魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

国家術と巫女術

 さて、今日は、何にしましょうか。

 

 では、国家の話とかします。

 

 国家です。国家。

 

 何から手をつけましょうね。

 

 非常に簡単なお話しかできないかもしれないですし、結構煩雑としたものになるかもしれないので、ご容赦を。

 

 まず、全ての言語は洗脳である、というお話を、言語術でしたと思います。

 

 そして、そうした、言語の「信念」はすべて宗教的であり、したがって、言語における活動はすべて宗教的であると言った趣旨の話しを、宗教術においてしました。

 

 さて、つまり、国家自体も、言語論理によって運営されている以上、それ自体、宗教的機構である、ということがまず言えます。

 

 つまり、何らかの、宗教的信念と、人々のそれに対する信仰が、国家を生み出しているわけです。

 

 以上が、国家の簡単な生成メカニズムの概略になります。

 

 したがって、「国家とは宗教である」。というふうに言い得るかと思います。

 

 この仮説に沿って、話を勧めてみましょう。

 

 では、国家が自分への信仰を守るために、最も警戒するものは何だと思いますか?

 

 それは、国家的手法、つまり、宗教的手法を持つ組織であり、これを「宗教団体」と言います。

 

 さて、少し「法」の生成メカニズムについて、考えてみましょう。

 

 まず、主観と客観について、よーく考える必要があります。

 

 実は、これは明確に区別できず、言いようによっては、全て主観であるとも、全て客観であるとも言い得るのです。簡単にこの機構を説明してみましょう。

 

 1.全て主観であると仮定する。

 2.客観とはあらゆる主観から逃れた認識である。

 3.主観とは、非客観である。

 4.認識とは、人間の脳および身体による。

 5.認識は、少なくとも、人間の脳および体という主観機構から逃れていない。

 6.したがって、全ては主観である。

 7.この場合、客観は存在しない。

 8.一方で、客観が存在しないのならば、非客観としての主観も存在しない。

 9.これは、最初の仮定に反する。

 10.以上のことより、主観と客観の区別は存在しない。

 

 となります。ちょっとくどいですけど(笑)

 

 そんなバカな! と思われる方も多いかもしれませんが。実は、主客は存在しないのです。

 

 だから、お前は主観的だ、とか、お前は客観的だとか、いろいろ言いあっているのを時に見かけますが、あの手の議論は決して収束しないわけなのです。です!

 

 なぜなら、全ては主観であり、全ては客観であるから。

 

 ですので、本質的に、有効性を持つのは、「信仰」だけです。少なくとも、この議論領域では、信仰しか力をもちませんね。そういうことになります。

 

 「でも、国が保証してくれるって……」という意見もあるかと思いますが、「保証」というものは、基本的に、脆弱な概念であり、そんなものは存在しません。すこし、強い意見過ぎるかもしれませんね。では、「ほとんど」存在しない、というふうに申し上げます。

 

 だからこそ、重要なのは、この保証と呼ばれるただでさえ脆弱な機構のセキュリティ性を向上させることであり、その為には、国の一元的管理による社会構造では、まったく不充分で、地域単位の、「相互扶助」が是が非にも必要となります。

 

 もちろん、この僕の主張は、「人間は助け合うべき」という信仰による生まれたものであり、いわゆる客観的なものではありません。したがって、この文章は、人間が助け合うべき存在であるという信仰を持っている人にしか通用しません(現時点では)。

 

 このように、全ての事は、信仰であり、宗教の問題となります。

 

 さて、では、信仰の集合体としての国家が、自身の存在を守るために、排除する必要があるものとは何でしょう?

 

 それは、「宗教」です。

 

 したがって、あたかも、絶対の「保証」なるものが「客観的に」存在し、しかも、それを、「国」が「保証」出来るかのように見せかける、魔術、――これを幻術と言います。――かけることによって、国家は、民衆から風前の灯火となった「未来への約束」をかさに着て、綿密に計算された搾取機構を作り上げます。これを、「税金」と呼びます。

 

 つまり、国家の本質は、さほど、新興宗教と変わるものではなく、むしろ、新興宗教にのみ負のレッテルを張り、自身は客観的であるかのようにふるまうのはまさに欺瞞と言わざるを得ないでしょう。

 

 したがって、こうした、欺瞞機構を打破するためには、宗教に対する寛容を復活させる必要があり、

 

 それが小さな国家を、もっと正確に言えば、他の宗教に対し寛容な、水平的関係を構築する「都市」が生じてくるでしょう(この論法で言えば、国家体制は、他の宗教を大なり小なり廃絶する傾向を持つという点において、垂直的関係を構築する、と言えるでしょう)。

 

