魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

秘密術

言葉はいつもいつも人に通じるとは限りませんが、それなりに有効性を持っているという事実も否定しがたいのではないでしょうか。僕たちは普通に生きているだけでも、その利便性の恩恵に包まれているように思われます。

音楽もまたそれに似た性質があるでしょう。それとも、音楽などの芸術の場合には、利便性などと言う概念は有効ではなく、専ら美の問題となるのでしょうか?

確かにそういう可能性もあるでしょう。

しかし、僕たちには言葉による芸術という手段も残されています。

音楽と言葉は極限的な地点においては交差し得ると僕は思います。もちろん、それは極限的な地点、つまり理念に過ぎないとも言えますから、極限の存在を認めない人の目から見れば、空無に映ることもあるでしょう。そこには何もないというように。

これらの問題は裸の王様の問題に似ています。王様は果たして裸なのか? あの物語の趣旨とは裸の風刺に留まるのでしょうか? 作者の意図は僕にはわかりません。しかし、僕は、あの物語の筋に、単なる風刺以上の何かを感じるのです。

つまり、心の綺麗な人にしか見えないものは実際にこの世に存在しえるのではないか? という問題提起です。

存在と一口に言っても、そこには幾多の存在が根付いており、一概には言えないのですが、その中には確かに、心の綺麗な人にしか見えないようなものが存在するのだと、そう僕は思うのです。

読書の問題は比較的分かりやすい例になると思います。読書は同じ本を読んでいても、その行為の主体によって効果が異なります。または、忙しない思いをしていたり、身体の一部が痛かったりしても、気が散ってうまく読書ができなくなる恐れがあります。つまり、精神、心の状態の如何によって読書の効果は減少したり、増加したりするのです。こうした有様を僕たちは、「気の持ちよう」などと言うふうに表現することもあります。

つまり、見えるものは気の持ちよう、心のありようによって変化するだろう、という仮説です。ご参考下さい。

これは魔術の基礎となる理念の一つです。つまり、現象のありようは心の作用によって変えることができる……そういう信念。

世界は僕たちの心によって変えることができると信じています。

さて、美しい心には美しいものが見える。醜い心には醜いものが見える。この命題は正しいと言えるか? これは必ずしもそうとは言い切れない部分もあります。

例えば、美しい人が汚される時、美しい人は自分を汚すもののことを自身が美しい分、余計に際だって認知する可能性もあるでしょう。醜い人が美しい人を見て、その美しさに嫉妬するということもあるでしょう。したがって、少なくとも単純には、心の有り様とその視界に映るものとの関連を突き止めることはできないと僕は考えています。

しかしです。ある特殊なケースの話ならどうでしょうか?

つまり、一般的には美しい心とその視界に映るものとの関連はない。しかしある特殊な事物については美しい心にしか映らない、そのような神秘的な現象がある……という仮説です。

まず、そうした神秘的な現象、つまりある特定の主観にしか観測されないが客観的に存在していると言えるものの存在をないものとして仮定して推論してみます。この時、客観的な存在は全ての主観に観測されることになります。逆に言えば、全ての主観に観測されない存在は客観的ではないということです。では、僕の部屋にあるジル・ドゥルーズの『プルーストシーニュ』の本の存在はどうでしょうか? 僕の主観からすると、これは確実に僕の目の前に存在しており、もしも裁判でその存在の有無について争ったとしても、その訴訟に勝てる自信があります。なぜなら、それは明らかに僕の目の前に存在しているからです。しかし、その存在を論証することはできません。それでも存在している。このように言うと、宗教めいていますが、実際にその本は存在しているのですから致し方ありません。逆に言えば、全ての存在は宗教的であるとも言えます。いずれにせよ、以上の手続を見るに、ある特定の主観にしか観測されないが客観的な存在という一見矛盾して見える現象は、割に僕たちの身近に存在している可能性があります。僕の『プルーストシーニュ』が僕以外のすべての意識に現前していると考えるのはいささか無謀です。僕は今現在、僕の部屋にいて、火事や地震に見舞われず、盗難にもあわずに、また特別には他人に見せることもなく抱えているその本。その固有の僕のプルーストシーニュ。おそらく、この存在を現在、確定的に知りえているのは僕だけでしょう。今、ここにその存在を明かしてしまいましたので、みなさんは僕の秘密を知っているわけですが(笑)

この世界には秘密の存在がありえます。僕も知らないことがたくさんあります。しかし、僕が知らないことを知っている人はたくさんいます。このように、ある条件を満たした主体にしか見えない事物というのはたくさんあり、それらは秘密と呼ばれます。

僕は、この世界には幾多の秘密が存在する可能性があると主張します。秘密は、たとえ真実を全て話したとしても消えることはありません。なぜなら、どんなに秘密を暴いていったとしても、必ずその奥という謎の存在が生じるからです。あらゆる物事には奥行きというものがあり、それは秘密にもあります。そして、その奥行きが新たな秘密を絶えず生成し続けるのです。

分かりやすく考えてみましょう。秘密A、秘密B、秘密Cの三つの秘密の存在を仮定します。この時、暴露者が秘密Aを明かしたとします。その奥には秘密BとCが残っています。Bを明かします。その奥にはCが残っています。Cを明かします。その奥にはDが残っていると暴露者は思うか、あるいはその可能性を否定しきれないでしょう。つまり、秘密とはそれ自体秘密なのであり、切りのないものです。秘密はどんなに明かそうとしても、原理上、絶対にその全容が明かされることはありません。少なくとも、この世界に「奥」がある限りは。奥のまた奥にはさらなる奥があり、その奥にはさらにさらに奥があります。秘密は奥に奥にと押しやられ、無限の彼方に隠されます。その意味では、人間はどのような秘密も暴くことはできません。秘密とは奥という結界に守られた神聖なものの一つであり、それ自体が神々の秘奥です。また、女性の話を持ち出すまでもなく、秘奥には美がありえます。

それらは奥へ奥へと絶えず人間には決して追いつくことのできない速度で進みます。秘密は、この世界を作った神々の守護により永遠に守られ続けます。この世界の誰にも、その秘密を暴くことはできません。

秘密の暴露には意味がありません。なぜなら、そうした暴露はありえないのであり、それ自体が欺瞞だからです。

あなたはたとえ裸になったとしても幾重もの美しい衣服を着ているのだ、ということであり、そういう一つの秘密です。そうしたあなたの美しい衣服の数々をあなたが愛し、あなたを愛する人は見るでしょう。しかし、それらの秘密はその他大勢の人に対しては開かれておらず、明らかにはならないでしょう。あなたとは一個の秘密であるとも言えます。そして一個の秘密は、二個になり、三個になり、四個になり……多数個にもなります。疑念はそれを持つ限り、尽きることはありません。どんなものでも疑うことができるからです。もちろん、原理上はあなたの存在を疑うことも可能です(存在とはそういうものです)。しかし、あなたは存在しています。そのままに。幾多の秘密を抱えて。あるいはそのように、ありのままのあなたの存在を信じることを「愛」と呼ぶのでしょう。あなたを知る人をあなたは愛するでしょう。