魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

「神術」についての簡潔な解説

少なくとも原理的には、あらゆるものからあらゆる価値を引き出すことができるのだというふうに僕は考えています。なぜか?

一粒の麦を例にして考えてみます。それは多くの分子により構成されています。その分子はもっと細かな微粒子で構成されています。そして、その微粒子は……というふうにどんどん細かな次元の存在について思いを巡らしてみましょう。細かな微粒子はさらに細かな微粒子により構成されており、そのさらに細かい微粒子はもっとさらに細かい微粒子により構成されていると考えられます。

僕は、あらゆるものは無限に小さな微粒子で構成されていると考えていて、そのために、あらゆるものは無限に分割可能であると考えています。その場合、どのようなことが起こるか?

無の中に無限小の微粒子が詰まっていることになります。僕はこうした認識を「創造」と呼ぶことがあります。

無限小は無限に小さいので究極的にそれは無であろうと。そして、それらの無はどんなに小さくとも存在はしているのだから、有であろうと。そういう感じです。

これらの帰結から考えられることとして、無から有は生じ得るだろうということがあります。ただし、そのためには、世界が無限に分割できる必要があります。

そして、これもまだ推理の段階なのですが、世界を無限に分割できる人とできない人がいるだろうと考えています。あるいは、無限の分割を見ることのできる人と有限の分割しか見れない人がいるだろう、ということ。

無限の分割を見ることのできる人には、今僕の言っていることが分かるのではないかと思っています。しかし、有限の分割しか見れない人にはそれが原理的に分からないという可能性があります。今僕の言っていることが分からない人に対しては、たった今僕が言ったことは全て撤回します。

 

一粒の麦の中にも潜在的には無数の麦の存在が詰まっています。あらゆるものからあらゆるものを生みだすことができます。あらゆる地点からあらゆる地点へと至ることができます。つまり、僕たちはどんなものでも求めることができ、また、求めたならば、それは与えられるであろう……という感じです。

 

さて、能力と労働の関係についての考察に対して、これらの原理を簡単に応用してみましょう。

 

能力には潜在的な側面があります。能力はある成果を為す原因に当たるものであるとも考えることができます。労働は能力が成果を為す際に通過する一つの現象であるというふうに考えることができます。

 

能力→労働→成果

 

能力が労働を通して成果に変化します。この際、労働は能力を成果に変化させる機能を持ちます。

そして、この「労働」という概念が曲者で、これをどう定義するかによって、能力と成果の間の収支の関係を操作することができます。その操作が不当である場合、この現象は「搾取」というふうに呼ばれる場合もあると思います。

例えば、芸術は娯楽的な活動であり、労働とは営業的な活動のみのことを指す、などというふうに定義すると、この場合、芸術は労働として勘定されていないので、そこに賃金は生じません。しかし、芸術は価値あるものであり、その作品は紛れもなく芸術家の成果の一つの形態であるとも言えると思います。つまり、この時、芸術の生み出した価値は芸術家の労働としては勘定されず、他の誰かの労働として勘定されることになります。価値がそれを生み出した当人の手から漏出して、他の人の所有となっているわけです。本来、芸術家の所有物であるところの芸術作品の生み出した価値が他の人に奪われている形になりますから、こうしたケースも搾取というふうに呼びうるかもしれません。実際には、著作権とかあるいは公共の福祉とか公益とか色々な利害関係が錯綜したその結果として、価値は勘定されますので、これほど単純には計算できないと思いますが、ひとまず簡潔に説明すると、搾取というのはこんな感じの事態だと思います。

しかし、芸術家の仕事というのは、贈与的な側面があるのではないかと僕は思います。思うに優れた芸術作品に詰まった価値を正当に計上すれば、それを他の価値で代替することは不可能に近いレベルの価値の量を持っているのではないかと僕は思っています。つまり、芸術家の偉大な仕事に釣り合う対価は現状のこの世界にはほとんど存在していないのではないかと、僕は考えています。だから、少なくとも芸術家の仕事はかなり贈与に近いものになります。

