魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

非武装型護身術

 みなさん、こんばんは。

 

 今日は、「護身」について書きます。

 

 護身とは、文字通り、「危険から身を守ること」です。

 

 実際には人間には良心があると考えられるので、基本的には残虐なことはそれほど起きない、という推定のもとに僕たちは暮しています。そういう楽観性がなければ、到底僕たちは、不安で生きていくことができません。

 

 ここでは、どうすればあらゆる人が、自分の身を守ることができるかを、どちらかと言えば、ミクロ視点で考えてみようと思います。

 

 基本としては、当ブログの「統治術」(ブログ内検索からご覧ください)に書かれている知識を用いています(つまり、ここに書かれること以上に、まず統治術、あるいは「アジ―ル」を確保することがすべての人のために重要であると端に論理的には考えられる)。

 

 それを踏まえたうえで、今日のお話を始めます。

 

 とりあえず、まず、「敵」とされる人に、良心がなく、その人はエゴイスティックに行動するものと仮定します。

 

 まず、大前提、基本。

 

 それは、犯罪をしないことです。

 

 犯罪をすると、容易に警察権力に介入されることになります。これでは、その人がいかに良いことをしていたとしても、マイナスとなってしまいます。

 

 だから、まず、犯罪をしないこと。これが最大の基本です。

 

 少しこの原則がなぜ成立するのかについてのメカニズムを説明します。

 

 まず、僕たちの世界には、「返報性の原理」と呼ばれるものが根付いています。

 

 つまり、もしもあなたが、犯罪をすれば、他者にも犯罪行為の行使の動機、およびきっかけを許してしまい(つまり、なんらかの形でやり返される)、これは、護身の観点からは、あまり好ましくない。

 

 したがって、自分を犯罪行為から守るためにも、自分が犯罪行為をしてはならない。これが基本となります。やり返されないためには、自分が犯罪をしてはならない、という感じです。

 

 逆に言えば、大なり小なり、自分が良心を行使することで、他者に良心を誘発することができると考えられます。良心が返報性の原理をつうじて、感染するということです。

 

 よって、護身の基本手法としては、自分が犯罪をせず、「良心を持つ」、ということが非常に有効となります。

 

 逆に、自分が誰かに対し、非道なことをした場合、その人は自分にも非道な災いが降りかかる可能性が高くなります(この場合の、返報性の原理を、「因果応報」と呼ぶこともあります。因果説については諸説あり得ますが、ここでは、ある程度因果則が成立するものと想定しておきます)。

 

 残酷で非道な人よりも、良心ある人の方が、恐らく人々から守られやすいであろうと推定します。

 

 では、良心が通じない相手、つまり、良心がない相手を想定した場合、これはどうするか。

 

 この場合には、正当な防衛を行うか、逃げるかしかないと考えられます。

 

 まず、相手に良心が通じないとするなら、これは基本的な防衛手法が通じない例であると言えます。

 

 したがって、この場合に限り、ある程度武装が正当となり得ます。

 

 逆に、この場合の武装を認めなかった場合には、その人は、自分が良心が通じない相手に遭遇した場合に自滅すると考えられ、護身としてはうまくありません。

 

 したがって、ある程度は、正当な武装、という概念の可能性はあり得てきます。

 

 今回は、非武装型の護身術ですので、これらの武装を用いた護身術については割愛します。

 

 つまり、「そもそも危険な事態に遭遇する確率を減らすためにはどうすればいいか」を考えます。基本は良心を持つこと、犯罪をしない事です。

 

 まず、危険な事態の根本原因は、いわゆる法治国家においては、ほとんどの場合、その法のエラー、つまり、権力の暴走、間違った使用法にもとづくと考えられます。

 

 権力の暴走には、大きく次のようなものがあります。

 

 1.情報統制の過剰。

 2.身体統制の過剰。

 3.結社統制の過剰。

 

 まず、情報統制が強すぎた場合には、情報の選別が強く働きすぎるため、この場合、「偏見」が醸成され、統計的な判断基準で見るなら、データの偏りのために、エラーを頻出するようになり、結果、権力は腐敗、および崩壊に至ると考えられます。

 逆に言えば、腐敗した権力を破壊する一つの手法として、「情報統制をわざと強くさせる」という手法は考えられます。情報統制がつよくなるほどに、その権力は逼迫し、また、自滅を速めることができるとは考えられますが、できれば、使いたくない手法ではあります。相手が敵であるにしても、自滅するところを見たいと思う人はほとんどいないのではないでしょうか。できれば、敵をも救うのが正着打です。誰も見捨てないことが統治術の基本となります。

 

 身体統制が強すぎた場合には、これは、身体拘束が強すぎるため、個体のデータ収集に偏りが生じ、人体に偏見が醸成されます。この場合、擬似的に、情報を統制した場合と同じ事態が国家全体に生じ、また自滅すると推定されます。

