今日は、「言語」のお話をしましょう。
言語とは何でしょう?
まず、前回、『宗教術』の記事で、全ての言語は洗脳としての機能を持つ、といった話をしたかと思います。
その意味で言うなら、言語とは洗脳です。あるいは、指令といってもいいでしょう。言語とは何らかの命令機能です。
また、貨幣は、次の三つの要素が成立するときに招じるであろうという仮説を立てました。
一、信心
二、意志
三、他者
つまり、他者がいて、その人たちが何かを信じ、その意志にもとづいて行動した場合、その信心の対象が、貨幣化する、という話です。
そして、信心、つまり、洗脳は、言語によって、起こされます。ならば、貨幣は、言語によって生産される、ということになります。
つまり、言語というのはそれ自体、お金なわけですね。このブログに乗っている文章も、その他の情報もすべてお金であり、あるいはお金を生産しています。
より多くの信心を集めた思想が、より多くの貨幣となります。思想の貨幣化です。
そして、信心は、次の二つの要素によって決まります。
一、論理
二、多数決
また、同質圧力の強い日本においては、多数決の原理が強いと予想されるので、その意味で、外国に比べ、論理性が低く、つまり、既得権益の思想が貨幣として温存されやすいという特長があります。
逆に言えば、人々を論理的に考えるように指令していくことができれば、言語によって、既得権益を破壊することが可能となります。
まず、既得権益は、多数決、つまり、「大きな統計」という手法を用いて、論理に対抗してきます。我々魔術師はこれに対し、「小さな統計」をベースとした「論理」によって対抗します。
簡単に言えば、統計対論理の闘いです。
つまり、僕たち、魔術師は、統計を信じず、徹底した論理と理論と絶え間ない個人的実験によって、ファシズム的「統計機能」を打破することを目指します。
つまり、無思慮な多数決状態を覆し、人々が論理的に考えられるようにしていきます。
例えば、精神医学などは、統計の奴隷なので、魔術師が第一に打破すべき機構となります。統合失調症の例で言えば、統計によってではなく、徹底した論理と理論によって、その治療方針や動向を決定するのでなければ、既得権益の利益からはずれた思想は、「妄想」というスティグマを貼られ、永久に多数決状態を打破できないことになります。(この点において、精神科とは、現代における、異端審問の役割を担っていると言えるかもしれません)
したがって、我々魔術師は、幾多の、「数の暴力」に対し、論理を用いて対抗します。銃ではなく、論理を、多数決ではなく、理論を、つまり、「言語」を用いるのです。
そして、言語が宗教化し、また信心の対象という偶像崇拝を経て、貨幣化することは以上に記したとおりです。
さて、それでは、言語とは、何なのでしょう?
言語とは、論理です。ある論理。
論理にはいくつも種類があります。線形論理もあれば、非線形論理もあります。
細かい論理の設定を考慮すれば、人の数だけの論理があるでしょう。これは、人の数だけの言語が存在することを示しています。
洗脳におけるポイントとは、その言語を、如何に、自分たちの言語に接続するか、という作業であり、これを、「説得」と言います。したがって、全ての説得は、洗脳としての機能を持ちます。
逆に言えば、全てのコミュニケーションを断てば、洗脳は生じませんが、これは不可能ですので、洗脳はほぼ100%生じます。
実際には、利用している人と利用されている人に大別されるのではなく、お互にお互いを利用しあっている双方向コミュニケーションが成立しています。したがって、支配被支配という区別は、さほど厳密なものではありません。みんな、ある部分では、支配され、支配していますから。
ですので、自分が支配されているか否かという問題よりも、ポイントとなるのは、如何に自分の生活の機能を向上させるか、という点です。
多くの場合、人は、一人では生きていけませんので、利他主義はほぼ確実に生きていくために必要となります。
むしろ、自分一人だけ成り上がるという生き方は難易度が高くて、多くのものの反発を買います。すると、無意識のうちに自分の身体にストレスが溜まっていくので、疾病リスクなどが高まるであろうと予測されます。
結果的に、一人だけで幸せになるよりも、みんなで幸せになったほうが、おそらく数十倍、得である、という結論になります。仏教が、小乗仏教から大乗仏教に移行するのは、こうした事情があるものと思います。
また、幸せな人と一緒にいれば、その影響は自分にも波及しますので、より幸福になります。逆に、社会に不幸せな人が溢れていた場合、自分も不幸せとなります(類感呪術)。
以上のことより、他者を幸せにすることは、自分を幸せになるために必須であるということになり、ここに、利他主義者と利己主義者の意見の一致をみることができます。つまり、利他主義と利己主義は本来、同じものです。
