魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

学習術について

 今日は、学習術について簡単に書いてみます。

 まず、第一に、僕は、フロイトの発見した無意識の重要性を主張します。

 例えば、僕たちのあたまの中には、言葉が浮かんでいます。では、それはどこから、浮かんできたのでしょう? それはどこかで処理された情報があって、その情報が加工された末に、僕たちの意識に上がってきたもののはずです。しかし、僕たちにはそんな加工をした意識はありません。言葉はなかば反射的に思考として、僕たちの頭の中にあがってくるのです。つまり、それらの処理は、無意識に行われていると考えられます。

 さて、まず、ここで重要な点は、人間には無意識に物事を認識する機能がどうも備わっているらしい、ということです。

 より正確に言うなら、それは、意識されているのかもしれません。しかし、それは少なくとも日本語としては意識にあがってこない機構なのです。

 例えば、僕の場合には、無数の小さな立方体が絶え間なく増減を繰り返しているようなイメージが上がってくることがあります。しかし、それはとてもじゃないですが、その細部に至るまでは、言語化することはできません。

 つまり、僕は、言語化される以前の、いわば、諸元的な言語が存在しているのではないかと考えています。この原初的言語は、ロシア語でもフランス語でも日本語でもありません。そもそも音や映像と呼べるようなものを持っているのかどうかも定かではありません。もしかしたら、五感に分裂する前の根源的な感覚なのかもしれません。これは、想像の域を出ません。なぜなら、五感に分裂する前の感覚を、五感による観察をよりどころにする科学技術によって明らかにすることは、非常に難しいと思われるからです。クオリアの解明が難しいように。

 そもそも、無意識というのは、そういうものかと思います。意識でないものを意識することは、むずかしいかと思います。意識されてしまったら、それは、無意識ではなく、意識ですから。

 これは、チョムスキー生成文法などという概念にも通ずるところがあると思います。ご興味のある方は、調べてみてください。

 この辺りは、非常に理論の話が込み入っています。本当はこんなに簡単には説明できないのですが、あんまり記事が長くなってしまうとあれなので、話しをすすめます。

 重要なのは、僕たちの人生が、どうも意識だけでは説明できない、様々な無意識の認知機能によって、構成されているらしいということです。

 そして、僕が、注目したいのは、この無意識の学習機能です。

 いわば、門前の小僧習わぬ経を読む、という概念を実践しようということです。

 さて、ここまでが一つの論法です。

 これらの論理は、もう一つ別の方法で表すことができますので、今度はそっちに行ってみようと思います。

 まず、この理論は、時空間は連続していると仮定しているのです。なぜか。それは、認知を、学習を、無限に細分化しようというプロセスが、今回行おうとしている認知プロセスだからです。

 簡単に言いますと、一気に勉強しようとすると、大変でしょう? ですので、すこしずつ勉強しよう、と考えるのです。単純ですね。そして、理論的には、無限に細分化することができれば、それは無限に楽ちんに勉強できることになります(分散学習)。まずこれが一つ。

 そして、もう一つ言いたいのが、同じことばかりしていると飽きますよね? ですので、色々なことをやったほうが、飽きないで物事に取り組めるはずです。ですから、部分の学習(分習法)よりも、全体の学習を行ったほうが楽ちんであると考えられるのです(全習法)。

 この二つを組み合わせると、全体をすこしずつ学習する、という原則が浮かび上がってきます。

 実際には、世界全体を学習することは難しいですから、できるだけ全体を出来るだけすこしずつ学習する、というふうに言い換えることになります。

 さて、では、みなさん,本を出してください。

 全体をすこしずつ学習すると、どうなりますか?

