魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

引きこもりの長所

こんにちは。

 

今日は、引きこもりの長所について、ゆるく考えてみたいと思います。

 

「引きこもり」というと皆さん、あまりいいイメージがない場合もあるかもしれません。

 

常識的には、引きこもりのような状態は「負け組」として捉えられる事の方が多いのではないかと思います。

 

そして、世の中においては、そうした引きこもりという「スティグマ」が引きこもりの人々を追い詰め、排除してしまうような仕組みも作動しているようにも思われます。

 

したがって、この記事では、そうしたスティグマに対抗するために、引きこもりに対するイメージを改善する事を目指します。そのことによって、引きこもりとされ、人々から社会的排除を受けている人達の気持ちを和らげることができるし、結果的に彼らの社会復帰を促すことができるのではないか、などと僕は思います。

 

つまり、「引きこもり=悪人」の図式を撤廃し、「引きこもり=善人」の図式を導入します。

 

引きこもりに悪のレッテルを貼ることで、彼らを排除しようとする人が現実的に存在するのなら、そこにはそうした排除行動を取らなければならないほどに追い詰められた誰かの動機が根付いている可能性を推理することができます。人は一般的に、自分が追い詰められていなければ、わざわざ攻撃的な行動に固執することは基本的にはないものと思います。余裕のある人は、切羽詰まった人に比べると穏やかである場合が多いように思います。

 

まず、「引きこもり」とは何か?

 

これは引きこもっている人の事です。

 

引きこもる、とは何か?

 

これは、テリトリーが狭い状態かと思います。例えば、家に引きこもる、と言えば、それは家以外にはテリトリーを持たないような状態を意味するものと思います。

 

つまり、引きこもりとは、テリトリーが狭い人の事です。あるいはテリトリーという概念の強度が弱い人ともいえるかもしれません。

 

もしも、テリトリーという概念に執着があるのなら、自身のテリトリーを拡大しようとするはずです。引きこもりが、現実的にそうした領土拡大の行動を起こさないのだとすれば、引きこもりは比較的「領土」というものにこだわりがないのかもしれません。

 

ここで、次のような反論が想定できます。

 

「引きこもりは、例えば自室に引きこもってそこから出てこず、人がそこに侵入することを拒絶するのだから、縄張り意識が強いのではないか? つまり、領土に対して誰よりもこだわっているのではないか?」

 

まず、人の勝手な自室への「侵入」を拒むこと自体は、生物として健常な意識だと思います。パーソナルスペースは誰にでもあるものと思いますし。そして、領土とパーソナルスペースは違う概念ですが、境界は曖昧です。こうした現象は、これら以外の概念間においてもしばしばみられるものだと思いますが、それは今回の論法の場合も例外ではないように思います。ある人にパーソナルスペースが存在することが、領土への固執が他人よりも強いという傾向性を示すとは必ずしも言えないように思います。言うなれば、「侵入」を拒むことは、何も引きこもりに限ったことではない、ということです。ですから、侵入を拒んだからと言って、引きこもりの縄張り意識が強いとは言えないように思います。むしろ、領土を獲得しようと行動を起こさないのですから、領土、縄張りへの意識は弱いのではないかと、僕は推理します。

 

また、領土とは、自身の支配の及ぶ範囲の土地のことです。つまり、領土への固執とは、「支配」への固執であることになります。よって、引きこもりは、相対的に普通の人に比べて脱支配的であり、外交的な人は自身の領土を次々と拡大していく性向を持っていることから支配的である、とも考えられると思います。「支配されたくない」という人は引きこもりと仲良くするのも一つの手なのかもしれません。

 

もしも引きこもりの縄張り意識が強いのなら、引きこもりは縄張りを広げる事に固執していなければおかしい。もしも、ひきこもりが支配的なのなら、引きこもりはもっと外交的でなければおかしい。内向しているばかりでは、他者を支配することができません。

 

したがって、引きこもりの人達には「優しい」人が多いのではないか、と僕は推理します。なぜなら、彼らは人を支配しようとする欲求が普通の人に比べて薄いと推理できるからです。

 

また、縄張り意識が薄いという帰結から、彼らは何かへの執着も薄い可能性も考えられてきます。例えば、もしも引きこもりが制御できないほどに強い性欲を抱えているのなら、彼らは外に繰り出さずにはいられないはずです。しかし、実際にはそうしない。性欲がないとは考えづらいですが、少なくとも性欲に極端に固執しているわけでもないということは明らかであるものと推理できます。

また、普通の人よりも一人でいる時間が長い事から、「一人でいられる能力」がよく発達している可能性もあります。孤独感自体は強く誰にでもありうるものですが、彼らはそうした感覚に対抗しうるだけの高い感情的な能力を保持しているであろうことが推理できます。つまり、引きこもりという行為は、孤独に耐えうるだけの高い感情的な能力を保持していなければ為し得ないのであり、また、欲望への「執着」が薄いこと自体は仏教的にも正しいものと思います。したがって、「引きこもりの人には気高い精神性が備わっており、また正しい信念を保持している」、と考えることができます。

 

もしも、こうした引きこもりという行為から推理される「引きこもりの美質」が世間的に優勢であった場合には、そうした美質目当てで、引きこもりを偽る人が出てくる可能性はあります。しかし、幸か不幸か、現時点では、引きこもりの評判は劣勢です。そのため、現段階の引きこもりには、こうした引きこもりの美質がそれなりに見出しやすいのではないかと推理できます(引きこもりの美質を備えていないのに、引きこもりのふりをする人がいない状態だから)。

 

しかし、引きこもりは、一般的には、精神的に幼く、中には暴力を揮う人がいる場合もあるという説もあります。つまり、こうした説は、精神的に幼く、暴力的な人が引きこもりになるのだ、とする偏見を生み出す可能性があります。しかし、これは上記の帰結から見るに、まったく逆であろうと僕は思います。むしろ、引きこもることとは、正しく高い精神性を備えていなければできないことであろう、ということです。

 

むしろ、人との関係を断ってまで、自分の正しい信念に邁進するようなことは、多くの場合そうそう簡単にできることではありません。

 

ここで、次のような反論がありえます。

 

「引きこもりが正しいなどというのは幻想にすぎない。彼らは好きで引きこもっているのではない。彼らは社会の敗者だから追いやられて引きこもっているに過ぎない。彼らの精神には幾許の高潔さもありえないし、彼らは単に幼く、暴力的で下劣な存在にすぎない」

 

なるほど。確かにこうしたことを言われれば、高い精神性を持つ引きこもりと言えども、さすがに傷ついてしまうでしょう。そして、そうした心ない声が高い能力を持った引きこもり達を生き埋めにしてしまうのではないでしょうか。果たして、相手が引きこもりなら、何を言ってもいいのでしょうか? これは明確に「NO」です。引きこもりも一人の人間であり、その名誉は毀損されてはなりません。

確かに、彼らは好きで引きこもっているとは限りません。しかし、その場合、彼らは好きでもないことに必死に取り組んでいることになります。それは控えめに言って、とても「苦痛」でしょう。尋常でないほどに。もしもそうなら、そうした苦痛に耐えながら、生きながらえている彼らの精神力は尋常でないレベルのものであると考えられます。つまり、いずれにせよ、引きこもりという行為が尋常でないレベルの高潔な精神性なしには成立しないことは明かであると考えられます。

また、引きこもりの全てが暴力を揮うわけではありませんが、仮に、暴力を揮う引きこもりを考察する場合でも、そうした暴力は切羽詰まったから生じているわけです。切羽詰まれば、どんな人間でも暴力的になりえます。むしろ、暴力はダメだと諫める必要はあるにしても、よく今までそうした劣悪な環境の中で頑張ったというふうに彼らの労をねぎらうべきなのであって、彼らを苛め、苦しめ、社会的に排除する事は、まったくの誤謬であると僕は考えます。

 

ここまでの推理の結果をまとめます。

 

 

1.引きこもりは普通よりも正しい信念を保持している(そのために周囲とそりが合わず孤立する)。

2.引きこもりは優しい(その極度の優しさが仇となり、悪意ある人に追い詰められることで、自制を失うことはありえる)。

3.引きこもりはその素質としては人を自分勝手に支配しようとしづらい(縄張り意識が比較的弱いことから、パーソナルスペースが圧迫を受け、ストレスを繊細に感じやすいことはありえる)。

 

 

転んでも倒れても躓いても進もうとした証拠だから

 

(Neru,「テロル」, 2014.6.3リリース, の歌詞より引用) 

 

 

P.S.優しく、正しく、真剣に、自分の道に至るための努力を懸命に積み重ねる「引きこもり」はかなりかっこいいと個人的には感じます。むしろ、引きこもり萌え☆

『天気の子』の感想? みたいなもの

皆さん、こんばんは!

