魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

統合失調症の長所

みなさん、こんばんは。

 

今日は「統合失調症の長所」について考えてみようと思います。

 

みなさん、統合失調症というと、「え? 精神病に長所あるの?」などと思うかもしれません。

 

ただ、僕が見る限り、この世界のものはすべて、長所と短所を両方持って動いており、長所だけのものや短所だけのものは、ひとつも見たことがありません。統合失調症が特別例外的に短所だけであったり、長所だけであったりする、ということはまず考えられないことでしょう。統合失調症は、100人に1人が罹患する症状であり、それほど例外的なものでも、特別なものでもありません。したがって、必ず長所があるはずです。今日は、その長所について考えてみましょう。

他人の悪いところはよく見えるものですが、長所というのはなかなかどうして見ることが難しいものです。自分のよいところはよく見えるのに、他人のいいところが見えなくなってしまうというのも、人間おもしろいものですね。人間はこうした「自己中心性」を必ず誰でも有しており、自分にまつわるものはすべてよく見え、他人にまつわるものはすべて悪く見える、という傾向があるようにも思われます。なかなか自分に都合の悪い部分については、見えないものなのです。ですので、基本的に、主観は絶え間ない批判により、少しでも客観的であり得るように、絶えず更新され続けなければなりません。それは、精神医学もまた、例外ではないでしょう。この世界に完璧なものは何一つ存在しません。

 

まず、では、どうすれば精神病が生じるかについて大きく考えてみましょう。精神病は次のことにより生じます。

 

1.遺伝的に心が傷つきやすい

2.環境的に心が傷付きやすい

3.その個体が堪えることのできるレベルを超えた心の損傷を受ける

 

この三つの要因がそろう時、人は精神病になると考えられます。統合失調症とは精神病のひとつになります。

 

これだけ見ると、ただ自我が脆弱なだけの短所にも見えます。しかし、これは本当に、純粋に短所と言えるものでしょうか? よくよく見てみましょう。

これは次のように言い換えることが出来ます。

 

1.遺伝的に感受性が豊か

2.環境的に感受性が豊か

3.繊細な心を持っている

 

一つずつ見ていきます。

 

まず、遺伝的に感受性が豊かなので、その個体は感受性豊かに行動します。つまり、感受性豊かに行動することで、感受性豊かな環境を自分の周りに大なり小なり構築します。また、感受性が豊かであるため、刺激に敏感であり、すこしの刺激から多くのことを感じとることが出来ると推理できます。

例えば、何の変哲もないようなものを見ても、通常の人よりも多くのことを感じとることができるので、多くの人には感じとれないことを感じとることができると推理できます。この多くの人には感じることができないけれど、その人には感じ取ることのできるもののことを、「幻覚」と仮に呼びましょう。

これは認知面にマイナスももたらしますが、プラスの作用も持ちます。マイナスに作用した場合、幻覚をうまく現実に適応させることができなくなり、生活に不適合を起こします。しかし、その多くの人に感じとることのできない情報を生活に適合的に活かすことができれば、それはプラスの素因に変わることになります。つまり、同じものを見ても、使い方によって、それが長所であるか短所であるかは変わり得る、ということです。

さて、幻覚が生じるとすると、その後の思考はどうなるか。思考も独創的なものになるでしょう。多くの人とは違った独特のものになると推理できます。この多くの人とは違う思考を、「妄想」と仮に呼びましょう。妄想はそれ自体、独創的な発想であり、幻覚と同様、多くの人には感じとることのできない思考です。これも幻覚と同様、マイナスにもプラスにもなり得ます。生活に適合させることができれば、プラスの発想として活かすことができるし、それができなければ、マイナスとなります。

妄想も幻覚も一長一短です。

 

では、どのような時に、私たちはプラスの状態になり、どのような時に、マイナスの状態になるかを考えてみようと思います。

 

