魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

罵倒術(邪術編)

 みなさん、こんばんは。

 

 今日は、ちょっぴりダーク? な感じにしようかなと思います。

 

 効果的な罵倒手法について。

 

 まず、「罵倒」とは何か。

 

 これは、「相手を正しくないと否定すること」です。

 

 つまり、成否の問題となります。善悪というか。

 

 概ねのところで言えば、罵倒とは、「相手は間違いであり、自分は正しい」といった主張のことです。この主張の程度が激しければ激しいほど、その行為が「罵倒」と呼ばれる率は高まるのではないでしょうか。

 

 では、なぜ、罵倒は「自分は正しい」と間接的に主張することになるのか。

 

 まず、罵倒という一つの主張が、自分の心理にとって有効性をもつためには、自分で、その主張を、仮初にせよ、正しいと思っている必要があるからです。自分がまちがっているという心理状況では、(その局面においては)罵倒は出づらいのではないかな、と思います。自分が正しいと思っているからこそ、相手の間違いを指摘するのであろうという理屈です。

 

 実際には、正義はどうしても多様であると考えざるを得ないので、何が正しく、何が間違っているのかは、厳密には決定不能です。

 

 しかし、それで無法状態になっても困るので、みんなの決まりはある程度は、守られねばなりません(決まりが厳密すぎると、それはそれで窮屈になりすぎてしまうかもしれません)。

 

 リスクヘッジしておくのなら、多様な価値観を認めておくのも有効です。

 また、どの価値観にどの程度の投資を行うかは、その人の自由に委ねられる部分も大きいと思いますので、深刻な他害がなければ、ある程度は排除的な行動(罵倒など)も認めておくのは、有効かもしれません。

 

 罵倒が暴力であるかどうかというのは難しい問題かもしれません。これが、「暴言」とか暴力になり得るのかもしれませんが、あんまりモラルハラスメントの概念などを強くし過ぎると、正当な示唆などにも、モラルハラスメントのレッテルが貼られてしまいかねません。とても難しいです。

 

 だからと言って、口では何を言ってもいいのか、というと、これもむずかしいです。人を深く傷つける言葉も中にはあるかもしれません。

 

 だからと言って、傷つけることを否定してしまうと、心からの付き合いみたいなことができなくなります。相手を傷つけないようにと気を使いすぎて、お互い疲れてしまい、また、本音を出せなくなってしまうこともあるかもしれません。いつもいつも本音を言うべきではありませんが、ある程度本音で話し合える友というのもいるかもしれません。そういう時に、相手に気を使いすぎるのは、多少無粋となることも、場合によってはあるかもしれません。

 

 では、どうすればいいのか?

 

 まず、悪口を全面的に禁止する場合。これは表現の自由の観点から、ちょっと危険かも。

 

 では、悪口を全面的に肯定する場合。これは「理念」としてはいいかもしれません。ただ、ある程度は礼儀にも注意しないといけないと思うので、そことの兼ね合いが難しい。自由な発言は認められるべきですが、できれば、礼儀もある程度は、堅苦しくない程度には、守られた方がいいかもしれません。

 

 すると、まず、極端に悪口を否定するとか、肯定するとかいうのは、あまり合理的ではないかもしれません。それこそ、「中庸」というものが大切になってくるのかもしれません。

 

 グレーゾーンですね。むずかしいです。

 

 ならば、ひとまず、公的には表現の自由を担保して、悪口を言うことは法的な罪には問わず、法律ではなく、「礼儀」として悪口を、ある程度は、「自粛」しておく、というのが方針としてはいいのかもしれません。これなら、規律が強くなり過ぎず、また、弱くなり過ぎない、微妙なラインを何とか守れるやもしれない。

 

 微妙ですよね。けっこう多くのことって。ホントに分からないことだらけです。

 

 多分、悪口を行ったことで、逮捕されたりすると、大変なことになると思うのです。ですので、この辺りで手を打つのが現実的な所かもしれません。規律が厳しすぎると、それ破りたくなるのも人情ですからね。厳しすぎず、ゆるすぎず、が大切かも。

 

 ここのところを、グレーゾーンではなく、かっちりと定めようとしてしまうと、それはそれで、大変なことになるかもしれません。「曖昧さに耐える力」が大切なのかもしれませんね。簡単に言うと、「悪口は言ってもいいけど、あんまりしつこく言いすぎると嫌われるかも」、みたいな感じなのかもしれません。ひとつの考えとしてご参考下さい。

 

 さて、では、罵倒の効用を分析してみたいと思います。

 