 

今日は、新海誠の『天気の子』を見て感じたことを書いてみようと思います。なるべくネタバレしないように(笑)

 

ありきたりな言葉で言えば、感動しました。個人的には大好きな作品でしたが、「大好き」という言葉でも、その実相を表しきれないくらいに好きな作品でした。言葉にできない。

 

君の名は。』でもものすごくすごいというふうに感じていましたが、『天気の子』に含まれている情報? というか描写? の正確さには舌を巻きました。

 

何というか、文学的に優れているとか、芸術的に優れているとかいう枠を超越して、もはやある種の科学の価値観にすら符合し得るのではないか、みたいな感覚って言えばいいのでしょうか? 難しいですが。

 

想像力が非常に緻密に作用していて、それが天才的な手腕(天与のもの? と言えばいいのかもしれない)によってまとめ上げられ、結果として、非常に有力な仮説を説得力豊かに実現しているように感じられます。

 

物語における、主人公たちの最終的に取った選択については、非常に自然というか、不自然さをひっくるめて自然というか、老子的な自然観もクリアした上で、さらに何かの配列を打っているというか、ニーチェが理性の上に置くある種の「嗅覚」のようなものの所在を感じました。あれでいいのだと思います。

 

人間の立法機能やその行使を担うものとしての警察、そういった機能は必要なものなのかもしれません。ただ、やはり、それらは万能ではない。粗いプログラムの網の目からはどうしてもこうしても漏れ出てしまうものが出てきます。「法」の外側へと。

 

法は少なくとも一般的に広く機能する必要があります。つまり、一般の多くの人達を納得させるに足るだけの論拠、そういうものに支えられていることが好ましいものと思います(一般の人達が、法に疑いを抱く状態であれば、法からの逸脱が相次ぎ、法治国家が崩壊するリスクがある)。しかし、それは「一般的なもの」に過ぎず、そうした「普通」なものから漏れ出たいわゆる「異常」な人達は排除されることになります。

 

世界において、不思議なことが起こったとしても、もしもその現象が極めて希少な現象であれば、そして極めて目立たない透明度の強い現象であれば、それは多くの人には観測できない。

 

しかし、多くの人にとって観測できない物事が、少数の人達にとっても観測不能であるとは限らない。そういう事は常に言えます。

 

多くの人は、そこまで「可能性」について思考することはしませんし、多くの場合、「一般的には」そこまで深く考える必要もないという事なのかもしれません。一般的には。

 

この時、多くの人達は、「この世界に不思議なことなど何もない」と考えるでしょう。なぜなら、それを「自分は」知らないから。人は一般的には自分が知っていると思い込んでいる狭い範囲の情報に基づいて判断を下す事しかできません。

 

こうした事情にはしょうがない面もあります。僕たちの社会は「常識」というものを使用しています。したがって、そうした一般的な常識を崩してしまうような「例外」の存在は非常に都合が悪いのです。

 

にもかかわらず、現実的には、例外のない規則はない。そして、世界は幾多の不思議によって成り立っているというのが現状かと思います。

 

ソクラテスの逸話が示したことは、「私は知っている」と豪語している人の中にただの一人も知者はなかったということ。「私は何も知らない」と謙虚にも正確に把握していたソクラテスが最も偉大な知者であったということ。この教訓は非常に多くの示唆を含んでいるように思います。そして、そうした例外的な存在であるソクラテスがどのような末路をたどったか、ということも。

 

もしも、誰かただ一人の人を犠牲にして、世界を修正可能であるという時、その「一人」を犠牲にするべきでしょうか?

 

さて、話題を変えます。

 

例外的な現象は、一般の人には理解不能に見えます。一般には理解できないような言動を行う人に対して貼られるレッテルの主なものの一つは、現代においては「精神病」です。その中でも、「統合失調症」とされるケースが多いのではないかと思います。とりあえず、一般的に意味不明な信念を抱いている人、そうした人は、「妄想」を抱いているというふうにレッテル貼りを受けるのが概ねの所ではないかと思います。

 

僕は、病態としての統合失調症の存在を少なくとも現時点では、必ずしも否定するわけではありませんが、現在において「統合失調症」と診断されている全ての症状がその実、いわゆる病としてのそれであるとは限らない、というふうに考えています。

 

つまり、統合失調症の中には、ある程度、「誤診」が含まれているであろう、というふうに考えています。

 

この判断は次のような理屈によります。

 

1.人間は神ではない。

2.人間は全知全能ではない。

3.人間には知らないことがたくさんある。

4.人間は天災すら満足にコントロールすることができない。

5.世界には不思議なことがたくさんある。

6.よって、世界に不思議なことがない、起こらない、と判断するのは現実的ではない。

7.ならば、現実的に世界では不思議なことはいくら起こっても不思議ではない。

8.人を納得させてしまうような虚構を構築するには、天与の能力が必要である。

9.なぜなら「ないものをあるものとして」存在せしめる「虚構」は神の技であるから。

10.無から有を創造できるのは、神だけである。

11.天与の能力は、天与のものであり、神に由来するものである。

12.神がかった芸術作品の存立それ自体が、そもそもからして神兆の一種である。

13.不思議なことは僕たちの目の前に常に起こっている。

14.ならば、不思議な存在や摂理を頑なに否定するのは誤謬である。

15.また、神がかった天与の能力は稀なものである。

16.稀なものが歴史的に何度も生起したというふうに考えるよりは、それらは稀であるとする方が合理的な判断である。

17.神がかった虚構の存立は、神がかった天与の能力によるものであり、そう何度も起こるものとは考えづらい。

18.むしろ、存立された情報の比率としては虚構の数は少なく、事実の数が多いと考えるべきである。

19.巫女にまつわる情報や、神や霊、その他もろもろの不可思議な事柄についての情報は、かなりの数に上る。

20.かなりの数に上る情報のすべてが完全に虚構であると判断することは現実的とは言えない。

21.むしろ、現実的には、世界には何らか不思議なことが起こりえるというふうに考えるのが妥当である。

22.不思議なことは如何にそれが希少であっても、起こりえるかどうかで言えば、常に起こりえると考えねばならない。

23.多くの人々の経験の外における希少な出来事は、多くの人にとっては意味不明なものに見える。

24.ならば、ある大多数の観測者にとって意味不明であることが、ある特定の観測者にとっても意味不明であるとは言い切れない。

25.もしも、ある特定の観測者のみに理解可能な言語が存立可能であるとすれば、それは「私的言語」でありえ、それを可能にしたことは極めて偉大な功績である。

26.だが、私的言語の存立はかなり難しく、現時点では現実的ではない。

27.ならば、意味不明なように見える言語は、意味不明なのではなく、その実、他者に理解可能な言語である可能性の方が高いと判断できる。

28.つまり、意味不明なように見える言動に「妄想」のレッテルを貼ることで、それを意味不明なものとして排除するのは現実的な判断とは言えない。

29.むしろ、一般には理解不可能な訂正不能な信念としての「妄想」の概念それ自体が妄想であるとするのが現実的である。

30.こうした妄想の症状を統合失調症と呼ぶことがある。

31.この時、統合失調症という概念は、それ自体が根本的に崩壊しており、虚妄の概念である。

32.虚妄の概念をよりどころにすることによって、現実的な判断を行うことはできない。

33.ならば、統合失調症という概念の基準を用いるよりも、歴史的正統性のある巫女やシャーマニズムの概念を用いる方が、少なくとも現時点では、大分現実的であるとも考えられる。

34.僕のこの理論の不備をあらかじめ予期し、百歩譲ったとしても、少なくとも統合失調症の中には、深刻な誤診が含まれうる、とまでは言えるものと考える。

35.以上の事より、「統合失調症統合失調症ではないことがありうる」と考えられる。

 

さて、もしも、例外的な不思議な出来事に遭遇した主体の存在を想定した場合、その人は一般には理解困難な言動を呈する可能性があります。彼/彼女は、その時、「統合失調症」あるいは何らかの精神病として「一般には」処理されるのかもしれません。もしそうなら、統合失調症という概念は、その基本として「すべての稀有なもの」を圧殺する機能を担っていると言えます。こうした暴力的概念の存立はどの程度まで妥当なのでしょうか? そもそもそれがある程度でも、妥当なのかどうか、それすらも僕にはわかりませんが。

 

一般的でない「異常」な状況に遭遇した人に援助の手を差し伸べられる人はどのような人なのかについても考えさせられます。それは、一般的でない絆を持った人たちなのかもしれません。

 

少し神学っぽく考えると、人の能力の範囲外の事は、人外が司ります。そして、その人外の最終的な主体は神となります。神と人々との間に巫女や祭司がいます。巫女や祭司は神と人との間に横たわる分裂を媒介しようとします。しかし、「境界」に位置するものは、穢れをもちます。穢れには浸食の作用があります。例えば、神と人との境界には、神でもあり、人でもあるようなものがあります。そうした存在は一般にはタブー(聖なるもの)となります。なぜなら、その存在は神と人との間にある分別を融解させてしまうからです。だから、穢れを清めるための「儀式」を行います。それによって、清浄さを保とうとします。そうした儀式の中には、「生贄」という様式も含まれています。人柱。

 

