魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

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「統合失調症」について

 みなさん、新年あけましておめでとうございます。

 

 さて、今日は、統合失調症について考えてみたいと思います。

 

 統合失調症とは何か?

 

 統合失調症とは、「思考、行動、感情を一つの目的に沿ってまとめていく能力(統合能力)が低下する症状」のことです。

 

 さて、では、ひとつずつ、考えていってみましょう。

 

 まず、思考とは何か。

 

 これは、「筋道を立てること」です。

 

 では、筋道とは?

 

 これは、「正しい順序」です。

 

 つまり、筋道を立てるとは、正しい順序を立てることです。

 

 では、何が正しい順序なのか。

 今のところ、いったい何が正解なのかは、何事にしても不明です。

 かといって、自分の所属する文化を「正しい」として、正義を振りかざすだけでも、うまくいかないだろうと思います。なぜなら、他者には他者の価値観があるからです。自分にも自分の価値観があるように。自分の価値観を否定されたら、誰だってむっとしてしまうかもしれません。そうしたら、思わずヒステリックになってしまったり、いっぱいいっぱいになって、混乱した状況に突入することもあるかもしれません。

 ならば、今のところは、多様な価値観を受け入れ、ある意味、「正しさは人の数だけある」と考えるのが、人々が共生していく上では、ある程度は合理的です。

 

 よって、筋道は人の数だけある。したがって、「正しい思考は人の数だけある」、と考えるのが妥当でしょう。少なくとも、自分の正義を他者に押し付けても、経験的には何も解決しないように思われます(むしろ、他者の持つ正義を積極的に肯定してあげると、態度が軟化することが多い。否定するとかえってヒステリックになったりもするかも)。その人の置かれた状況によって、その人の適応様式が多様に異なること自体は、当たり前の事かもしれません。その中に一種のヒステリーが含まれていたとしても、それはある意味しょうがないことであり、一概に否定できませんね。むしろその人はヒステリーによって自分を守っているのだと考えれば、それを頭ごなしに否定するのは「共生」の観点からするとあまり合理的ではないかもしれない。むしろ、積極的にヒステリーを肯定し、包摂することで、その人の心を解きほぐすことを目指し、ヒステリーという「防衛」を使わなくても済むような環境を構築するために、そのヒステリー衝動を役立てるのが先決かもしれません。つまり、短所に見えたヒステリーですが、その中には、強い訴えが潜んでおり、その訴求性はかなり強力なものです。その意味では、境界性人格障害などは、社会において既得権益に都合よく設定されたあらゆる「基準」、つまりあらゆる「境界」を侵犯する「尖兵」として行動しているのであり、その意味では、「病者」である彼らは、社会の利益を再分配する役目を果たしている、とも言うことはできます。特定の誰かに都合よく設定された「基準」を大なり小なり侵犯することで、その基準からすると都合の悪い立場にいる人たちに利益を再分配しているわけですね。少なくとも言えるのは、人格障害は単なる「障害」ではなく、社会の自浄作用のひとつとして存在している、ということは言えるのではないでしょうか。基本的に世の中になんの役割もないものは存在しませんね。あらゆる人はその必要があるから存在している面があると思います。その意味では、人格障害者にせよ、なんらかの病者にせよ、根本的に生きる価値のない人というのは、存在しないと言えるでしょう。すべての人に生きる価値があると考えるのが、ある程度妥当かと思います。人格障害は、ある観点から見れば、悪に見えますが、別の観点から見ると、一種の「英雄」である面もあります。構造的には、人格障害者などは、大なり小なり恵まれない人たちのために戦っている面がある、という感じでしょうかね。ご参考下さい。

 

 つまり、正しい順序、正しい筋道、正しい思考は、人それぞれです。強いて言えば、その人の所属する文化に適合するか否かが、成否の判断の基準ということになるかもしれません。無論、その文化が絶対のものであるなどと言うことはありませんが。状況は刻一刻と変化するものですので。その意味でも、特定の価値観に固執せず、ある程度柔軟性をもち、多様な価値観を認めるのは有効。

 

 では、「行動」とは何でしょうか?