 眼がするすると紙面のうえを滑っていきますね。まるで空を飛ぶ鳥のように。はい、これを速読と言います。

 しかし、ここで、注意したいのが、速読は、できるだけ楽ちんに勉強するためのツールではあるのですが、幾回もの復習が必要な分野でもあるということですね。

 そこは、目的によって、使い分けます。

 例えば、その情報をそれほど覚える必要がないのなら、少ない復習回数で済みますし、場合によっては、一回速読するだけで足ります。

 しかし、その情報を覚えるのなら、何度もくりかえし、速読しなければなりません。そこは目的次第です。

 そして、ここで、さきほど触れた、言語化以前の言語の話が出てきます。つまり、日本語の分節化よりもより肌理が細かい、いわば無意識の言語が存在しているという仮説です。

 日本語は、実際には、個々の単語よりもより細かく分節化できるということを僕は考えています。しかし、今のところ、それらのきめの細かい分節を表す言葉は、日本語にも英語にもありません。部分的にはあります。国によって、言葉の分節度は、大きく異なっています。国によっては、「雪」を表す言葉が何種類もある場所もあります。つまり、日本語よりも、より肌理の細かい未知の言語によって、学習を行ってみようという試みです。

 そして、現在、言語化されていない、これらの分節は、今の僕たちには、あたかも、第六感であるかのように感じられるのではないか、というふうに思うのです。無意識の認知機能。おそらく、こうした認知機能が、僕たちの行動を統制し、シンクロニシティのような不思議な出来事を起こすものと思われます。これは、学習に利用しない手はないのではないかと個人的には思います。

 長くなってしまうので、今回は詳しく描きませんが、これらの分節化の現象がなんとか明らかになれば、僕たちは、これらの言葉を音楽に、絵画に、小説に、仕種に、変換する手立てを容易に得ることができるようになるかもしれません。

 いずれにせよ、学習は奥が深いです。まだまだ分からないことだらけ。

 僕たちは、無意識の力を借りなければ、歩行することも難しいと思いますし、というか、意識して歩行するのって、けっこう逆に難しいです。

 手中に収めようとする幅を部分から全体へと広げていく、これらの運動は、野心と呼ばれます。大風呂敷を広げる、などとも言われますね。どうも、適切な学習には、野心が必要なのではないかと思われます。

 野心とは欲望の量の大きさです。

 欲望の主たるものは、性欲でしょうから、学習の得意な人は、性欲が強いのかもしれません。

 究極的、理念的には、世界征服してやろう、っていうくらいの欲望なわけですから。無限に分節化できる世界を無限に広がっていこうというスタンスですので。

 とはいえ、世界征服は、武器によって達成するのは難しそうです(比喩としての「武器」は置いておくとしても)。ただ、こういう欲望を持つことが、最も効率のいい学習方法なのだと思います。野心を持ち、常に挑戦することが。挑戦とは新しいことに向かうことですね。つまり、創造です。創造は魔術です。ルーチンワークではなかなか説明できません。その意味では、ある意味、無意識は決まっているものではなく、その都度創造されるものだと言えるかもしれません。

 世界征服というと、暴力的なイメージをお持ちの方もいるかもしれません。しかし、暴力をもちいる必要がある段階では、それは、少なくとも、人心を掌握しているとは言えません。つまり、世界征服が完了していないのです。本当に、人々の心をつかむことのできる人というのは、おそらく、すごく優しい人――その優しさの形はどうであれ――、なのではないかと思う、今日この頃でした。

 以上、学習理論の超概略でした(笑) 粗雑な点は何卒お許しを。

 

 世界征服を目指すあなたに、Neru『ハウトゥー世界征服』を送ります。

 

 「あんな空でミサイルが飛ぶのなら そんなもので命が飛ぶのなら 優しい人にならなくちゃ 心がかじかむ前に」(上記曲の歌詞より引用)

 

 言葉にならない言葉、思いを大切にしていけたらいいですね。それが学習のコツなのかもしれません。

 

 P.S.それにしても、Neruさんの曲いいですよね。『洗脳』とか『脱獄』とか。憧れます。『FPS』とか聞いてると、こういうふうにならないようにしないとな、と思います。