少し話がそれましたが、何が言いたいかと言うと、人の手に余る所業は、人ではないもの(例えば神とか)が司るということです。神の御業は「奇跡」と呼ばれることもあります。巫女の祈り、あるいは巫女に近い者による祈りは、奇跡によって運ばれ、神に届くのかもしれません。その願いが仮に、世界にとって破滅的なものであったとしても。奇跡的に。それがどんな形であるにせよ、彼らは世界を選び取るのかもしれません。また、破滅的に見える世界と実質的に破滅的な世界というのは、異なります。窮地に見えても、存外「大丈夫」なこともままあるものです。

 

世界が出鱈目であることと、出鱈目に見えることは全く別の事ですが、「境界」に位置する者たちは、世界への選択肢を持つのかもしれません。そして、人にとっては、いつも世界は出鱈目なものです。「狂っている」と言ってしまいたいくらいに。

 

もしも、神が完全であれば、神は人などに対する無駄な関与を行わないはずです。特殊な境遇の人々を守るための手段の一つに「過小評価」という手法があります。特殊な境遇の人々のそれが、もしも重大なことであると多くの人にばれた場合、それは大事になり、下手すれば、そうした特殊な人々の安否が危うくなります。しかし、もしも、その重大性を人々に過小評価させることができれば、その分、そうした重大な選択を行った人々の境遇を守ることができます。また、神がこうした僕でも思いつくような戦略を知らない、などということは、もちろんありえないわけです。

 

特殊な境遇の人々は、通常の境遇から退かざるを得なかった人たちですが、そこにおいては通常の法規や原則が正当性を発揮する事が難しくなっていきます。

 

功利主義的に、一人でも多くの人の事を優先するべきだ、とするのが普通に近い感覚なのかもしれません。しかし、ひょっとすると「愛は世界を超える」……のかもしれません。たった一人のことを愛する気持ちは、世界をも変えてしまうだけの力を持っている……のかもしれません。

 

 

君と育てた愛だから 君とじゃなきゃ意味がないんだ

 

RADWIMPS,「愛にできることはまだあるかい」の歌詞より引用) 

 

 

P.S.今回、『天気の子』を見て、この作品を作ってくださった新海誠さんに純粋に感謝の念が芽生えてしまいました(笑)。個人的に(笑)。僕には大したことはできませんが、それでも一ファンとしてできる程度には、応援させていただきたいな、と感じました。とても素敵な映画でした。言葉にできないくらいに。素晴らしい作品を本当にありがとうございます。

美人のための恋愛術の初歩

 

 

君があまりにも美しすぎるから

神様は君を十字架に縛り付けたんだ

 

(れるりり,「美少女嫌疑」の歌詞より引用)

 

 

 

今日は、美人(美男美女、美少女、美少年など)向けの恋愛術について、簡単に「憶測」してみようと思います。

 

まず、何らかの美質を持っていると嫉妬されると仮定します。

さらにその美質が優れていれば優れているほどに嫉妬の量は増えるというふうに考えてみます。

 

この時、美人は嫉妬を大なり小なり受けることになります。また、その人の美しさの程度が強ければ強いほどに、その美人は強い嫉妬を受けると考えられます。

 

次に、人間は自身の遺伝子を後世に残すために行動すると仮定します。また、美人は繁殖に関して、有利な資質を持っているために、人々の目に美人であると認識されるのだというふうに考えてみます。

 

この時、人々は自身の遺伝子を後世に残すために、繁殖に関しての強大な競争相手である美人に対して嫉妬し、美人の繁殖を阻害しようとするはずです(自身が美人と繁殖できる場合を除けば)。

 

よって、美人が繁殖への途上としての恋愛を成功させるためには、こうした人々による「嫉妬」を回避する必要があります。

 

嫉妬を回避する手法はいくつか考えられますが、基本的な手法は、自身の欠点を強調し、長所をなるべく隠す事です。一般的に人は、欠点の大きさによって、そうした欠点の所有者の格を判定する傾向を持っています。欠点が大きく見えれば見えるほど、そうした多大な欠点を持った人に対して嫉妬する可能性を減らせるのではないか、というふうにも考えられます。

また、人は他者の持つ多大な長所に対して、嫉妬を持つ傾向を持っています。したがって、長所を隠すことで、嫉妬の誘発を避けることができるというふうに考えられます。

 

次に、美人に関する法的、倫理的戦略について簡潔に記します。

 

美は罪なものであるとする価値観はしばしば散見されます。また、一理あります。美しい事で、得をすることもあり得るでしょう。その面だけを見れば、美人に税金をかけるなどの発想はありえてくることになります。しかし、それと同時に、美人は嫉妬による排斥を受ける可能性を持つために、こうした「美人税」の存立は不当なものであると現時点では判断することができるものと思います。

 

また、美は多くの人の心を惹きつける作用をも持ちます。美人もまた。

この時、正確には美人のそれは美人による過失であるとは言えませんが、少なくとも、美人への報われぬ恋などに心労を来す人なども生じてくることは十分に考えられます。美人は自分が特に意図しなくても、人々を惹きつけてしまうというような不幸な素質を持ってはいますが、それ自体が美人の過失であるとは言い難い。しかし、一方で、そうした心労を来す人々の利権についても考えなければなりません。したがって、美人がある人に対して、恋愛的に応じることができる場合を除けば、その美質を無闇に振り回すべきではない、というふうに考えることができます。これは先述の、自身の長所を隠す、という手法に該当します。つまり、自身の美という長所をなるべく強調しないことで、人々の心労を慮ることができる余地があります。こうした風習の合理性については、イスラム教の風習などが参考になるかもしれません。

 

次に、美人を取り巻く生物学的な戦略について。

 

美質は確率的に遺伝すると仮定します。

この時、美人が繁殖行為を行えば、美人の数が増えます。美人の数が増えれば、美人の美に触れられる人の数が、確率的に増加します。もしも、美人との恋愛が好ましいものであると仮定すれば、美人の数が増えることは、ある程度は好ましいと言える可能性を持ちます。

では、美人を選んで、繁殖させればいいのか? これはそうではありません。優生思想になってしまうので。全ての人に生きる価値がありますが、美人が繁殖するべき、という規範は、これを崩してしまいます。美人だけが生きるに値する、などということはありえません。

生命を取り巻く事象は極めて難しいものですが、まず自由主義の原則に頼れば、自由は極力は最大化するべきです。その点では、恋愛の自由は合理的なものです。恋愛は公的な物事ではなく、個人的なことです。あるいは、公的な権力によって、繁殖行為を制御しようとすれば、容易に先述の優生思想へと転落する事が予想されます。

したがって、恋愛などの繁殖に関わるような極度に生命的な事象については、無闇に人の手を加えるべきではないのかもしれません。少なくとも、現時点では自然のままにしておき、人工的に生命現象を歪めることの重大さについては誰もが知っておいて損はないのではないかと、個人的には思います。

 

美人の恋愛術についてのもう少し具体的な手法について。

 

欠点を強調し、長所を隠すことが基本的な戦略となります。一方で、恋愛においては、自分の美質をアピールする必要性がある場面がありえます。また、極度に嫉妬を受ける環境を想定した場合、周囲の人々の協力を要請しづらく、孤立してしまうケースが考えられてきます。今回は、そうした場合を想定します。この時、なるべく周囲の目には目立たないように、意中の人に対して美質をアピールする必要があります。しかし、美質をアピールすれば、美質の発現を免れることはできません。ただ、その意味付けを操作することはある程度は可能です。つまり、周囲の目には美人の実力が偶然であるように見え、意中の当該対象にだけはその実力が見抜ける、というような状況を演出できればよい。様々な手法がありえますが、例えば、簡潔なものでは、基本的には人目を避けて行動し、自身の交際相手にだけ自身の美質をアピールする、とするような手法などが考えられます。また、美人は嫉妬にさらされることがありえるということの帰結として、根も葉もない悪口や陰口がその人の周囲に生じている可能性も否定できません。しかし、これは逆にチャンスです。周りの人が、勝手に美人の美質を陰口によって隠蔽してくれているために、本来なら、美人が自分で自分の美質を隠蔽しなければならないところのその労力を節約することができます。また、陰口や悪口に惑わされないような人しか美人に近づかなくなりますので、これは真実を見抜く能力が高い人しか、美人に近づかない状態となり、かえって美人が事の真相を知るだけの知能のある人を選別するための儀式のように機能するものと予想できます。そう考えると、悪口も悪い事ばかりではありません。全てのものに機能があります。だから、悪口や陰口を言われたとしても、全く気にするには及ばないと思います。むしろ、そうした自身への陰口を利用してやろうというふうな心構えでもいいくらいかもしれません。もしも、周囲の悪口などで孤立している美人な方がいらっしゃいましたら、あまり気を落とさず、気楽なつもりでいるというのも手なのかもしれません。たとえ悪口を言われても、その悪口を自分がかえって利用し返す、というようなことを考えてみるのも一興なのかもしれません。

