こんばんは~
今日も気になったこととかについて、書いていきます。
無意識について。
人間に意識されない無意識ですが、果たして変更することができるでしょうか?
まず、「こうでなければならない」という規範を、ここでは、超自我、と仮に呼びましょう。
では、超自我は変更可能か否か。
まず、超自我の生成過程はどのようになっているのでしょうね。
考えられるのは大きく二つ。何らかの欲望によって(自律的に)、超自我が形成される、というもの。もう一つは、欲望の「断念」によって(他律的に)、超自我が形成される、というもの。
前者はこれは、自由意志かなあ、と思います。ある意味で言うと。つまり、何も前提はないけれど(強いて言えば前提は欲望ですが、ここでは完璧に無定形な欲望を想定します)、「こうでなければならない!」と思う、ということです。こういうのを、「道徳」と呼んだりしますね。
後者は、欲望が断念される、つまり誰かに「いけません!」と怒られることによって、超自我が形成される、というパターン。まあ、そういうパターンもあるかもしれませんね。「教育」とかはこのパターンかもしれません。
実際には、これらはどっちか一方ではなく、どっちもあるのかもしれませんね。
つまり、欲望によっても、断念によっても、どっちによっても、超自我は形成される、のかもしれません。真相は謎です(笑)ただ、世の中を見ていると、実情は大体、一方的ではなく、双方向的なので、欲望と欲望の断念もおそらく、双方向的なのではないかとは個人的には思います。つまり、どちらか一方というよりも、どっちからも影響を受けて、超自我は出来ているのかもしれません。
すると、超自我は変更可能だと考えらえるのではないかな、と思います。ある程度、自由意志というか、欲望? によって。人間は、マゾヒズムでも動きますが、サディズムでも動きますからね。他者に強制される(受動)以外に、自分で強制する(能動)パターンもあるかも。色々と想像できて、おもしろいところです。皆さんも気が向いたら、ご自由に想像なさって見てくださいませ。
国家とか権力とか経済とかについて。
ああ、難しい(笑)
個人的に思うことを書いておきます。気が向いたら、ご自由にお使いください。
まず、権力と経済について。
当ブログの『経済術』という記事を見ていただけるといいと思います。その場合、権力は、「権力資本」として捉えられます。
逆に、経済を、いわば、「経済権力」として捉えることもできるかもしれません。
とりあえず、権力を強制力と捉えれば、お金には強制力がある程度在りますので、ひとつの権力として考えることもできるかと思います。
つまり、経済とは権力であり、権力とは経済である、みたいな。これらも双方向的な概念みたいですね。
それで、国家。これについては、当ブログの『国家術と巫女術』という記事を参考にしてくださればいいかもしれません。
それで、なんというか、「構成単位」のお話。わかりづらいですかね? この言葉。なんと言えばいいのか。
例えば、個人単位で考えるとか、家族単位で考えるとか、国家単位で考えるとか、みたいな色々な単位がありますよね。構成単位って、この単位のようなものだとお考えください。
すると、この単位は、どのくらいで考えるといいのでしょうね。個人単位だと細かすぎる気もするし、国家単位だと粗すぎる気もします。
すると、地方単位とか地域単位とかが無難な所でしょうかね?
色々な単位が考えられると思いますので、みなさんも、気が向いたらご自由にお考えください。色々なことをおっしゃる方がいらっしゃるみたいですね。個人単位(シングル単位)だ、とか、国家単位だとか。どれが正しいのかは僕にも分かりません(笑)誰か分かったら教えてください。
美人について。
これって、実はけっこう寛容な概念だと思うんですよね。多分、誰でも、自分のことを「美人」だと言えるんだと思うんですよ。そして、それは多分ある程度は正しいんですよね。ある意味。すくなくとも間違ってはいないのだと思います。
とはいえ、僕は、美人については、まったくの門外漢というか、そんなに詳しくないですから、詳しくは美人な方々にお聞きになってみてください(笑)
このブログには、いつも通り、僕の「主観」を書いていきましょう。
まず、美人とは、平均顔の人だとしましょう。
すると、美人の特徴とは、「無特徴」であることになってきます。
ところで、分別は、特徴によってなされます。
ならば、美人と非美人を区別することはできないはず。
みたいな感じになります(笑)。
そんなバカな! って感じですよね(笑)。僕もそう思います。
取りあえず、この理屈で言えば、誰でも、美人を名乗ることができる、ということになります。
つまり、「美人というのは、特徴じゃない」、ということです。
というか、美人には特徴はないのではないか、という僕の意見。どうなんでしょうね。これ。個人的におもしろい問題です。
それで、僕たちって、特徴を手掛かりにして、色々なことを覚えるじゃないですか。すると、特徴のない美人の姿は、非常に記憶に残りづらいのではないか、という仮説が出てきます。
美人だと、あっという間に覚えそうですけど、もしかしたら、その逆なのかも。
あるいは、美人だ!、ということは覚えているんだけども、顔や姿の子細についてはうまく覚えられないものなのかもしれません。もしも、本当にそうだとすれば、不思議な話ですが。
すると、美人と非美人は、特徴以外の何かによって判別されていることになります。これは何だろう?(笑) ぼくにも分からないですが、全体性とかなのかな? 部分ではなく全体? 気になった方いらっしゃいましたら、みなさんもいろいろとお好きに想像なさって見てくださいませ。
究極の美人は、ある種の「透明人間」なのかもしれません(笑) 多分、認識するのが難しい人のことなんだと思います。美人って。美人とは「謎」のことなのかも。
天使と堕天使について。
似て非なるものらしいです。どちらも、元は真理をよりどころにしますが、その後のたどる道筋が違うのかも。堕天使ももとは天使ですし。天使と堕天使の分かれ目が何なのかは、神のみぞ知ることかもしれません。
僕の不完全な部分について。
これは……全部だな(笑) 残念なことに、ぼくという人間にはただの一つも完全なものがない気がします(笑)何かひとつくらい取り柄あってもよかったのに。そうだな、最も不完全な点とかは何だろうな? 負けず嫌いとか?(笑) ありすぎて、何が何やらわかりませんね。しかし、よくもまあ、ここまで不完全な人間が、今まで生き延びてこれたな、とわれながら驚きの念が隠せません。案外、人生何とかなるものですね。ふしぎです。
魔術や呪いを使いすぎるとどうなるかについて。
魔術の効用によるのではないかなと思います。基本的に、相手に波及した効果が自分に返ってくると考えておけばよいのではないかと。相手を害すれば、自分が害され、相手を勇気づければ、自分が勇気づけられる、みたいな感じだと思います。