魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

魔術的戦略術について

 今日は、魔術師の戦略について書きます。

 世界は複雑系ですので、実際には、あるとあらゆることを考慮して、その都度判断していく必要があるのですが、それでは、何も書けないですので、取りあえず、書けるだけ書いてみます。

 まず、魔術師の目指すのは、死傷者ゼロの人々の内面的変革です。その手段は、主に芸術および創造行為です。

 戦術面では、ある程度、臨機応変に、時に多少過激な対応も必要になることがあるでしょう。いじめられたら、自殺をする前に、何とか、多少逸脱的でも、手を打たねばなりません。

 しかし、戦略面では、少しの逸脱は、大きな逸脱となってしまいます。したがって、戦術の場合に比べ、冷えた頭というか、巨視的な視野が必要になります。

 ですので、今日の記事は、うまく言えないのですが、もしかしたら、あまり楽しいものではないかもしれません。それでも、一応書くだけ書いておきますので、お気に召す方はどうぞ。

 まず、世の中はおおむねは理不尽なものと相場が決まっています。率直に申しまして、本当に話の通じる人というのは、1%もいないかもしれません(それが悪いとは言いません。理解能力の程度も個性の一つです。それぞれの個体にそれぞれの役割りがあります。言語能力に秀でた個体もあれば、運動能力やある定型的動作に秀でたものももいます)。だから、芸術という多少、特殊な手法が必要とされるのです。

 しかし、僕は、今まで生きてきたからにはそれなりに色々な人と話をしているわけですが、話が通じるというのは、どちらかと言えば、奇跡的な出来事と考えておいた方がいいでしょう。その意味では、論理はほとんど力を持ちません。

 世の中は感情的な方が主流と考えておいてまず間違いないものと思います。

 感情にも機能があります。生きていくのに必要な機能でしょう。しかし、すべての道具がそうであるように、いつもいつもその道具で、うまく事態が乗り切れるとは限りません。

 論理が必要な場面というのが、世の中には多くあるのです。しかし、それはそのまま話しても、まず伝わらないのではないかと思います。おそらく、人によって、容姿がそれぞれであるように、脳の機能もそれぞれなのでしょう。論理に向く人と向かない人がいます。

 そして、人口比率で言えば、論理に向かない人の方が多いように思われます。

 したがって、論理的に正しかったとしても、その言葉をそのまま話すことは、大体の場合、得策ではないでしょう。

 そこには、なんらか特別な処置、――多分、芸術的な要素――が必要となるのです。多くの人には話が通じないなどと言うと、まさに、自己愛性パーソナリティの症状のようにも見えますが、しかし、ぼくの観察した限りだと、まず、話は通じません。このことを、まずは大なり小なり認識しておく必要があります。

 ここで、大きく二通りの意見があります。

 一つが、「民衆が必要だ」というもの。もう一つが、「少数の論理的な人がいれば十分世界は回る」というもの。

 どちらにせよ、大なり小なり、民衆が必要であることは変わりないのですが。

 とはいえ、啓蒙も個人的に実験した限りだと、ほぼ不可能です(ちなみに哲学をする人などは、話が通じやすい傾向があるかもしれません。もっとも端なる傾向に過ぎないのですが)。それよりは、むしろ、言葉ではなく行動で示した方が、伝わることが多いように思われます。

 また、ほとんどの悪口などは、ほとんどの人の場合、一時的な気まぐれであり、あらゆる物事をすぐに忘れることができるというのが彼らの強さであるとともに、論理的な面で言えば、デメリットでもあります。何事にもメリットとデメリットの両方が存在します。

 したがって、それらの悪口や批判はほとんど意味を持っていないことが多いように思われます。しかし、かといって、そのまま放っておいた場合、エスカレートすることもあります(彼らは忘れやすいですが、同時に熱しやすいという特徴もあります)。

 僕もどちらというと、熱しやすい人間なのかもしれません(ある意味、正気の人間には小説なんて書けないと思います)。ですので、気をつけなければならないところではあります。

