魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

統治術概略(非武装型戦略術)

 みなさん、こんばんは。

 

 今日は、「統治術」という題名。

 

 何やら仰々しいですな(笑)

 

 ただ、武力とかは使わない術ですので、そんなに残酷な感じとかはないはずです。

 

 とは言え、戦闘術の一種ではありますので、人間の世知辛い? 部分については見たくない感じの方は見ない方がいいかもしれません。

 

 では、一個ずつ。

 

 簡単に言うと、ガンジーの非武装戦略のようなものです。

 

 僕も戦争学などには詳しい方ではないのですが、個人的に考えられることは一応書いておこうと思います。

 

 これは、「アジ―ル生成術」の一形態でもあります。

 

 まず、統治とは何か?

 

 これは、「まとめ治めること」、です。

 

 では、治めるとは?

 

 これは、「極端でなく心配や悩みのない状態」、にすることです。一言でいうと、「穏当」な状態にするということ。

 

 まとめる、とは?

 

 これは、物事の筋道を整えることです。

 

 もちろん、物事の価値観や筋道はきわめて多様です。したがって、そのきわめて多様なすべての価値観を折衷し、さらに、極端に偏らず、またすべての人の心配や悩みを、統治しない場合よりも、減らすことができるのでなければ、統治は不可能であることになります。

 

 すると、これらのことより、統治が成立する三つのポイントを示すことができます。

 

 

 1.多様性を認める(人は自分を守らないものに忠誠を誓うことはないから)

 2.極端にならない(多様な人々に応えるためには、中立が必要だから)

 3.すべての人々の悩みを減らす(人を引き付けるにはメリットが必要だから)

 

 さて、ここで引っかかるのは、「すべての人」という部分かもしれませんね。「すべての人を救うだなんて無茶だ!」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、そうすると、見捨てられた人はどうなると思いますか?

 

 人は自分を守らないものに忠誠を誓うことはない、と書きましたね。したがって、見捨てられた人は、「敵」となってしまいます。

 

 誰かを見捨てる限り、無限にこの「敵」は生成されます。

 

 したがって、原理的には、たとえ現状では極めて難しかったとしても、総力を挙げて、すべての人を救うために行動するのでなければ、――少なくともそれを「全力で目指す」のでなければ、――統治は成立せず、必ず、「戦争」が生成されます。

 

 よって、すべての人を救おうとすることが、統治の成立のためには、必要となります。

 

 さて、ここで、「攻撃的な敵」を想定してみましょう。攻撃的な敵は、つぎの三つの特徴を備えています。

 

 

 1.排除的である。(攻撃するためには、排除的な性格が必要です)

 2.極端である。(「中立」であれば、排除的となりません。だから、「極端」)

 3.限られた人々の悩みだけを減らす。(攻撃するには敵にも「敵」が必要です。そのためには排除される人が必要となり、したがって、彼らは救う人を限定する必要があります)

 

 

 これは簡単に言いますと、「統治」の反対ですね。

 

 統治の能力は現状では、不完全なものです。したがって、論理的にはどうしてもあぶれてしまう人が生じてしまう可能性があります。

 

 したがって、常に、こうした「攻撃」を想定していなければ、統治されている人たちは、攻撃に怯え、これは、「悩みを減らすこと」という統治の第三条件に反します。

 

 今回は、非武装型の戦略ですので、ここで、「武装」という選択はとらないでおきます。

 

 では、どのような戦略が考えられるか。

 

 まず、完全な統治が不可能である以上、必ず、統治側にも、武装「的」な人々は存在します。武装するまでもなく(統治国家でも、軍隊や自衛隊を持っていますね)。

 

 つまり、取り立てて、武装しなくても、武装している人々はいるのです。

 

 まず、この事実が、攻撃的な敵、に対する抑止力となります。

 

 武装は解除を目指すべきであり、「みんなを救う」という理念のために必要ですが、「既に武装してしまっている人々」に、さあみんなで武装解除しよう! と呼びかけてもなかなか難しいですし、それだけでなく、僕たちの暮らしに存在するもの、棒や包丁なども「武装」となってしまいますので、完璧な非武装は現実的ではない。

 

 したがって、統治の三条件を全力で目指すことが統治の条件ですが、人間が完全にすべての多様性を包摂できる段階になるまでは、どうしても、この排除構造の制御が問題となります。

