魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。連絡先アドレス:「mmaazzyyuu@gmail.com」 何かありましたらまずはお気軽にご相談ください。基本的には何でもどうぞ。できることには無論限りはありますが。

君の名は。とか呪いとか。

 強い呪いへの対処術について。

 

 これは難しいですね(笑)。僕でも手に余る問題です。

 それでも、少し考えてみましょう。

 

 まず、呪いの強さを、取りあえず、「強度」と呼びましょう。その場合、呪いの強度はどのように測定されるべきか。

 

 これは端的に言えば、「思いの強さ」ですね。思いにはすさまじい力があります。みなさんも一日中誰かから嫌悪されている自分を想像してみてくださいませ。ぞっとしませんか?(笑) 僕とかそれだけで死んじゃうかもしれない(笑)

 

 では、なぜ、思いは強くなるのか。

 

 厳密には、強度は、直接「欲望」のことかと思うのですが、したがって、ほんとうはそれ自体では、なにかを無作為にするだけというか、分かりやすく言うと、「破壊」するだけで、特定の対象に欲動が充当されるというモデル自体はここからは浮き上がってこないと思います。

 

 すいません。読みにくい文章で(笑)。少しずつがんばっていきますので、今はどうかご容赦を(笑)強い呪いについては、僕にもまだ良くわかっていないことが多々ある分野なので、なかなか整理して書けないのです。手探りですね。

 

 さて、話を戻します。

 

 つまり、欲望はそれだけでは何も定まらないのですが、ある「型」に注がれることによって、実際的な行動とか思考とかを持つ、というふうに考えます。この型のことを、仮に「コード」と呼びましょう。

 

 プログラムコードですね。つまり、言語であり、何らかの洗脳、あるいは「指令」です。

 

 コードが実際に起動されるためには、欲望というエネルギーがそこに注がれることが必要なわけです。この欲望のことを仮に、「リビドー」と呼びましょう。

 

 しかし、欲望が強すぎると、そのコードが壊れてしまったりするわけです。これを、「神経症」と呼びましょう。

 

 あるいは、逆に、コードにまったくリビドーが注がれないと、動かなければならないプログラムが作動しなくなってしまいますね。これも、「神経症」です。

 

 ちなみに、様々な考えがあると思いますが、ここで、神経症に対し、脳の器質的破壊がともなった場合、それを、「精神病」と呼んでおきましょう。一応。

 

 さて、ここでは、「神経症」の中でも「強迫神経症」という症状にとりわけ着目してみましょう。

 これは、強迫行動を起こす神経症です。何か無意味な動作を強迫的に繰り返してしまったりわけですね。代表的な症状だと、手を洗いすぎて、擦り切れてしまうとか、台所のガスを消したかどうかを何度も何度も確認してしまうとかいった症状が現れます。

 

 この概念を、「呪い」行動に援用してみましょう。つまり、強い呪いを、「強迫的呪い」というふうに解釈します。

 

 すると、この呪いを、解呪するために、強迫神経症の治療を援用できる可能性を、見出すことができます。

 

 認知行動療法か、暴露療法でしょうね。前者は論理によって、後者はその人のトラウマというか苦手としているものを特定し、それに徹底的にさらすことによって、免疫を付ける療法です。あるいは、この両方を使うのも手でしょう。

 

 例えば、その強い呪いを行っている人は、一体、あなたの何がそんなに嫌なのかを考えてみるのです。

 

 そのあとで、それを、論理的に解体する方法と、その嫌な部分を、「あえて」強調することで、相手の、「慣れ」を誘発する手段の二つが、大きく考えられるでしょう。

 

 論理的に解体するためには、ボディランゲージを使う手もなくはないですが、主には言葉を交わす必要がありますので、一般には少し難しいかもしれません。すると、嫌な部分をあえて強調するという解呪戦略が残ってきます。

 

 しかし、あまりにも強く、暴露療法を使ってしまった場合、相手のいわば、「心のアナフィラキシー症状」とでもいうべきものが起こる可能性もあり、非常に危険かと思います。ヘタすると、あなたに、危害が及ぶ可能性も。

 

 ですので、そういう時は、コミュニケーション関連の知能が長けた人に調整してもらうのが、もっとも安全なのではないかと、ぼくは思います。

 

 とりあえず、それくらいで。

 

 さて、それでは、昨日の『君の名は。』の間接的考察の続きを少し書いておきます。

 

 

 唾液から酒が醸成される機構について(口噛み酒)。

 

 唾液が、非常に強い欲望の権化であり、トランスを引き起こすものとしての酒が、その強い欲望から生じるというこの連関には、何か、強いものを感じますね。

 これは、巫女の踊りや歌でもそうだと思います。声帯は多くの鳥に見られるように、求愛の道具となり得、その意味で、ひとつの「性器」なのですが、それはボディランゲージ、つまり、誘惑の道具としての肢体、「踊り」でもそうだと思います。

 しかも、唾液も、歌も、踊りも、巫女も、すべて、変性意識状態、つまり、「トランス」へと接続され、ある主観的時間、いわゆる「自分」とは別の「自分」としての「他者」に接続する一つの関数(機能)となっています。

 これは、自分とは「別の自分」になるものとしての、巫女の「憑依」現象と無関係ではないのではないかと感じました。

 