一時的にしても、友情が通じ合った人と語り合うというのは、ほんとうに幸せなものです。そうした、幸せは、健康にもいい影響をおよぼすものと思います。
言語とは、コミュニケーションですが、したがって、良い言語は、他者に良い影響を与え、そのことによって、自分にも良い影響を波及させてくれます。
理念的に言えば、全ての人が幸せにならなければ、ほんとうの幸せ、ほんとうの至福、ほんとうの快楽はあり得ないということです。
したがって、利己主義的にも、全ての人の幸せを目指すことは理に適っています。
では、言語の論理構造を解析してみましょう。
まず、AならばB。これは基本となる形です。では、AならばAは? この時、この二つのAを区別する論理と、同一のものとみなす論理があります。どの論理を取るかは、人や状況によって異なっています。BならばA。これは、最初に挙げた命題と比して考えて、「逆」の関係に当たります。AならばB、BならばAならば、AとBを同一のものとして扱う場合もあります。別のものとして扱う論理もあり得ます。
このように、少し考えてみただけでも、様々な論理が考えられ、これを具体的なケースに適応すれば、その論理の数は、天文学的数字となります。
したがって、全ての論理を知り尽くすというのは現実的ではないので、個別のケースごとに、論理を適用していくのがいいであろう、と考えられます。
さて、この純粋な論理領野においては、あらゆる規則が存在していません。すべて思うがままに規定することができます。そのあとに、数学の公理や、1+1=2といった演算や、ユークリッド空間などが構築されてきます。そして、これらの公理を否定することによっても、有益な学問が生まれる事があり、例えば、非ユークリッド幾何学などはその代表となります。つまり、公理の肯定ではなく、公理の否定が、創造的な学問を創始する発火剤となることがあり、この何の規定も持たない純粋な論理領野を、誰もが持つ必要があります(啓蒙の問題)。
そして、この純粋な何にも縛られない、基底に当たる論理領野のことを、「直観」と呼びます。
そして、この直観さえ、会得できれば、あらゆる先入観を横切って、独創的な理論を(もしかしたら、「ほぼ」)無限に紡ぐことができます。
つまり、この無限に、論理を、つまり、言語を生み出す機構としての、「直観」がすべての富の源泉となり、したがって、宗教学的にも、経済学的にも、言語学的にも、この「直観」を導き出すことが、人類にとっての急務となります。
しかし、直観は、未規定性をよりどころとしているため、規定された言語によってつまり、既存の論理によって記述することはできず、それは、いわば、創造性のある言語による「実例」を見せることによって、相手に示し、相手が気づくのを、間接的に促す事しかできません。
そして、むろんのこと、全ての人の知覚が同一であるわけではなく、同じ知覚刺激を用いても、効果のある人とない人がいます。
例えば、極端な例で言えば、連合弛緩という認知機能を持つ僕などからしてみれば、統合失調症者の言語新作などは、まさに「宝の山」なわけですが、多くの精神科医は、それを汲みつくせていません。そもそも、この世界に、単純な悪や、単純な狂気など存在しません。全てのことには、メリットとデメリットがあります。要は使いようです。
このように、その人に応じた、知覚刺激に、言語を、「翻訳」出来なければ、如何に、その言語が価値あるものであっても、それに気づくことはできません。骨董品の価値を正しく見定めるには、優れた資質と多くの訓練が必要ですね。それと同じです。
言うなれば、言語術とは、直観術である、というふうに言えます。
つまり、直観による創造性が、あらゆる富の源泉となっていると考えられます。
これは、「イデア」、「判断停止」、「果断」、「脱構築」、「差異」、「資本」、「想像」、「創造」、「持続」、「失われた時」、「魔術」、「プログラムエラー」、「核融合」、「妄想」、「天才」、「病気」、「発想」、「現れぬもの」、「神」、「霊」、「天」、「倫理」、「道徳」、「人倫」、「言語」、「光」、「クワインテーゼ」、「悟り」、「解脱」、「芸術」、「分裂症」、「狂気」、「信仰」、「シンクロニシティ」、「不老不死」、「少女」、「祈り」などなど……
さまざまな名前で呼ばれており、また、これらのうち、どの言語が、その人に対し、効果を持つかは、その人と話しながら、その都度判断していく必要があります。
さて、ひとまず以上です。
みなさんに、supercellのMy Dearestを贈ります。
so,everything that makes me whole
今君に捧げよう
I'm Yours (上記曲歌詞より引用)