 

 行動とは、「目的を持ち、それに向けて何かをすること」です。

 

 つまり、行動が成立する要件は主に二つ。

 

 1.目的を持つ。

 2.その上で何かをする。

 

 人の目的は様々ですし、目的達成の手法も人によってさまざまに考えられます。

 少なくとも、今のところ、ひとつの正解、というものはないでしょう。

 

 ならば、ここでも多様な目的や、多様な目的達成の手法を一応認めておくのが有効です。つまり、多様な行動を認めるのが有効。

 

 最低限の決まりは僕たちが共同生活していくうえで守らなければなりませんが、それをできる限り、最低限に抑えることが有効です。つまり、実質的な害が生じないうちは、できる限り、どんな人に対しても、どんな目的に対しても、どんな手法に対しても、どんな行動に対しても、自由を認めておくのが有効です(多様性を確保しておくのにはリスクヘッジの意味もあります。セキュリティ性の問題ですね。つまり、投資を分散し、ポートフォリオを組むことで、人類全体の生存確率の向上を図ります。そのために、多様性の尊重が有効となります。当ブログの『政治術』など参照。)。

 

 では、自由をどこまで認めるか。これは人を人として扱うかぎりにおいては認められるべきかもしれません。つまり、他害しない限りは。

 

 人を奴隷として扱う行動には、つぎの三つの特徴があります。

 

 1.自由を剥奪する。

 2.搾取をする。

 3.従わせるために暴力を行使する。

 

 したがって、できる限りは、人を人として扱うことを目指し、これら三つの行動を避けることが、他害を避けるうえで有効です。

 

 つまり、無闇に他人を閉じ込めたり(自由の剥奪とか)、その人の自由や時間を不当に損害したり(搾取)、自分に理解できない他者であるからと言ってその価値観を排除したり暴力で押さえつけたり(自分とは考えの異なる人の意見を頭ごなしに否定したり、本人の同意なく、その人の認知資源などを奪うような薬を無理矢理に暴力的に投与したり)、これらのことは、たとえ、多少の不便があろうとも、できる限り、禁止されるべきであろうと考えます。つまり、人間は人間として扱われるべきです(道徳療法など参照)。そして、これは、いかなる人間においても、基本的にはそうであろうと言えるかと思います。

 

 他者を奴隷化しないこと。自分の理解を超えたものとしての他者を尊重するのが、ある程度合理的でしょう。いかなる人も、奴隷ではない。

 

 さて、では、「感情」とは何か?

 

 これは、「心に抱くもの」のことです。その意味では、思考や考えも感情の一種かも知れません。

 

 では、心とは?

 

 これは、表立って見えないもののことです。

 

 つまり、表立って見えないものの中にあるもののことを、感情と言います。こういった概念は、「内面」と呼ばれたりもしますね。逆に、感情が、表現になると、それは「外面」と呼ばれたりもします。

 

 感情はとりあえずは計測不能です。人の心を数量化してとらえるべきかどうかは、とても難しい問題でもあり、これは、統合失調症だけの問題ではなくなってしまいますね。また、自分は悲しいと主張している人に対し、その感情や心を否定するのも、何かおかしい気もします。おそらく、これは、その人の価値観を否定しているので、多様性の尊重にある程度は反するのでしょう。

 

 したがって、僕たちは、計測不能な心を持った存在としての「他者」を尊重するべきでしょう。

 

 他者とは自分を越えたものであり、こちらの持つ尺度だけで測り切れる存在ではありません。だからこそ、常に、自分を越えたものを想定し、少しでもみんなの生活をよくするために少しずつできることをしていくのが合理的であると言えるかもしれません(つまり、今の自分の生活を越える生活、社会を越える社会、ある面において自分を越える他者、理解不能な他者が存在するであろうと思う事が大切かもしれない)。一つの意見としてご参考下さい。

 

