魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

サイコメトリーおよびテレパシーについての分析

 サイコメトリーとは、接触した対象に付着した過去の情報イメージを第六感によって読み取る能力の事です。

 テレパシーは、現在や過去の情報イメージを第六感によって、対象に接触することなく読み取る能力です。

 両者には、対象に接触するか否か、という違いはありますが、いずれも、第六感によって、何らかの情報イメージを読みとる能力であるという点では共通しています。

 さて、ここで、人間の認知機構について考えてみます。

 まず、五感があります。そして、五感の機能によらずに生じることのできる、認知機能、つまり、第六感として、記憶、想像があります。

 想像は、記憶を組み合わせて行われている節があるのですが、それだけでは、どうして、記憶が、現実のものから変質するのかが理解できません。

 つまり、想像力があるということは、記憶を変質させる力があるわけですから、ここには、また記憶とは別の因子が存在していると考えられます。

 その別の因子の正体は、不明ですが、少なくとも、記憶ではなく、記憶の配列を変え得るような記憶とは別の何かです。

 そして、その別の何かは、五感から得られた記憶ではなく、それとは別の何かであり、つまり、何らかの第六感から得られた情報であると考えられます。しかし、その情報は五感ではないゆえに、映像化も音声化もできないため、客観的分析が困難を極め、結果、超能力研究はあまり隆盛しない、というふうにも考えられます。

 いずれにせよ、この想像力というものが存在しているということは、僕たちの脳は、五感から得られるいわゆる情報以上の情報を得ているということを示唆します。すくなくとも、あらゆることに原因があるのだとすれば、そうなります。

 想像力を、記憶の劣化、と捉えるのはどうでしょうか? しかし、この場合でも、事情は同じです。なぜなら、記憶の劣化とそれに付随する意識は別のものだからです。記憶の劣化によって、記憶の変質が起こり、想像が生じるのだとすれば、では、その変質はどこからもたらされたのか、が気になってきます。そして、それが脳の変質だとするなら、その変質は感覚にも影響を及ぼしているはずで、その感覚は、通常の現実をコピーする形の感覚とは異なった感覚であると考えられます。

 いずれにせよ、これらは、何らかの第六感なのだろうと思います。

 つまり、荒唐無稽な想像にも原因があるということです。想像とは第三の目であり、その第三の目に、何か、三次元的でない物質(多分、多次元的複雑系)が映ることで、いわゆる僕たちの「想像」という不思議な感覚が生じてくるものと思います。

 他にも、立証しづらい物には、時間感覚などもあり、いずれも、クオリアの問題なので、非常に立証が難しいです。

 そして、想像やイメージは、その人の精神が何を信じるかによっても変わってきます。これも難しいことの一つです。なぜなら、信心によって効能が変わるのだとすれば、これらの超能力の効果はプラシーボ効果と差別化できないからです。このことも、現代の科学では、立証できない原因の一つかもしれません。

 さて、要は、この想像力という第六感に、何か、五感とは別のものを感じ取るヒントがありそうだというお話なのです。

 そこで、五感を出来るだけ遮断する形で、瞑想を行い、その上で、自分の想像に何が起こるかを観察してみます。

 そこにはさまざまな想像が現れます。

 それらの想像は、僕が観察したところでは、想像上の色と想像上の音、あるいは匂いや感触まで持っています(体感幻覚)。つまり、驚くべきことに、この三次元空間に眼球によっては見えないという点を抜かせば、それらは真実に存在しているものと差別化できないくらいに明瞭な存在感を持って、存在しているのです。

 それらの世界は、いわゆる現実と重なり合っているようにも思われます。

 ものすごく不思議な形をした茶色の植物や、幽霊のような人のようなものが、第三の目、つまり、想像の目に、「見える」ようになります。心の目、と言ってもいいかもしれません。

 そして、望めば、その幽霊のようなものと会話することもできます。幽霊は自分のことを神だということもあれば、地縛霊だということもあり、また、その経歴は、十数分で、瞬く間に変化します。おそらくは、想像界現実界では、時間の流れるスピードが異なっているものと思われます。