 

 したがって、自分が武装せずに、既に武装してしまい、また、武装を容易に解除できない人たちと共生するためには、その武装をうまく「制御」する術が必要となります。

 

 武装は、いかなるものも諸刃の剣です。盛者必衰、とも言いますね。一般的に、強過ぎた武力、強すぎた権力は自滅します。

 

 また、多くの場合(とは言っても、生存権や人権が適切に担保され、なおかつある程度幸福である場合に限る)、人は自分の身を命の危険にさらしたいとは思わないでしょう。

 

 したがって、本当は武装したくないと考えられます。

 

 よって、ここで、武装制御の第一要件が見えてきます。

 

 それは、「制御者が武装解除を目指している人であること」

 

 制御者が戦争好きで、戦争で人が死ぬのを見て、喜ぶ人であった場合、そのような人に自身を委ねようとは思わないであろうと推定します。

 

 したがって、武装と共生する、あるいは持ちつ持たれつになるには、その統治者が武装解除、つまり、戦争の回避(武力使用の回避)をめざしている必要があります。これは、統治の三条件における、第一条件「多様性の尊重」に該当します。

 

 では、そもそも、武装とは何でしょう? これは攻撃を目的とした道具のことです。

 

 銃とかナイフとか。核爆弾とか。

 

 つまり、武装している人たちは攻撃「的」ではあるのです。なぜ、攻撃的になるのか。

 

 それは、置かれた環境が統治の三条件に反しているためであろうと推理します。

 

 つまり、統治者は、彼らの価値観を尊重し、なおかつ他の価値観も尊重し、中立的であり、そして、彼らの悩みや不安を減らしてあげることができることが必要となります。

 

 ここで、武装制御の第二要件が成立します。

 

 それは、「統治者が、武装者の悩みや不安に親身であり、またそれらの悩みを減らしてあげることができること」です。

 

 つまり、武装者の価値観を否定したり、その悩みや不安をはねのけたりした場合、武装制御、――言い方を変えれば、武装統治は成立しません。

 

 そして、武装者にも多様性があり、人それぞれに大切にしているものがあり、守るべきものがあります(だから、武装してまでそれらを守ろうとする。それは、矜持かもしれないし、大切な人たちかもしれない)。

 

 ここから、武装制御の第三要件を抽出できます。

 

 それは、「統治者が多様な武装者の価値観を認めることで、中立的であること」

 

 さて、武装制御の三条件をまとめます。

 

 

 1.武装解除を目指していること。

 2.武装者の悩みを減らすことができること。

 3.多様な武装者の間で中立的であることができること。

 

 

 これら三つの要件を積極的に満たすことができれば、武装者は統治者に味方するであろうと推定できます。

 

 すると、その武力は、「攻撃的な敵」への抑止力となり、攻撃的な敵を包摂し、説得し、救うまでの時間を稼ぐことができます。

 

 では、「アジ―ル」とは何か?

 

 これは、統治権力の及ばない場所、のことです。

 

 はてさて、これは統治術に反するように見えます。何せ、統治権力の及ばない場所ですから。

 

 ポイントは、統治「権力」という点です。つまり、これは権力であり、「武装」の一種ですね。したがって、本当の意味での、「統治」ではないのです。したがって、一見、今回の見出しとアジ―ルは矛盾するように見えますが、趣旨からいえば、まあ、大丈夫ではないかと思います。

 

 つまり、統治は権力によってではなく、「包摂」というか一種の「優しさ」のようなものによって行われます。武装ではなく、「徳」によって統治する、ともいえるかもしれません(上記の通り、統治者が残虐であったり、戦争好き、暴力好きであった場合、その統治は崩壊するであろうと想定される)。

 

 したがって、アジ―ルとは、権力の及ばない場所、のことであり、言い換えれば、「武装の及ばない場所」のことです。

 

 完璧なアジ―ルは、完璧な太平の世に実現されると想定され、また、それを「目指した場合」のみ、その者に統治の資格があると考えられます。

 

 したがって、現行で可能なのは、「暫定的なアジ―ル」であり、これは、「比較的武装権力の手の届かない範囲」という意味になります。

 

 まず、簡単なモデルを想定してみましょう。

 

 Aという武装勢力とBという武装勢力がいた場合、これらの価値観が相異なる場合には、戦争が生じると考えられます。すると、戦争領域が発生します。戦争領域では、アジ―ルは成立しません。つまり、非戦争領域にアジ―ルは成立します。

 

 では、非戦争領域は、どのような場合に生じるか?

