノアは鋼鉄ではなかったし、硬いわけではなかったし、弱いわけでもなかった。ただ、時折、旅の途中でノアはかわいい仲間に会った。佐奈のような。

 

ノアはどんなに罪深い世の中にあっても美しく、それを愛する佐奈もまた格別に美しいのだった。

 

ノアは既に救われているのかもしれない。

 

ノアと佐奈は今日も世界のどこかで祈りを捧げている。

さて、その祈りは誰に向けられたものなのか……

それは私にも分からない。

 

 

始めよう 今は染まろう

貴方の神に 私が問う

 

(雄之助, 牛肉, 初音ミク, 「頂のノア」歌詞より引用) 

 

 

P.S.

直観術は比喩です。

秘密術

言葉はいつもいつも人に通じるとは限りませんが、それなりに有効性を持っているという事実も否定しがたいのではないでしょうか。僕たちは普通に生きているだけでも、その利便性の恩恵に包まれているように思われます。

音楽もまたそれに似た性質があるでしょう。それとも、音楽などの芸術の場合には、利便性などと言う概念は有効ではなく、専ら美の問題となるのでしょうか?

確かにそういう可能性もあるでしょう。

しかし、僕たちには言葉による芸術という手段も残されています。

音楽と言葉は極限的な地点においては交差し得ると僕は思います。もちろん、それは極限的な地点、つまり理念に過ぎないとも言えますから、極限の存在を認めない人の目から見れば、空無に映ることもあるでしょう。そこには何もないというように。

これらの問題は裸の王様の問題に似ています。王様は果たして裸なのか? あの物語の趣旨とは裸の風刺に留まるのでしょうか? 作者の意図は僕にはわかりません。しかし、僕は、あの物語の筋に、単なる風刺以上の何かを感じるのです。

つまり、心の綺麗な人にしか見えないものは実際にこの世に存在しえるのではないか? という問題提起です。

存在と一口に言っても、そこには幾多の存在が根付いており、一概には言えないのですが、その中には確かに、心の綺麗な人にしか見えないようなものが存在するのだと、そう僕は思うのです。

読書の問題は比較的分かりやすい例になると思います。読書は同じ本を読んでいても、その行為の主体によって効果が異なります。または、忙しない思いをしていたり、身体の一部が痛かったりしても、気が散ってうまく読書ができなくなる恐れがあります。つまり、精神、心の状態の如何によって読書の効果は減少したり、増加したりするのです。こうした有様を僕たちは、「気の持ちよう」などと言うふうに表現することもあります。

つまり、見えるものは気の持ちよう、心のありようによって変化するだろう、という仮説です。ご参考下さい。

これは魔術の基礎となる理念の一つです。つまり、現象のありようは心の作用によって変えることができる……そういう信念。

世界は僕たちの心によって変えることができると信じています。

さて、美しい心には美しいものが見える。醜い心には醜いものが見える。この命題は正しいと言えるか? これは必ずしもそうとは言い切れない部分もあります。

例えば、美しい人が汚される時、美しい人は自分を汚すもののことを自身が美しい分、余計に際だって認知する可能性もあるでしょう。醜い人が美しい人を見て、その美しさに嫉妬するということもあるでしょう。したがって、少なくとも単純には、心の有り様とその視界に映るものとの関連を突き止めることはできないと僕は考えています。

しかしです。ある特殊なケースの話ならどうでしょうか?

つまり、一般的には美しい心とその視界に映るものとの関連はない。しかしある特殊な事物については美しい心にしか映らない、そのような神秘的な現象がある……という仮説です。