「この人」という意中の人がいる場合には、美人の人が自分から告白してみるのも手だと思います。この手法ならば、意中の人に直接に働きかけることで、陰口や悪口の持つ間接的な効果を減衰できる可能性があります。とても勇気が要るかもしれませんが。

また、美人同士の恋愛については、周囲からの極めて強い嫉妬が発生する可能性を予想することができます。美人同士で恋愛する場合には、周囲の嫉妬に惑わされないように十分に注意した方が良いかもしれません。嫉妬によって、恋愛を邪魔されないようにするには、やはり「隠れる」というのが基本かと思います。自分の美質を隠し、目立たないようにする。また、やむなく目立つ場合には、自身の欠点を強調するという手もあります。飛びぬけて優れた資質があっても、何か弱点があれば、「可愛げがある」というふうに扱ってもらえるかもしれません。上手くいけば。いずれにせよ、嫉妬への対策はある程度しておいても損はないのかもしれません。

 

最後に。

 

こうした話題は極度にセンシティブなので、書こうかどうかとても迷ったのですが、一応、ある程度は書いておいた方がいいだろうと思い、こうして恋愛術について少しだけ書いておきました。最後に強調しておきたいのが、すべての人に生きる権利がありますので、優生思想のようなものに陥るのは合理的ではない、という点です。つまり、少なくとも人間の恋愛などの極度に生命的な現象を、人為的に制御するべきではないと思います。自由は色々な局面において、重要な機能を持ちえます。

また、美人の方々も当然、多くの人々もそうであるように、幸せになる権利を持つものと思いますので、嫉妬にめげずに、どうか頑張ってください。応援しています。

 

いつも通り記事の内容は決して鵜呑みにすることなく、十分に合理性に穴がないかを検証した後に、それでも自分にとって役立ちそうなものがありましたら、お好きに活用してください。 

 

ではでは~♪

 

 

今日のポイント

 

1.嫉妬を避けるために、長所を隠し、短所を強調するという簡易的方略が考えられる。

2.優生思想を避けるためには、恋愛は自由にした方が無難かもしれない。

3.全ての人に価値があるので、美人ではない人のことを慮ることも必要。

 

 

 

流れ

 夕はノートにたくさんの図形を描いて遊んでいる。その図形は、魔法の発現のために使われる。彼女は人の体に宿る記憶の流動的な性質に焦点を当てて思考している。大体、いつもそんな感じで、そうした思考に認知のリソースを取られているがために、彼女は周囲の人から、ボウっとしているというふうに見られている。情報をインプットしたり、アウトプットしたりすることを何度も繰り返していると、記憶が流動して、変化していくというようなイメージ。そうしたイメージを夕はとても大切にしていて、彼女によれば、嘘というものも真実が流動した結果としての形態の一つで、それ自体が広義には真実なのだ、ということであった。

 夕はひとしきり図形をノートに羅列し終えると、キッチンに行き、ホットケーキを作ってそれにハチミツをたくさんかけた。ホットケーキを作るのに魔法は使わなかった。手間をかけた方が料理は美味しいというふうに彼女は考えている。椅子に座って、テーブルの上にある大量のハチミツ&ホットケーキを見つめる夕。ホットケーキを見つめていると、彼女は不思議な心持になってきた。何か前にも、そうした光景を見たことがあるような気がした。それがどこでどのように生じた現象なのかは分からない。しかし、彼女にとってはそれは紛れもないデジャブであったので、気になって気になって仕方なかった。夕のような<魔術師>はデジャブにとても豊かな意味づけを与えることがある。こういう時には、ホットケーキとデジャブの間にある因果関係や相関関係を整理し、分析する……というのが<普通の>魔術師の手筋である。しかし、幸か不幸か彼女は普通ではなかった。そうした彼女の異常性の形跡は、ホットケーキにかかった尋常でない量のハチミツが明瞭に示している。彼女は、因果を用いない。むしろ彼女は、偶然の諸事実にその拠り所を持ち、そこから幾多の自前の装置を展開していくことを好んだ。普通、魔術師は、因果を大なり小なり用いる。因果に最大の価値を置く魔術師すら存在する。しかし、彼女はそうではなかった。彼女にとっては、全てが<偶然>であった。彼女は偶然を重んじる。そんなことで一体毎日の生活をどのように彼女が送っているのか……それは僕にも謎である。

 とにもかくにも、夕は、ホットケーキを食べ始めた。ハチミツで極度にべたべたしたそれを、である。彼女は天使のようにくかわいらしい笑みを浮かべる。ホットケーキが美味しかったのだろう。そして、彼女はその糖分過剰のホットケーキの断片をフォークに刺して僕に差し出してきた。問題は数点あった。

 

1.甘すぎるだろ、そのホットケーキ

2.夕が使ってるフォークで僕がホットケーキを食べた場合……それって間接キス?(ぽっ……)

3.彼女によるホットケーキの贈与を僕が断った場合、彼女の好意を無碍にすることになる

 

「詰んでる……」

と僕は言った。

「ん?」

と夕は言う。僕の態度に疑問を抱いているのだろう。しかし、そう、何せ彼女の世界に因果は存在しない。つまり、僕の態度からの帰結を、彼女は決して、これっぽちも、推理する事がない。驚くべき女子である。

「恐るべし……」

と僕は言う。

「ん?」

と夕は言う。またしても、僕の態度に疑問を抱いているのだろう。しかし、……以下略……。

 

 

夕が魔法の練習をしている。とても真剣なご様子。

僕はその様子を見ている。彼女はたびたび、こちらを向いて、

「今の演算子どうかな?」

とか聞いてくる。この世界の魔術師は、魔術の概念と演算の概念の接続に成功している。それによって幾多の数式からたくさんの魔術の形式を抽出する事ができた。魔術は本来的に独創性に重きを持つものであり、普遍性を志向するような数式とは相性が悪いとかつては考えられていた。

 夕は数学というよりも、博物学的な魔術の使い手であった。彼女は様々な使い魔を同時にたくさん使役する事ができる。そして、とても博学だ。ただ、その<博学>の中にはもちろん数学も含まれていたし、彼女の好奇心はとどまることを知らなかったので、文字通り、大概の事は<何でも>それなりに深く極めていた。そうした事は魔術師の間においてでも、とても珍しい現象である。通常は一つの分野を極める事すらも、なかなかにままならないものなのだ。その点の状況は彼女の才能なども関係しているのかもしれないが、彼女にその事を尋ねると、例によって、

「偶然だよ」

との事であった。

 夕は狐の使い魔を召喚して見せた。狐は尻尾が九本あって、青白い火があたりに漂っている。召喚魔術の練習だった。彼女は、その九尾の狐の武術の稽古の相手を務めてほしいと僕に頼んだ。

 狐は変化して、人の形になった。その容姿は夕に似ていて、全身の様態としては小柄だった。体の大きさというのは武術にある程度の影響を及ぼすファクターだが、魔術師の戦いの場合にはそうした因子の分析は極めて困難なものとなるのが普通である。考慮すべき要素が多すぎるのだ。そればかりか、分析の手法自体が多様だった。魔術の体系の全分野を知る者がこの世界に存在するのかどうかで言えば、絶対に存在しないだろうと直感させるほどの多様性を称えていた。

 僕はひとまず素手で構える。

 狐は、例の青白い炎を僕の方に向けて飛ばした。

 炎の移動速度自体はさほどのものではなかったが、それはたびたび分裂して増殖するので、対処しなければならない者にとっては厄介な魔法だった。気付くと自分の真後ろに火炎が迫っていたりしたので、その魔術の核となっているものを見極めて破壊することなしには、対策がとても難しい。

 僕は心に一本の剣の姿を思い浮かべた。それは物心ついた時から、ずっと僕の中にあるイメージだった。心の形。それは幸せに似ている。誰もがそれと分かるのに、誰にもそれを説明する事はできない。

 次の瞬間には僕の手には剣が握られている。先ほどまで、自分の心の中にあったはずの<あの剣>だ。この剣には特性があって、一般にはそれは不可視の剣だった。常に流動しているのに、その柄は僕の手の中に綺麗に収まっている。その剣は、万物を流転させる剣だった。構成された物質の間の関係性自体を切り裂くことができる。

 僕は狐による青の火炎を心の目で見る。心にその火炎を構成している物質の様態が映じる。どこの構成をどのように破壊すれば、どのように火炎が流動するかが手に取るようにわかった。そうした直感の発達もまた、この剣の作用であるようだった。

 剣は、それが作用する一瞬の間だけ、その姿を現す。姿は表れる時々によって違うが、そのどれもが同一の剣なのであった。

 剣を揮うと、火炎は切り裂かれて姿を消した。狐の火炎は現実的なものというよりも、想像的な性質を基盤にした魔術の様式だったようで、物が何か燃えた形跡もないし、場に焦げ跡が生じているというようなこともなかった。僕の見立てでは、その火炎は精密な呪詛のようなもので、狙われた対象だけを正確に焼き尽くす類のものであった。