 戦略は、大概、焦ると破綻するというふうに相場が決まっています。ですので、熱しやすく冷めやすいという特徴は、長期的な戦略をみる場合には不向きです。ある意味、行動に余計な、論理思考と言ったような手続きを必要としないという風に言えば、メリットなのですが、いつもいつもそれがメリットとなるとは限りません。そして、戦略における敗退は、致命的です。

 では、どうすればいいのか。これは、長期的視野を持つ人たちが、ある程度がんばる以外には、手段がありません。

 まさに、どうしようもない。

 そのための手段として、僕は芸術などを研究していますが、しかし、それもどの程度の効果を発揮するかは未知数です。どうなるか分かりません。

 下手に革命をすると、人々の頭がヒートアップして、何らかの暴力的事件が起こることも考えられます。

 これは、現実的非暴力を目標とする魔術師としては、あまり上手くはありません。

 ですので、大切なのは、「少しずつ」ということです。少しずつ、身体を慣らしていくのがいいでしょう。自由に。焦りとは認知の束縛です。したがって、自由とは、焦らないことでもあるでしょう。

 また、現実社会における、すれ違いの多くが、「話は通じる」というバイアスによって起きていると考えらえれます。同じ話を聞いても、理解できる人とできない人がいるというのは当たり前の事かと思います。まず、それを理解することで、変に相手に期待をせず、イライラしないようにするのが、一つ。メンタルヘルス

 その上で、当面は芸術に投資をしてみる。これが二つ目です。創造。芸術によるコミュニケーションの研究と実践。

 投資というのは、やってみるというくらいの意味で取ってくれても構いません。自分の時間を投資してみるわけですね。チェロの練習なら、それも、芸術への投資ですね。そういうことです。

 そして、武装放棄も少しずつ行っていくことが目標となるでしょう。しかし、僕たちが生きている間は、自滅しない程度に武装放棄をするというのが、現実的路線となるのではないでしょうか(理想は、それとは別に常に必要なのですが。理想を持つことを恥ずかしいと思うと、ちょっと社会が危ない感じになるかもしれません)。

 上意下達的体制のつよいところには、必ず抑圧があり、大なり小なりのファシズムの萌芽もあります。しかし、それを倒すために、こちらもファシズムを使ったのでは、その集団もまた、ファシズムによって打倒されるでしょう(人間には歴史を模倣する本能があるようです。歴史は繰り返す、とも言いますし。)。

 ただし、戦術面では、べつです。言わば、「個人的革命」はある程度有意義であるものと思います。どうか、いじめなりブラック企業なりその他もろもろの理不尽に殺されないように。自己防衛の手段として、これは許されねばなりません。

 しかし、戦略面では、急激に集団的連携を取り、それを統制し、政治運動を行うというのは、あまり上手くないと思います。

 どちらかと言えば、緩やかな連携にとどめ、そして、現行の体制をあまりにも急激に変え過ぎないこと(世界は複雑系ですので、あんまり変え過ぎると、思わぬところでしっぺ返しが来るものと思います)。

 やはり、ポイントは、急がば回れ、というところに尽きるかと思います。どうしても。

 理想を失ってしまえば、それも悲惨ですが、しかし、そこに熱狂が生じることで、誰かを傷付けてしまうとなると、これも悲惨です。魔術師としてはどちらも防止しなければなりません。

 ですので、適度なバランスが必要と言えるかもしれません。

 徒党を組むよりも、個人重視のベクトルで、どうなるか様子見、というのが当面の僕の戦略方針です。集団の持つ雰囲気に当てられなければ、人というのは個人個人は、基本的に無害であることも多いと思います。

 革命の気概は、使いようさえ間違わなければ、人間のパワーになってくれると思います。自尊心もとても大切です。しかし、その気概は、正しく使用されなければなりません。そして、それは、一般的にはとても難しいことなのです。

 徒党というよりも個人の力、芸術の持つ群れへの伝染力を信じること、それが当面の戦略方針です。

 

 みなさんに、スズムの『革命性:オウサマ伝染病』を送ります。

 

あの人もこの人もみんな

過食 赤心 王様状態

爪噛んで 奥歯噛んで

夢なら覚めろ 白昼夢

絶望的な夜明け(上記曲歌詞より引用)