何をどうするべきなのかはいつも見えなかったが、とりあえずチョコレートを食べていると安心した。
一体、チョコレートを食べているとどうして安心するのかについて、考えてみた。でも、答えは出そうもない。
とにかく、チョコレートを食べていると僕は安心するようだった。
僕は、笹森のおじさんのところに遊びに行くことにした。
笹森のおじさんは、琴を弾いていた。琴はとてもサイズが大きくて、初めて見たときはびっくりした。
笹森のおじさんは、琴を上手に弾いていた。
僕は黙ってその琴の音を聞いていた。
桜の花びらが散った気がしたけど、しかし、今は春ではないし、気のせいかもしれない。
僕にはたまに桜の花びらの幻覚が見えることがあった。それがなぜなのかはとんとわからなかった。
そのことを、何とか小説にできないものかといろいろと考えてみた時期もあったけど、それもむずかしかった。
どうやら、僕には小説を書く才能というものが点でないようだった。
それに対し、笹森のおじさんは、非常に上手に小説を書いた。一度、原稿を見せてもらって、とても面白かったのを覚えている。
僕は、自分が何か、虚構の中にいるのではないかと考えた。いつも、現実感はなかった。自分は、原稿用紙に書かれた物語なのではないか、とよく思っていた。子供のころなどは、自分の足場がバラバラになって崩れていくような気がして、そういう感覚が恐かった。
――僕は小説なのかもしれない。
そう考えると、おそろしかった。僕には、僕を描いた、「著者」がいるのだ。一体、その著者はどんな顔をして、どんなことを考えているのだろう? そう思うと、なぜか、ものすごい恐怖におそわれる。
――僕はフィクションなのだ。
笹森のおじさんは言った。
「そこで立ってないで、こっちに座りなさいな」
僕は笹森のおじさんが出してくれた座布団に座った。
「また、悩み事かい?」
とおじさんは言う。
僕は頷いた。
「何をやってもうまくいかなくて」
と僕は言った。
おじさんは笑った。
「そんな時もあるだろうね」
「何か、ひとつくらい才能が欲しかったです」
と僕は笑った。
「どんな才能が欲しいんだい?」
「小説書く才能とか。何でもいいんですけど」
「才能は、努力しているうちに、見つかるものかもしれないよ」
「でも、僕は逃げてばかりだから」
「じゃあ、逃げなければいいじゃないか」
「そう単純にもいかないんです。それができれば、苦労はしないんです」
「恐いのかい?」
僕はおじさんのその言葉に頷いた。「恐いです」
「不安はあるかい?」
「あります。いつも。それでいつも眠いんです。僕には現実なんてないんです。本当の自分もいないんです。本当に何もないんです。からっぽなんです」
「からっぽ?」
「うん。からっぽ。何にもないんです」
おじさんはあごひげをさすった。「しかし、からっぽなんてことがあるのかねえ? 人間ならば、だれだって、何かしら中身が詰まってそうなもんだけど」
「でも、いいんです。からっぽでも。僕はそれを受け入れたんです。もう何も信じないんです。そう決めたんです」
「人は何かしら信じて生きていることが多いと思うけどなあ」
「だとしても、僕は、なにを信じていいのかサッパリわからないんです。何も信じられないんです」
「何かを信じたら、不安が取れるかもしれんよ?」
「信じるって、すごく難しいです」
「もう少し、自分を信じてあげてもいいんじゃないかな?」
「自分って何なんですか? 僕にはそれがないんだと思うんです」
「かもしれない。もしかしたら。でも、存外、そうでもないかもしれないよ」
「どういうことですか?」
僕は座布団の上でもぞもぞと足を動かした。正座した足がしびれていた。僕は正座が苦手だ。そして、だまって座っている忍耐もない。
「自分っていうのは、存外どこにでもころがっているものかもしれないね。今日、帰るときにでもひょっこり見つかるかもしれないよ」
そう言って、おじさんは、緑茶を入れてくれた。
僕は緑茶を飲むと、おじさんの琴をしばらく聞いて、それから、帰宅した。
帰宅する途中、友達の徹に会った。