 夕にとてもよく似た少女姿の九尾の狐は、困ったふうな表情をして、夕の方を見た。夕はいつも通り、ボウっとした様子だった。ただ、狐と目が合うと、歩み寄り、狐の頭をよしよしと撫でた。狐は嬉しそうに目を細めて、夕に抱きついた。

 僕はその光景のあまりにもの美しさに目をやられた。

「ま、眩しい……」

 と僕が呟くと、

 夕と狐は同時に、

「何が?」

 と言った。

 

 

 僕は夕と二人で夜の散歩をしている。空には月が浮かんでいる。半月。なぜ半月なのかを考えた。夕なら「偶然だ」と答えるだろう。

「碧(僕の名前)」

 と夕は僕を呼んだ。

「何?」

 と僕は応える。

「……何でもない」

 と夕は言う。

 またしばらく二人で歩く。

 そして夕は偶然にも再び、

「碧」

 と僕の名前を呼ぶ。

 さらに僕は偶然にも、

「何?」

 と応える。

 夕は一瞬目をそらした後に、偶然にも、

「……何でもない」

 と再び応える。

 二人は公園のベンチに座り、夜桜を見上げた。

 今この時、僕と夕が過ごしている時間はもう二度と戻ってはこない。再現性がない。偶然にも。

 夕が狐をおもむろに召喚した。何も詠唱することも、魔方陣を組む事もなしに魔物の召喚を行っていて、当人は何でもないようにしているが、実はすごいことだった。<神業>というのはしばしば、周囲の目には簡単な技に見える。狐は公園の中を散策し始めた。

「碧」

 と夕は言う。

「何?」

 と僕は応える。

夕は言う。「まだ世界が嫌い?」

 僕はそれには応えず、近くの自販機に二人分のコーヒーを買いに行った。

 それは夕の問いに返答するのが難しかったために生じた、一種の代償的な行為だった。ただの時間稼ぎ。根本的な解決にはならない。

夕は僕からコーヒーを受け取ると、ありがとう、と言う。そして、そのコーヒーを何も言わずに飲み始めた。ただ、コーヒーを飲んでいるだけだったが、それでも夕には立派な風格のようなものがあって、絵になる光景だった。

「応えたくない?」

 とおもむろに夕は言った。

 僕はボウっとしていたので、一瞬、夕が何の話をしているのかが分からなかった。

「そんなことないよ」

 と僕は応じる。「相変わらず、世界は嫌いだよ」

「……そう」と夕は言う。「私も嫌い?」

「いや」と僕は言う。

「私がいても、世界が嫌い?」夕はそう言いながら、俯いて、ベンチの上に座り、細い両脚をふらふらと揺らしている。

 僕は考えてみた。<世界を否定することは、夕のいる世界そのものを否定することになるのだろうか?>

 夕は僕の返答を待たずに、言葉を紡ぐ。「私には色々な世界があるの。でも、その世界のどれにも、碧はいない。碧はこの世界にしかいない。だから、私にはこの世界が大切なの」

「世界が醜いものを続々と作り出してしまうことと、世界そのものが醜いということとは違う」と僕は答えた。

「……いいよ、それでも」と夕は言う。そして、残っていたコーヒーを飲み干すと、「碧」と僕の名前を呼ぶ。

 僕は気恥ずかしかったので、ボソッとした声で、

「何?」と応える。もちろん、そうした挙動は全て偶然で構成されている。全て偶然だ。特に意味はない。

「碧は私の事、好き?」

 と夕は言った。無論、そこに意味はない。夕は、ただただ偶然に、僕を好きになってくれた。彼女は、理由があって僕のことを好きなわけではなかった。容姿でも、経済でも、権力でも、地位でも名誉でも、性欲でも、もっと言えば、愛でもない。彼女はどのようなものにも依拠することなしに、ただただ<偶然>、僕のことを好きになってくれた女の子だった。

 夕はとても不思議な子だった。何せ、僕のようなポンコツを好きになってくれるくらいだから。

 正直、僕にも、夕が何を考えているのかは分からない。まったく。行動も思考も隅から隅まで実に奇妙だった。しかし、それが彼女の魅力でもあった。

 もしかすると、僕もまた、彼女のことがただただ偶然に好きなのかもしれない。こんなことを考えることにも特に意味はない。僕の抱く、人知れぬ懊悩もまた、ただの偶然なのだろう。

 狐が鳴いた。狐は僕と夕の間に割って入ると、九本の尻尾もろとも綺麗に丸まって、気持ち良さそうに目を閉じる。狐の体はふさふさとしていて、触り心地がとてもよかった。

 夕と僕は目が合うと、お互いに微笑んだ。

 夕は、狐を撫でている僕の手を握ると、

「結婚しよ!」

 と臆面もなく、唐突に言った。

 僕は顔が一息に熱くなるのを感じた。その様子を夕に見られたくなくて、目を逸らした。

 夕はクスクスと笑っていた。

 多分、僕の顔が赤かったのだろう。偶然にも。

 

 

P.S.直観術は比喩です。

「帝王学」の存立についての簡潔な導入

帝王学って難しいですよね。これはいったいどういう問題なんでしょう? などということをふと考えました。これはとても難しい。

 

帝王というのは人の上に立つ人のことなわけなので、そういう人に誰が教えるんだ? という問題。

もしも帝王の位が天賦のものなのなら、これはどう考えるべきでしょう? 天から授かるものであるとするなら、そこに人の手が介在する余地はあるのかどうか。

あるいは、帝王の位が完全に人の手によるもので、そこに神的な正統性が欠けているのなら、それは成立するのか?

根本的に、人の上に立つ人のさらなる上の存在がいなければ、帝王学の意義の存立が難しい気がしています。

まず、帝王が残忍であったり、傲慢であったりするのは不味いのだろうな、と思うので、ある意味での穏和な資質などは、帝王に求められるのやもしれない。人の上に立つ人が残酷な人になったりしたら、大変なことになるような気はする。優しい人が良いね。王様はね。僕にはそのように思われます。

 

また、もしも人の上に君臨するだけの器を備えている人なら、そうした人の全容が一般の人に理解し切れるものなのか? という問題もあります。もしも、一般の人達に理解し切ることが可能であるのなら、それは少なくとも並外れた君主であるとは言いづらい。並外れた資質を持っているのなら、並みの人の理解の範疇は凌駕していなければならない。だとすれば、誰が自分に理解できない君主にわざわざ仕えようとするであろうか? という問題も。むしろ、自分に理解できないことに嘘のレッテルを貼り、そのことによって、「異分子」となった君主の卵を排斥しようとするのが概ねの場合における関の山なのではないかとも感じます。

 

徳の高い並外れた君主はどうも現実的に、人々には受け入れられないような気がします。しかし、並外れて徳の高いそうした君主が統治する国でなければ、徳の低い劣った君主が統治する国でしかありえない。低劣な君主が低劣な統治を行うのだとすれば、そうした統治がまかり通ってしまう国が良い状態に至れるとも思えない。

 

諸所のことを考えると、少なくとも人の手によっては、正当な君主制は成立しないように思われます。であれば、優れた君主は人の手によるものではなくて、天の作用によって訪れるものであると考えられます。

 

しかし、「天」とは人の手の及ばない遥かに高邁な領域のことをそう名指すのであり、その限りで、それを普通の人が認識できるとは考えづらい。ならば、天の作用を受けた君主は、人々に奇跡的にそれとして認識されることで統治に踏み切るか、そうでなければ、人々の認識外から、つまり天から授かった術によって、不可思議に人々を統治するものと考えるのが妥当なのかもしれません。

 

天から授かった才能を、仮に「天才」と呼ぶとすれば、一種の統治の天才によってのみ、人の生活の善き状態は導かれることになるのかもしれません。

 

人の力は儚いもので、例えば、天災などが起これば、瞬く間に多くの被害が出るようなこともありますが、仮に将来的にこうした天災が人間にある程度コントロール可能になるとして、その時、さらなる天災が顔を出してこないとも限らないように思われます。つまり、人の技術は現在生じている事象を支配する術を時間をかけて編み出せるかもしれないが、少なくともそれは全く過去の事象と全く未来の事象をまで支配するものではないのかもしれない。

 

では、予測技術はどうか? 予測できれば、未来は支配できないのか? 仮に予測できても、それだけでは未来を支配する事はできない。むしろ、絶望的な未来を無力なままに予測してしまって、残りの人生を悲嘆に暮れながら過ごさなければならなくなる場合すら考えられる。つまり、未来を変える力と未来を予測する力は別物であると考えるのが概ねの線なのかもしれない。

 

もしも、現在は漸次的に支配可能であり、未来はそうではないのなら、未来は現在の行進につれて常に生じ続け、それ自体更新され続けるのであるから、「来るべき出現」については人間は何らの術も持ちえないことになる。

 

