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魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。連絡先アドレス:「mmaazzyyuu@gmail.com」 何かありましたらまずはお気軽にご相談ください。基本的には何でもどうぞ。できることには無論限りはありますが。

抽象術――戦争の事例から

 今日は、抽象について書きます。本当は抽象と具象にはさほどの区別はないのですが、今回は、仮に、抽象と具象を区別して書いていきます。

 なかでも、「戦争の抽象化」ということについて焦点をあてます。戦争を「デフォルメ」する方法です。

 

 さて、戦争をデフォルメするとはどういうことなのでしょう?

 

 まず、具体的戦争と抽象的戦争について考えます。

 

 具体的戦争とは、「本物の」銃やナイフを用いた、「本物の」戦争です。人々の本物の血が流れ、多くの場合、取り返しのつかないことになります。

 

 これに対し、抽象的戦争は、思考による戦争です。

 

 さて、戦争が生じる過程について少し考えてみましょう。

 

 まず、みんな幸せなら戦争は起きませんね。ということは、みんなに不満が溜まっているときに、戦争は起きるようです。

 

 つまり、不満が徐々に溜まっていって、その結果として、戦争が、感情の吹きこぼれとして発生してくるわけですね。

 

 これは、戦争まで行かなくても、現代でも起こっていて、例えば、こないだ介護職の方が障害者と呼ばれる方々を次々と殺してしまった事件がありましたね。ああいう、個人的テロとして、社会の不満は出てくることがあります。つまり、犯罪者にももちろん責任はありますが、それだけではなくて、そういった個人的テロが出てくる背景には、あらゆる意味での貧困(精神資本、文化資本、金銭資本、愛情資本、社会資本、その他もろもろ、当ブログの『経済術』参照。)が考えられるわけです。したがって、こういった貧困を緩和しなければ、僕たちもいつ、個人的テロの犠牲になってもおかしくありません。

 

 そして、この個人的テロが進行すると、どんどんと戦争状態に近づいていきます。少しずつ追っていきます。

 

 まず、ポツポツと、社会に不満がたまり、その不満の吹き溜まりが生じ、たまたまそこに居合わせてしまった人たちが、精神に破綻をきたしてしまうようになります。すると、確率的に、個人的テロが生じやすくなり、社会全体の不満が高まるごとに、そう言った個人的テロ行為が増加していきます。

 個人的テロは、どこで起きるか分かりませんから、人々による警備体制や武装が強化されていきます。その間もテロは激化していきます(中には、個人的テロがイスラム国などのテロ組織と結び付くケースも考えられてきます。この場合、テロのノウハウの共有などが生じ、さらにテロの危険度が増す可能性が生じます)。すると、武装の強化によって、統制力と殺傷能力の上昇した社会では、人が害されやすくなります。戦闘の中で死ぬ人も出てくるでしょう。まったく無関係な人が。

 

 そうして、人々の間に、緊張と亀裂が生じていき、誰がテロを起こすかわからないという観点から、疑心暗鬼に陥り、共同体が、今以上に機能不全に陥ります。

 

 助け合いが起こりづらくなり、社会は殺伐としてきます。また、社会の保全のため、統制力が上がるので、政治機構が一極集中化していき、やがては、ファシズムに突入することも考えられます。

 

 そうなると、後戻りはできず、世界戦争へと至るであろう、というような帰結となります。

 

 これらを防ぐために、必要な事は、主に、二つ考えられます。

 

 一つは、貧困対策。

 もう一つは、戦争の抽象化です。

 

 貧困政策は、単純で、貧困にある人に対し、相互扶助を行うしかありません。これが必要であることは、おそらく、多くの人はわかっているのではないかと思います。ただ、その方法にはいくつかの案があります。

 まず、ベーシックインカムという方法があります。これは、すべての人に対し、生きていくのに必要なお金を分け与える、相互扶助の一つの形です。

 欠点は、これを、政府によって行うということは、政府への、市民の依存を高めてしまう危険があり、ある意味で、ファシズム傾向を増大する可能性があるということです。

 ですので、理想的には、地域共同体同士の細やかな連携を計り、いわば、「ベーシックインカムを地域単位で行う」といった発想への転換が有効となります。これは、ファシズムを避ける、という意味では、分割の単為が細かければ細かいほどよく、理念的には、個々人の人たちが、自分自身の力によって、相互扶助組織を構築する力をもち、そして、自分たちの共同体を自分たち自身の手で作り出すことが理想となります。

 しかし、ここまで、事態を進行させるのは、現状では、難しいのではないかと、僕は個人的に判断していますので、現時点では、ベーシックインカムをとりあえずやってみることに賛同しています。それから徐々にベーシックインカムの機構を細分化し、最終的には市民の手にゆだねます。みなさん、自転車にいきなり乗れなかったでしょう? 乗れるようになるまで誰かに手伝ってもらいませんでしたか? そんな感じです。

 いずれにせよ、貧困に陥っている人たちに援助を行わなければならないという事実自体は変わらないとは思います。

 

 さて、次はいよいよ、戦争の抽象化について話します。

 これは、簡単に言うと、「思想領域における戦争」です。芸術や哲学による弁論、論争を用います。

 

 まず、目的は、共同体の細やかな分割によって、さまざまな多様な共同体の形を生み出すことが目標となります。

 

 これを、思想領域において、うまく行うのです。

 

 気持ちの持ち様は、その人の行動を大きく変えます。

 

