魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

魔術的戦術論概略

 魔術的戦術について簡単に記します。

 まず、第一に、魔術的戦闘の、第一目標は、死傷者を一人も出さずに、戦争を終結することです。このためには、銃器やナイフなどの、いわゆる武器と呼ばれる物質に頼らない戦略が必要になります。戦略論についても、その内後述します。今回は、まず、戦術について、少し。

 基本的には、敵方の、ファシズム的思考回路を、言葉の力や音楽の力によって、自由の状態へと回帰させ、主体性を確保し、客観的認知の回復を図ることで、最終戦争による人類の自滅を回避します。

 戦闘状況はまさにさまざまであり、イスラム国のような極限状態から、日本のブラック企業における執拗な言葉の攻撃まであります。

 とりあえず、今回は、日本のことを中心に戦術を考えたいと思います。本当は、グーグルアドセンスやるなら、テロだとか戦術とかの話はしない方がいいのですが、それより大切なものもあるので、取りあえず、書くだけ書いてみようと思います。

 まず、相手によって、用いるべき手段が異なります。相手に論理的思考が可能である場合には、これは、手っ取り早いです。適切な論理によって、一足す一は二であるというふうに、議論していけば、合意に至ります。この場合は、大きな問題ではありません。難しいのは、相手に論理が通用しない場合です。この場合には、論理というよりは、センセーショナルな力が必要となります。芸術の活躍が期待できます。小説などは、いわゆる論理的、というものではありませんが、人の閉じた心を解放する作用を持っています。物によりますし、作品によって効能は様々で、小説とはまさに、漢方薬のようなものです。連想や、イメージの力で、思考の自由を取り戻すことが目的となります。ある意味では、洗脳を洗脳によって解呪するのです。毒を以て毒を制す、ということに似ています。

 しかし、言葉とは、それだけで十分に人を殺すことのできる凶器ともなります。したがって、言葉には、常に、そうした危険な側面があることをも注意しておかねばなりません。

 認知行動療法とは、手術のようなものです。精神の手術です。誤れば、大きなミスを生じるでしょう。僕たち、魔術師は、そうした危険性を、いつも認識しておかねばなりません。

 まず、第一の手法としては、相手の自尊心の回復が重要となるでしょう。自尊心失くして、主体性の回復は難しいからです。自尊心が挫かれてしまえば、いわゆる「言いなり」の状態となります。ここから、自信を取り戻させ、主体性を回復させることができれば、組織への従属から大なり小なり離れ、自分の人生を歩めるようになるはずです。

 また、その人にとっての幸せとは何なのかということも、他人事ながらも、常に考えておく必要があります。

 他人の心は覗くことができないので、わからないのかもしれませんが、それでも、僕たちが、奇跡的に通じ合える瞬間というものがあります(そう信じていますが)。

 組織への従属性に反発すると言っても、仲間は大切です。ぼく個人のことで言えば、少なくとも、僕の方からは、仲間を切り捨てることはありません。たとえ、長期間交信がご無沙汰であったとしても、同志の事はつねに応援しています。すくなくとも、間接的に。しかし、彼らをも守るためには、時に、ゲリラ的に、単独行動をとることが必要となります。何故なら、魔術師は、異例のものだからです。少数派です。正規兵のような戦略では勝ち目がありません。基本的に、異例によって、つまり、創造によって、敵――おそらくは誰か個人というよりも何か大きな闇のようなもの――と対峙しなければならないのです。

 挑戦、創造のみが、我々の武器です(卓越した魔術師の中には、これを武器と捉える必要のないものもいます。しかし、修業中の身の僕としては、まだまだ武器という概念に頼らざるを得ません)。

 戦争が起きてしまった段階で、魔術師たちは、既に、いっぱい食わされているのです。その前に、戦争を停止させなければなりません。つまり、戦争を目的としない戦争機械となるのです。