まず、わたしたちは、プラスな環境に置かれると、プラスな状態になります。逆に、マイナスな環境に置かれると、マイナスな状態になります。

ここで、統合失調症になり得る人とは、繊細で感受性が豊かであることを思い出してみてください。この場合、統合失調症になり得る人は、環境の影響を通常よりも強く受けると考えられます。したがって、プラスの環境に置かれれば、よりプラスになりやすく、マイナスな環境に置かれれば、よりマイナスになりやすい、と考えることができます。

 

例えば、感受性が強く、一度に多くのことを感じ取り、情報処理することができると推理できるので、プラスな環境下では、非常に優れた処理能力を発揮できるであろうと推理できます。ここに、プラスの幻覚や、プラスの妄想が加われば、それは多くの人に発想できないことが発想できる脳の状態が構築されているということになります。従って、適切な環境を与えられれば、天才的な創造物や科学的発明をするのに比較的向いているであろうと推理することができます。

これが、マイナスのふうに出ると、マイナスの環境下において、その豊富な感受性がマイナスに刺激され、極めて強く心の損傷を受け、結果脳が損傷しやすいと考えることができます。例えば、正常な人でも気が狂うような隔離環境下に閉じ込められたり、やる気のもととなるホルモンであるドーパミンを極度に抑える薬を飲んだりした場合、これは、比較的マイナスの環境と判断することもできますので、なかなか病前の水準の知能レベルを回復することが難しくなるだろうと推理することもできます。

 

ここで、「傷」について考察します。傷は、軽く済めば、すぐに治癒し、痕も残りません。しかし、もしも、傷口を何度も何度も抉られ、傷が治癒するのにプラスになる環境を奪われ、不潔な状態に放置されたままならば、傷は化膿し、また治ったとしても、痕が残ることになるでしょう。

 

脳の損傷、脳の傷に、この推理を適用しますと……

 

ストレスも一過性のものであれば、脳の損傷は軽く済みます。しかし、何度も何度も、罵詈雑言や傷付くことを言われたり、あるいは人の温かみのない冷たい寒い過酷な環境下におかれたり、寂しい一人ぼっちのままに、長期間隔離されたり、薬漬けにされたりした場合、脳の損傷は致命的に進行すると考えられます。この場合、傷の「痕」が深く残ります。この深く傷跡が残った状態、つまり、病理が不可逆的に脳に与える損傷のことを「不可逆的損傷」と呼びましょう。

逆に、まだ傷跡が比較的残らずに治癒し得る段階を「可逆的損傷」と呼びましょう。

 

統合失調症の長所を活かすには、不可逆的損傷に陥る前に、つまり、可逆的損傷の内に、回復することが必要となると推理できます。

 

つまり、統合失調症の人の能力を活かすためには、不可逆的損傷が起こる前に、マイナスの環境からプラスの環境へと迅速に移すことが必要となると推理できます。

 

では、具体的に、統合失調症者にどのようなことが可能であると推理できるか。

 

まず、統合失調症の長所とは、幻覚妄想であり、多くの人にはない独創的な発想を得ること、また類まれな感受性でした。そのために、ストレスが適正量に保たれた状態、認知面や生活面においてプラスの環境下では、独創的に多くの仕事を処理することができると考えられます。その「仕事」が具体的に何であるかは人によるでしょう。芸術かもしれませんし、学問かもしれない。あるいは接客業かもしれないし、すし屋の職人かもしれません。なぜなら、彼らの能力は「独創性」という特徴を持っていると推理できるため、一概にこれということができないのです。少なくとも、分野別に得意不得意の差はあるにせよ、高い演算能を所持している可能性が高いと推理することができます。

 

以上のことより、独創的な仕事を成し遂げるのには、比較的、統合失調症的な素質を持っている人の方が向いている可能性があると考えることができます。

 

統合失調症的な素質を持ち、なおかつ、それを発症させないプラスの環境を持つことができれば、優れた素質を開花させる可能性が高いと推理することができます。

 