 さて、以上の帰結を簡単にまとめてみましょう。

 

1.正義は多様である。

2.世界に存在する人や機能は多様であり、原則として何の機能もない者は存在しない。

3.人によって目的は多様であり、その達成手法も多様である。

4.人によって統合の仕方は多様であり、その統合手法も多様である。

5.人によって統合は多様であり、何が「統合失調」であるかは多様である。

6.統合失調症の定義は、原理的に多様なものとなる。

7.深刻な他害をしない限り、自由をできるだけ認めるのは人権的に合理的である。

8.治療としては、病者を抑えつけるのではなく、「活かす」のが合理的である。

9.定義上、何が統合失調症であるかは決定不能である。

10.ならば、ある意味では、「すべての人間が統合失調症」であるとも言えてしまう。

 

 つまり、原理的には「なんでも統合失調症と呼ぶことができる」ということになるかと思います。

 

 したがって、そもそも統合失調症とは何であるのかが今一つよくわからないのです。

 

 このような状態でいくら統計をとっても、そのデータはなかなか正確な利用がしづらいのではないかと思います。そもそも、統合失調症とはなんであるかが判然としないので。

 

 例えば、戦略としては、体制にとって都合の悪いものに統合失調症のラベリングをして、それに認知能力を下げる薬を投与し、差別しておけば、既得権益には有利になりますね。

 

 現行の統合失調症の判断基準では、こうしたことが可能になってしまうのではないかと思います。

 

 例えば、イスラム国は統合失調症であるとか、オウム真理教統合失調症であるとか。

 

 もっと言えば、キリストは統合失調症であるとか、ブッタは統合失調症であるとか。

 

 そもそも宗教は統合失調症であるとか。

 

 そういう話しになってしまう可能性もあるということです。

 

 もう一例あげれば、知能の低い問題行動をした人を連れてきて、その人に統合失調症ラベルを貼り、統計を取れば、「統合失調症は知能が低い」という差別を容易に作り出すことができますね。これにより、既得権益を富ませることもできます。

 

 つまり、僕たちは、まず、何が統合失調症であるのかを明らかにすることが先決であろうと思います。

 

 僕たちの世界はわからないことだらけですね。

 

 その中でもできる限り、確かと思えることを積み上げ、少しずつみんなで社会を良くして行けるといいですね。

 



*以下、面倒臭い文章となりますので、面倒くさい方は読み飛ばしていただいてOKです。





 P.S.さて、では、現状で僕に考えられることを大まかに書いてしまいましょう。みなさんも何か統合失調症についての意見があれば、どしどしネットにアップしてみてくださいませ。参考にさせていただきます。

 

 まず、統合失調症において、なぜ、脳の萎縮現象が観察されるのかについて。

 

 これについては前にも書いたのですが、まず、萎縮が必ずしも悪いとは限らない、ということ指摘しておきます。脳の機能はなかなかわからない点もまだ多いかと思いますが、脳の体積が多い人が優れているというわけでも必ずしもないかと思います。もしかしたら、通常の脳サイズよりも小さい人でも、立派な業績を残している人はいるかもしれません。そういう人は、「脳が小さいからこそ業績を残せた」可能性もあるでしょう。検証の必要のあるところかと思います。

 

 さて、それを踏まえたうえで。

 

 これには二つの原因を想定できるかと思います。

 

 1.薬による萎縮。

 2.統合失調症による萎縮。

 

 まず、統合失調症による萎縮は、簡単で、統合失調症が何であるにせよ、薬以外の要因によって脳が萎縮していると考える思想です。

 

 例えば、ドーパミンが出過ぎて、脳が損傷した、とか。そういう仮説。

 

 しかし、これはこうも考えられてしまいます。

 

 薬によりドーパミンを抑制したために、脳が損傷した。統合失調症の定義が定まらない以上、十分に考えられることです。

 ドーパミンは意欲をつかさどるホルモンかと思います。しかし、これがおさえられると意欲が出なくなります。すると、脳への刺激が減ります。すると、頭が回らなくなります。すると、知能が低下します。すると、能力や社会適応が低下します。すると、ますます、脳への刺激が減ります。すると、ますますドーパミンが出る機会が失われていき、結局は陰性症状に突入する、というふうにも言えてしまいます。