来るべき出現を正確に予測できたとしても、そのことが直ちにそうした出現を阻止したり、促進したりする技術の存在を保証する訳ではないのだろう。

逆に、未来を予測できないが、未来を変える力があるという場合。この場合、未来が変わったかどうかを認識する事ができない。つまり、この場合、僕たちの認識外におけるせめぎあいにおいて、未来におけるすべてが決定されている。しかし、それは人の認識外の出来事なので、人には認識できない。この時、すべては天にゆだねられる。

 

では仮に、未来への予測と未来を変える力の両方を所持した主体を想定してみましょう。この場合、未来を予測し、それを変えることができるはずである。しかし、もしもその予測が変更されるものであるのなら、それは正確な予測ではありえず、未来が変更できない状態なのなら、もはや未来を変える力自体を持ちえない。したがって、こうした主体は少なくとも一つの矛盾を抱えている。論理上は、そのどちらもを取ることはできないようにも思われます。しかし、こうした不可能な両立なしにしては、人間が天の作用に成り代わることはできず、この矛盾を克服できなければ、人間は永遠に神の支配下にあることになる。もしも、矛盾が人間の認識の限界であるとすれば、矛盾の先に神への道があるが、それは人間にとってはどうしようもない矛盾、ある種の「無意味」として現れているのなら、そもそもそうした無為なものを分析しようと思うことすら普通はできない。とどのつまり、天は原理的にいつまでも人の上に君臨し、人にとっての偶然が、神にとっての必然でありえるような状態が続行し続けることになる。

 

もしも、論理と呼ばれるものが、人間の生物学的限界を示すというふうに考えるとしても、それは人間のリミットなわけであるから、人間はその先には行けない。その先に何が隠されていようとも、人はそこに至ることができない。

 

リミットがリミットではないのなら、それ自体が既に矛盾であり、そこでも論理が破綻する。

 

つまり、僕に考えられる限りの範囲では、帝王学は天賦のものであるということになるのかもしれません。真のそれは人の手から発露したものとは考えられないし、人の手で発現するとも考えられない。これはいわゆる奇跡と呼ばれるものですが、人がこうした神の奇跡を超える日はやってくるのでしょうか?

 

もしも、僕たちが何らかの正統な君主を迎えることができるのなら、あるいはそれを認識できるのなら、それは人知を超えた、ある種の直観的な認知によるのかもしれません。論理の向こう側の世界。それが現行の論理の拡張として現れるのか、それとも全く別種にパラレルなものとして現れるのかは不明ですが、いずれにせよ並大抵の所業でもないようにも思われます。

 

存在と無が両立するような奇妙な領域には一体何が存在しているのでしょうか? そもそも、存在と無によって物事を記述する一種の二進法は何を示しているのでしょう? 謎は尽きませんね(笑) あなたの「0」と「1」はどこにどのように根付いているでしょうか? この問題にはずいぶんと潤沢に帝王の位やその正統性についての知識が詰まっているようにも、個人的には思われます。二進法が非二進法を指示すること自体がありえるのかもしれません。

身体と領域

一見すると何でもないようなことを真剣に深く掘り下げて考えている人のブログを拝見させていただくと、ただひたすらにすごいな、と感じる今日この頃。どうもプルプルタンです。

 

いやー。マジですごいですよね。すごい人はすごい。頭の良さみたいなものというか、それよりももっと深遠な領域みたいなのがあって、そこがドーン! バーン! となんか爆発しまくってて、とーーーーーってもエキサイティングな位相というのがある気がするんですよね(我ながら意味不明。ただ、正直な所感を言葉にするとこうなってしまう)。

 

頭の良さって、それはそれで大切なのだろうと思うんですけど、そういうものを遥かに凌駕してすごいものというのもある気がします(特に何かの分野の創始者的な人とか、そういう傾向が強い気がする。例えば、精神分析を創始したフロイトとか。半端ない。個人的には精神分析とは反対? 的な立場を取ることもあるかもしれないけど、僕は逆説的に精神分析が好きなのかもしれない。フロイトがすごいかすごくないかで言えば、すごいのだろうとは思う)。

 

精神分析ねえ……

 

難しいですよね。僕なんかだと、割と単純な頭をしているので、

 

精神分析!! なんかかっこいい!!!」

 

みたいな感じで嬉々として勉強してみたりしますけど、やはりもっと僕なんかより頭の良いというか、深遠な人から見れば、色々と問題があるんだろうな、と思います。

 

深遠って何だろう? とふと考えてみるのですが、考えて分かるようなものであれば、それはそもそもからして深遠ではないのではないかというふうな気もします。つまり、考えても考えても、それでも考えつくせないものが、「深遠」なのではないかという仮説です。

 

簡単に言うと、僕の頭脳の演算力を遥かに超えてしまっている事象は、僕にとっては深遠であるという事かもしれません。そうした深遠はまるで、仮想的で理念的な、純粋な数学的空間において、磨滅することなくどこまでも粘り続ける、そういう粘性の物体をイメージさせます。納豆のイメージを援用すると分かりやすいのかもしれません。如何に強靭なネバネバ力を誇るあ奴と言えども、どこまでも伸びられるわけではなくて、引っ張りまくっているとある時にぷつりとネバネバの糸が切れてしまいます。これは納豆が物理的な性質を持っており、様々な力学的な作用をその身に受けるためにそうなるのであろうと思われます。では、納豆のような粘性の物体を、物理的なレイヤーから数学的に色々と捨象されたレイヤーに移した場合、何が起こるんでしょうね。物理的、物質的なものとしての有限な「納豆」が、純粋で無限な「粘性」に変換される様を僕はなんと呼べばいいのでしょう? その粘り以外の他の物理的諸条件を全く捨象された純粋な粘性としての「数学的納豆」。何かロマンを感じます。僕は納豆になりたい……! そんな数奇な想いさえ抱いてしまいたくなるほどに崇高な思いがします。そうした純粋な粘性としての数学的納豆は僕の憧れのようなものなのかもしれません。どこまでも粘り強く……かっこいいですねえ……。

 

まあ、僕がこうした数学的納豆に憧れを持つのは、多分、僕自身がそうした粘り強さに欠けているためなのだと思います。僕はとにかく飽きやすく、さらに人よりも意志が弱いのです。だから、色々な工夫をします。そうした工夫はささやかなものですが、あるいはちょっとした魔法であるのかもしれないとも思っています。ささやかにでも誰かの役に立てていれば、それはうれしいことだな、とは思います。

 

普通の人が躓かない部分で、躓けるというのは優れた資質であると僕は思います。躓くことでしか分からないことというのが、この世にはたくさんあるようで、極端な話、「躓く才能」というものがあるとも思っています。ちょっとしたことで躓く人は、躓かない人よりも、ものすごく多くの滋養を得る事ができるのではないかと僕は思います。しかし、困ったことに、そうした躓ける素敵な人に限って、自身の「躓くことができる」という美質を悪しきものであると思い、悩んでいることもあるようです。

 

僕は頭は良くないのですが、その割にあまり物事に疑問を持つことが少ないタイプかもしれません。何か疑問を持つべきところがあっても、何となく分かったふうに思ってしまうところがあるというか、何を読んでも、最短経路の個人的な最適解を勝手に計算してしまうというか、このように言うと、何やらかっこいいようにも見えますが、全くそういうことはなくて、単に物事を「深める」ことがなかなかできないのです。

 

例えば、1+1=2と言われて、躓くことができる人は、「ん? それって違くない? 的な神がかりな発想を持って1+1=1を提唱し、後に発明王として世の人々に崇められるようになります」

しかし、僕はと言えば、1+1=2と言われると、「ふーん、そうなんだ」で終わり、1+1=1と言われると、「まあ、そういう規則なのね」で終わってしまうことが多いです(笑) まことにお恥ずかしい限りですが(笑) まったくもって、自分の低能ぶりには困ったものですが、それでも、できる限りのことは為していきたいな、とはいつも思ってもいます。

 

その代わりなのかどうかはわかりませんが、自分と他の人が違うと思われる点の一つに、「受容力」のようなものがあるかもしれないな、とも思います。なんか、大概のものはなんでも受容して、自分の中に受け入れてしまえるというか、その点は結構違うかもしれません。しかも、受け入れたものを、整合性が取れないままに、ばらばらに分裂したまま、保存しておけると言いますか……。

 

例えば、マルクスを読むと、そのまま彼の文章を無批判に受け入れて、マルクス領域みたいなのが脳というよりも体の中にできる感じです。それで、マルクス領域を起動すると、後は自動的にマルクスの思想を再生できる……みたいな感触。もちろん、しょせん、こうした幻覚は、僕の脳が演算して作り出しているものだと思いますから、本物のマルクスに匹敵するだけの思考力を保持しているとは思いませんが、それでも色々とマルクスっぽい助言をくれたりして、とても助かる事もあります。他にもドゥルーズ領域とか、ライプニッツ領域とか、色々あります。ただ、先述のとおり、すべて無批判に受動的に受け入れているだけなため、あまり主体的な理解ではないですし、理論的な統一性にも欠けています。本当に、そのまま受け入れるだけで、そこから発展を引き出すには、ごちゃごちゃとした作業が必要になります。