ならば、おそらく、歴史上の偉人や何らかの業績を持った人などにも、統合失調症的素因や、他の精神病的な素因をもった人がそれなりに多くいるであろうと推理することができます。

 

以上のことより、「統合失調症になるのは低能だからだ」というテーゼは否定することができるであろうと考えられます。

むしろ、統合失調症になるということは、ストレスに対し脆弱な繊細な心を持つ代わりに、高い認知力や対処能力を持っている可能性も高いであろう、と言い得ます。

簡潔に述べれば、精神病者は低能ではない」ということになります。

他人とは違う感性や思考を持つことは、必ずしも低能であることを意味しません。むしろ、それがオリジナリティ豊かな個性となり、才能を発揮できる可能性も高いであろうと推理できます。統合失調症素因を持つ人たちは、芸術などの活動にも比較的向いているかもしれません。

 

さて、この高い感受性のことを、「過度激動」と呼びましょう。過度な激動です。

つまり、感情の激しさを意味します。感受性が強ければ、高い処理能力を担保するとも考えられますが、逆に損傷しやすく、感情の激しい起伏や不安、抑鬱などを感じやすいとも推理できます。

 

そうした、過度激動という激しい感受性の資質が、プラスの環境下において、プラスに花開いた場合を、「積極的分離」と呼びましょう。逆に、マイナスの環境下において、マイナスに作用してしまった場合を、「否定的分離」と呼びましょう。

 

積極的分離は、独創的なビジョンを発掘したり、展開したり、社会の矛盾を解きほぐしたりするのに有効な資質であり、過度激動がプラスに作用した結果であると言えます。

一方で、否定的分離は、マイナスの環境下における作用ですので、精神病や自殺などの悲劇的な事態を引き起こす可能性があります。

 

積極的分離も否定的分離も、どちらも過度激動によるものですが、現れ方は随分と異なっています。このように同じひとつのものを見ても、見方や使い方によって、千変万化に姿を変えるのが、この世のすべてのものに共通して言えることであると思います。なかなかどうして、それほどお手軽には、「真実」には、たどり着くことはできないのかもしれません。だからこそ、僕たちは、自身のパターン認知や常識に安住しすぎることなく、常に、自分の認知を疑い、アップデートしていくことが必要なのかもしれません。偏見や無知、思考停止は人を傷つけるからです。

 

社会からうまく分離し、社会よりも高くレベルアップして再度、適合し直すことができれば、積極的分離。

逆に、社会からうまく分離できず、破滅的になってしまった場合が、否定的分離です。

 

いずれの場合も、現存の社会に安住することなく、社会からひとまず分離するという点では共通しています。

 

しかし、その分離の仕方が適応的でないと、否定的分離となり、精神病や自殺の原因となると推理できます。

 

つまり、統合失調症素因を持つ人たちは、積極的分離を果たすことが出来れば、良い予後と高いパフォーマンスを持つことができると推理できます。

 

正確には統合失調症には限りませんが、こうした素因、つまり精神病的素因を持った、感受性の強い過度激動を持ち、なおかつ、社会からの分離の危機を乗り越え、否定的分離に陥らず、積極的分離を果した人たちのことを、「ギフテッド」と仮に呼びましょう。

 

このように考えた場合、統合失調症の長所とは、「ギフテッドとなり得ること」ではないかと、推理することができます。

 

ギフテッドは繊細な感受性、過度激動によって、特殊な独創的知覚や思考と高い処理能力を持ちます。したがって、さまざまな分野において有効に作用し得るであろうと考えることができます。

 

さて、では、はたして「すべての統合失調症者がギフテッド」なのでしょうか?