 

 つまり、統合失調症の知能低下は,薬によっているとも言うことはできてしまいます。

 

 統合失調症については、本当に何もわからないのが現状なのではないかと、個人的には思っています。

 

 また、性ホルモンとドーパミンのあいだにも関係があるかと思います。すると、ドーパミン(性欲にもかかわるホルモンかと思いますので)を抑えることで、愛情などの人間としての根本的な感情が欠落する(プレコックス感)上に、性欲に作用した結果として性腺の活発化を抑制するとすれば、性的魅力が薬によって減退する可能性がある、とも言えてしまうかと思います(統合失調症の定義自体が定まらないので、なんとでも言えてしまうのです(笑))。つまり、統合失調症者に薬を投与することは、明らかにリプロダクティブヘルスライツに反している……とかね。言いたい放題できます(笑)

 

 例えば、この仮説が正しければ、ドーパミン量の多い人は、異性を獲得する能力が強いであろうと考えることもできます。とか。

 

 何にしても、統合失調症とは何なのかがわからない。そのため、統合失調症反対派も、賛成派も、なんとでも言えてしまうのです。

 

 また、知能だけではなく、天才性、つまり創造性も減退するとも言うことはできます。

 

 例えば、ドーパミンは意欲と攻撃性を司るホルモンでもあるかと思います。芸術には暴力的な一面もありますね。

 

 しかし、意欲や攻撃性、さらに知能まで、薬によって奪い取られてしまえば、それはどうなるでしょうか?

 

 その人の人生は、パッとしないものになってしまうかもしれません。これは、一種の「ロボトミー」であり、明らかな人権侵害である……とかね。

 

 なんとでも言えるわけです。

 

 いずれにせよ、薬にはかなり副作用があるのではないかとは、個人的に考えています。

 

 そもそも、統合失調症とは何であるかもわからない状態で、適切な処方など行うことは不可能なのではないか、とかね。

 

 ある意味、芸術の任務とは、精神病領域における成功であるとも言えるかもしれません。



 防衛機制の昇華、自己治癒をめざした行動。

  

 「奇行」とは、防衛機制であるということ。防衛機制は、なんらかの攻撃に対する防衛であり、ヒステリーの一種であるということ。そして、ヒステリーにも機能があるということ。ならば、統合失調症にも機能はあるということ。そして、統合失調症とは、防衛機制である限りで、その人の適応形態であるということ。その適応手法や適応目的を無理矢理に奪ってしまえば、治るものも治らない、ということ。境界例および統合失調症の果たす役割とは、「脱特権化」であり、あらゆる既得権益への反抗であること。また、価値を特権化しないことは、多様性の観点から合理的であること。つまり、統合失調症の病理は、「合理的」である、と言えてしまうこと(合理的とか無分別とかの問題ではなく、結局は感情というか「情念」の問題であること。)。統合失調症の抑圧とは、特権化であり、ファシズム性であること(当ブログの『政治術』参照。統合失調症の抑圧には社会保全の「速効性」はあると考えられる。しかし、長期的には破綻リスクが高い。中庸や中間は重要な面もある(理念)が、政治(実践)的中立自体は不可能である)。つまり、統合失調症および人格障害とは、きわめて強い「政治的機能を持つ存在」であると言い得ること。精神医学は、現状の治療の場合(薬物投与)には、速効性はあるが、世界全体のセキュリティ面からすると、危険性があると考えられること。



 そして、端に合理的であるだけでは、このようにいくらでも言いたい放題できてしまうこと。つまり、もはや多数のもの(他者)を一つのもの(自分)に収斂させる機能を持つ「解釈」の問題ではないこと(特権化されたものとしての精神分析の問題ではないということ)。むしろ、多数であること。他者を尊重すること。それらは、「情念」の問題であること。自分ではなく「他者」へ。つまり、共同体の外に出ること。専門家(特権性)としてでなく。