まず、そうした神秘的な現象、つまりある特定の主観にしか観測されないが客観的に存在していると言えるものの存在をないものとして仮定して推論してみます。この時、客観的な存在は全ての主観に観測されることになります。逆に言えば、全ての主観に観測されない存在は客観的ではないということです。では、僕の部屋にあるジル・ドゥルーズの『プルーストシーニュ』の本の存在はどうでしょうか? 僕の主観からすると、これは確実に僕の目の前に存在しており、もしも裁判でその存在の有無について争ったとしても、その訴訟に勝てる自信があります。なぜなら、それは明らかに僕の目の前に存在しているからです。しかし、その存在を論証することはできません。それでも存在している。このように言うと、宗教めいていますが、実際にその本は存在しているのですから致し方ありません。逆に言えば、全ての存在は宗教的であるとも言えます。いずれにせよ、以上の手続を見るに、ある特定の主観にしか観測されないが客観的な存在という一見矛盾して見える現象は、割に僕たちの身近に存在している可能性があります。僕の『プルーストシーニュ』が僕以外のすべての意識に現前していると考えるのはいささか無謀です。僕は今現在、僕の部屋にいて、火事や地震に見舞われず、盗難にもあわずに、また特別には他人に見せることもなく抱えているその本。その固有の僕のプルーストシーニュ。おそらく、この存在を現在、確定的に知りえているのは僕だけでしょう。今、ここにその存在を明かしてしまいましたので、みなさんは僕の秘密を知っているわけですが(笑)

この世界には秘密の存在がありえます。僕も知らないことがたくさんあります。しかし、僕が知らないことを知っている人はたくさんいます。このように、ある条件を満たした主体にしか見えない事物というのはたくさんあり、それらは秘密と呼ばれます。

僕は、この世界には幾多の秘密が存在する可能性があると主張します。秘密は、たとえ真実を全て話したとしても消えることはありません。なぜなら、どんなに秘密を暴いていったとしても、必ずその奥という謎の存在が生じるからです。あらゆる物事には奥行きというものがあり、それは秘密にもあります。そして、その奥行きが新たな秘密を絶えず生成し続けるのです。

分かりやすく考えてみましょう。秘密A、秘密B、秘密Cの三つの秘密の存在を仮定します。この時、暴露者が秘密Aを明かしたとします。その奥には秘密BとCが残っています。Bを明かします。その奥にはCが残っています。Cを明かします。その奥にはDが残っていると暴露者は思うか、あるいはその可能性を否定しきれないでしょう。つまり、秘密とはそれ自体秘密なのであり、切りのないものです。秘密はどんなに明かそうとしても、原理上、絶対にその全容が明かされることはありません。少なくとも、この世界に「奥」がある限りは。奥のまた奥にはさらなる奥があり、その奥にはさらにさらに奥があります。秘密は奥に奥にと押しやられ、無限の彼方に隠されます。その意味では、人間はどのような秘密も暴くことはできません。秘密とは奥という結界に守られた神聖なものの一つであり、それ自体が神々の秘奥です。また、女性の話を持ち出すまでもなく、秘奥には美がありえます。

それらは奥へ奥へと絶えず人間には決して追いつくことのできない速度で進みます。秘密は、この世界を作った神々の守護により永遠に守られ続けます。この世界の誰にも、その秘密を暴くことはできません。

秘密の暴露には意味がありません。なぜなら、そうした暴露はありえないのであり、それ自体が欺瞞だからです。

あなたはたとえ裸になったとしても幾重もの美しい衣服を着ているのだ、ということであり、そういう一つの秘密です。そうしたあなたの美しい衣服の数々をあなたが愛し、あなたを愛する人は見るでしょう。しかし、それらの秘密はその他大勢の人に対しては開かれておらず、明らかにはならないでしょう。あなたとは一個の秘密であるとも言えます。そして一個の秘密は、二個になり、三個になり、四個になり……多数個にもなります。疑念はそれを持つ限り、尽きることはありません。どんなものでも疑うことができるからです。もちろん、原理上はあなたの存在を疑うことも可能です(存在とはそういうものです)。しかし、あなたは存在しています。そのままに。幾多の秘密を抱えて。あるいはそのように、ありのままのあなたの存在を信じることを「愛」と呼ぶのでしょう。あなたを知る人をあなたは愛するでしょう。

「能力」についての個人的で簡潔な意見の概要

お久しぶりです。

 

