魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。連絡先アドレス:「mmaazzyyuu@gmail.com」 何かありましたらまずはお気軽にご相談ください。基本的には何でもどうぞ。できることには無論限りはありますが。

魔術的武装術について

 最初に言っておきますが、武装というのは、ナイフや爆弾の事ではありません。魔術的武装とは、芸術の事です。

 芸術は、比喩の連鎖であり、それ自体不可思議で、魔術的な要素を持っています。一体、なぜ、比喩などという現象が生じるのか、それが解明されれば、認知科学は発展するかもしれません。ただ、今回は、そういった認知理論というよりも、芸術の実践術に就いて少し。

 まず、芸術は、ある意味、不可思議なものですので、既定のプログラムによって、為されるのではありません。というよりも、むしろ、直観的に創られます。

 直観に至るには、先日書いたのですが、矛盾が有効です。つまり、思考を連ねていって、その結果、パラドックスに至るという経験を繰り返すことで、ある意味、心が空っぽになります。この何もかもを、放棄したかに見える、ひとつの絶望的光景を経験しておくことが、大いなる楽観のためには必要となると思います。

 何もかも放棄するわけですから、ある意味、最低の人間になり下がるかにみえるのですが、――実際そうなのかもしれませんが――いずれにせよ、一度は最低の人間になるという知恵を実践しておく必要があります。なぜなら、最低とは、社会「常識」において最低、ということであり、常識とはプログラムだからです。ですので、まず、最低となることで、つまり、常識から逸脱することで、プログラムから逸脱し、人間性とでもいうべきものを、奪取する必要があります。

 絶望と希望というのは表裏一体のものなのかもしれません。

 仏教において、真実に執着を抜けるためには、釈迦自体への執着、仏教自体への執着をも放棄しなければならないように。

 何もかもを、放棄するという知恵を経験しておく必要があります。

 真に創造的な、つまり、ある意味で神的な事柄を実現するためには、神をも否定する必要があるのです。なぜなら、一般的に言われる神とは、プログラムの域を出ないからです。一種の偶像崇拝

 したがって、神を信仰するということは、神を否定することを含むのです。つまり、神に仕える人は、神に従属していない、神を否定するのでなければなりません。

 ここに、神の非信仰は、信仰であるというパラドックスが生じますので、思考は崩壊します。あとには直観だけが残ります。そして、この直観によって、芸術活動を行います。そこには、何のプログラムも存在せず、ただ、直観のみがあります。直観すらもないという形で。本当にからっぽだからです。

 そして、その上で、愛をいかなるプログラムにもよらず、自分の意志だけによって、選びとる必要があります。

 なぜなら、何もない、この直観状態においては、まったくの孤独の状態であるとともに、自己は完璧に充足してしまい、いかなる不足への思考もパラドックスと言う名のブラックホールに吸収され、姿を消してしまうからです。

 これでは、自己のアイデンティティどころか、生きる意欲すらもブラックホールによって崩壊してしまうでしょう。しかし、そこで、自発的に生き残ることができる人でなければ、芸術を為すことはできないのではないかと、個人的に考えています。

 自分も何もかもが、崩壊したなかで、それでも、前を目指せるなら、その時、その人には、芸術の才能があるのだと僕は思います。

 あらゆる現象がプログラムとして見えます。しかし、その中で、創造的領野へと踏み込んでいけるかどうか。その点が、非常に重要なポイントかと思います。

 まさに、すべてが死に絶えた荒野において、「神は死んだ」というくらいの最高の信仰。それが大切なのではないかと。

 そのような状態における、魔術によって、つまり、芸術によって、全てのプログラムを書きかえるのです。創造的に。

 僕たち、人間がどこまで行くことができるかは、僕にも見当が付きません。しかし、ここで止まっていても、閉塞するのはいずれにせよ、眼に見えているでしょう。停滞すれば、淘汰されるのみです。遠くに行くしかないのではないかと思います。遥か遠くへ。

 しかし、自発性を獲得できるかどうか自体が、ひとつの賭けであり、その意味では、芸術を行うというのは、ビルから飛び降りるようなものです。

 非常に危険な状態ではあります。したがって、芸術家の役割の一つとは、この危険な状態にある、将来の同志たちに、前向きな自発性を獲得するための、援助を行うことです。音楽や小説によって。絵画でももちろんいいです。

 また、音楽と絵画、どちらの、創造性が強いのかを検討してみるのも大切なことでしょう。これは、今、僕の考えていることでもあります。あるいは、これらは組み合わさることで、良い成果を発揮するのかもしれません。わかりませんので、今後の検討が必要な点かと思います。

 魔術によって、科学すらも塗り替えることができるかもしれません。科学自体、不定のものであり、日々移り変わっているものです。科学よりも芸術家の方が少なくとも心理面の洞察においては、進んでいるものと思います。

 全ての人たちの心の傷。それが、治るのかどうか分かりません。しかし、それを治せるとすれば、それは芸術家、あるいは作家、画家、音楽家、写真家、その他もろもろ、創造的な人々、なのではないでしょうか。全ての人やモノには物語があり、その全てを、僕たちは読み解かなければならないのではないかと思います。その手の芸術という名のショットガンなり斧なりナイフによって。権威的粗大なプログラムを破壊することによって。あるいは、自由によって、というふうにも言えるかもしれませんね。みなさんも是非、色々と考えてみてください。自発的に。

 とは言え、難しいんですけどね(笑)。難しいです。とても。真に自由なら、自由にも縛られてはいけないので。自由で自由でないのです。直観。難しいですね。僕にも難しいです。もしかしたら、簡単なことなど何一つないのではないかという気がしてくるくらいに。やれやれ。これを多くの人に伝えるためには、おそらく、小説なり音楽なりの方が向いているのだと思います。

 

 さあ描いて見せて アインシュタイン セカイ系粗大ゴミ

カガクテキコンキョ 壊してしまえ あの子の六弦銃を

ねえ発いてみせて アルキメデス テレキャスの暴力

解読不要 そんな物語 ありゃしない(Neru,『オーヴァースレプト』,歌詞より引用)