 問題となるのは、果たして、これらの想像への知覚が、客観性を持ち得るのか、という点です。

 これは、たしかめるのが非常に難しいです。なぜなら、先述した通り、その人が、妄信しているのか、それとも、本当に存在しているのかが、区別できないからです。なぜなら、想像力を発揮するためには、信じることが必要不可欠だからです。

 ですので、逆に言えば、不信の念によって、想像界は変質し、また、テレパシーがあるのなら、その変質は、個人の幻想にとどまらず、いわば、「共同幻想」として、超能力者にも伝搬するとも考えられます。

 ここで、プラシーボ効果がダメだ、という知見がそもそも間違いであり、プラシーボでも、効くのなら、それは立派な効能であると捉えるべきだ、という意見もあがってきます。

 いずれにせよ、信じる力というのは極めて強いもので、「信じるものは救われる」などという言葉まであるくらいです。病は気から、などとも言いますし、信じるということ、あるいは、想像力には非常に強い力があるように思われます。

 そして、これらの、想像界の物質がなぜ、現実界と隔てられているかと考える場合、先述した通り、時間感覚(速度)が違うか、或は、成り立ちがそもそもからして違うのか、ということが考えられます。

 現実界は、モル状であるのに対し、想像界は分子上の世界であり、モルは目に見えるが、分子は細かすぎて心の目にしか見えない、などと言うこともあり得ます。

 そして、この分子を感じ取る能力に優れた人たちが、サイコメトラーだったり、テレパスだったりするのかもしれません。

 何にせよ、「想像力」というのは、あらゆることをする上でのキーポイントだと思います。

 想像力を昂進させていくと、音に色が見えたりするので、超能力は共感覚とも関わっているのかもしれません。

 さまざまな美しいメロディ―が聞こえることもあります(幻聴)。とは言え、それらは、かなりのリアリティを持っているものの、想像上のものであると区別することはできるようです。

 僕にとっては、まるで、世界が、幾つも存在しているようで、とても不思議な感覚になります。時々、自分がどこの世界の住人なのかが分からなくなることがあります(笑)。

 面白いので、興味のある人は、一度、瞑想から、黙想へ、そして、想像する力を鍛えてみてください。バーチャルリアリティ的な物としてポケモンGOよりおもしろいかもしれませんよ。

 実際の身体が動いていないのに、色々な場所に想像上の身体をもちいて行くこともできるようです(幽体離脱の感覚)。 

 しかし、これらの感覚が、何にどの程度応用できるのかはまだ未知数です。

 想像力が昂進すると、もしかしたら、勘は鋭くなるかもしれません(或は、気づきの昂進)。シンクロニシティが増加する感はあります。

 そして、この想像と現実のいわゆる五感情報の間に、シンクロニシティによって、連関が生じた場合、これが、サイコメトリーであり、テレパシーなのだと思います。例えば、誰かの遺品に触って、その遺品に関連する想像が起こる、というのは、ひとつのシンクロニシティです。果たして、これが可能なのかどうか、興味深いところです。

 僕の意識のうえでは、想像界が存在すること自体は、わかっているのですが、それが現実とどのように連関しているのかまではわかっていないのです。(ただ、触れると現実に気分の悪くなる、想像上の植物などはありますので、ある程度連関はあるのでしょうけど。それにしても、プラシーボという概念が曲者ですね。信心が基礎にある想像力の領野ですので)

 と、いうふうに、僕は、かなり夢見がちなことを考える性分です。あんまり、現実的な性格じゃないんですね。経済術とかの記事書いてますけど、本当はそういう人間なんです(笑)

 ただ、僕が、こういう荒唐無稽なことに挑戦するのにも、微妙に投げやりながらも、意味があるのですよ。

 多分、不可能と言われるものに挑戦することが、時に、人間には必要なのだと思うのです。そうでなければ、社会のレールに沿って生きていくしかありませんし。

 そして、僕は、そのレールを壊しているわけですね。世界を。

 なかなか骨の折れる作業ですが。時に心の脱臼したりしますしね(笑)。たいへんな作業です。それでも、がんばっている人がいるので、僕もできることはしたいな、と思ったのでした。今日は以上です。

 

「不器用な愛をふりまいてやる」って僕は

「もういっそこんな人生だから」って僕は 世界を壊している(Neru,『世界を壊している』,歌詞より引用)