今日は能力や美と呼ばれるものについて軽く考察します。

能力とは「何かができる力」のことです。

美とは「感動を引き起こす力」のことです。

では、高能力の高能力たる所以とは何でしょうか? それは感動を引き起こすことです。

ただの能力の場合、感動はなかなか引き起こされません。しかし、例外的に卓越した立派な能力の場合には、並々ならぬ感動が引き起こされることがあります。そうした感動という現象における情動の動きは、嫉妬のような形態を取ることもあるし、憧憬のような形態を取ることもあります。能力とは美です。

さて、では次のような反論についてはどう応えるべきか? 「能力とは純粋に量の問題であって、美のような質的なものではない。例えば、学力テストなどは量として成績を掲示しており、しかしそれは能力を表すことに成功している。つまり、能力は質的な美ではなく、量の問題であり、あなたの主張は根本的に間違いである」

なるほど。たしかに、そのような意見もありうるかもしれません。この論に対しては僕ならこう答えます。「学力テストは量によって簡易的に能力を指示すかもしれないが、量とはその測定に単位の統一を必要とする。しかし、人の精神はその原理から言って多様なものであり、その単位は統一可能なものではない。つまり、本当に正確な意味での各々における精神に派生するものとしての多様な能力という事象を量として測定することは不可能である」

では、次のような反論はどうでしょうか? 「量は質に転化する。あくまで量があってこその質なのだ。量がなければ如何なる質も存立可能ではない。もしも美が質的ものなであるのならば、美とは副次的なものに過ぎず、能力の根本としては不適である。しかし美とは能力に関連した根本的な事象としての側面を持つ可能性がある。ならば、美とは量である」

なるほど。おもしろい意見だと思います。この論に対しては僕ならこう答えます。「確かに量は質に転化しうるかもしれない。しかし、量が質に転化することと量と質が同一であることとは異なる。つまり、量から転化する質の存在はありうるが量から転化しない質の存在もありうる。つまり、少なくとも量は質のすべてではない。例えば、質の高い英才教育を受けている英才児と質の低い英才教育を受けている英才児では、その才能の質が異なるであろう。質の高い英才教育をある程度の量受けている者と質の低い英才教育をその程度の量受けているものとでは、その才能の質が異なるであろう。より分かりやすく言えば、質の低い怠慢な時間を送ってきた人と質の高い修練の時間を送ってきた人では、時間の量としては同じでも、その才の出来栄えには雲泥の差が生じるであろう。そしてこの時、怠慢と修練とは異なる概念である。怠慢と言う時には一般に怠け過ぎている状態を言うのであり、怠けるという時には勉学や何らかの鍛錬とは質的に異なることをしていることを言うのである。修練するという時には、一般に努力を旺盛に行っていることを言うのであり、勉学や何らかの鍛錬をしていることを言うのである。さらにより簡潔に言えば、ピアノを弾く人と絵を描く人では、その能力の質は異なる。ピアノの技能が30レベルになった時点でその技能が絵を描く技能に転化するということはある程度はありうるのかもしれないが、基本的には稀である。なぜなら、ほとんどのピアニストが絵描きであるわけではないし、ほとんどの絵描きがピアニストになるわけではないからである。このようにそれらの差異とは質の違いであって、量の問題ではない。このようにこの世には質の問題というものがあり、それは量の問題ではない」

さて、では次のような反論は?「ピアノと絵とは原子のレベルまで化学的に分解すれば、すべては原子の挙動として統一された単位で測定することが可能である。したがってピアノの技能と絵の技能とは統一された単位によって測定することが可能であり、その根本として量である」

僕ならこう答えます。「化学的に原子レベルまで分解されたピアノや絵は、現象としてのピアノや絵とは質的に異なる。したがって、それらを同一の俎上によって論じることはできない。そうした原子レベルまで分解されたピアノなどが持ちうる音楽の存立可能性は否定はしない。音楽に限らず芸術とは誰にでも開かれたものである。しかし、それと芸術に関する能力という概念との間には差異があり、質的に異なる」