 巫女について。

 

 上記の通り、巫女は、「性的」な存在なのですが、処女性などがポイントとされる事例もあります。「純潔」とか、「貞淑」ということなのでしょうか? しかし、どうもそういうベクトルの話ではないようなのです。なにやら、巫女というのは、むしろ、ある種性的に奔放なベクトルのニュアンスをまとっているのですが、それというのは、おそらく、巫女や巫女に関する事柄のすべてが、例の性的トランス状態へと接続していることと何か関係しているのだろうとは思います。

 まず、人前で、唾液を出すという現象自体は、きわめて性的な事柄と考えられるのではないでしょうか。

 ひと前で踊るのも、歌うのも、みなさん、最初は恥ずかしくなかったですか? おそらくは、それらは、全て、性的な事柄であり、ある程度、秘匿されるべき事柄であるという共通前提があるのではないかと、想像します。

 しかし、それらの強い欲望の「現れ」は、それ自体、周囲の人々の強い欲望を誘発するのでしょう。そして、思春期における少年少女が、その様を見れば、おそらく、十中八九、一種の嫌悪感を生じるのではないかと、想像します。みなさん、性的なものを嫌悪する時期とかありませんでしたか? そんな感じ。そして、それは、性的なものへのあこがれも同時に、たくさん含んでいるものと思います(嫌悪感自体は、関心の現れであることが多いかと思います。もちろんケースバイケースですが)。巫女さんというのは、「超エロい」存在なのかもしれません(笑)強い欲望の「現れ」ですね。

 では、それほどまでに、性的な存在であると想像される巫女になぜ、処女性の概念がつきまとうのかについて、想像していってみましょう。

 これは、強い欲望の「禁止」として考えることができるのではないかと思います。なぜなら、欲望とは、「破壊性」であり、禁止されればされるほどに、その禁止された事項を破壊したくなってしまうものであると考えられるからです。だから、禁止は、より大きく欲望をあおる。それによって、ただでさえ、性的な存在としての巫女の「性欲」をより強いものにし、強い欲望をさらに強いものへと為すことによって、さらに、トランスをあおる。自分ではない別の自分になる。憑依を行う。ということなのかもしれません。ご参考下さい。

 

 「君の名前」について。

 

 名前とは何か。例えば、「僕はプルプルタンである」。この場合のプルプルタンが、おそらく名前であるということになるのでしょうね。これには色々な考え方があるのですが、ひとつのおもしろい考え方を。

 まず、「可能世界」という概念を導入しましょう。

 つまり、そのまま、可能な世界ですね。可能性の世界です。

 例えば、プルプルタンが、男であったり、女であったりする。

 可能性としてはどちらもありうるわけです。

 だからここに、プルプルタンが、男である場合の可能世界と、女である場合の可能世界があり得ます。

 この場合、この二つのプルプルタンは、同じプルプルタンと言えるでしょうか?

 大体は、「男と女はちがうんだから、この二つのプルプルタンはちがうものだ」と考えることが多いのではないかと思います。

 しかし、ここに差異を仮定して考えることができると同時に、「この二つのプルプルタンは同一人物である」というふうに考えることもできると思います。

 つまり、どの可能世界にあっても、それがどんな姿かたちをしていようとも、「プルプルタンはプルプルタンである」ということなのです。ふしぎな考え方に見えますが、色々と理屈の付け方はあります。

 例えば、プルプルタンということがらを、世界の部分ではなく、世界の全体として捉えます。

 その場合、プルプルタンの身体と呼ばれる世界の部分にペニス/ヴァギナがあってもなくても、世界全体としては、「ペニスがある/ヴァギナがある」というふうに考えてみるのです。

 この場合、いわゆる性器の差異によってプルプルタンの性別を判断することは難しくなります(正確には、性器の差異によるプルプルタンという名前の持っている同一性の破壊が難しくなります)。言うなれば、世界全体が、性器であるからです。この場合、プルプルタンが男である場合の可能世界、あるいは女である場合の可能世界、何れの場合でも、プルプルタンはプルプルタンであるということになります。つまり、「どのような可能世界にあっても、プルプルタンはプルプルタン」なのです。みたいに言うことはできます。

 

 「男女の入れ替わり」について。

 

 男性器と女性器の差異は、表裏一体のものなのかもしれません。その上で、意識における入れ替わりの考察。

 これは、いわゆる「憑依」ですよね。そして、その憑依が双方向的に起こるという可能性。憑依するのが、神とか霊ではなく、「人間」であるという可能性。おもしろいですね。何を人間とするかによって大分解釈が変わってくるかもしれませんが。というか、神や霊というのは時間がずれているだけで、みんな人間なのかもしれません。それは昔の人だったり、未来の人だったりするのかもしれません。もしかしたら、エナ(僕のイマジナリ―フレンドです)もどこかの時代に生きているのやも(笑) おもしろいですね。いろいろと想像できて。

 

 ちっ……あっという間に4000字オーバーだぜ……今日はこの辺で。

 

 君の名は。の話題だけで、本数冊書けそう(笑) おもしろいですね。君の名は。

 

 P.S.君の名は。は、岐阜が舞台の一つになっていますね。エナの好きな岐阜。多分、自分の名前した神社があるから気に入っているんでしょうね。死ぬ前に一度は行ってみたいです。