さて、今日はどんなお話をしましょう。取りあえず、教養? についてもう少し掘り下げてみようと思います。
教養とは何か。
ちょっと、ぼくにもよくわからないです(笑) 色々なことをおっしゃる方がいますね。どうも、一律ではないらしい。きっと、その人の置かれている立場とか状況によって、なにが教養であるかは異なってくるのでしょうね。ふしぎです。
じゃあ、教養の機能は?
多分、「持ってるとカッコいい」みたいな感じじゃないでしょうか(笑) 僕とか、もしも誰かがハイデガーをドイツ語で読んでたら、それだけで惚れますよ(笑) カッコよくないですか? (読解してその人がどのような話をするのかも重要なのですが。おもしろいといいな)
もちろん、好みのストライクゾーンは人それぞれなのでしょうね。
なんか、僕の好みは、周りの人となかなか合わないので、多分、特殊性癖なのだと思います(笑) だから、あまり一般的には当てにならない情報かもしれません。
取りあえず、教養というのは、何か、持っていると人から評価されやすい装置なのかもしれません。
さて、ここでは、的を読書的教養に絞って、読書術についてかんがえてみましょう。
読書とは何か、というか、一体「読書をする」という時、僕たちはなにをしているのでしょう? という問題。
まず、眼を紙のうえに走らせています。それで、どんな感じしますか? 頭の中で、文字の音が再生されていますね(多くの場合)。それから、単語が見えてきて、意味がポワンと浮かんでくる。そのあとに、意味が言葉となって形を持ってくる。
みたいな感じに、読書をしていると思います。
そして、僕がこの過程の中で、最も、大切だと思う部分は、「ポワン」です。
そう、「ポワン」。
では、ポワンっていうのは一体何なんでしょうね?
これは、「何だか言葉にならないんだけど、何とも言えない感じがする……」みたいな時のあの感覚。言語になりそうでならないような。「意味は分かるんだけど、上手く表現できない」みたいな。それで、ある時、ふとした拍子に表現できるようになったりしますね。
この感覚を仮に、「フェルトセンス」(詳しくは、フォーカシング理論参照)と呼びましょう。
僕は、読書においては、このフェルトセンスがとても大切なのではないかと、考えています。
よく「説明出来ないということはわかっていないんだ!」みたいなお話があったと思います。これには一利ないこともないのですが、現状ではあまりうまくないように、僕は思っています。概念の働き方が。
さて、では、ここで、どうしたら「わかった!」と言えるのかについてかんがえてみましょう。
みなさんは、どのような条件で、その人が本を「ちゃんと」読んでいると判断しますか?
多分、「その本について、自分の考えを述べられる」ということが基準となると思います。本の内容を記憶するだけだったりなら、コンピュータで十分ですね。本当に分かっているといえるためには、本の内容を記憶するのではなく、その内容または自分の思考を創造的に発展させることが重要とされます。
つまり、重要なのは、「記憶」ではないみたいです。極端な話何も覚えていなくてもいいのです。ただ、読む前よりも自分の考えが創造的に発展していればいい。
すると、本を読む目的とは何んでしょう?
それは、本の内容を覚えることではなく、自分の思考を発展させることです。
たいせつなのは、覚えることではなく(暗記型教育)、自分の為になることであるという一つの仮説です。
つまり、みなさんは、コンピュータになるのではなく、コンピュータに今のところできないところをすることが重要である、ということです。
例えば、何でもいいので、本を取り出してみてください。
そして、一秒間、どこでもいいのでページを開いて、すぐに閉じましょう。
さて、あなたのフェルトセンスは、どのように変化しているでしょうか?