 

つまり、マルクス領域やドゥルーズ領域など、色々な領域と対話して、その上で、少しずつ意見をすり合わせていかなくてはいけません。上手く統率が取れないと、無為に時間を過ごしてしまうこともあります(汗) そもそもマルクスにしても、ドゥルーズにしても、(僕の脳が生み出した劣化コピーであるにせよ)、僕ごときに統率が取れる方々ではないので、頭の中は常にごちゃごちゃとしています。それこそ、僕には統合失調症がありますので、そうした幻覚や妄想的なことでこうしたことが起こっているのかも? しれません。ただ、存外、悪い気はしなくて、にぎやかなので、一人でいても、あまり寂しくなりませんし、頭の中で会話していると楽しいですし、不思議と心が安らぎます。

 

とにかく、僕は、情報を「鵜呑みにする」ことにかけては割にすごいのかもしれません(全く褒められたことではありませんが(笑))。

 

何かを受け入れることは、もしかしたら得意な方なのかもしれません。ただ、情報を鵜吞みにするのはやはり危険なことだと思いますので、人にはすすめられないですし、僕自身も情報に飲み込まれないように、「情報は鵜呑みにしてはいけない」と常に念じ続けています。ただ、それでも、やはり、情報が身体になだれ込んでくることは止められず、どうしても、マルクス領域なり、ドゥルーズ領域なりに、身体が乗っ取られるような感覚があります。僕が下手に行動するよりも、彼らが行動してくれた方が良いような局面も多々あるようにも思われます。全ての領域が、それぞれに異なっていて、得意なことや不得意なことがあるので、うまく切り替われればいいのですが、やはり、頭がごちゃごちゃしているのは僕の専売特許みたいなところがあって、うまくいくとは限らない気もします。

 

こういう操られるというか、身体を乗っ取られるような感覚は、いわゆる自我障害と呼ばれるものなのかもしれませんが、これはしんどい事もありますが、わりに悪くはないよな、とも思ったりしてもいます。頭の中が賑やかで楽しいから(笑)

 

僕は結構一人でいるのが得意なのですが、孤独を感じるか感じないかで言えば、感じる時も、感じない時もある、というのが本音かもしれません。なんといえばいいのか分からないのですが、心の中に様々な経路や領域があって、そのうちの一つの経路が不自然にブロックされたり、あるいは逆にリビドーというか感情の流れ? みたいなものが過激すぎたりすると、感情がスタックしてうまく作動しなくなり、結果として、孤独感などが生じたりとかはあるかもしれませんが、うまい順序でそれぞれの領域を作動させて、そのプログラムを何回か念じるように繰り返すと、孤独感が消失するというか、そんな感じです。自分でもよく分からないのですが。無理矢理に言葉にすると、そういう雰囲気。

 

人から見るとかなり珍妙なこと書いているのかもしれないという気はしますが、そんな感じです。

 

全ての存在が、人格を持って見えるというか。アニミズムみたいなものなんですかね。こういうのって。

 

さて、御託はそれくらいにして……

 

僕も数学的納豆を目指したいですね。粘り強い人間になりたいぜ☆ そして、躓くべきところで躓ける人間にもなりたいですね。たくさん疑問を持つことができて、なおかつそこから自分なりに自分の頭で考えていけるような素敵な人には憧れます。不思議なのが、そういう素敵な優しい人に限って、自分はダメな人間だ、頭が悪い人間だと、自責しまくっていることが多々あることです。不思議です。今の僕の抱く謎の中でも、まさしく最大級の謎です。そうした、自分自身がダメ人間だと思い込んでいる天才な方々にはとても興味があります。対して、僕は「無能性」のようなものをとことんまで極めていく感じの人生。有能な人達とは全く真逆の経路とも言えるかもしれませんね。すごく簡潔に言うと、「愚かさを極めることで賢慮に至ること」を目指します。これには次のような理論的な根拠があります。

 

まず、賢慮は普遍的なものであるとします。特殊な場合にしか通用しない賢慮というものもあると思いますが、一般的には普遍的な価値を持った知恵などが、賢慮と呼ばれるような気がしていますので、今回はこの定義を採用しておきます。

すると、賢慮は普遍的なものなので、どこにでも通用しているはずです。そして、そうした無数の賢慮の事例の中には「愚かさ」という場でさえも含まれているでしょう。したがって、もしも賢慮が普遍的な価値を持ったものであるとすれば、どのような場からでもそこに至ることが可能なのであり、愚かさを極めた先から、賢慮に至ること自体が原理的には可能であろう……と僕は考えます。

 

極論で言えば、「愚かな人は賢い」ということ。これを体現する事を目指しています。だから、世の中でゴミ扱いされている無数の事柄を自分の手で構成して、それを活かす事を魔術と呼び、そうしたことに日々精を出しています。一説によると、「発明」に必要なのは、「大量のゴミ」なのだそうです。「ゴミ=悪」とする図式は単純には通用しないように思われます。

 

だから、逆説的ですが、僕は愚かな人が愚かだと素朴に考える事はしません。そうした次元を遥かに超越した、賢慮などの事象がこの世界には純粋にありえるとそう考えるからです。

たとえ、愚かであったとしても、必ず活路はあるはずです。ただ、その際に人を不当に傷つけたりとか、犯罪したりとか、そういうのは基本的にはダメだと僕も思いますが、そういう最低限のことを守っていれば、後は自由にしていいのではないかとも思います。

 

世の中には色々な場合があり、事情は多様です。とても難しいです。だから、何事も一概には言えません。有名な人が必ず正当なわけではないし、無名な人が必ず無価値なわけでもないとも思います。

 

ネットなどを見ていても、素敵な方はいらっしゃるように思いますね。とても絵が上手な方もいらっしゃいますし、優れた哲学的論考や詩的で文学的な文章を書いていらっしゃる方もいらっしゃいます。彼らはもはや、有名とか無名とか、富豪とか貧民とか、そうした差別を遥かに超越した領域での機能を果たしておられるように思われます。

 

無理強いはしませんが、気が向いたら、あまり自分を責め過ぎずに、自信を持ってその道を歩んでいってほしいなあ、と身勝手ながら思います。

 

素敵で、学校の勉強とかと言うよりももっと純度の高い才能に恵まれた、優しい人たちに幸あれ、とささやかながらお祈り申し上げます。

 

優しい人へ。あなたがどんなに自分を責めたとしても、あなたの価値は毀損されるどころか、ますます輝くばかりであるのだと僕は思っています。どんなに苦しく、出鱈目な定義がまかり通るような末法の世の中においても、本当の「光」は互いに導きあうものです。夢はなかなかどうして儚いもので、切り捨てざるを得ないような場面もあるのかもしれません。しかし、その時、夢は「ゴミ」になります。ゴミは新たな創造を行うための原動力になります。逆説的ですが、「ゴミはゴミではなく、愚か者は愚か者ではない」、ということです。夢を捨てることは、新たな夢を生みます。

判断は原理的に人を傷つけます。それよりはかえって、あなたの優しい「ためらい」が、世界を明るく照らすように。純白の雪のように煌めきながら光を反射し、放射し続けるその運動には無限が詰まっているようにも思われます。やがては暗闇で藻掻くすべての人たちが幸せになれるといいなあ、と僕は思います。純粋なあなたがあなたを苦しめる記憶の桎梏から解放されるように。僕は無力であり、何もできませんが、あなたの光を信じています。

 

 

儚い欠片 舞い散る

その光 全て照らし 導き合う 

 

fripSide, 「Hesitation Snow」より引用)

 

因果術

 I. Per causm sui intelligo id cujus essentia involvit existentiam sive id cujus natura non potest concipi nisi existens.

 

(Bnedictus de Spinoza, "Ethica", https://la.wikisource.org/wiki/Ethica より引用)

 

I. By that which is self—caused, I mean that of which the essence involves existence, or that of which the nature is only conceivable as existent.