 罵倒には大きく次の三つの機能がとりあえずあるのではないかな、と思います。

 

 1.相手の価値を低減する。

 2.自尊心を維持する。

 3.相手を威嚇する。

 

 さて、ひとつずつ見ていきましょう。

 

 まず、価値の低減。

 

 これは、相手の価値を落とすことによって、その落とした価値を自分に流入させることを目指す手法です。つまり、相手を落として自分を上げる、ということですね。「マウンティング」などの概念はこれに相当するかもしれません。

 

 いくつかパターンがあります。

 

 先ず、「表面上」という言葉をつかった論法。

 これは、相手のすぐれた特質のまえに、「表面上」という言葉を付着させることで、相手の価値を低減させる論法です。罵倒としてはある程度有効な論法かと思います。「表面上美人」つまり、「雰囲気美人」などの概念はこれに相当します。「表面上頭いい」→「雰囲気頭いい」。「表面上魅力的」→「雰囲気魅力的」→「中身は空っぽ」などなど。取りあえず、「表面上」という意味合いの言葉を付着させることで、相手の価値を低減させます。

 

 もう一個紹介。

 

 これは、概念としては、「無知」を用いる論法です。つまり、相手に無知のレッテルを貼ることを目指します。

 例えば、相手が何かを発言した時、それに対し、「あなたはものを知らないからそう思うのだろう」と主張する。それに対し、相手が何か反論して来ようとしたら、「もう少しものを知ったほうが良い」という論法に持っていく。

 この論法がなぜ有効なのか。

 まず、誰しも、自分が、「無知」であるということは避けて通ることができません。すべてを知っている人はいませんので、その人の不得意分野の質問を重ねられれば、必ず、一種の「無知」を露呈してしまいます。したがって、百パーセント、この論法で、相手に付け込むことができるというメリットがあります。また、相手に良心がある場合には、これは特に有効に作用し、相手は、「自分は確かに無知だ」と認め、引きさがってしまいます。年長で立場の強い人が、若くて立場の弱い人に対し、使うことが多い論法でもあるかもしれません(勿論、逆もあるとは思います)。

 本来は、ある事柄について無知であるからと言って、万事において無知とは言えない面もあるのですが、厳密には、人間の知っていることは何一つないというか、あったとしても、ごくごくわずかなものに過ぎないので、この論法は、実践的にはいついかなる場合も成立してしまいます。

 分かりやすい例で言えば、お互に、「馬鹿」と言いあっている状況は、お互いのことを、「無知」と言いあっている状況に相当します。相手も相当手練れである場合、こうした論法は通じません。

 回避手法についても書いておきます。

 まず、大前提として、この論法が完全に近い有効性をもっているのは、「誰もが無知であるから」です。したがって、その完全な攻撃性が今度は仇になります。なぜなら、相手に無知のレッテルを貼っている本人もまた無知であることには変わりないからです。このようにして、不毛なレッテル張り大会が始まることもありますが、なんというべきか、頭の回る人? は、話を少しずつずらして、不毛なやりとりを避けるかもしれません。

 基本的に、罵倒というのは、「表面上」、の論法にせよ、「無知」、の論法にせよ、こうした万能性をもっており、誰にでも何にでも通用してしまうので、何かを差別化する上では、あまり有効ではないかもしれません(合理的には)。

 しかし、合理性の問題を別にして、世の中には、賞賛すべき行為や、非難すべき行為が存在しますね。それは理屈とはまた別の次元のお話なのですが。

 だから、これらの罵倒用語が、合理的には無意味だとしても、一律に、無価値だとは言いづらいかもしれません。つまり、合理性とは無関係に樹立される「価値」が存在する。それは、その人の「信念」なのかもしれませんね。ここも色々と考えられておもしろいところかもしれません。

 

 では、なぜ、これらの罵倒によって、自尊心が維持されるのか。

 

 先ず、Aという人がいて、Bという人がいて、AがBに嫉妬した場合、Aの自尊心はBによって揺るがされることになります。そこで、Bという存在、あるいは存在価値自体を否定することで、自分のアイデンティティを保ってしまえばよい。

 ……というふうなロジックかと思います。

 

 単純に生存競争と考えれば合理的に見えます。しかし、実際には、先述の通り「礼儀」の問題が絡んできますので、このように単純なロジックのみで、相手を否定していると、うまくいかなくなることも時にはあるかもしれません。実際には嫉妬したのなら、それをばねに自分の能力を伸ばすモチベーションに変換できるといいかもしれませんね。人を落とすよりも、自分を上げる方が、全体的な効率からしても、また、お互いにとっても、生産的です(気が向いたら、「学習術」などについても書いてみようかな、と思っています。これはすこし研究に時間がかかってしまうかもしれませんが。暫定的な手法ならアップできるかも!?)。