 

これについてはつぎのように推理できます。

 

まず、今回まだ、統合失調症者の長所にしか触れていませんので、これでは意見に偏りが出るため、非統合失調症者、あるいは非精神病者いわゆる「健常者」のメリットについても軽く触れます。

 

精神病者は、感受性が、精神病者に比べて、確率的に、低く出る可能性があるであろうと推理できます。

 

感受性のメリットについて触れた後ですので、感受性が低いというとまるで、能力が低いかのような印象があるかもしれませんが、そうではありません。

 

感受性が低いということは、認知の独創性においては劣るかもしれませんが、その分傷つきづらく精神的に「タフ」であることを意味します。

 

これは厳しい現代社会を生きる上では、きわめて有効で優れた資質とも言い得るでしょう。今回は統合失調症者の擁護を目的としていますので、詳しくは触れませんが、健常者にもたくさんの長所があることを一応指摘しておきます。要は、人それぞれに、みんないいところがあるということです。

 

さて、閑話休題

 

ここで、では、健常者は統合失調症に100%なり得ないのか? という問題を考えます。なるほど、何事につけても、100%ということはあり得ません。僕の理論も多分に不完全なことでしょう。したがって、タフな人でも、統合失調症になる可能性はあることになります。つまり、いくらタフな人でも、過酷な環境下におかれれば、精神病様症状が出てもおかしくはない、ということです。

この場合、特別に感受性が強いわけではなくても、統合失調症になり得ることになります。この場合、その人は、感受性が強いわけではないので、ギフテッド的な資質からは外れるであろうと推理できます。

 

つまり、「精神病になる因子というものは、ギフテッドになり得る確率をある程度高くはするが、すべての精神病の人がギフテッドだとは限らない」ということです。

 

ギフテッドの判別は、全体的な多彩な指標に基づくのが好ましいと考えられるため、非常に難しいです。

 

しかし、少なくとも、言えることは、「精神病は無能の証ではない」、ということです。精神病になった人でも優れた人はたくさんいることでしょう。

 

あるいは、明らかに高い能力を有しているにも関わらず、精神病の診断を受けている人などは、もしかすると、大なり小なり誤診で、その実ギフテッドであるという可能性もあるのかもしれません。

 

日本では、ギフテッドという概念はさほど普及しているわけではありませんが、この概念は、ある程度、傷付きやすい繊細な人たちの心を保護する役割があると、僕個人は期待しています。

 

世間では、精神病への悪口や偏見がしばしば散見されますが、それに比して、その長所や機能を積極的に見出していこうという動きは驚くほど小さいです。

 

自分の悪い面ばかりが暴き立てられては、さすがに精神病の人たちも参ってしまうのではないかと思うのです。精神病の人たちの持っている特性や素質が、短所もあるにしても、長所になり得る部分もたくさんあるのだということを少しでも示唆できれば幸いです。

 

どんな人にも悪いところもありますが、必ず善いところもあると、僕は信じています。

 

ポイントは、「どんな人でも」です。

 

健常者も非健常者も、「みんな」です。

 

どんな人も一長一短。

 

だから、統合失調症や精神病だけが、「悪いもの」であるとするのは、多少意見として偏りすぎているであろうと思います。

 

悪いように見える一つの物事でも、見方を変えることができれば、瞬く間に財宝へと変質するということが、世の中にはしばしばあるようです。

 

多視点化し、さまざまな視点から物事を見ることができる能力というのは非常に価値が高いと思います。みなさんも、気が向いたら、色んな物事をいくつもの視点から多角的に考察してみる癖をつけると、なかなかにおもしろいかもしれません。

 

そして、いつものことですが、みなさんもこのブログの意見を鵜呑みにすることはなく、御自分で多角的に論理や推理に穴がないかを検証してみてくださると、筆者としてはこれ以上の喜びはありません。

 

一緒に色々な物事の善い面を発見していくことができたらいいな、と思います。

 

まとめます。

 

 

今日のポイント

 

1.統合失調症者には才能を持った人もいる

2.統合失調症は無能の証ではない

3.どんな人でも才能を活かすだけの適切な環境が必要

 

 

参考文献
KAZIMIERZ DABROWSKI,"PERSONALITY SHAPING Through Positive Disintegration"