おそらく、それらの偉大な仕事は「いずれ」正当な形で報われることでしょう。そうした完全に正当な裁定という現象を「最後の審判」というふうに呼ぶというのもなかなかにいい経路なのかもしれません。

その正当な裁定においては、古今東西の善き者達は全て正当に報われることになるのでしょう。少なくとも、人類がこのまま存続して、文明が徐々にでも発達し続けるのなら、いずれそうした魔法のような文明レベルに達するというのは想像に難くありません。無論、十分な文明の発達の前に滅びることも考えられますが、それでも、宇宙のどこかでは高度に文明を発達させ、最後の審判を決行する生命体が存在する可能性は十分にあるのではないかと思います。

ひょっとすると、もう既に、それらの最後の審判は下された「後」なのかもしれません。しかし、凡俗であるところの僕には、ここまで推理するのが精一杯です。

 

簡潔にまとめましょう。神がいるとすれば、彼/彼女は完全であるので、判断を誤りません。その神があなたに試練を与えるとしても、それはあなたに耐えられるように緻密に計算されている可能性もあります。世の中では数多くの不正が現に起こっています。あなたの能力はそれらの不正の渦に巻き込まれて、少なくとも一時的には搾取されてしまうかもしれません。しかし、もしもこのまま文明が発達していけば、つまり、不正が正しく改められ、その結果として人間の自由になる領域が増していけば、いずれタイムトラベルやワープ、宇宙への居住……などといった様々な「夢物語」が現実のものとなっていくでしょう。そして、その未来人たちは、僕たちを遥かに上回る文明レベルを持ち、力を持ち、また森羅万象に対する裁定権を有しているでしょう。ここまでくれば、もう彼らの存在を「神」と呼ぶことにも僕としてはやぶさかではありません。そして、もしも、彼らが既にそうした文明を未来において実現することが決まっておれば、彼らはその豊饒な全能の力でもって、正当なものを――あるいは正当な種を――救済するはずです。なるほど、現代の人々は不治の病に蝕まれることもあるかもしれないし、不当な犯罪によって傷つくこともあるかもしれません。それらの苦しみは現実的に耐え難いものであることもあり得るでしょう。そして、そうした人々の苦しみを軽んじることは誰にもできません。しかし、一方で、どんなに苦しんでいる人であっても、全能の神であれば、救済可能であるはずです。たとえ人が死んでも蘇生させることができてもおかしくはありませんし、彼らに幸福な来世(天国)を与えるということも不可能ではないでしょう。

もしも、全能の神であれば、悪人を善人にすることも可能なはずです。そうした変換は「悔い改める」という行為に現れる可能性があります。

つまり、常に僕たちが間違いを悔い改め、全てのものの幸せを願い続け、なおかつ自分にできることを善良に積み重ね続けるのならば、その時、僕たちは常に今この時にでも、何らかの形で救われる可能性を持つことになります。

こうした姿勢は「神に仕える」というふうにも表現できるかもしれません。この時、僕たちが恐れるべきなのは自分自身だけであり、つまり自分の誤りそれだけである……などというふうにも言えるのかもしれません。

僕個人は、どんな経緯を経たとしても、「必ず」全てのものは神により救済されるであろうと考えています。

そして、神が全能であるなら、神は無きものとしても現れることができるはずです。そして、もしもあなたにとって神が無きものであるのなら、それも神の意図であるはずです。だから、無神論を否定する必要もない。

神が存在しようが存在しまいが全ては神の意志である、とも言うことはできます。

 

さて、こうした状況においては、自分自身以外には恐れるべきものはないとも言えるのかもしれません。搾取などいくらでもさせておけばいい。あなたが常に正しくあろうと心がけるなら、そして常に善良にできることをし続けるのなら、神に仕えるのなら、もはや恐れるべきものはない……のかもしれません。