 

(Bnedictus de Spinoza, "The Ethics(Ethica Ordine Geometrico Demonstrata)", translated from the Latin by R. H. M. Elwes, http://www.gutenberg.org/ebooks/3800 より引用)

 

(私訳)一. 原因によるその原因は、本質が存在を含むそれとして、または、性質が存在それ自体以外とは想像できないそれとして理解する。

 

皆さん、こんにちは。いやーあれですね。夏が近いですね。場合によってはもう夏と言ってもいいのかもしれませんね。しかし、僕にはあまり季節性がないみたいで、季節によって行動を左右されるという事があまりないようにも思われます。時間があれば、大体、本を読んだりとか楽器をいじったりとかデッサンとしたりとか料理したりとか、……そんな感じです。

さて、季節に行動を左右される人の事例について考えてみます。季節を原因として、行動が生じていることを、「季節→行動」と表してみます。すると、僕の行動様式はどのように表現されるでしょうか? そうですね……こんな感じでしょうか。「非季節→行動」。

……

…………

………………

「非季節」って何だろう? そうですね。例えば、「自分」という概念とかはどうでしょう? これは少なくとも季節ではないので、非季節の一種と言えるかもしれません。では、とりあえず仮に、僕の行動様式の原因にあたる部分を、僕自身に当たるものとして表現してみます。「自分→行動」。

うむ。何やら奥深いような、当たり前すぎて役に立たないような微妙な式が出てきました。

 

第一テーゼ 「季節→行動」

第二テーゼ 「自分→行動」

 

季節とは何か。これは春夏秋冬などの事。春夏秋冬とは何か? 気候なのかな? 気候とは何か? 何だろう? とりあえず、「環境」の一種であることは間違いないように思われます。そこで、「季節」の項に「環境」を代入できる場合を考えてみます。すると、

 

第一テーゼ 「環境→行動」

第二テーゼ 「自分→行動」

 

となってきます。

ここで、自分と環境との関係について考えてみます。

すると、ここで問題になってくるのが「自分って何?」ということ。

色々と考えてみるのですが、これは僕にも全然分かんないです。なので、「環境って何?」という問いを立てて補助線を引いてみます。

環境というのはそれこそ気候とか、自然とか、あるいは住居とか、色々。いわゆる「場」のこと。すると、どうも、その場の「内」に存在している「観測者」のことをどうも「自分」と呼ぶのではないか? みたいな仮説が出てきます。ここまでの議論をまとめて、テーゼを書き換えてみます。

 

第一テーゼ 「場→行動」

第二テーゼ 「場の内に存在する観測者→行動」

 

では、「場の外に存在する観測者」というのは存在するでしょうか? もしも、「存在」しているとすれば、それは「ある場における存在」であると考えるのが一般的かもしれません。なぜなら、どこの場にも属さない存在というものを概念として許容すると、「どこにも存在しない存在」というパラドックスが顔を出してくるからです。これは面倒くさいので、今回は、ちょっとこいつの処理は割愛して、一般論の力を借りておきます。つまり、今回は、場の外の存在については考察しないでおきます。

すると、場と観測者のどちらが先にこの世界に存在していると言えるのか? という問題も持ち上がってきます。この場合、存在の定義について軽く考察する必要があります。「存在って何?」。ある観測者を想定した時、観測者が存在しなければ、観測は存在しません。観測が存在しなければ、あらゆる存在を観測できません。もしも、観測できる対象のことを「存在」というふうに呼ぶのならば、観測が存在しなければ、あらゆるものは存在しません。あらゆるものの中には「場」も含まれます。このように考える時には、場よりも「先に」観測者が存在していることになります。しかし、もしも、場が存在しなければ、そうした存在は「場の外の存在」となってしまい、例のパラドックスが発生します。つまり、次の結論が得られます。

 

「場と観測者は同時に生成し、並立して存在している」

 

場と観測者は切り離して考えることができません。なぜなら、場なくして観測者はありえず、観測者なくして場はありえないからです。さて、式の代入項を過去にさかのぼる事ができる場合を考えてみましょう。その場合、次のように現象を捉えることができます。

 

「環境と自分は同時に生成し、並立して存在している」

 

こうした「環境」と「自分」が一体となった状態を環境を「客体」、自分を「主体」と考えて、「主客一体」と仮に呼ぶことにしましょう。この時、自分とは環境であり、環境とは自分のことです。つまり、環境に従って動くことと、自分の意志で動くこととの間に違いがないような状態。

 

すると、二つの相反するかに見えたテーゼは次のように融合できます。

 

第三テーゼ 「主客一体→行動」

 

ここで、この式の左辺は原因であり、右辺はそこからもたらされる結果であるように表記されているわけですが、この事情を式に表しますと、

 

第四テーゼ 「原因→結果」

 

となります。ここで、原因の場に「主体」を置いてみましょう。すると、結果の場は原因の場から観測して「客体」となります。こうした主体の取り方に立脚した理論を、「原因論」と呼びましょう。次に、結果の場に主体を置くと、今度は原因が客体になります。これを「結果論」と呼びましょう。つまり、主体の位置を自由に取ることが許される場においては(つまり、主体が自由に移動できる場においては)、

 

第五テーゼ 「{(原因=主体) and (結果=客体)} or {(原因=客体)and (結果=主体)}」

 

原因も結果も、主体でも客体でもありえます。原因論の立場を取るにせよ、結果論の立場を取るにせよ、原因も結果も、ある時には主体的であり、ある時には客体的です。さて、この式を見ていると、いまだ表現し切れていない場が存在していることが分かります。それは次のような場です。

 

第六テーゼ「{(原因)=(主体) and (結果)=(主体)} or {(原因)=(客体) and (結果)=(客体)}」

 

さて、主体(自分)が主体である限り、主体は基本的には一つしか存在しません。もしも第六テーゼのような式が成立する場があるとすれば、そこでは、「原因と結果は同一の現象」として生起していると考えられます。ただし、それは第六テーゼの左辺から導き出されることであって、右辺のそれではありません。右辺は主体(自分=観測者)が存在していませんので、そこにおいては何も観測することはできず、そもそも「存在が存在しない」というふうに今回の論法の場合には考えます。つまり、この第六テーゼから導き出せるものは次のようになります。

 

第七テーゼ「{(原因)=(主体) and (結果)=(主体)}」=「{(主体)=(主体)} and {(主体)=(主体)}」

 

この場合、原因も結果も全て主体です。そして、主体は一なるものなので、全てが「一」であるというふうに捉えることができます。

こうした、原因と結果を統合し、原因と結果という図式自体を生み出す原因となっている究極的な原因(原因の原因)を「神」と呼びましょう。

この時、神は、原因であり、同時に結果でもあります。

 

 

P.S.

 

私訳はあまりあてにしないでね☆ めちゃくちゃ適当なので(笑) 一応、スピノザさんの英語の訳を見つけてつけておきましたので、そちらをご参照ください。それにしても、何か感慨深いです。色々な事が。季節の移り変わりが美しいなあ、と。うむ。そんなことを思います。

 

「魔法を使えるようになる方法」についてご興味おありの方へ。

 

それは……我が道を行く事だ……

 

ふっ……☆(自慢げな表情)

 

それはそれとして少し真面目にお応えしますと、古典とかいっぱい読んでみるのも一つの手なのかもしれません。古い本、良いですよ~。とても。カントとかドゥルーズとかが僕は好きなんですけど、それこそスピノザとかも全然いいと思いますし、何をやってもいいのではないかと(もちろん、犯罪とかはダメですけど(笑))。これね、本当に何でもいいと思うんですよね。自分のしたいことをするのが一番いい気が僕はするのですが、色々な人がいますからね。その人によって処方するべき方策が全然違うので、少なくとも僕が何かをあなたとかに教えさせていただくということになりますと、まず会ってお話したりとか、一緒に遊んだりとかするところから始まるのかな? とは思います(その人にはその人の「道」があるので、それを僕が曲げるわけにはいかないんですよね(汗)だから、せいぜい普通にお話したり、一緒に遊んだりとかして、後は、僕の振る舞いなどから発想なり技術なりを自分なりに勝手にもぎとっていただく、というのが基本なのかもしれません)。別に、そうした「弟子入り」のようなものの対象は僕以外の誰かでもいいと思いますし(むしろ、僕は人に教えるのがとても下手なので、僕以外の人に師事する方が良いと思う(笑))、自分が好きな人でいいと思います。人に対して声をかけるのは難しいという場合には、このブログなどを参考にしていただくという手もあるかもしれません。文章による効果は、やはり仮構的な側面があって、まして僕の文章は拙いレベルのものですから、どうしても僕の文章のレベルでは自分自身以上のものは作り出せないのです。ですから、もしも僕が皆さんに自分にできる限りの最高のものを提供しようと思えば、一番なのが、一緒に「遊ぶ」ことということになるかと思います(ホイジンガという思想家がいますので、「遊び」の概念について調べる際の参考になさってください。)。また、僕も魔法使いになりたいと常日頃から思って、色々と頑張っていますが、僕自身は極めて平凡な人間ですので、特別、僕の文章や僕に師事することにこだわる必要はないと思います。基本としては、あなたはあなたの道を行くのが一番いいのではないかと、僕はそう思っています。

絶え間なく流れゆく季節の中で、もしも僕の文章なり僕自身なりが、誰かのお役に少しでも立てたなら、それは幸いです。

ただ、もしも……

もしもですよ? とにかく何としても僕の力が必要で、僕なしでは如何ともしがたいような出来事があったとすれば、その際はできる限りでは対応はしますので、とりあえずコメントとか下さればいいのかな、と思います。そんな感じでどうでしょうか。最後に、魔法を使えるようになる方法についてのポイントをまとめておきます。

 

 

魔法使いになるための、僕が個人的に考えるポイント? みたいなもの

 

1.自分の「道」を行く(「道」の哲学については、老子などを参照してください)

2.自分が好きな人、良いと思う人に弟子入りする(詐欺などには注意してください)

3.古典を読む(ジル・ドゥルーズやフェリックス・ガタリの著作が個人的に好きです)