 今回の結論



 現状では、統合失調症とは何であるかすら判然としない。言うなれば、すべての人が統合失調症であり、すべての人が統合失調症ではない。定義は自分の思い通りに操作可能である。不完全な概念のもとで得られる統計や治療は、不完全なものとなる。その意味で言うなら、あなたがいつ「統合失調症」と命名され、隔離され、薬を投与されてもおかしくはない。



P.S.2 

 何やら今日はものすごく混沌とした記事になってしまいました(笑)。一応一晩寝かせてみたのですが、どうしても話が回りくどいですね(笑) 精進が必要な所です。多分、わかりづらいところとか、たくさんあると思います。すんません。

 そもそもからして、精神医学は、眼に見えない人の「心」を扱う部分もあると思いますので、端から難しい学問ですよね。僕にも正直、よくわからんです。いくら本を読んでも、いくら考えても。

 まず、心やクオリアのすべてを脳に還元できる、っていう根拠からしてないですよね。もうそこからして大変。

 人の心は複雑怪奇にも見えることもありますので、大変です。

 だからこそ、一概には言えないし、よくよく考えてみなければならない点もたくさんあるのでしょうね。

 本当は、今回の記事にも書き足りない部分がたくさんあるのですが、あんまり書くと、記事がわかりづらくなってしまうと思いますから、このへんにしておこうかな、と思います(笑)

 実は、これ、「主体性」のお話でもあるんですよ? これね。むずかしい所なんですけどね。僕は、このブログでは、主体性をもった方がいいって最初の方で、言ってましたでしょ? でも、これ苦肉の策、という面があります。端的に奴隷になるよりは主体性をもった方がいいのは確かだと思うのですが、本当は主体性というのは誰かに「操縦」されてしまう危険性があるので、そういうものはもたない方がいい面もあるのです。「自我を解消する」というか。仏教ですよね。こういうのって。例えば、主体性っていう概念があったら、「主体性のある人の特徴」とかって列記すると、みんなその特徴に操縦されてしまいますよね。主体性のある人になりたくて。こういう事にも注意しておくのもひとつの見識かもしれませんね。僕が、専門家と魔術師を区別するのも、この主体性の問題なんです。主体って、「主なもの」のことですから、これは「特権化」ですよね。だから、大なり小なりファシズム性なのでは、みたいな。専門家というのも、ある特定の分野への「主体化」「特権化」ですよね。これはよくないのではないかと。なので、魔術師という言葉を専門家に対抗するというか、対置する形で使っております(何事につけ、特権化したくないんですよね。何かを特権化してしまうと、そこからあぶれた人たちは排除の対象になってしまいますから)。だから、寛容であるためには、特権化しないこと。ある意味、「専門家ではない分析家」であること。つまり、一種の魔術師であること。これが人によっては大切なのかもしれません(もちろん、深刻な他害さえなければ、多少排除的な面はあってもいいのではないでしょうか。それは実は排除ではなく、その人なりの包摂の仕方なのかもしれませんし)。

 今回は、「ある意味みんな統合失調症」という驚くべき結論ですが、あんまり鵜呑みにはせずに、御自分で「統合失調症とは何か」についてよくよく考えてみてくださいませ。謎について考えるのはおもしろいですよ。その中で、少しでも、僕の文章が役に立つことがあったなら、それは幸いです。今に満足している人にとっては、より良いものを目指すためのものに、そして、今に不満のある人にとっては、今と違う生き様へと飛躍するための、なんらかの助けになれるといいのですが。この世界には知らないこといっぱいですね。まったく飽きないですよ。

 

 みなさん、よいお正月を~♪

 

P.S.3

8000字越えてしまいました(笑)ごめんなさい(笑)

書き足りない部分はひとまずがまんして、そのうち、ということで。読んでくださった方々、本当にありがとうございました。