「世の中には何もないね」
とあなたは言った。
「そうかな?」
と僕は言った。
「だって、あなたがそう言ったのよ」
「そうかな?」
「そうよ」
「でも、どうしてそんなことが君に分かるんだい?」
「私はあなたのことを何でも知っているからよ」
「すばらしい」
僕は足を組み替えた。「すると、君は僕にあるほくろの数を知っているかい?」
「24個」
「すごいね。そんなこと僕も知らないよ」
「私はあなたよりもあなたのことを知っているのよ。だから、いつまでも一緒に暮らそうよ」
「しかし、困ったな。十二時になると魔法が切れるんだよ。そうしたら、僕はただの冴えない男になってしまう。そうなってしまっては、僕は君を惹きつけておくことができない。だから、その前にお別れをしようと思っただけなんだけど」
「私があなたのこと嫌いになるわけないでしょ?」
「そうなんだ」
「そうなのです」
「嬉しいけど、それって、あんまり現実的じゃないよ。一人の人のことを思いつづけるなんて。僕にもできない」
「ほら、また嘘ついた」
「また?」
「だって、あなたは嘘ばかりつくでしょう? しかも私のためにね。そういうのってよくないと思う」
「君のためになるなら、それでいいじゃないか。何がダメなんだい?」
「私は別にあなたに守ってもらおうとも思っていないし、傷つくのが怖いとも思わない。むしろ、あなたに傷つけられるくらいのものなら、光栄なくらいだわ」
「勇気があるね」
「あら、それは、あなた、自分を買い被り過ぎよ。あなたの持っている牙だか爪なんてそんな大したものじゃないわ。だって、私を傷付けないために、毎日爪を磨いているでしょ?」
「これは、ピアノを傷つけないようにするためだよ。むしろ、好きな人の事は積極的に傷つけたくなってしまう悪い癖があるくらいさ」
「ほら、また嘘ついた」
「また?」
「そうよ、またよ」
「股?」
「違うわよ。バカじゃないの」
「ごめん」
僕はしゅんとした。
「まあ、コーヒーでも飲みなさいよ」
あなたはコーヒーを二人分入れると、僕の下に持ってきた。
口をつけてみると、とても暖かいコーヒーだった。しかし、すぐに冷えるだろう。
「私とあなたの間の熱」
とあなたは言った。「冷めちゃったわけじゃないでしょ?」
「いずれ、冷めるよ。永久機関は存在しないことになっている」
「それは、一般的な話でしょ? 私は私たちのことについて話しているのよ? そういうのってわからないかな、この馬鹿は」
「君、ホントに僕のこと好きなの?」
「好きじゃなかったら、こんな話するわけないでしょ。ホントにバカね」
「やっぱり、僕のこと嫌いなんじゃないの?」
「違うってば。面倒くさい」
「……」
「……」
二人はコーヒーをすすった。
しばらくして、あなたはまた語りだした。
「私はね。あなたのことが欲しいのよ。とても。だから、一緒にいたいの。これは、あなたが私のことをどう思うかとはまた別の次元の話なの。もちろん、ストーカーとかにはならない。でも、心はずっと一緒なの。わかる?」
「分かるようなわからないような」
「物理ばっかりやってるから、馬鹿になるのよ。もうすこし、フィリップマーローを見習いなさい。私立探偵でもやったら? あなた向いてるわよ。すごくね」
「でも、僕はそこまで義理堅い人間じゃ……」
「義理堅い人間じゃなかったら、わたしはあなたのことを好きになったりしませんでした。要はそういうことなのです」
「どういうこと?」
「やっぱり、馬鹿ね」
「……」
「なんとか言ったら?」
「……」
「ごめん、わたしが悪かった。謝るから、そういう傷ついた顔しないでくれる? 面倒臭いから」
「怒った」
「いくら、怒ってもいいよ。私にだったら。できれば、わたしだけに怒ってくれればうれしいんだけど、そういうわけにもいかないのかな? あなた浮気性だものね」
「そうでもないよ」
「浮気性の人はみんなそう言うの。もうすこし世間を知らないとダメねあなたは」
「浮気性ではないけど、それ以外の点については同意するよ。僕は世間を知らない」
「でも、それは、必ずしも悪いことではないのよ。あなたはあなたでいいの」
「逃げればいいということだね。いろいろなものから」
「そうなる。でも、あなたはもう逃げる必要はない。なぜなら、全てを持っているから。何せ、私を持っているんだからね。私はあなたにとってすべてのものよ」
「言われてみたら、確かにそうかもしれない」
「ものわかりいいじゃない。よかった。あなたが馬鹿じゃなくて」
「でも、君のしていることを偽善だという人もきっといるんじゃないかな?」
「まあ、善なんて存在しないからね。ニーチェに殺されちゃったから」