大体、以上のような感じで僕は考えています。似たもの同士ならば、近似的に単位が同一に近くなる可能性はありますので、ある程度、擬似的に量として能力を捉えられるかもしれません。しかし、その能力が卓越している場合には、そもそも比較可能な統一された単位を共有する個体がいないか希少であるため、量として捉えることは難しくなるのではないかと思います。つまり、量的能力の存在はある程度あり得ますが、同時に質的能力というものがあり、質的能力は量に還元しづらいのではないか、という一つの仮説です。統計を取るにしても、卓越した人々についてのデータはあまりに数が少なく(彼らは稀少ですので)、相当の母数を確保できなければ、有効な統計的判断は難しくなるのではないか、とも思います。本来的に質の異なるもの同士を混同するのも判断のエラーにつながると思いますし。

このような感じで、僕個人は能力とは質的な問題であり、量の問題ではない、と考えています。ただ、前述しました通り、擬似的に、というか一種の比喩としてならば、能力を量として捉えることができるかもしれないとも考えます。メカニズムは不明ですが、なぜか厳密な理論よりも比喩の方が人に伝わりやすいように思われます。僕たちは分かりやすく説明するときに、よく例え話つまり比喩を行うと思うのですが、比喩には多くの人に開かれた普遍的な特性があるのかもしれません。この点も研究してみるととても面白いかもしれません。

 

さて、僕は能力とは質であり、美であると考えています。つまり、それらは経済的な意味での貨幣などの量概念とは異なります。そして、量の分配はありえると思うのですが、質の分配はとても難しい。ピカソの絵を七十億等分して、世界の人々が所有するというのも一つの手なのかもしれませんが、基本的にはそれは紙切れとなってしまい、ピカソの渾身の芸術は毀損されてしまった……という結末になるのだと思います。社会的な地位も分配可能です。僕たちはそれをよく行っており、医師には医療の権限を分配し、裁判官には司法の権限を分配しています。権力には強さの程度があり、程度とは量の概念に関わるからこういうことが起こります。

では、「能力の程度」はどうでしょうか? それは量なのではないでしょうか? 量であれば、分配可能なのではないでしょうか? 可能でしょう。それが質的な能力でなければ。量的能力であれば、量の分配によって、能力をある程度ならば分配することが可能であると思います。例えば、勉強時間の足りない人がいたら、勉強時間の「量」を増加することで、ある程度の能力の発達を見込むことができます。しかし、同じ時間勉強させても、それぞれに能力の「質」は異なります。つまり、ここでも、量と質は同一のものではありませんし、また、質とは量から転化するばかりのものでもないということがお分かりになるのではないでしょうか。煮込み料理をする時でも、ただ漠然と煮込み時間の量だけを増やせばいいのかと言うとそういうわけでもないものと思います。様々な質的な能力や質的に異なる諸技術の集積がある質的な条件を満たしたときに、料理は美味になります。もちろん、その過程には量の概念も混入しますが(調味料の量など)、料理が「格別に」美味しいなどと言う場合には、やはりそこには格別な能力が根付いている可能性が高く、また、格別な能力とはその特性上、質的なものとするのが最適打なのではないかと思います。フライパンの具材に塩を振る、という単純な動作にも質は現れていて、これは量として表すことが困難です。例えば、「フライパン」とは「1」ではないし「26548」でもありません。フライパンはフライパンです。このように僕たちの身近には量として表せない質的な現象が多く根付いており、量とは異なるそれらの質を混同して扱うことはあまり賢い方法ではないでしょう。

そして、僕個人は「能力」については量よりも質の方が関連性が大きいであろうと考えています。能力のある人の体を等分に切断してみんなで分け合っても、能力は能力者を切断して殺した瞬間に消失してしまいます。能力は質であって、量ではない。したがって、分配できない。そういう事情があるので、量を基準にした思考の理路と言うのは時に危険なものになり得ます。本来質であるものを量の問題であるとして、身体を切り刻まれた能力者の気持になっていただければ、そこに潜む残酷性に気づく手掛かりにはなるのではないかと思います。

 