 つまり、都市や国家を樹立するのは、経済でも社会でもなく、「宗教」です。

 

 したがって、国家にとっての脅威とは、宗教にほかならず、国家の主な排除対象とは、宗教であるというふうに言えるかもしれません。

 

 では、なぜ、宗教が国家を樹立するのでしょうか。

 

 それは、信仰が「掟」つまり、「法」を樹立するからです。

 

 主客が存在しないのなら、法は信仰からしか生み出されません。

 

 では、法の特徴とは何か。

 それは、「人称がない」ということです。

 

 つまり、「私はこう信じる」とか「私はこう思う」ではなく、「普遍的にすべての人が(少なくとも共同体における)この信念に批准するべきである」という形態が、法です。

 

 この「人称がない」状態を仮に「奪人称性」と呼びましょう。

 

 すると、あらゆる法は、この奪人称性なしには成り立たないのです。

 

 その場合、この奪人称性を生み出しているものとは何か。

 

 信仰です。

 

 では、その信仰を生み出すものとは。

 

 これは、「神託」と呼ばれています。

 

 いわば、国家が「信託」を垂直的に欺瞞的に用いるものだとすれば、都市は「神託」を水平的に多様性尊重的に用いるものだと言えるかもしれません。

 

 そして、その神託を受けるものとは?

 

 これは、「巫女」(必ずしも女性とは限りませんが。しかしおそらく女性に多いでしょう。あるいは「女性的」な人)と呼ばれます。

 

 つまり、あらたな共同体を生み出し、あらたな思想を生み出し、あらたな法を生み出し、多様性を守るのは、都市における「巫女」であるということになります。

 

 従って、国家から自立し、あらたな共同体を生み出し、多様な人びとに多様な環境を提供するためには、巫女の樹立が肝要であり、また、国家は、この巫女を遠まわしにせよ、討伐するでしょう。

 

「オカルト」と評して。自分たちの「オカルト」には目をつむることで。

 

 神がかりの討伐形態とは、主には、「精神医療」と呼ばれているように、個人的には思います(しかし、非常に寛容な心を持った、尊敬するべき精神科医は存在します。全てのことは一概には言うことができません。このブログに書かれたものも、ひとつの「信仰」とお考えください。いわば論理に準じる「論理教」)。

 

 したがって、「信仰の自由」を確保することが最も重要であり、これを怠ることによって、寛容な世界が切り開かれることはおそらくないでしょう。

 

 その為には、排外的特徴を持つ、「妄想」といった概念や、個人の宗教体験を否定する意味での「統合失調症」(カミダーリィともいうことがあります)「解離性障害(憑依)」概念について、あらためて考え直していく必要があります。

 

 例えば、上杉謙信が、「自分は毘沙門天の化身である」と言ったものを、「自己愛が強いだけ」と解釈するのではなく、「本当にそうなのだ」という信仰に価値を認めることです(実際、これは論理的に正しいです。謙信のような状態を、「他化自在天」というふうに呼ぶ事があり、この手の人は、論理を自由自在に操作することで、「自己」という概念をいかようにも変容させることができます。これを、「変化術」(メタモルフォーゼ)と呼び、こうした人々のことを「吸血鬼」と呼ぶこともあります。)。

 

 したがって、ニーチェが、「首相に指令をあたえた」というとすれば、それは、おそらく「本当」なのです。すくなくとも、論理的には。個人的に、ニーチェほどの人が、たとえ、梅毒であったとしても、それほど簡単に正気を失ってしまうとは、今一つ考えられません。狂っているのは、ニーチェではなく僕たちの方かもしれないのです。常に。

 

 ですので、こうした「信仰」に積極的に価値を認め、信仰の多様性を樹立することが、僕たち、人間にとっての急務となるのではないでしょうか。

 

 一つの意見としてご参考下さい。

 

 以下、今回の話の概略をまとめます。

 

 1.国家とは信仰である。

 2.宗教とは信仰である。

 3.国家とは宗教である。

 4.宗教をオカルトと切り捨てるのは難しい。

 5.主客は存在しないので。

 6.結局、人は自分の信じるものに準じるしかない。

 7.さまざまな信仰があっていい。

 8.そのためには、巫女とその神託を大切にすること。

 9.世界とは信仰であり、魔術的に構成されている。全てはプラシーボ効果である。「信じるものは救われる」とも言う。

 10.一時的に「狂気」としての様相を呈するように見える「カミダーリィ」を大切にする社会を作ること。

 

 以上です。

 

 

枯れていく友に

お前は何を思う

言葉を持たぬその葉で

なんと愛を伝える(EGOIST,『エウテルペ』歌詞より引用) 

 

P.S.今日は直観術書こうかな(笑)。がんばります(笑)