「君、さらっと恐いこと言うよね」
「みんな正義を欲しがるけど、正義なんてまやかしよ。わたしはそう思って生きてきた。わたしは正義じゃなくてあなたが欲しいの。そういうのってわかる?」
「そういうのってわかる」
「からかってる?」
「からかってない」
「また、嘘ついた。ダメだ、こりゃ。重傷だ。あなたは真正の嘘つきだよ。サイコパスだよ。だから、わたしと一緒にいる以外に、この現代社会で生きていく術はないよ」
「君は嘘をつかないの?」
「私は嘘をつくのが仕事よ。当然、嘘はつくわ」
「でも、真実は存在しないって言うんだろう?」
「ニーチェに殺されちゃったからね」
「君はひょっとして、概念なのかい?」
「カントにも分からないようなこと、わたしに聞かないでくれる?」
「ごめん」
「謝らないで。面倒くさい」
「……」
「そうやって、すぐ泣くのやめて。面倒くさい」
「君のことなんて嫌いだ!」
「アホなの? 子供かよ! まったくこれだから最近の若者は……」
「ちっ……」
「あ、今舌打ちした。い~けないんだ~い~けないんだ~先生に言ってやろ~」
「そりゃ、舌打ちもしたくなるわ! ちょっとは僕の気持ちも察しろよ」
「あなたの気持ちについては、私の方があなたよりもわかっています。あなたは私のことが好きなの。だから私と一緒にいるしかないの。それだけ。これが、宇宙の真理」
「真理はないんじゃなかったの?」
「今、わたしが創ったの」
「……」
「無言にならないでよ。恥かしいから」
「いや、傲慢もここまで極まると、まぶしいな、と思って。てか、一応恥ずかしいんだ」
「私は謙虚よ」
「いや、謙虚だったら、僕は君のことをこんなに好きになってなかったよ」
「傲慢じゃなくて、自信満々って言って」
「自信満々」
「桜は自信満々って言って」
「桜は、自信満々」
「……」
「……」
「なんか、恥かしいね」
「今、気づいたの?」
「私って、相当恥ずかしい女みたい」
「今、気づいたの?」
「ごめんね。私みたいなのがあなたのこと好きとか言って」
「今、気づいたの?」
「フォローしてよ!」
「いや、あんまりかわいいから」
「ついつい、からかいたくなったのね?」
「そういうことになる」
「なら、私もあなたのこと許すのにやぶさかじゃないわ。よりを戻してもいいわよ」
「でも、君と僕では、大分生き方が違うよ。一緒にいても、あんまり、うまくいかないんじゃないかな?」
「そんなことないわ。人はお互いの違いを認め合えるって、あなたが言ったんでしょ? 忘れたの? ボケたの?」
「いや、言ったけど、あれは論文上の体裁の話で」
「だから、虚構と現実に区別なんてないんだってば。人は嘘なんてつけない。嘘は真実。真実は嘘。どっちも同じ。どっちにしろ、わたしはあなたのことが好き。あなたも私のことが好き。そういうこと。簡単簡潔明瞭明らか、はい、すばらしい、そういうことよ」
「君は本当に素晴らしい人格者だね」
「なんで皮肉しか言わないの? もっと優しくしてよ」
「でも、僕は、あんまり優しさに向いてない体質なんだ」
「もう嫌だ。どうして、こんな嘘つきのこと好きになっちゃったんだろう。最悪だ」
「いや、そんなこと言われても困るよ」
「しかも、甲斐性なしだし」
「僕にもメンツというものがあるんだよ?」
「そんなものないわよ。あなたには私しかないわよ。バカじゃないの」
「君、人に泣くなって言ったくせに、自分が泣くのはいいの? それって自分勝手じゃない?」
「あなたが泣かせたんじゃない? 馬鹿じゃないの?」
「……」
「……」
僕はとりあえず桜のことを抱きしめてみた。すると、スッと桜は身体の力を抜いた。少しずつ、彼女の涙は収まっていった。
「私が欲しいのって、これなのよ」
と彼女は言った。
「これ?」
「わかんないの? 馬鹿じゃない?」
「……」
「……」
「人にはただ抱きしめてほしい時があるの。理屈じゃない。現実でもない。虚構でもない。ただ、抱きしめていてほしい時があるの。わかって? ね? 世間知らずのおバカさん。わたしはあなたのことが本当に好きなのよ」
「……なんだか恐いな」
「恐い?」
桜は一瞬俯いた後、サッと顔を上げ、にこりと笑った。
…………
「私もよ」
…………
桜は、僕にそっと口づけた。
桜は何か言った。
僕は何か言った。
でも、その声は、言葉は、僕たちの耳にはもう聞こえていなかった。
僕に分かったのは、あなたの身体があたたかいということ、ただそれだけだった。
千本桜 夜二紛レ
君が歌い 僕は踊る
ここは宴 鋼の檻
さあ光線銃を 撃ちまくれ(黒うさP,『千本桜』より)