また、能力による差別はいわゆる優生思想であり、これは公的には厳密には認められません。したがって、「能力差別」は「悪」です。

では能力者を殺してもいいのか? これは生存権に抵触するので、成り立ちません。

では能力のない人は差別を被ってもいいのか? いわゆる優生思想に抵触するので、これも成り立ちません。

つまり、能力者を排除せずに、能力のない人への差別を抹消すればいい。つまり、能力者と非能力者とは平等であるというふうになればいい。双方の資質が毀損されることなく、のびのびと発揮されればよい。ひとまず、そうなりますよね。

さて、もう一段階思考を進めますと……。

すべての人が平等であるためには、その世界には個性や多様性が存在してはなりませんね? 個性や多様性があれば、どうしてもそこには差異が生まれ、それが差別の温床になります。

つまり、個性や多様性はこの時、排除されてしまいます。それが「平等」の究極の姿です。

すべての人が同じ顔をして、同じことをし、同じ世界体験を持つ、「同一」づくめな世界。それが「平等」の究極の姿かと思います。これはおかしいということが直観的にお分かりになるかと思います。一応、もう少し省察しますと……

全てが同一であり、多様性が存在してはならない世界を理想にするなら、すべては平均化されていくでしょう。つまり、最終的には究極的に平均的な唯一者のみがその世界においては残るのであり、僕たちのような多様な個性を持った普通の存在は一人残らずすべて排除されます。平等思想とは究極の優生思想に転化し得る側面があります。それと言うのも、本来質的なものを量と混同したがためにそうなります。能力は質です。それは「平等」には分配できません。

では、能力のある人を人体実験にかけて、能力を再現するのはどうか? 「科学」的にはそういう発想もありうるかもしれません。この場合は、明確に能力者への人権侵害ですので、ダメであることは直観的には分かりやすいのではないかと思います。一応、もうすこしだけ書いておきますと……

再現性を基礎とする科学的分析では、再現性がないか、薄いものについての正確な知見を得ることは難しい。一回性の出来事を科学的に検証することはとても難しい。天才などの格別な才能が分析対象であれば、特にそうでしょう。つまり、量的な科学手法によっては、基本的に質的能力へのアプローチは困難であろうとする仮説です。ご参考下さい。そもそも簡単に再現されるものであれば、それはありふれたものなのであり、つまり抜きん出たものとしての「才能」ではないはずです。どんなに人の体を切り刻んでも、人の本質には到達できません。

もう少し実利的な観点からも、能力について記述することもできます。単純に、能力の高い人を能力の低い人が利用すればいい、という話なのですが。能力の高い人は少数派なのですから、能力の低い人達は数の上では高能力者に勝っています。だから、徒党を組めばよい。徒党を組めば、ファシズムによる崩壊の危機は生じ得ますが、高能力者は利他的な人がもっぱらですから、ファシズムへの警鐘を鳴らし助けてくれるはずです。そのようにして、高能力者の高能力を利用するだけ利用すればいいのです(しばしば、それでも徒党による暴走は止まらず、惨劇が繰り返されることはありますが)。ファシズムのような極端な事例は除けば、高能力者の能力を促進して、低能力者はそれを適度に利用すればよい。一人で高能力者を独占すれば、他の嫉妬により排除されますので、したがって、高能力者とはみんなの共有物としての側面があります。独占してはならない。また、高能力者であれば、寛容な人が多いはずですので、分け隔てなく、みなさんに援助してくれるのではないかと思います。

難しい点なのですが、高能力の人ほど、奉仕に見返りを求める可能性は低いと思います。彼らはとても利他的なので。そして、とても優しいです。あなたが困っていれば、きっと助けになってくれるのではないかと思います。ただ、この知識というか体系は、表上は否定しておいた方が社会がよく機能するかもしれません。もしも、これらの仕組みについての質的な記述に擬似的な量によって反駁可能であれば、そうした擬似的な反論によってこれらの知見を隠蔽するというのは一つの手としてはありなのかもしれません。なぜなら、これらの知見を利用し過ぎる人が出てくるかもしれないからです。