徹は、弓道館からの帰りのようだった。大きな弓と矢筒を持っていた。
「おお、悟(僕の名前)じゃん」
と徹は言った。
「久しぶり」
と僕は言った。
「どうした、浮かない顔して」
と徹は言った。
「別に」
「別にってこたあないだろう? 何があったか話してみな?」
「特に何もないよ。ただ、いつも通り、自分に嫌気がさしてただけ」
「そりゃ、いつも通りだな」
と言って、徹は笑った。
「悪かったな」
僕は顔が熱くなるのを感じた。徹に笑われると、無性に恥ずかしかった。それが何でなのかは分からなかった。
「そんなに自己嫌悪してて疲れないか?」
「プライド高いせいかもしれない」
「お前、プライド高いかな? どうなんだろう?」
「じゃあ、プライド低いのかな?」
「いや、低いってわけでもないと思うけど。まあ、普通じゃないかな? 俺たちくらいの年だったら、自己嫌悪くらいあるものなのかもしれないし。思春期だし」
僕は、妙に、「思春期」という言葉がおかしくて笑った。
――シシュンキ。
不思議な言葉だった。
「思春期ってどんな時期だと思う?」
と僕は聞いてみた。
「思春期は、性別に適応する時期とかかな? 分からんけど」
「自分の性別もわからなくなることあるんだ。何も信じられなくて」
「性別が?」
「そう、性別が」
徹は不思議そうな顔をして、空を見た。夕空が広がっていた。
「それじゃあ、もしかしたら、お前の性別が変わるんじゃないか?」
と徹は言った。
「性別が変わる?」
「いや、俺にもよくわからないけど。例えば、お前が男だとするだろ? すると、女になる。お前が女だとするだろ? すると、男になる」
徹の言っていることは、何となくわかるような気もしたし、分からないと言えば、無限に分からないような気もした。
「徹には、僕がどう見える?」
「とんとわからないな。その決断は、俺が下すべきじゃないよ。あんまり責任が重すぎる。その責任を負えるとすれば、お前自身くらいのものじゃないかな?」
「僕が、決断する?」
「そうだ」
と言って、徹は頷いた。
僕は自分が決断できるかどうかについて考えてみた。
仮に自分を男だとしてみた。どうもしっくりこなかった。
仮に自分を女だとして見た。やっぱりしっくりこなかった。
自分を中性だとして見た。どうしてもしっくりこなかった。
もしかしたら、僕には性別というものが、そもそもないのではないかという気さえして、なんだか、めまいがしてきた。
「大丈夫か?」
と言って、徹は心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫」
と僕は言って、徹に別れを告げると、ふたたび帰路についた。
性別。性別。性別。
ふと、もしも、自分の性別を自分で決定することができたなら、自分は変われるんじゃないかという気がした。
――でも性別を決めるってどういうことなのだろう?
性別は自然から与えられるものなのではないのだろうか? それを自分で決めることができるのだろうか?
とにかく、僕の場合は、性別というものが、ひとつのじゅうようなキーであるような気がした。そこには何かある。そう思った。
僕は、家につくと、庭で、祖父が教えてくれた剣舞をしてみた。
さらさらと剣は空気の中を流れていくようだった。とてもいい気分だった。まるで、自分が空気の粒子になってしまったみたいだった。
微分。
どうやら、剣舞をしている時の自分は、まったく微分されて、どこにも自分というものがないようだった。
それが心地よかった。それが、本来の自分であるような気がした。
――そうだ。
――僕はからっぽなのだ。
本来の僕とは、とどのつまり、虚空のことだった。からっぽ。空瓶。何も入っちゃいない。
それがいいことなのか、悪いことなのかすらわからない。
ただ、からっぽなのだ。
僕は剣舞を終えると、卵焼きを巻いた。卵焼きは思ったよりも上手に焼けたようで、とてもうれしかった。
――うれしい?
自分の感情が他人の感情のような気がした。どうして、僕はうれしいのだろう? なんで、卵焼きを焼いただけで、うれしいという感情が出てくるのだろう?