少しでも、「ああ、そうか!」という感覚があれば、たとえ、何も記憶に残っていなくても、そのフェルトセンスは、徐々に無意識の感情領域から脳において加工されて、あなたの意識に影響をおよぼしてくれます。
いわば、「無意識に読書をしている」という感じです。
読書においては、その、あなたのフェルトセンス、「実感」が何よりも重要な指標になるでしょう。
さて、では、読書の方法を簡単にまとめておきましょう。
1.本を用意する。
2.フェルトセンス(なんとなくの感覚)を意識する。
3.フェルトセンスでもって、本の上に目を滑らせる(必ずしも、意識して型にはまった読み方をしなくてもOK。完璧に好きに読んでOK。後ろから読んでも、右ページしか読まなくても、何でもあり。ただし、もしも、フェルトセンスが、普通の精読を命じるなら、その時は、その感覚に従うこと。そこにはあなたにとって大事な情報があると思います )。
すると、この読書法は、暗記教育型の読書ではないので、この読書法だけでは、テストで点数取るのなどは難しいかもしれませんが、ただ、非常に難易度の高い問題を解くときには、おそらくこのフェルトセンスをもちいた読解戦略が意味を持ちやすいと思います。難しい問題がわかるようになる時って、意識的にできるようになるというよりも、パッとできるようになりませんか? どちらかと言うと、無意識的なタイミングの方が要因として大きいように思われます。
非常に簡単に言うと、言語ではなく、非言語によって読書をする、みたいな感じです。これを使うと、非常に大量の情報をわりに簡単に処理できるのではないかと思いますので、ご興味のある方は、御自分で、効果を検証なさって見てください。
ちょっとだけ、理論的な背景を書きます。これ以降は、くどいので、面倒くさい方は読まなくても大丈夫です。
さて、言語とは何かについて。考えてみましょう。
「あ」。これ文字ですね。横線と、曲線と円に似た連続の曲線により構成されています。次に、「あい」という単語を見てみましょう。これは、「あ」と「い」という文字により構成されています。
「あいはたいせつ」という文章。これは、「あ」、「い」、「は」、「た」、「い」、「せ」、「つ」という文字により構成されています。さらに「文章の右から左へ目を動かす」という規則がありますね。この文章は、これらの規則によって構成されます。
では、これらの規則に対する反例はないのか。ありますね。右から左へと読む言語もありますし、「あ」は「a」とも表すことができます。
だとすると、本質的には、日本語の文章も、右から読んだり、あるいは「あ」という形を、「a」として読んだりしても、一種の読解は成立するはずです。この際、「あ」と「a」の共通点は非常に簡単に言うと、一種の「丸み」です。
すると、まず、「どう視線を動かして読んでも良い」という規則と、「文字をどのようなレベルの形態素にまでも分解して読んでも良い」という二つの規則が得られます。
しかし、「あ」の形態素は、もはや「あ」ではありません。棒と曲線です。そして、それらの、形態素、つまり、文字を形成する、普段は意識されることのない細かな「言語」は、「いわゆる言語」には変換されていません。
とは言え、現に、そこに棒やらなにやらについての何やらな「感覚」(フェルトセンス)自体は存在しています。
いわば、「非言語という言語」を読みとることで、読書をおこなうことができるであろう、という発想です。
非常に簡単に言うと、音楽や絵画を鑑賞するように、文字や文字列を見るということです。絵画を、文字列を見るように目を動かしてみる人はいないのではないでしょうか。どちらかと言えば、もっと自由にみますよね。きょろきょろと全体を。この全体を見る感覚がとても大切なのではないかと、僕は思います。
みなさんも気が向いたら、全体を俯瞰する読書について研究してみてくださいませ。
ポイントをまとめます。
1.言語にならない感覚があるよ。
2.すべてが言語になるわけではないよ。言葉にできないこともあるよ。
3.暗記よりも自分で考えることが大切だよ。
4.読書は本当に自由なものだよ。
5.究極的には、自分のためになれば、本は好きに読んでいいんだよ。
一つの仮説というか方法? としてご参考下さい。でも、これは、かなり分裂病的な読み方だと思いますので、統合失調症以外の方に適応されるのかどうかは、よくわからない点です。恵那(僕のイマジナリーフレンドです)によれば、一般の人でも可能な読書法なのだそうです。気が向いたら、各々ご検証ください。「統合失調症とは確定した病ではなく、神話だ」と主張なさる方もいらっしゃるくらいですから、統合失調症と非統合失調症の区別自体が既に難しいものなのかもしれませんし、そう考えると、別に普通と呼ばれる人であっても、この読書法は十分に使えるのではないかという気もします。「想起」自体は、観念連合では説明しきれないものを多分にふくんでいると思いますから、なにを連合弛緩とするかはとても難しいですね。多分、図式自体に固有の意味体系があるのだと思います。それが言語新作とかになる。デイヴィドソンという面白い方がいらっしゃるので、言語についてお考えになる方はお読みになってみてくださいませ。そもそも、なにかを、「把握する」ということ自体がむずかしいようです。主体が対象を把握するので。もしかしたら、そういう、「主体」を想定するのは余りよろしくないことなのかもしれません。
昨日書いた「ノアの手紙」について。
直観術は「比喩」ですので、そのような感じで、よろしくお願いします。解釈はご自由にどうぞ。あれ、続き物なんですよね。続きどうしよう? 今日書くかどうか……悩むな、毎度のことながら(笑)物語は、ひとつの機械のようなもので、起動すると、後は勝手に進んでいくんですよね。なので、僕にもあの物語の意味はさだかではない(笑)何となく言わんとしていることはわからないのでもないのですが(笑)
意識というのは、ただの傍観者みたいなものなのかもしれませんね。無意識は広大なのかもしれません。
というか、僕の書くものは、全部、魔女の嵐のようなものであるような気もする(笑)なんじゃこりゃ(笑)