 ですので、多様な共同体思想を多元的に配置し、思想の細分化を図ることで、共同体の細分化を図ります。すると、ファシズム的一極集中から遠ざかっていきます。これにより、戦争を抑制し、また、それぞれの人に応じた、細やかな小さな共同体による相互扶助を復活させることで、人々の孤立化を防ぎ、社会全体の不満を相殺します。

 

 つまり、抽象的戦争の目的とは、すべての人々にその人に適した思想的居場所を提供し、その孤独感を和らげるともに、事前に、社会の不満を相殺することで、具体的戦争が起きるのを防ぐ試みであると言えます。

 

 したがって、多様な対立構造、簡単に言うと、多様な争いを生じさせることで、その力動関係を拮抗させ、政治的に安定させます。

 

 大きな共同体というよりも、小さな共同体を用いる傾向の発想です。一つの説としてご参考下さい。「一つの」説です。なぜなら、この説が正しいとすれば、この説への反論の居場所ももちろん担保されねばならないからです。それらの反論を、「排除」するのではなく、うまく「包摂」していくのが、重要な指針となります。

 

 言い方を変えれば、大きなファシズムに至るのを抑制するために、小さなファシズムを使用する、というような言い方もできます。しかし、この言い方では誤解が生じる恐れもある、ということを、一応付け加えておきます(ファシズムという言葉は、世界大戦の影響で、ひとつのアレルゲンとなっております)。

 

 さらに、言い方を変えれば、全体の連関を、比較的に緩やかにすることで、大きな組織を連続体的に細分化します。これ、わかりづらいな(笑)

 もうちょっと説明すると、連携しないか連携するかという、二分法ではなくて、それらを連続しているものと捉えるということです。例えば、30%連携して、70%は連携しないとか。そんな感じです。

 

 なかなかうまく説明できないな(笑) 難しいです。

 

 簡単に言いますと、具体的な戦争になる前に、まだ戦争が抽象的な「アイデアの段階」にとどまっているうちに、その芽を潰そう、ということです。そのために、さまざまな思想や芸術、マインドセット、解釈論争を用います。

 

 そして、現時点では、対立構造をうまく拮抗させ、維持しつつ、徐々に、争いのない社会についてみんなで試行錯誤していきます。

 

 つまり、理念的には、争うべきではないが、現時点では争いが必要となるので、如何に、争いを具体的なものから抽象化し、現実的な肉体に対し無害化するか、というのが課題となります。

 

 そして、争いのない世界に向けた試行錯誤は、古代ギリシャの頃からずっと続いており、今も多くの人たちが頭をひねって考え続けています。簡単に少しだけ紹介しておきます。

 

 一つが、適材適所の発想を、支配、被支配へも適応しようという思想があります。この場合、支配する人々のことを、「守護者」と呼びます。つまり、人間に個人差があるということは、人々の間の不和を取り除くのに向いた人がいるはずであり、そうした人に、主導権を移譲することで、衆愚政治を防げばよい、という発想です。この場合、守護者の選別が問題となります。守護者の選別を誤ると、ナチズムのような事態へと突入する恐れがあり、現代では、比較的、危険な思想とされることが多いです。ちなみに、守護者には私有財産は一切認められません。なぜなら、守護者が多くのものを所有していた場合、市民からの嫉妬を避けられないであろうから、といった諸所の理由が展開されています。私有財産とはすべてのもので、例えば、妻も子供も夫も、いずれの所有もなく、それらは、すべて、守護者階級における共有財産ということになります。ポリアモリーという概念が、この点を考える参考になるかもしれませんので、紹介しておきます。

 

 また、守護者の選別が無理なので、人を適材適所に選別するのではなく、平等の概念を比較的重視する傾向でいこう、という主張もあり、これは、現代の日本に近い発想です。つまり、能力差は微々たるものなので、守護者と市民というような階級差は存在しないであろう、という発想です。しかし、この政治体制にも、諸所の問題が存在することは、おそらく、現代に生きる僕たちであれば、わかっていることであろうと思います。自由平等を標榜してはいるものの、平等価値観を源泉とする、同質化圧力により、自由は抑圧される傾向が強いです。また、自由にふるまう人は特に、嫌われやすい傾向があります。そういった諸所の問題を抱えてもいます。しかし、ナチズムに対抗する勢力としては、一定の効力を発揮しているという説もあります。

 

 さらに、まず、現時点での人間の能力差を認めたうえで、それを、何らかの人為的手段により、改善する、つまり、すべての人の能力を底上げすることで、衆愚政治を脱却しよう、という説もあります。この場合、成功すれば、自由と平等を両立できる可能性がある、というメリットがあります。

 僕は、人間の能力向上について非常に色々と考えていますので、これらのカテゴリーでいったら、最後の部分に属するかも知れません。特に重視しているのは、マインドセットであり、環境でも遺伝でもなく、マインドセットにより現状を打破する方法をいくつも考え、それらを、「魔術」と呼んでいます。こういう方法もあります。

 

 大体、こんな感じです(他にも無数にあります。また、細かいことを検証すれば、莫大な紙数を要します)。

 

 さて、今日はこんな感じです。

 

 簡単に言うと、みんなおこちゃまになれ! ということです。具体的戦争ではなく、子供みたいに、しょうもない喧嘩をしていればいいのです。そうすれば、世界は平和?(笑)なのではないでしょうか。なのかな……?(笑)

 

 みなさんに、ギガの『おこちゃま戦争』を贈ります。

 

だけどキミだけが

ボクに似合いのライバル

オチるのも凹んでんのも

調子狂わされるから 今宵もてめーとやいやいやいやい(上記曲歌詞より引用)