いい加減、考えることが面倒くさくなってきた。何でも考えればいいってものでもないだろう。そうも思ってみた。しかし、卵焼きを焼くという行為の中にある、なにかが、僕のことを強く引きつけていることもまた感じていた。
――僕は卵焼きをまくことが好きなのだろうか?
――違う……そうじゃない。
では、一体、どんな理由があるんだろう? 何がうれしいのだろう? 僕は何がうれしいのだろう?
――もしかしたら、僕は、自分が想定している以上の物事に強く引かれているのかもしれない。想定外の出来事。
玄関でチャイムが鳴って、僕はびくっとした。ビビった。いきなりチャイムが鳴るのは身体に悪い。
僕は玄関まで行くと、扉を開けた。
そこには徹が立っていた。
「元気してたか?」
と徹は言った。
「どうしたの?」
と僕は言った。
「いや、心配だったから来てみた。でも……大丈夫そうなら、帰るけど」
「せっかく来たなら、夕飯食べてったら?」
と僕は言った。
「じゃあ、そうする」
と言って、徹はにこりと笑った。
僕はまたしても、顔が熱くなるのを感じた。
――もしかして、自分は徹のことが好きなのだろうか?
と、そう思ったくらいだった。しかし、僕には、自分が一体何を感じているのかがよくわからなかった。便宜上、「自分」とは言っているものの、本当にそこに、自分の思いというものが根付いているのかどうか、まるっきり自信が持てなかった。
徹はすごく女の子にモテる。
僕の目から見ても、徹は魅力的なのだと思うので(おそらく)、そのようなことが起こることに違和感はなかった。
しかし、徹は、なぜか、どの女の子ともつきあおうとしなかった。一度はつきあったのだが、それ以降、何度告白されても、断り続けていた。
僕には、自分のことさえ満足に分からないのに、徹のことがわかるわけもなかった。
――徹には徹の事情があるのだろう。
と、そう思う事しかできなかった。それに、なぜか、恐くて、徹本人に尋ねることができなかった。
――恐い?
――恐いって? 何が?
自問自答する。それでも答えは出なかった。
「お前。無駄に料理うまいよな」
と徹は言って、笑った。
「そりゃ、どうも」
と言って、僕は笑った。
それから、徹はしばらく黙っていた。
徹が黙っているのは珍しかった。いつもは、ぺちゃくちゃしゃべっている。
僕は、思わず、徹の顔をじっと見てしまった。
端正な顔立ちだった。いつもどおり。顔が熱くなった。思えば、これもいつもどおり。
「大丈夫だよ!」
と徹は言った。非常に勢いのあるアクセントというか、発音だった。
ダイジョウブダヨ!!!!
徹は続けて言う。僕はその間、ぽかんとしている。
「性別がどうとか、俺にはよくわかんねーけど、まあいんじゃね? 別にいいと思うよ。俺は。何も信じられないなら、それでもいいじゃんか。とりあえず元気にしてろよ。それが一番なんじゃねーかな。わかんねーけど。」
結局のところ、徹も、「わかんねー」らしい。いろいろなことが。なんだかそれがおかしくて、僕は笑った。
「確かに、僕にも何も『わかんねー』」(笑)
と僕は言った。
でも、もしかしたら、徹には僕には到底分かりえないものがわかっているのかもしれないとも思った。それはきっと何か、秘密めいているもので、僕にどうこうできる類のものでもないのだろうとも思った。
無性に徹の秘密が知りたい気もしたが、それが何でなのかはわからなかった。僕には、何もわかんねー。
それもそんなには悪くないのかもしれないと、そうも思った。納得はできないけれど、どこかで折り合いを付けなければ、僕は死んでしまうのかもしれない。折り合いをつけることができるかどうかは、分からないけれど。
P.S.今日は長いですね(笑) 直観術は、「比喩」ですので、比喩としてお楽しみくださいませ。とは言え、もちろん、お好きに鑑賞なさって結構ですので、ご自由にどうぞ。