 

 また、罵倒の論法のひとつに、「自尊心」という概念を利用したものもあります。これは相手の行動の動機を「自尊心を守るため」と解釈する論法です。基本的には、誰にでも自尊心がありますので、この論法はどんな相手に対しても適用することは可能です。例えば、誰かが募金をしていたとしますよね。それに対し、「あの人が募金をしたのは、自分の自尊心を守るためであって、利他心のためではない。つまり、あの人は利己的で下品な存在である」と解釈する論法です。こういうものもあります。罵倒も奥が深いですね。ご参考下さい。

 

 次が、「威嚇効果」について。

 

 威嚇は相手のためを思ってのものもありますし、自己保身のためのものもあります。

 例えば、大人は、子供が車に引かれそうになったら、「あぶないことするな!」と激しく怒りますね。これは威嚇です。つまり、威嚇によって、子供があぶないことをしないようにと願うのです。これは普通にあることかもしれません。こういう相手のために行われる威嚇もあります。この点が、モラルハラスメントとの兼ね合いがむずかしい所でもあります。単純にハラスメントの問題にしてしまうと、それはそれで規律が強すぎて問題だし、かといって、この善意の威嚇が体罰(つまり、暴力になってしまう)などになるとこれもまた、難しいところですが、ある程度は問題となり得ます。とても難しく、グレーゾーンになります。これについては、先述した通り。

 そして、自己保身のための威嚇も存在します。

 これは他者の身ではなく、自分の身が危ないので、威嚇する行為です。追い詰められれば、誰だって、威嚇したくなるかもしれません。窮鼠猫を噛む的な。これもしょうがないことですね。できれば、あんまり危ない目にあわないで済めばいいのですが(笑)

 人生、うまくいかないことも多いですので、なかなかどうして難しいのかもしれませんね。

 

 このように考えてきた場合、罵倒にも機能があり、罵倒するべき局面、罵倒するべきでない局面があるようです。明らかに危機状態にあり、即刻救う必要があるのに、そこに手を差し伸べないのは、いささか道徳的ではない。かといって、罵倒が暴力的になってしまっても、上手くない。

 

 グレーゾーンです。とても難しいことですね。あるいは、芸術家の人などは、こうしたことが人よりうまくできるのやもしれません。この点も掘り下げてみたら面白そうです。

 

 罵倒は、合理性の問題というよりも、どちらかというと、「気持の問題」としての側面が強いように思われます。

 

 したがって、この問題は、各々が気持ちの問題として処理するのに適した課題なのかもしれません。法は人の心までは縛るべきではないと思いますから、原則としては、思想の自由を担保しておくのがいいのではないかと、ひとまず考えています。

 ただ、あんまり悪口ばっかり言っていると、嫌われちゃうこともあるかも。

 そんな感じですかね。とても難しいです。

 

 法は万能ではないのだろうと思いますので、どちらかと言えば、人々の「良心」に賭けたいな、と個人的には思っています。法と良心がうまくかみ合って、バランスよく機能するといいのですが。

 

 罵倒は合理的ではないかもしれませんが、気持の問題として考えれば、すこし共感しやすくなることもあるかもしれませんね。そうしたら、罵倒してくる相手の気持ちに少しは気づくこともできるのやもしれません。相手と一体になりつつ、なおかつ別々の個体同士でもあり得るようなそういう感じなのかな? 共感って。互いに溶けあいつつ、別々でもあるような。そんな感じなのかなあと、漠然と思います。この状態は、「愛」とも呼ばれるのかもしれませんね。ある種の曖昧さに耐えるために、愛を役立てるのが有効かもしれません。

 

 

 まとめます。

 

 1.一口に「罵倒」と言っても色々なものがある。

 2.善い罵倒も悪い罵倒もある。

 3.善悪は一概に言えないけど、だからと言って罵倒を野放しにもできない。

 4.だから、罵倒についての是非の判断は、大体グレーゾーン。とても難しい。

 5.「曖昧さに耐える力」がある程度有効かも。

 6.罵倒は合理性というよりはどちらかというと「価値判断」の問題。

 7.価値判断は、必ずしも合理性ではないので、「情念」の問題かも。

 8.価値は人それぞれで多様。差別はあまり合理的ではないかも。

 9.人として最低限の良心があれば、どの価値を選ぶかはあなたの情念の如何による。

 10.ただ、最低限の礼儀は、守っておいた方が良いのかもしれない。