魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

勉強のメリット

今日は「勉強のメリット」について考えてみます。



まず、「勉強」とは何か。



これは、「学ぶこと」です。



「学ぶ」とは何か。



これは、「知ること」です。



「知る」とは何か。



これは、「理解すること」です。



また、理解するとは、「秩序づけること」です。

例えば、「数学を理解する」という時、それは、数学の体系を自分の中で「秩序づけること」を意味します。もしも、体系がバラバラで、秩序立っていないのなら、少なくともそこにいわゆる「意味」は成立することが難しくなります。これを「無意味」と呼ぶこともあります。しかし、無意味にも機能はあります。例えば無意味を一概に否定してしまうと、意識においてまだ意味を持っていない曖昧模糊とした感情などの現象が否定され、ないものとされます。本来あるものをないものとするのは錯誤になります。よってエラーが起きます。ならばこうした認知錯誤を極力避けるためにも、一種の「曖昧さ」、つまり秩序立っていない、未だに意味を理解されていない、「無意味」なものをあまり潔癖に否定し過ぎないことがある程度有効になります。無意味には曖昧さを守る機能があり、曖昧さは様々なスペクトラムにおける「グレーゾーン」を守ります。白黒つけることだけでは、こうした曖昧さとしてのグレーゾーンは守ることができません。

さて、ここで、私は、この文章によって、「無意味」に「意味」を持たせています。つまり、「無意味」を秩序立てています。しかし、秩序立ったものは意味を持っており、本来、無意味ではないですので、ここに記述された無意味は、本当の無意味ではない、とも言うこともできます。つまり、本当に無意味を守るためには、「無意味には意味がある」と言うのではなく、「無意味は無意味である」と言う必要がある、と言うこともできます。つまり、「無意味は無意味だからこそ意味がある」、という逆説的な構造になります。この時、次のことが言えます。



1.意味は無意味である

2.無意味は意味である



つまり、秩序立てること(意味を理解すること)は秩序をバラバラにすること(無意味にすること)と、ある意味、表裏一体である、とも言えます。よって次のことが言えます。



1.秩序立てることは秩序をバラバラにすることである

2.秩序をバラバラにすることは秩序立てることである



ここで、秩序立てる行為、意味を理解する行為を「勉強」と呼んでいることに着目してみましょう。では、無意味な行為は何と呼ばれるでしょうか? 勉強の反対の概念であるこれを、「遊び」と呼びましょう。この時、次のことが言えます。



1.勉強とは遊びである

2.遊びとは勉強である



この時、勉強と遊びは表裏一体となっています。

ところで、遊びとは一般的に言って、楽しいものですね。

したがって、遊びが勉強そのものだと考えた場合には、勉強はある程度楽しいものであると考えることもできます。



勉強とは、秩序をバラバラにしたり(無意味な遊び)、秩序を構築したりすること(意味ある理解)です。



つまり、勉強とは、「秩序を絶えず再構築し続けることだ」、と言えます。



勉強とは「無意味だから意味がある」という類のものになります。



なぜなら、既に書いたとおり、「無意味が曖昧なグレーゾーンを守る」からです。

もしも、これらのグレーゾーンが失われた場合、どのようなことが起こるかについて考えてみます。



世界から曖昧さを排除すれば、すべてをプログラムしようとして、その上ですべてをルーチンで動かそうとすることになります。その世界では白黒はっきりしたものしか着目されず、曖昧なグレーゾーンは徹底的に排除されます。こうした排除を許す場合、曖昧な領域に属する多くの人や事柄が排除されます。



例えば、男なのか女なのかわからない容姿や心を持った人を想定しましょう。ここに、先ほどの「白黒はっきりさせる」という原則をそのまま適用すると、この人は基本的に排除対象となることになります。なぜなら、男なのか女のか、「曖昧」だからです。



もしも、白黒はっきりと決定しない曖昧な領域としての「無意味」が守られるのならば、こうした排除をあらかじめ防止できる可能性があることになります。



こうした例は基本的にたくさん挙げることができますので、みなさんも気が向いたら、色々考えてみると面白いかもしれません。参考までにもうひとつくらい例を挙げておきます。



例えば、時に「恋」というのは、それ自体安定的ではなく、感情の起伏を伴った不安定で曖昧とした感情であるともある程度言い得る場合もあると思います。そうしたはっきりとしない恋は、「淡い恋心」などという言葉で呼ばれることもあります。しかし、そうした濃淡のはっきりしない、淡い恋心はその存在の曖昧性から、白黒をはっきりさせるという環境のもとでは、排除の対象になります。このことから、無意味が失われて、過剰に意味づけばかりがもてはやされると、淡い恋心が社会から排除されてしまうと考えられます。



このように、グレーゾーンの排除、曖昧さの排除、無意味の排除は社会から中間的な多くのものを排除し、多様性を損ないます。多様性が損なわれれば、人々の生き方が画一化して、自由な生き方を選ぶ権利や自分のことをそれぞれに自由に判断する権利も損なわれることになります。プログラムから逸脱した自由な領域、曖昧なグレーゾーンの領域が、「無意味」という姿を取って、人間の自由な行動をある程度守っています。



そして、勉強とは、絶えず秩序を再構築し続けることであり、それ自体、プログラムから逸脱(無意味)的であるとともに、プログラム(意味)的でもあります。

絶えず秩序の再構築をし続けるということは、絶えず秩序の破壊と構築がなされ続ける状態であるとも言えます。つまり、勉強とは、秩序を新しく作り変え続けること、であるとも言え、「創造し続けること」であるとも言えます。創造はそれまでなかった新しいものを創り出すことですから、それまでなかったものはすぐには理解されないことも多く、つまり、すぐには「意味」を持ちづらいです。ならば、創造とは、基本的に「無意味」なものです。そして、その無意味なものが、やがて僕たちの生活に多大な意味をもたらす場合があります(冷蔵庫とか洗濯機とか創造した人はすごいですね。彼らの行った「無意味」のおかげで、私たちの生活は便利になり守られています)。



その意味で、勉強とは、絶えず「変化」し続けることである、と定義づけることもできます。



ならば、自分を変化させたい場合には、自分が勉強をすることが有効となります。



どのように自分を変化させていくかは、人それぞれであり、一概に白黒はっきりとは言えず、曖昧で、グレーゾーンです。なぜなら、創造、変化とは、無意味であり、それ自体曖昧なものなのであり、それが「勉強」の正体である、ともある程度言えるからです。



いずれにせよ、今がどんな状況にあるにせよ、もしも、なんらかの変化を求めるのならば、時に勉強をすることが有効な手段になり得るとは言えるのではないか、と思います。



以上のことから、勉強のメリットをまとめます。





1.何らかの「変化」をしたい場合には勉強が有効

2.勉強は無意味で曖昧だから創造的でなおかつ意味がある

3.勉強は無意味で曖昧なものだからこそ多様性と自由を守ることができる



今の自分から変わりたい人には、「無意味」で「曖昧」な「勉強」がおすすめです。