魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

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虚言術

 今日は嘘について書きます。

 一般的に、嘘はよくないことというふうにされています。

 たしかに、嘘は、必要以上のものごとの様相を複雑にしてしまうような効用を持ちます。ですので、嘘というのは、かなり、脳への負荷が強く、面倒な「ノイズ」となるのではないかと思います。

 まして、利害関係が絡んでいる場面で、偽の情報に騙されると、大変なことになります。そして、この世界のほとんどの局面において、必ず何らかの利害関係が絡んでいます。つまり、このような状況下において、嘘をつかれることは、往々にして、致命的です。

 では、嘘は何のために存在しているのでしょうか?

 まず、みんな手を取り合えるのが理想的なのだとしても、現実にはそうなっておらず、それぞれにさまざまな事情があるにせよ、それぞれの利害を賭けた生存競争が実際に起こっているのだ、という問題が挙げられます。

 このような現状において、誰かが嘘をつけば、連鎖的に、その嘘に対抗するため、別の誰かが嘘をつかなければならなくなり、嘘は連鎖し、増殖します。

 これでは、正直者が馬鹿を見る、という状況となります。

 したがって、理想的にはともかく、現実的には、ある程度の嘘はやむを得ないという結論になります。

 しかし、嘘というのは、大なり小なり人の利害関係に影響を及ぼしてしまうツールでもあり、凶器としての性質があります。

 だまされて行動した人は、名誉はさることながら、金銭面にも負荷を抱えてしまうこともあるでしょう。

 なので、嘘とは何なのかということ、あるいは、その有効な使い方、その対策法について考えることは非常に意味のあることと思います。

 では、嘘とは何なのでしょうか?

 嘘とは、端的に言えば、事実とは異なることを言うことです。では、事実とは? 本当にあったことです。つまり、嘘とは、「本当はなかったことを言うこと」です。つまりはポイントは、文字通り「本当」であることとは何か、ということです。それはおそらく誠実であることです。真剣に尽くす心の事であり、誠意です。それが、「本当」であるかどうかは、その人の誠意の問題として決まります。さて、これはいわゆる「本当」の概念とはいささか違うかもしれません。事実とは、誠意とかそういった「気持ちの問題」から切り離された問題だという見解を持つ人も中にはいらっしゃるのではないでしょうか。

 しかし、すべての事実は、観測されたものです。そして、完璧な観測者は、存在しません。ならば、何が「本当」であるかは、「本当」にはわからないのです。

 なぜ、このようなことが起こるのでしょうか。これは、究極的に客観的な意見というものの存立がいかに難しいことであるかを示しています。つまり、「本当」に客観的な意見とは、いったいどれのことを言うのかが分からないのです。実際、客観とは、結局のところ、幾多の主観から成り立っています。そして、その幾多の主観、たまたまサンプリングされたそれらに共通な事項(間主観性)を、とりあえず、「客観」と呼ぶのです。しかし、それらの主観は、所詮、限られた範囲における限られた情報でしかありません。したがって、それらが「本当」に客観と呼べるものであるという根拠はどこにもないのです。

 つまり、客観とは、「本当」には、客観的なものとは言えないということになります。

 そして、こんなことを言ったら、まさしく切がありません。僕たちは、一応の「客観」を「本当」にではなく「仮に」定め、それに従って生きています。しかし、それにもかかわらず、僕たちは、「客観」を「本当」のことであると考えて生きています。「本当」は、それは「仮のもの」であるにも関わらずです。

 これは、論理的には矛盾していますが、機能的にはある程度有効に機能します。例えば、「全ての客観と呼ばれるものは虚妄である」と判断したとします。この場合に発揮される機能は、犯罪を抑制できません。あらゆる「客観」が意味を失うことで、法が失効するためです。犯罪が横行すれば、社会が立ちゆきません。したがって、機能的には、「全ての客観は虚妄である」という判断は上手くありません。

 では、「全ての客観と呼ばれるものは本当である」とした場合はどうでしょうか。結論から言うと、これも、あまりよい機能を発揮しないでしょう。なぜなら、この判断による機能では、現行の客観を書きかえること、つまり、客観視することが難しくなるからです。全ての客観を頭から本当のことであると疑わないので、そこには客観を訂正する余地や改善する余地がないのです。したがって、この判断には発展性がありません。