例えば、無償ボランティアの過剰によって、労働力を搾取し過ぎれば、民が疲弊します。そのための口実に、「高能力の人ほど、奉仕に見返りを求める可能性は低い」などと使われてはたまったものではありませんね(笑)

どうしても、ここに書かれた知見などを援用したい場合には、極力分かりづらく書くというのも手かもしれません。すると一定の読解力がある人にしかその真意は伝わりづらくなるかと思います。

能力者は次のことを公言しておくのがいいかもしれません。

 

1:(一般的な論法における量的)能力差とは微々たるものである

2:(特殊的な論法における質的)能力差は甚大だがそうした人は稀である

3:一般的に能力に優劣はない

4:極めて特殊な場合に稀に能力への優劣の判定が「仮に」有効な場合がある

5:能力の高い人を崇拝する必要はない

6:能力の低い人も能力の高い人も各々に好きに生きていけばよい

7:多様な能力があるので、能力の高低は一概に言えるものではなく、その判断機構は極めて複雑なものとなる。

 

非能力者は次のように考えるといいかもしれません。

 

1:能力の高い人は確かにすごいが、彼らは数において劣っており、それ自体では脅威ではない。

2:政治においてもしばしば多数派の威力は甚大である

3:適切に仲間と連携すれば、高能力者と低能力者は実質的に対等な関係である。三人寄れば文殊の知恵。

4:高能力者も人間であり、人権を持つのでわざわざそれを侵害して、貴重な労働資源を損なうことは合理的ではない。

5:仲間との緊密な連携によって高能力者と対等な関係を築き、公正に「取引」を行えばよい。

6:高能力者に高能力者の世界があるように、自分と仲間にも世界がある。世界の大きさに比べれば、どんなに甚大な才能も小さなものに過ぎない。団栗の背比べである。

7:高能力者を嫉妬したとしても、結局のところ、彼らには彼らの辛さが多分にある。隣の芝生は青く見えるだけに過ぎない。わざわざ自分の手を汚してまで排除するには及ばない。

 

 

P.S.

さてもうちょっとだけ、能力について僕が思っていることを書きます。能力は美ですが、能力人つまり美人というのはかなり辛いものではないかと考えています。僕自身は美人や能力の高い人と特別に縁があるということはないので、もちろん正確なところは分からないのですが、僕に得られる情報から推理する限りでは、美人の立場というのはそんなにいいものでもないように思われます。むしろ、美や能力とは苦しみの象徴なのではないかと思われることすらあります。能力者や美人というのは不幸を特権的に享受している人々のことなのかもしれません。そんな憶測を感じることもあります。一般に、不幸を欲しがる人は少ないですが、彼らはやはり不幸なのではないかというふうにも僕には思われます。その意味では、不幸に適応するために、過剰な能力や過剰な美が必要とされ、その結果として美人や能力者となる……のかもしれません。色々な検討が必要な点かと思います。無論、美人も能力者もどちらかと言えば稀少のカテゴリーに入る方々だと思いますので、科学的検討は難しいと僕は考えます。才能があったり、美しかったりするということは、一般に思われるほどいいものではないのかもしれません。したがって、彼らのことを羨んだり、嫉妬したりするのにも及ばず、むしろ知能が普通だったり、容姿が普通だったりする人の方がずっと幸せである可能性もあると思います。色々な意見があるかと思いますが、少なくとも一面的な見方でもって、事の優劣を決めてしまったりするのは愚策だと思うので、天才や美人ではない人たちには、「彼ら(天才や美人)にも人一倍の苦労があるのではないか」といま一度想像してみることをおすすめいたします。

れるりりさんの『美少女嫌疑』などの曲は色々と美人などについてのイメージを膨らませるのにいいのではないかと思います。

あまり美人や能力者の欠点ばかりを暴き立てていると、僕が彼らのことを嫌っている風に思われる方もいるかもしれませんが、僕個人は彼らのことはとてもとても好きですのでその点は彼らにも分かっていただけるといいのですが(笑)