 したがって、たとえば、あなたが冤罪で拘束されたとしましょう。しかし、その「拘束」行為を、国家が強く行えば行うほど、国家は自滅に向かうであろうと推定されます。また、非人道的なことが行われた場合には、良心ある人々の反逆も想定されますので、ますます国家、および権力自体の弱体化が進行するであろうと想定されます。よって、冤罪で拘束されたとしても、――権力の判断のエラーが大きいほどに。つまり、その拘束が「不当」な拘束であるほどに――権力は弱体化するであろうと想定されます。したがって、冤罪で拘束されたとしても、必ずしも希望を失う必要はなく、あなたが不当な処罰をされる前に、正当な開放がもたらされる可能性もそれなりに高いです。その意味から言っても、犯罪をしないこと、そして、良心を持っていることは、護身術として合理的です。なぜなら、あなたが良心を持って人々に接すれば、大なり小なり、返報性の原理によって、人々の良心がそれに応える可能性が高いからです。その意味から言えば、追い詰められたなら、追い詰められるほどに、良心を放棄しないことが護身のために、より合理的戦略であると言えるでしょう。

 

 次に、「結社統制の過剰」について、これは、治安維持法のような、いわゆる「悪法」に相当するものです。これは、人々が結びつくことを、妨害する権力側の手法であると考えられ、つまり、一種の「分断工作」です。人々が結束するのを防ぐことで、権力が持つ、人々に対する優勢を保とうとする手法ですが、これも最終的には自滅にいたります。「おごれるものは久しからず、盛者必衰」とも言います。

 まず、国家や権力は、基本的に、人々の信頼と投資により成り立つものです。その「人々」を分断工作によって、逼迫させるなら、確実に、その共同体、権力体は滅ぶと想定できます。人々によって成り立っているものを、その人々を抑圧することによっては維持することはできません。

 よって、分断工作も、権力の腐敗兆候のひとつであると言え、結社統制が過剰となった場合、これも、権力の自滅を招くと想定されます。

 人は一人では生きていけないものであり、それを分断すれば、人々の精力は衰えるでしょう。そうなれば、労働力も、資本力も、国力も、生産力も、すべて低下すると想定されます。いわゆる「ディストピア」の構図。

 したがって、結社統制の過剰は、護身術の観点からは、合理的ではありません。

 

 以上の帰結より、護身するために、何をすればよいかを、想定することができます。

 

 1.情報の自由化

 2.身体の自由化

 3.結社の自由化

 

 これら三つのはたらきを備えることが、自滅を避ける、つまり、護身するうえで重要となります。

 

 つまり、情報を統制したリ、身体を拘束したり、結社や協力関係を分断し、人々の力を弱めたりすれば、おのずと、その権力、および個人は弱体化し、崩壊すると想定できます。

 

 では、護身術をまとめます。

 

 1.犯罪をしないこと

 2.良心を持つこと

 3.自由を尊重すること

 

 この三箇条が、自分の身を守るために合理的であると想定できます。

 

 したがって、危険を避けたい人、自分の身を守りたい人たちは、まず犯罪をせず、良心を持ち、自由を尊重することを、個人的にお勧めいたします。

 

 みなさんも、気が向いたら、極力良心を持ち、極力自由を尊重してみて下さい。犯罪はダメだぞ☆

 

 

 P.S.上記の原則から容易に導き出せますが、次のような攻撃手法を、敵は用いるであろうと推定されます。

 

 1.こちらに情報を統制させる(プロパガンダの多用の誘発)

 2.こちらに身体拘束を強めさせる(冤罪の多用の誘発)

 3.こちらに結社(協力関係)を作らせない(分断工作の多用の誘発)

 

 あるいは、

 

 1.犯罪を横行させる(おそらく人々の恐怖心を利用する)

 2.良心を奪う(これも人々の恐怖心を利用する)

 3.自由を奪う(人々の恐怖心を利用する)(当ブログの「政治術」など参照、楽観性を奪い、恐怖心を利用する戦略はあり得る。)

 

 以上、攻撃手法です。また、これらの攻撃は諸刃の剣であり、長い目で見れば、崩壊すると想定されるので、みなさんは、権力闘争に加担せず、犯罪をせず、良心を持ち、自由を尊重していることをお勧めいたします。権力が自滅するのを待つのが、端に自分の身を守りたいだけなら得策かと。

 

 一応、「敵も救いたい」という人のために書いておきますと、敵を救うためには、これらと逆のことを行えばよいと思います。

 

 1.敵にできる限り情報統制を解除させる

 2.敵にできる限り拘束を解除させる

 3.敵にできる限り自由を尊重させる

 

 以上のことにより、敵の自滅を阻止できる可能性があります。ただ、敵に完璧に良心が存在しない場合には、敵の自滅を阻止することはできないと考えられますが、おそらく、完璧に良心の存在しない人間はいないのではないかと、僕は推定しています。

 

 簡単に一言で言えば、恐怖による統治は崩壊する。あるいは、「人々の恐怖が権力を討伐する」ということです。「恐怖」は武器なわけですね。その意味で、敗北とは敗北ではなく、その「敗走」が結果的に権力を討伐すると考えられます。「負けるが勝ち」というやつですね。だから、自分が負けたと思っている人、恐怖のふちにある人は、ぜひ負けないでくださいとエールを送っておきます。その恐怖が多くの人々を救う武器にもなります。できれば、恐い想いはしたくないものですが(笑)みんなで、怖い思いをしなくて済むというか、良心のある世界を少しずつ作れるといいですね。

 

 以上のことより、恐怖による統制ではなく、自由と徳による統治が、個人的にはみなさんにお勧めです。

 

 今日は以上です。

 

 ではでは~♪