 ですので、現実的には、「ある程度の客観と呼ばれるものはある程度本当である」という玉虫色の解答に終始せざるを得ない。きっぱりと判断できないのです。したがって、僕たちが、健康な自我なり、行動なりを保つためには、この玉虫色の解答、つまり、「曖昧さに耐える力」が必要となります。

 さて、その上で、嘘についての考察に戻ってみましょう。先述の通り、「本当」とは玉虫色のものです。すると、その否定である「嘘」もまた玉虫色であるということになります。何が嘘であり、何が本当であるかが、玉虫色で、「曖昧」なのです。つまり、「嘘」という概念や「本当」という概念には、ある程度、可変性があるのです。つまり、ある程度、嘘や本当は、作り変えることができる。

 ここに一種の政治性が嫌が応にも生じます。

 しかし、この曖昧な領野においては、確固としたプログラム機能は拒絶され、一種宙ぶらりんの状態、判断の停止状態に、人は追い込まれています。確固としたもののないこの状態を人によっては、「不安だ」というふうに感じることもあるでしょう。それで、その不安に目をつぶるために、プログラムに埋没したふりをすることがります。つまり、すべては曖昧なはずなのに、すべて確固としたものにもとづいて、ビシバシときっぱり物事を割り切っていけるとする態度を取るのです。しかし、これは、先述の通り、健康と言えるような自我の様態からはいささか遠いように思われます。人間にはある程度、曖昧さに耐える力というものが必要なのであり、その能力を欠いたまま、プログラムに埋没した場合、上記のような犯罪行為やあるいは発展性の欠如と言った、集団としても個人としても自己破滅的な事態が大なり小なり起きてくるものと思われます。そのために、僕たちは、この曖昧な領野において、一種の「駆け引き」を肯定せざるを得ないのです。それがいささか政治的な響きを持っているにせよ。

 「本当」と「嘘」の境界は不明瞭です。それがきっぱりと割り切れると考える生き方には、辛いものがあるのではないかと思います。多分、苦しい生き方だと思います。

 

 では、具体的に、嘘の手法について分析してみましょう。まず、嘘とは言っても、それが嘘ととられるかどうかはケースバイケースですし、究極的には決定できません。なので、僕は、「誠意」などと言う曖昧な概念を、判断基準に挙げるのです。つまり、それらは確固とした「事実」ではなく、曖昧な「気持」の問題なのだということです。このように言い換えれば、嘘や本当を極端に峻別することもないのではないかと思います。

 さて、では、ケーススタディ

 

 AさんとBさんがいる。AさんはBさんと一緒にスキーに行く約束をしていた。ところが、AさんはBさんとの約束を反故にして、家で本を読んでいた。BさんはAさんに「約束を破った。嘘つき」と言った。

 

 一つのケースと言えども、幾つもの、ケースが考えられます。少し一緒に考えてみましょう。まず、ひとつの仮定。Aさんが風邪で家から出られなかった場合、これはどうでしょうか? そして、風邪をBさんに移すといけないので、あえて無理にスキーには行かなかった。この場合、確かに、AさんはBさんとの約束を破っていますが、しかし、そこには「誠意」があります。したがって、この場合、Aさんはいわゆる「嘘つき」ではないのです。つまり、たとえ、約束を破ったとしても、つまり、いわゆる「嘘」をついたとしても、場合によっては、それがかえって「誠意」として、良い影響をおよぼす場合があるのです。これを、「嘘も方便」と言います。

 

 さて、もう一つのケースを考えてみましょう。

 

 CさんはDさんと競合する会社を経営している。Eさんはすばらしい企画を持っていて、その企画がCさんの会社に入るか、Dさんの会社に入るかで、両社の経営の成否が決まる。そして、EさんとCさんは味方同士の関係にあり、DさんとEさんは中立的関係にある。しかし、DさんはEさんとCさんに同盟関係があることを知っており、その同盟を攻撃しようと、様々な情報戦略をこうじてくる。そこで、Eさんはその情報戦略網をかいくぐるために、Cさんを裏切ったふりをする。Cさんは怒って、Eさんを「裏切者」と呼んだ。一方で、Eさんの戦略は功を奏し、CさんとEさんの同盟関係を破綻に追いやることに成功したと思い込んだDさんは、情報戦略を弱めた。Eさんはその隙を逃さず、秘密裏にCさんと競合し、そして、事業は成功を収めた。

