みなさん、お久しぶりです。
今日も簡単に気になったことについて書きます。
ある方といろいろお話していて、「地方分権してそれでどうする?」みたいなことをもやもやと考えました。
ふーむ。
たしかに、言われてみれば、これはこれで、ひとつの大きな問題ですよね。地方分権して、それでどうするのか。
どんな理念があり得るのでしょうね。ここには。
まず、統制権の分散によって、指揮系統のリスクヘッジをする、ということは言えるんでしょうけど、そのほかにはどんなメリットがあるか。
難しいです。
まあ、多分、多様性は増すんじゃないでしょうかね。権力が分散されると。すると、社会に生きる人たちの、選択肢が増えるかもしれません。
選択の幅が広がりすぎるのも問題だ、という指摘もありますが。
現状をどう評価するかによって、色々な立場があるのでしょうね。
自治体の教育の幅が現状で、満足とみるか不満足とみるか、とか。
不満足なら、もっといろいろな教育が必要になるのでしょうし、満足なら、現状維持になるのでしょうか。
あるいは、満足している人と、不満足な人の意見のどちらを優先するべきか、という問題もありますよね。どちらも大事ですけど、どちらも両立させるのは難しいこともあるかもしれません。
やっぱり、これは、国主導でなんかやろうとするのよりも、各々が自分でフリースクールを作ってしまうほうが早いのだろうか(笑)
国主導で地方分権とかって、なんだか、うーん、と首をひねるところもありますし。できれば、地方主導で地方分権ができればいいのでしょうか。
どうしよう。僕もフリースクール創るか?(笑)
なんとも悩ましい問題です。
永遠に女性的なるもの、という概念について。
女性的なるものって一体何なのでしょうね。むずかしいですな(笑)
一体、何をもって、女性らしさとするのか。
昨今は、ジェンダーフリーなどもありますし、そう言ったことが、さらにこうした問題をむずかしくしているようにも思われます。
「おしとやか」とか「優しさ」とか「柔らかさ」とか、そういうイメージもあるかもしれません。しかし、そんなイメージなどことごとく粉砕してしまう女性もいるかもしれません。
あるいは、「女性的」と「女性」はちがうものなのかもしれません。すると、女性的ではない女性もいることになるのでしょうか。
そして、この概念にさらに、「永遠」というのがつくわけですよね。一体、これは何なんだ?(笑)
永遠に女性的なるもの。謎です。