魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

呪いのかけ方と、その防止法について

 呪いとは、基本的に人を不幸にする手段です。人を呪わば穴二つ、と言いますね。他人だけでなく、自分をも不幸にします。なぜなら、他人を呪うためには、自分がネガティブなイメージにつつまれていなければならないからです。

 ネガティブなことをイメージすると、ネガティブなことが起こります。そして、そのネガティブなことは自分の他の人のイメージも侵食する効果を持ちます。ネガティブな人のそばにいると、自分までネガティブになったという経験を持つ人は多いのではありませんか? でも、ここで、ネガティブな人を避ける、というのもあまり上手くありません。なぜなら、ネガティブな人を避けようとすること自体がネガティブなことだからです。そうではなく、ポジティブな人に会おうとすることが大切です。あるいは、ポジティブなこと全般でもいいです。この二つは、全く異なっていて、前者はネガティブについての思考なのに対し、後者はポジティブについての思考です。ポジティブなイメージのためには、ポジティブな思考が必要なので、その点、注意して下さい。

 呪うつもりがなくても、ネガティブになると大なり小なり人を呪ってしまいます。イメージは連想によって連鎖するからです。

 ですので、この連想をコントロールして、うまく楽観的な方へとやりくりしていかねばなりません。

 そして、ネガティブなイメージを持つ限り、楽観的になることは難しいです。つまり、ネガティブな人やネガティブな現実があると、それだけで、楽観的な人の精神作用を侵食する作用をもちます。だからと言って、ネガティブな人を排除するというのもダメです。なぜなら、その排除という発想が既にネガティブなものだからです。そうではなく、ネガティブな人たちを助けるのです。この世界に、ネガティブがあれば、苦しんでいる人たちがいれば、それだけで、自分も不幸になります。人は人を助けると、幸福な気持ちになります。誰かのためになると思えば、たとえ、見返りがなくても、動くことができます。それは、ネガティブな人が放つネガティブなイメージを、自身のポジティブな楽観によって相殺することで、苦しみを滅することができるからです。

 では、助けるとはどういうことなのでしょう? それは、自身が楽観的であることです。無限に楽観的に。そうすることで、この世界の幾多の残酷なイメージを相殺するべく、ある意味では、戦うのです。

 イメージは、連想は、比喩は、魔術です。したがって、魔術師は、この世界の幾多の残酷なイメージと楽観的イメージを用いて戦うのでなければなりません。

 ネガティブをポジティブへと魔術的な比喩によって変換し、自身が楽観的であることによって、周囲の人たちに、肯定的な感情、積極的な価値感情を伝染させるのです。

 ある時には、苦しみを引き受け、それを乗り越え、そして、それをポジティブへと変換するのです。自身が楽観的であることによって。

 そのためには、ネガティブが悪いことだ、という思いを断ち切ることも有効でしょう。ネガティブのメリットを見つけることも非常に有効な手段です。

 そして、それと同時に、根源的に楽観的であること、そのようにして、物語を紡ぐこと、それが大切です。

 物語には、描く人の人柄が如実に表れます。悲観的な人が描けば、端に悲観的な物になります。

 それが悪いと考えてはいけません。でも、悲観的な人がもしも苦しんでいるのなら、どうでしょう? それを放っておくということはそれだけでネガティブなことです。

「しょうがない」「自分のことだけで手いっぱいだ」「私にはできない」「できっこない」「忙しい」「無理だ」全て、呪いの言葉です。ネガティブなイメージを増殖させる効果を持っています。それが悪いのではありません。根元的にはネガティブな人もポジティブな人もいいものを持っています。もしかしたら、この世界には、本質的にネガティブなことなんて、本当は存在しないんじゃないかと思うくらいです。

 しかし、仮にそれがかりそめの苦しみだとしても、それは苦しみには違いがありません。誰かが苦しむ限り、自分も苦しむことになります。苦しむふりは、本当の苦しみを産みます。自分にも他人にも。

 人間は、他人の影響を容易に受けてしまう生き物です。沈んだ集団に所属すれば、みんな沈んだ気分になっていきます。

 その沈んだ気分に僕たちは、立ち向かわなくてはならないのではないかと思うのです。

 いささか論調の強い意見に聞こえるでしょうか?

 でも、僕は、このように思うのです。

 まずは、僕たち、魔術師が、無限に楽観的であることによって、周囲の「闇」と戦うべきなのではないかと思います。

 

 物語とは魔術である。ファンタジー小説風に言えば、我々小説家はそれをいわば「白魔術」として使う。一部のカルトはそれを「黒魔術」として使う。我々は深い森の中で、人知れず激しく切り結ぶ。まるでスティーブン・キングジュブナイル小説のシーンのようだけれど、ある意味ではそのイメージは真実にかなり近接しているはずだ。なぜなら、物語の持つ大きな力と、その裏側にある危険性を誰よりもよく承知しているのは、小説家であるからだ。(村上春樹、『雑文集』、新潮社、2011、29ページ、より引用)

  

 無限に楽観的であるというのは、ある意味では、無限に悲観的であることも含むのかもしれません。なぜなら、無限の楽観は、おそらく、悲観をも楽観とする力を持ったものであるからです。その意味で言えば、究極の絶望と究極の希望というのは、もしかしたら、同じものなのかもしれません。だから、たとえ、絶望していたとしても、そこからはある種の楽観が生まれてくる余地があるのでしょう。僕たちは、その人にもともと備わっているそうした、楽観的な資質を触発するだけです。

 少しでも、世界から不本意な苦しみが減るように、正確に言えば、幸福であるようにとみなさんにお祈り申し上げます。