魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

個人

人はどこかに向かっているのだろうか? だとすれば、それはどこに? そのようにいくら自問してみても、答えが出ることはない。それは一つの世の摂理だった。答えはない、という摂理。

では、世界の持つ諸所の仮定を考慮してみればどうだろうか? うーん……。それでもやっぱり答えはない。

言葉の上では何とでも言える、とするような言説もある。これは言葉が極度に理念的であり、その概念の機能が現実から相対的に切断されることが可能であるために起こる現象である。だから、僕たちはフィクションを紡ぐことができる。虚構を構築することができる。

物質とは何の集積なのか? 物質とはその基礎としてはある種の穢れの集積である。精神的な物象とはそれらに対しては高潔なもので、より上位のものである。精神は集積しない。または、精神に付随的な傾向とは非集積性である。

精神とは、力であり、意志であり、資本であり、純正のエネルギーである。精神的であることはその基本として貴い。

一般には物質的であるほどにそれは堕落であり、精神的であるほどに立派である。

例えば、金品に釣られて行動する人間はどちらかと言えば、高潔とは言われにくい傾向がある。一方、精神的に行動する場合には相対的に物質から自由であり、そうした状態は人々の尊敬を集めやすい。自身の身体という物質を捨てて誰かのことを守ろうとすることとか。こうした極限的な状況において、人間が守っているものとは物質と言うよりも、より精神的な宝物である。人間が何らかの物質を守ることもあるかもしれないが、その場合にはあまり感動的ではない。ある人が恋人の形見の指輪を守るという時、その指輪という物質そのものを守っているというよりは、それらに付随した様々な精神的な記憶や思い出などを守っているとするのが、より現実味のある説明ではないかと思う。恋人の形見の指輪。

そうした精神的な現象としての「指輪」は様々な形を取ることがある。思い出、約束、友情、愛情、品格、魂、それこそ精神そのものであったりもするだろう。

精神の領域は物質の領域よりも流れが速い。だから、僕たちの精神はしばしば、物質界の説話を追い越すことになる。想像力や創造力と呼ばれる力によって。こうした精神の働きは「予期」と呼ばれる。精神が様々な思考や演算を行うことで、僕たちは様々な物質の行く末をある程度予期することができる。しかし、その精神界の流れはあまりにも速いがために、正しく認知することは至難の業なのであり、僕たちはよく「思い違い」をする。そうした正しくない予期は「妄想」と呼ばれることが多い。

妄想と言うと、否定的なニュアンスが強いかもしれないが、それとはつまり精神的なものなのであり、その意味で、現実界と呼ばれる物質の集合に比しては、より高潔なものである。

妄想は行き過ぎていたり、足りなかったりする。

不足的にせよ、過剰的にせよ、「丁度よくない」のである。

多くの現象についてのリズムはいたずらに速すぎてもうまくないし、遅すぎてもうまくないものである。ヘーゲルを持ち出すまでもなく。

妄想には活力は備わっている。しかし、その「量」が丁度よくないものとして、一般には認識される。

つまり、活力の強度を場面ごとに適切な量となるように調整してやることができれば、妄想はもはや妄想ではなく、優れた予期として現れることになるであろう……などと「予期」することもできる。

あらゆる論理は万能ではない。それらは形式的なものに留まることも多いだろう。また、言葉は多様な論理で構成されているようである。

AならばBである。そのような概念の接続とはとどのつまり何であろうか? もしもそうした論理が足りなかったり、過剰であったりすると、私たちはそこに妄想を認知するだろう。バナナならば高分子化学である……このままでは意味不明である。

しかし、そこには確かに活力がある。要はそのエネルギーをうまく振り分けてやることが重要なのである。意味不明に見えるそれらの「無意味」の中に未だ見出されていない真理が潜んでいる、とも言える。

僕たちは、妄想に囚われて行動している人間に強く関心をそそられる。人の関心を呼び起こすということは、それ自体心、つまり精神に関わった事象なのであり、高潔な事象なのである。恐れと畏れとは無関係なものではない。

妄想が一貫していても、分裂していても、妄想は妄想である。どんなに一貫した体系を持っていても妄想として判断される事象はあり得る。分裂している場合には「支離滅裂」などの概念に見られるように、分かりやすく妄想のレッテルが貼られやすい。

そして、僕はあらゆる人が多くの支離滅裂さを持っていることを知っている。むしろ、態度や行動が一貫している人の方が少ないように思われる。多くの場合、人は支離滅裂さと一貫性の両方を抱え、それらの中間にある。それが「正常」と呼ばれやすい状態である。中間に真理があるとする言説は珍しいものではない。かなりの人がそうした構造に気づいてもいるであろう。過ぎたるは猶及ばざるが如し、というのは一つの真理である。一方で、ある種の過剰さに価値を見い出す思想もあるだろう。論法によっては、中間が過剰であるなどというふうにも持っていける。例えば、「中間の取り過ぎ」などと一言言ってしまえば、容易くそのような帰結を生じさせることができる。全てのものは脆い。そのままでは。

だから、強度を上げなければならない。さもなくば、全てのものが崩れ去ってしまうから。全てのものが崩れ去り、幾多の残酷的な放射が直接的に人々に降り注ぐその時、そこには理想も法も道徳も良心も愛も世界も存在しないだろう。夢も希望もない。「残酷さ」とは、丁度そういうものである。

さて、あなたが信じるものとは何だろうか? どのような装置を経由してどのように強度を上げるのだろうか? 分かりやすく問うならば「何を信じる?」だろうか? あなたは何をどのように媒介してどのような決断を下し、どのような行動を取るだろうか? 誰かと愛し合うのだろうか? 友情を育むのだろうか? セックスに溺れるのだろうか? 孤独を貫くのだろうか? それはあなたの自由である。いずれの場合にも、あなたが精神の強度を向上させようと努めるのならば、如何なる障害もあなたの意志を妨げることはできないだろう。あるいは、死すらも。

何が正しいのか? それは殺生をしないことであり、生きることである。理念的には全てのものが生かされなければならない。ただ一つとして殺されるものがあってはならない。そして自由であることである。ただ一つとして奴隷があってはならない。最後に愛することである。ただ一つとして排除されるものがあってはならない。それが正義である。そしてこれは自明であり、なおかつ、誰にもその根拠を証明することはできまい。どのような思考もそこに至ろうとするなら、アンチノミーに粉砕されて見事に一巻の終わりである。僕はそうした打ち上げ花火を何度も目撃してきた。あなたにはおすすめしない。無論、あなたのその強度豊かな高潔な魂が求める道なのであれば、その行く手を遮るものはないであろうけども。あなたが知ったことは何だろう? あなたが失ったものは何だろう? 僕に言えることは、何であったろう?

あなたの意志があなたの道を切り開くだろう。これも予期である。あるいは一種の夢であるのかもしれない。僕の。個人的な。

 

 

もう少しくらい大人でいれたら なんて言えただろう?

 

(Aimer, "Ref:rain" 歌詞より引用)

 

 

 

P.S.直観術は比喩です。