 

 それは、お互に、戦闘の益がない場合に生じます。

 

 つまり、戦争してもしょうがない場所においては、非戦争領域となるのです。

 これは、どのような領域か?

 

 これは、「双方の価値観にとって利益のある地帯」です。

 

 つまり、A勢力、B勢力共に、失いたくない「文化」なり「資産」がそこに根付いており、なおかつ、その資産の存在がA勢力、B勢力に知られていれば、そこは、非戦闘領域となると推定できます。

 

 つまり、きわめて創造的で、寛容であり、多様な価値観にとって益をもたらし、次々と新たな価値なり発明が生まれる、多くの資産が創り出され、それが継続的に保存されている圏内。これはアジ―ルとなると考えられます。

 

 つまり、アジ―ルの成立条件は次のようになります。

 

 

 1.創造的で、オリジナル(代替が難しい)な多様な価値にあふれている。

 2.どの武装勢力にも寛容であり、彼らの悩みや苦しみを減らすことができる。

 3.作り出した価値、文化、資産が、継続的に保存される場所である。

 

 

 これらの特質を備えた場所は、アジ―ル化すると考えられます。

 

 つまり、

 

 創造的で、多様性を認め、尚且つ大量の多様な価値を継続的に保有する人は、その人自体が一個の「アジ―ル」であるとも言えます。

 

 つまり、そのような「アジ―ルとしての人々」を結集することができれば、その地帯は、きわめて強いアジ―ルとなると考えられます。

 

 したがって、戦争を停止できるためには、これらのアジ―ルとしての人々を大切にするという戦略がきわめて有効となり、また、それは比較的すべての人の利益のために重要であろうと、考えられます。

 

 つまり、アジ―ル生成の手法とは、この「アジ―ルとしての人々を増やし、集める」ことです。

 

 以上が、統治術の概略となります。

 

 まとめます。

 

 

 1.統治には寛容さが必要。

 2.武装を制御するのにも寛容さが必要。

 3.アジ―ルを作るのにも寛容さが必要。

 4.すべての人の利益のためには寛容な人が必要。

 5.とにかく何をするにも本当の意味での「優しさ」が大切。

 

 

 

 

P.S.はあ、疲れた(笑)

正直、統治術書こうかどうか迷ったんですよね。だって、下手なこと書いて、僕逮捕されたくないし(笑)(笑いごとじゃないですね、すみません)

治安維持法とかみたいな時代にならないといいですよね。あれは、包摂の反対であり、排除ですから、国家が破綻する戦略であると、少なくとも合理的には、推定されます。

もしも、僕が逮捕されたら、後はみんなに任せた(笑)頼むぜ☆

少しでも、みなさんの利益になることが書けるといいのですが。なかなか難しいですね。文章を書くというのはとても奥が深いです。

おもしろいこと書こうとがんばってるんですが、なかなか難しい。

むずいなあ。

むずかしい

むずかしすなあ

むずがゆいなあ

むずむずするなあ

こうしてみると、「むず」って言葉、なんか共通性がある感じしますね。一個のニュアンスというか。

別々に見えるものでもこうしてつながっているものなのかもしれませんね。世界はつながっているのかもしれません。

人間もうまくつながれるといいですね。

僕も、「優しい人」を見つけたら、保護することにします(笑)

みなさんも、ぜひ、優しい方々を大切にしてみてくださいませ。手をつないで協力し合えたら最高ですね。くれぐれも人を傷つけないでください。暴力もダメだぞ♪ 「芸術的な暴力」、人を説得するための「比喩的な意味での暴力」なら、多少はありかもしれませんね。例によって、僕の言うことは、鵜呑みにはせず、ご自分の頭で検証してみて下さいね。おそらく僕もたくさん間違っているはずですから。みんなですこしずつよくして行けるといいですね。

 

ではでは~

 

みなさんにNeruの『ハウトゥー世界征服』を送ります。

 

 

優しい人にならなくちゃ

心が悴む前に(Neru,『ハウトゥー世界征服』,歌詞より引用)