 

 このケースの場合、EさんはCさんを裏切っています。つまり、嘘付きであり、信頼に背く行為をしています。ところが、にもかかわらず、この行為は、嘘として糾弾しがたい何かを持っています。なぜなら、たとえ、EさんがCさんを裏切っていたとしても、そこにはCさんへの「誠意」があり、その思いが貫かれているからです。これを、「敵を欺くには先ず味方から」と言います。

 

 このように、世の中には、嘘も方便と言えるような事例が数多くあります。そして、何度もくりかえしていますが、何が嘘で、何が嘘でないかは、曖昧なものです。きっちりと割り切れるものではありません。これに比喩の問題が絡んでくると、さらに、難しくなります。

 なぜなら、一見、嘘をついているように見えても、比喩として見れば、一つの真実を指示しているということが往往にしてあるからです。小説などは、いわゆる「嘘」ですが、それでも、ひとつの「真実」を発いていますね。ですので、このように考えてくると、真偽判定というのは極めて難しいものなのです。

 

 虚言による戦闘術、概論について少し。

 

 まず、前項で明らかにしたような「真偽の可変性」を用いて、正当性を維持したまま、嘘をつくことができます(結局は、それが嘘なのか本当なのかは分からないのすが、そこはレトリックの問題ということで)。これを利用します。

 しかし、虚言には、相手の利害を操作してしまう力があります。それは、凶器として作用しますので、あまりにも使いすぎると、敵に回す人が多すぎ、自滅します。したがって、使いどころを、限ることが必要です。武器は慎重に使われなければなりません。

 例えば、自分の意見を広めたかったら、わざと目立つことをする必要も出てくるでしょう。それは、「わざと」やっているわけですので、ある意味では、演技であり、偽りです。しかし、それをわざとやっているのかどうかは、心的な事柄であり、極めて真偽判定が難しい。ここに付け込み、「わざと」という部分を意図的にぼかしてしまうのです。すると、「目立つことをする」という部分のみが浮き彫りになり、演技性が薄れます。これらの操作により、真偽を可変することができました。

 このように、一種の「誇大広告」が可能となりますが、しかし、これは、特別なことではなく、誰でもやっていることとも言えるでしょう。別段、嘘をつくつもりがなくても、自分に都合の悪い部分を隠すだけで、ひとつの誇大広告が成立してしまいますし、そもそも誤解されないことは不可能ですので、その意味では僕たちは、誤解の中、幻想の中、虚勢の中を生きていると言えそうです。

 そして、その「誇大さ」は、人を傷つける場合もありますし(威嚇効果)、場合によっては、実質的損害を与えることも、はたまた、実質的利益をあたえることもあり得ます。要は使いようです。

 何かが虚言であるか真実であるかどうかは、誠意があるかどうか、あるいは、その機能が相手のためになるものであるかどうかで決まってくるでしょう。

 嘘が他人に利することもあります。害することもあります。そして、嘘を完璧に避けることは事実上不可能かと思います。

 僕たちも、嘘と上手く付き合って行けるといいですね。どうせ、嘘を避けられないなら、相手のためになる嘘をつければいいのですが。ある意味では、僕たちは、嘘まみれの「暗闇」の中にいるわけなのですが、その中でも、僕たちの中で脈打つ心臓の鼓動の音は聞こえるものなのかもしれません。多少歪でも、誰かの心に「愛」が届くといいですね。少なくとも、その「涙」が誰かの目に留まるといいのですが。

 

こんな僕等がお互いの声を聴き歌った歪な愛の唄

 僕等孤独には勝てないと

どうせ僕等はこの瞬間さえもまた虚勢の登場人物で

誰も見ちゃくれない舞台で今日も(Neru,『小生劇場』,歌詞より引用)