魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

傲慢について

 こんばんは。

 

 さてはて。

 

 今日は何を書きましょう。

 

 書くこと書きながら考えてるので、どういうふうになるかはわかりませんが、取りあえず今日もファイト一発でなんか書いてみましょう。

 

 人間の行動の仕方って、概ね二つに分けて考えることができるやもしれません。

 

 一、私は善い。ゆえにあなたは悪い。

 ニ、あなたは悪い。ゆえに私は善い。

 

 みなさんは、どちら派でしょうか?

 

 僕はおそらく、二なのですが、一を目指しています。

 

 それにしても、一はなにやら、傲慢に見えますよね(笑)

 

 実際、傲慢なのかもしれません。

 

 でも、僕は次のような理由から、一の方にあこがれを持ちます。

 

 というのも、一の方が、能動的じゃないですか。

 

 二の方は、自分の判断の基準が他者にあるんですよね。「あなたが悪いから、私が善い」っていうのはそういうことですよね。これは、他律ですよ。多分。

 

 それで、僕は能動的なのが好きなので、一の方が好きなわけです。「私が善いから、あなたは悪い」っていうのは判断の基準が自分にあるのではないかなあ、と思うのです。つまり、自律しているのではないかと。

 

 では、他律だと何が起こってくるのかを少し見てみましょう。

 

 まず、この場合、自己を肯定するためには、かならず、相手を否定する必要があるわけです。相手が悪い、というのがないと、自分が善いってならないのが、二の場合なので。

 

 ですので、このタイプの人は、基本的に、「敵」を必要とします。つまり、自分を肯定するために、「根拠」が必要になるわけですね。なんらかの他者が必要になります。

 

 そういう事ですので、なんらかの他者を見つけては、その人を攻撃することで、自尊心を保ちます。あるいは、自分の自尊心が傷つけられた場合、その対象を敵として認定することで、自尊心を保ちます。

 

 一方で、一の場合、つまり、自律的な自信、根拠のない自信を持っている場合は、これとは事情が異なってきます。

 なぜなら、根拠なく自信を持つことができるので、誰も否定する必要がないのです。

 ですので、この場合の人の、自尊心は、自律的で、自分である程度コントロールできるであろうと推定されます。

 

 つまり、一見、一の方が傲慢に見えるのですが、いわゆる傲慢というのは二の方をさすのかもしれません。

 

 なぜなら、傲慢というのは、概ね、現代においては、自己愛性パーソナリティ障害のような意味でつかわれるのだと思いますので、それにのっとって考えますと、これには、「傷つきやすい自己愛」という特質があると思うのですが、傷つきやすい自己愛を抱いているのは、むしろ、二の方ですね。つまり、他律です。一の方は、なんら根拠のない自信なので、逆に言えば、いかなる根拠によっても傷付けられることがないからです。したがって、この意味で言えば、傲慢なのは、自己を肯定するために他者への否定に駆り立てられる二の方であろう、と言うことはできます。

 

 このように、「傲慢」という概念も一筋縄ではいかなくて、何が傲慢かはその時によって、異なってくるものと思います。また、人によっても違うでしょう。

 

 一が傲慢だと思う人もいれば、二が傲慢だと思う人もいるのだと思います。

 

 そして、たぶん、それらの判断には、厳密には優劣はない。

 

 いうなれば、何が傲慢であるかを判定することが傲慢なのかもしれません。

 

 そして、この判断もおそらく、理屈によってくつがえすことは可能でしょう。

 

 例えば、「そんな事を言っても、実践的には何かを決めなければならない」と言われれば、そのとおりです、としか僕には答えることができないのです。

 

 この傲慢についての判定を僕は相対化しているのですから、それならば自分の判断もまた、相対化されなければなりません。

 

 つまり、一の意見も二の意見も絶対ではないように、僕の意見も絶対ではない。

 

 すべては、相対的であるからです。

 

 そのうえで、僕たちは生きるために判断し、尚且つ、多様性をある程度守りつつ、実践的に生きていかねばなりません。

 

 そのように考えると、どうも誰のことも否定できなくなってしまうのです。困ったことに。

 

 すべての物事に有効性があり、僕の目には「優劣」が見えないのです。

 

 そんなこんなで、僕はいろんなことを判断するのがとても難しいという思いにとらわれております(笑)

 

 というか、一の人も二の人も、それなりに仲良くできればそれが一番いいな、と個人的には思っています。少なくとも、仲良くは出来なくても、血で血を洗うことにならなければいいのではないかと(笑)

 

 傲慢概念ひとつとっても非常に難しいですから、これからも色々と試行錯誤していく必要があるな、と思っています。

 

 今日お話したことにご興味のおありの方は、ドゥルーズの『ニーチェと哲学』という本が、色々と考える際に、助けになるかもしれません。

 

 ご興味のおありの方は、この機会に読んでみてくださいませ。

 

 もともと人間には楽観的な認知のバイアスがあるようで、こういう性質は、うまくいけば、一に近いかもしれませんね。

 

 僕も極力楽観的であれるように精進したいです。おそらく、この世界を生きていくために、必要なものなのでしょうね。バイアスというと悪いイメージが専らなので、不思議な感じがします。

 

 多分、一の方は結構難しいのかな、と思います。むしろ、現状を見ると、人間にとっては、二の方が根本的であるくらいかもしれません(笑)

 

 だから、僕の目指している一は、机上の空論に過ぎないのかもしれませんが、それでも、自律した存在を目指していくのは無意味ではないと、とりあえず信じています(超不安ですけど(笑))。

 

 みなさんも気が向いたら、一を目指してみてくださいね。二でもいいですけど(笑)。魔術師(見習い)としては、自分から始めるものとしての、自律、つまり、「自由」ですね。これに夢を託したいな、と思っています。

 

 ではでは~☆