魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

行動術と引きこもり術

 まず、行動術について記します。

 行動とは、大なり小なり思考を現実化することです。

 その意味で言えば、あらゆる行動は、思考の表現となります。

 小説を書くのも行動ですし、仕事をするのも行動、レジ打ちするのも行動、本を読むのも行動。

 ただ、より狭い意味で言えば、行動とは、非常に簡約に述べますと、移動です。

 それは、情報の移動であるかもしれませんし、身体の移動かも知れません。身体が移動すれば、情報は移動しますし、情報が移動するとき、広い意味で言えば、なんらかの身体は移動していると言えるでしょう(その身体は、眼に見えるかもしれませんし、想像上のものかもしれません)。

 世界には、大きく分けて、想像の領域と、いわゆる現実の領域があり、五感によって感知されるのは、もっぱら現実の領域とされています。

 想像するのには、必ずしも耳や舌の機能を使う必要がありませんので、想像や思考、或は記憶とは、一種の第六感であり、非常に不可思議な感覚です。

 この想像によって、何かが見える場合、その場合の感覚器のことを第三の目などと呼んだりするでしょう。思考や想像は第三の目です。

 また、あらゆるものごとの扱いは、実際にそれを扱うほどに上達します。したがって、五感を使えば、五感の認識が上達し、第六感を使えば、第六感の認識が上達します。

 そして、五感の認識とは、もっぱら、現実界を司るものであり、五感を集中的に使用する場合、第六感の使用頻度が減少し、退化するものと思われます。

 或は、五感と共に第六感を常に使用することも可能かもしれませんが、マルチタスクはわりに難しいことですので、一般的には、五感と第六感との関係はトレードオフの関係にあると言っていいかもしれません。

 例えば、映画よりも小説の方が、第六感に近いです。なぜなら、映画は、勝手に映像化してくれますが、小説の場合には、自分の想像によって映像やイメージを得る必要があるからです。

 その意味で言えば、抽象度の高いもの、小説などは、第六感を鍛えるのに向いていると言えるのかもしれません。

 瞑想や黙想、などのトレーニングは、専ら現実界における行動を制限することによって、第六感の訓練に集中するものです。

 したがって、行動と瞑想、言ってしまえば「引きこもり」は、おおむねトレードオフの関係にあるということが言えます。

 みなさんは、イマジナリ―フレンドや、タルパ、という言葉を聞いたことがあるかもしれません。これは、第六感によって、つまり、想像力によって、自身の想像上の友人をいわば、召喚する、というものです。

 簡単に言えば、例えば、あなたの隣に、あなたの想像上の友人が座っていて、それと会話ができ、なおかつその姿の子細がイメージでき、見え、その人の主観的には、それが存在しているとしか言いようのないような状況です。

 想像力を鍛えると、これらの召喚事物は、自律性を獲得するようになります。作家の人が、「物語が勝手に動き出す」という感覚と似ています。

 そして、こうした、召喚事物のことを、「霊」と呼びます。しかし、これらの霊が、うまく、あなたの精神をケアしてくれる、「守護霊」となればいいのですが、実際には、悪いことをしだすこともあります。その場合、これを、「悪霊」と呼び、お祓いをしなければ、あなたの精神が悪霊に徐々に侵食されることになるかと思います。

 統合失調症における幻聴や、解離性障害における幻視などは、こうした、霊の存在が、非常に、密接に関わっているように思います。

 その意味で言えば、非常に前時代的な表現で言ってしまえば、これらの病気は、悪霊の仕業であるということになります。

 お祓いは、認知行動療法を基盤とした、一種の「呪文」によってなされます。全ての宗教は、これらの呪文、いわゆる「言葉の力」を利用することで、人々の意識や想像、つまり、第六感に働きかけ、ある時には、幻影と呼ばれるタルパや悪霊などの事物を見せます。これを、幻術と言います。

 さて、それぞれの術については、その内詳述しようと思います。

 今回の主眼は、引きこもりの人には、想像力、第六感を向上させる機会が多くある可能性があるということです。なぜなら、引きこもっていれば、五感からの刺激は限定され、もっぱら文字や自分の想像に頼る以外にないからです。

 つまり、引きこもりの人は、ある意味、魔術師としての適性がある可能性が高いのではないかと思います。

 第六感は、「虫の知らせ」などとも呼ばれ、他にもいろいろな呼び名があります。その意味で言えば、引きこもりの人は、危機察知能力が高いのかもしれません。もしかしたら、それゆえに引きこもっているという可能性もあります。

 その第六感によって、なんとなくにせよ、世の中のおかしさ、とでも言うべきものを感じ取っているのかもしれません。それで、引きこもる。

 つまり、第六感を鍛えることが必要で、第六感に従って引きこもっている可能性があるのです。そうして、言葉にならない言葉、それを待っているのだと思います。言葉以上の重みのある何かを。第六感によって。

 想像とは、「夢」とも呼ばれます。引きこもりというのは、こうした夢への前哨、条件さえ整えば、繭から蝶が生まれるように、大成する術式である可能性は否定できないし、少なくとも、まったく無意味なのだとすれば、これほど多くの人が引きこもりとなることはないのではないかと思うのです。大器晩成とも言います。人生、何が起こるか分かりません。

 ひきこもりとは、ひとつのテロリズムです。テロリズムという言葉が悪ければ、その人なりの防衛戦略、社会への抗議と言い換えてもいいでしょう。

 テロリズムをそうした意味で捉えるとすれば、僕ももはやテロリストです(笑)。

 だから、引きこもりの人は、おそらく、僕の同志なのだろうと思います。

 ある意味、世界を変えるために、戦っているのではないかと。

 彼らの夢が芽吹くとき、世界は変わるかもしれません。それを芽吹かせるのは、もしかしたら、ひとつの「歌」であるかもしれません。歌はどこから聞こえてくるか、分かりません。それは幻聴であるかもしれないし、いわゆる音楽であるかもしれません。しかし、それにしても、その歌は、あなたの案外近くまでもう来ているかもしれません。

 

 暴力性のない、なのにある意味では暴力的な、そんな優しいテロリストたちに、Neruの『テロル』を送ります。

 

「転んでも倒れても躓いても 進もうとした証拠だから それを笑うだなんて最低だ それでも地球って奴は回るんだろう そうだろ そうだろ 答えておくれよ」(上記曲歌詞より引用)

 

 銃やナイフを使うばかりがテロリズムではありません。短期的な効用に走ると、戦略で負けてしまいます。それよりなら、いわゆる芸術などの項目で対抗した方が、より現実的に世界に抗議できるかもしれません。少なくとも、日本においては。

 テロの規模には、様々なものがあり、僕の知らない世界もたくさんあるでしょう。テロという言葉は、とても定義の難しい言葉だと思うので、僕の手にはいささか余るところがあります。正直、言葉にならないのです。自分の思いが。それでも、あなたに、少しでも、僕の思いが伝わればいいな、とはいつも願っています。

 やっぱり、こういう思いは、小説でないと表現できないのかもしれません。それでも、届けばいいなとは思います。どこかに。