どこからどこまでが慣れの問題で、どこからが環境の問題なのかが気になる。
環境の問題を慣れの問題にしてしまうと、いつまでも、問題は解決しないのだろうか? それとも、その場合でも、それなりの経過をたどるのだろうか?
分からないことが多すぎる。
ただ、一つ実感としてあることは、どうも、完璧に無駄なことというのは一つもないのではないか、ということだ。
今まで生きてきた人生のすべてが、今の自分を形づくっていて、助けてくれている気がする。
何一つ恥じることはないのだと、そういう気がする。
そんなものは、もしかしたら、単なるエゴに過ぎなくて、自己愛性パーソナリティの一種だということもあるのかもしれない。
でも、僕にはそうは思えない。自己愛のない人に、他者を愛することなんてできるのだろうか? 自己愛性パーソナリティとは、本当に悪いことなのだろうか?
やっぱり、そうは思えない。むしろ、生き方の一つであるというふうに思える。
もちろん、それで、本人が不本意に苦しんでいるのなら話は別だ。
その場合は、誰かの助けが必要だろう。
しかし、今は、自分のことについて考えよう。
自分は、どうだろうか?
自己愛性パーソナリティだろうか?
少なくとも、権力が欲しいと思ったことは、多分ない。僕が欲しいものは、いつも権力とは別のものだった。
おそらく、僕は、魅力的な物語が欲しかった。そして、その物語に自分が浸っていたかった。それができれば、権力なんて要らない。
僕のこの目的は、あまり聞きなれない言い回しかも知れないが、多分、多くの人も経験していることなのではないかと思う。
例えば、先生になりたいという人がいたとしよう。その場合、その人は先生そのものにではなく、先生に付随したポジティブな物語に憧れているのだ。
つまり、重要なのは、単体としての先生ではなく、そこに付随したさまざまなイメージを含めた総体なのだ。
だから、部分のみで、その物語の是非を判断することはできない。物語とは総体だからだ。
その意味で言えば、人間の価値というのは、死んで初めて分かるということになる。人生が完了しないうちは、人生の価値を判断することはできない。なぜなら、死んでいない人生とは、つねに発展途上であって、部分でしかないからだ。
人生の価値を捉えるためには、人生の総体を捉えなければならない。それは、その人が死んで、天寿を全うした時に、人生を完了し、人生の総体を獲得した時に、はじめてできることだ。
だから、生きている人について、とやかく是非を言うのは、的はずれなのかもしれない。
だとすれば、生きている人間への評価などという幻影にまどわされることなく、自分の道を進むべきなのではないだろうか。
おそらく、権力を欲していない僕は、自己愛性パーソナリティではないだろう。ただ、自信があるだけだ。
一体、自分が自分を信じなくて、どうするというのだろう? 自己不信に陥ったら、きっと自殺を考えてしまう人もいるだろう。
「自分は優れている」という態度は、ほんとうに優れた資質のために必要不可欠のものだ。自信のある態度が、自信を、優れた資質を形づくる。
今、自分のしている行動が、未来の自分を形づくっていく。優れている体で行動すれば、ほんとうに能力に磨きがかかってくる。
そうして、自分に暗示をかけるのだ。一種の催眠術と言ってもいい。
自分を自分で洗脳するのだ。
自分で自分の好きな行動モデルを選びとり、その行動モデルに合せて自分を変えていく。一つ一つの行動モデルは、ありきたりなものだったとしても、その組み合わせ次第で、オリジナリティを発揮できる。
もしも、他人と違うオリジナルな自分を誇るのだとしたら、一体何を恥じることがあるだろう?
そもそも、人は他人と自分が違っているときに、恥かしいと思うのだ。でも、逆に、それを誇るとしたら、そこになんの問題があるだろう?
僕は自分を素直に誇ることができる。
そういうことは、本来、誰に褒められることなくできることなのだ。
自分が自分にできることを着実に積み上げてきたという実感さえあれば。
そして、僕は、過去のすべてを糧にして、今の自分を形づくってきた自分を、誇ることができる。僕は本当にたくさんのものを持っている。
そう感じる。
この実感に比べれば、お金や権力は些細な問題だ。人それぞれ、好きなだけのお金を稼いで、好きなだけの権力を取ればいい。
望むのなら取ればいい。
もう十分だと思うのなら、それでもいい。
本当の意味で、悪い人なんて、この世界にはいないのかもしれない。
誰にだって、価値がある。
ただ、視点が凝り固まっているとそれが見えなくなるだけだ。何かの魔法みたいに。
多分、この世界に生きる人間には、盲になる魔法がかかっているのだ。
僕も時々、闇の中に飲み込まれそうになる。
だけれど、本当に飲み込まれてしまったことは、これまで一度もない。だから、今も生きている。
どんな夜も必ず明ける。世界はそういうふうにできている。
ただ、僕たちはもっと先へ、行けるはずだ。もっと遠くへ。
今まで見たこともないものを実現できるはずだ。魔法みたいな何かを。
それを実現できないとすれば、誰が夢を持つことができるだろう?
大丈夫。生きていれば、何らかの能力は着実に向上している。石の上にも三年、と言う。
ただ、自分らしくあればいい。そして、その自分らしさで、誰かのことを守ればいい。
それはきっとできることなのだ。
闇や痛みがいかに深かったとしても。
僕は僕だ。
そのどこに、恥じるところがあるだろう?
沸々と自信がわいてくる。
この文章は、自信を回復するための魔術なのだ。
僕には時々、こういう自己調整が必要になる。
それにしても、文章を書くということは、楽しい。