 これは、敵の抽象的撃滅という概念とは異なります。なぜなら、確かに抽象領野において、我々魔術師は戦闘を行うものの、それは、敵の撃滅を目標にするわけではないからです。敵ではなく、敵の戦闘能力を撃滅すること、それが主眼となります。銃器のみを破壊するのです。

 そして、創造力が衰退し、プログラム化、ルーチンワーク化した都市において、敢えて創造的に生きることで、言葉ではなく、その生きざまによって、自由を示します。言葉や論理には、いわゆる論理性の知能がある程度の数値を持っている人にしか通じないというデメリットがありますが、実際に生き様としてそれを示されれば、誰にでも、自由とはいかなるものかが分かります。それには、反発もあることでしょう。しかし、そういうことを一つずつ積み上げていく以外には、手段がないのではないかと思うのです。

 つまり、都市の間を、敢えて定住民的にではなく、遊牧民的に生活することができたとすれば、そこに宿る閉塞性とファシズム性を開放することが可能であるかもしれません。しかし、これは非常に難しいことです。それでも、おそらくは可能なことでもあります。

 敵の撃滅というよりも、敵の説得と同盟の締結によって、国力を拡大したほうが、内戦工作などを回避するのに好都合だと思うのです。内乱は、外部の勢力の餌食となるでしょう。したがって、これも何とか避けるのが無難です。

 その為には、人と人との心をつなぐ、いわば、「惑星間通信装置」が必要となります。これには芸術をもちいます。小説などの芸術です。

 そのようにして、人と人との心をつなぐことで、内乱により国力が衰退することを防止し、なおかつ、その人の輪を拡大し、未来に創造の記憶を伝染させます。

 資本の統制権は中央銀行にあると思われがちですが、実際には、そうではなく、その統制の中心は、様々な人の間を、移動していると考えられます。つまり、圧倒的な個体的物質が世界を統制しているというよりも、もっと複雑系として、統制が生じていると考える方が妥当かと思います。CIAやら、中国軍やらが、どの程度の技術を持っているかは、無論ぼくは知りませんが、少なくとも、自分の身の周りを見ている限りにおいては、物事の中心人物は絶えず移動しています。まるで、誰かが操っているようにも見えなくはないですが、この点は、今後一層の調査と研究が必要な点でしょう。そして、それを、国家に行わせるのではなく、我々魔術師が、異例の技術を集積することによって、為すのです。

 一見、組織に対し、個人は無力ですが、その組織も大概の場合、多くの無駄や弱点を抱えており、犯罪を犯さなくても、理論的には、つきくずすことが可能である場合が多くあるように思われます。場合によっては、囲碁のように、内側から組織を食い破ることも可能かもしれません。

 どんな大手企業がつぶれるか分かったものじゃありません。それくらい、世の中のパワーバランスとは微妙なものです。

 ある場合には、一介の個人ブログに、様々なものごとの力点が集中するということもあり得るのです。

 運が良ければ、このブログにもその可能性があるやもしれません(あんまり有名になったら、ブログ一度やめるかもしれませんが(笑))。

 気づけば、もう三千字も目前。あっというまですね。ダメですね。文章が長くなりすぎる癖があるのです。小説を書いていても、とんでもない長さになることがしばしばです(笑)。

 とりあえず、今日はこの辺で。

 僕たちは、うまく言えませんが、はるか先をめざしているのだと思います。遥か遥か遠くです。その辺に転がっている、どこぞの誰か(多分、神様)が作った既製品の未来になど興味ありません。

 うわ~、青くせえな、自分(笑)。まあいいんですけどね。微妙に恥ずかしいですけど、僕はそういう大バカ者なので、みなさんどうぞそういうことで、生温かく見守ってやってください(笑)

 

「神様のイタズラで描かれた わたしの未来地図 幾千の音色が響くから 追いかけてくる明日も壊す」(ZAQ,「Alteration」歌詞より引用)

 

 手のつなぎ方は、本当に色々ですね。恋人つなぎから、祈りのようなものまで。