魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

孤独とか幽霊とか著作権とか商業手法とかについて色々。

散漫術です~。

 

孤独について。

 

考えてみれば、人間って結構なことができるんだよな、とふと思いました。「できる」ってどういうことなんでしょうね? 「可能」とか。「能」という漢字について調べていくだけでもなかなかに楽しいことになりそうです。月並みな問題としては、何が可能で何が不可能なのか、というような分類があげられるかもしれません。そして、もっと突き詰めると、「分類」って何? どうやって分類しているの? ってなります。僕は。僕たちは色々なことを瞬時に分類しながら生きている側面があるかもしれません。なぜかは分らないけど、リンゴは果物で、トマトは野菜……などというふうにカテゴリーに分類されていく。それもほぼ自動的に。特に考えなくても、なぜかそのように条件反射的に分類されていく。分類……謎の概念です。何せ、特に何も考えずとも分類されているのだとすれば、それはもしかしたら本質的に思考と無縁のものなのかもしれませんし。「無縁」。もしも本当に思考と分類が無縁のものなのだとすれば、思考は分類から自由だし、分類は思考から自由なのかもしれません。「縁を切る」ということによって自由を獲得するという図式。僕たちは縁を切れば切るほど、自由になっていくのかもしれません。

さて、「可能」とは一種の自由なのかもしれません。何かができるということはそれだけ何かについて自由にできるだけの裁量を保持している、ということなのかもしれません。もしそうなら、可能を増やすために、つまり自由を増やすために、縁を切り続けていく、という手法も考えられるのかもしれません。この時、究極的に無縁な状態とは、どんなものとも縁のない孤独な状態であるでしょう。もしも、何かを可能にする原因としての力を「能力」と呼ぶのなら、能力とは本質的に孤独にこそ宿るものなのでしょう。その意味では、「引きこもり」などの行為は高い能力の証左となるような場合もあるのかもしれません。

さらにもしも、そうした孤独な能力が縁を切ることによってもたらされるなら、無縁によってこそ、一種の権威が生じてくるのかもしれません。孤独の中の権威。それは「孤高」というものなのかもしれません。

縁を切るほどに、能力を増し、自由にできる裁量が増え、権威を得ることができるのだとすれば、無縁であるものとは、一種の「神」であることでしょう。そして、もしも、自由こそが人間の幸せなのだとすれば、こうした可能な能力は人間に望みうる限り、最も程度の強い幸福であるのだ、ということすら考えられます。

僕たちは今一度、「孤独」についてよく考えてみるべきなのかもしれません。孤独は本当に罪なのかどうか。孤独を毛嫌いしてしまう人間たちには何の問題もないのか? もしかすると、徒党を組んでいる人たちよりも、孤独な人たちの方が一層高いステージに足を踏み入れているのかもしれない、僕にはそのようにも思われます。

 

幽霊について。

 

幽霊の存在の二重性については、面白いことが色々と考えられるような気がします。つまり、幽霊は存在するが存在しない、そういう何かであるとも考えられます(この時、幽霊は「存在」という存在様式と「存在しない(無)」という存在様式の二つを保持しているようにも思われます。こうした存在の二重性は幽霊的なものなのかもしれません)。

さて、果たして、幽霊は「孤独」なのでしょうかね? 幽霊というのは地上の因縁を引き継いでいるものでしょうか? もしもそうならその因縁の数だけ、能力は低下し、能力の低下に従うようにして、孤独は失われて行くのでしょう。しかし、どうでしょうね。幽霊というのはどことなく、寂しげな雰囲気があるような概念であるように思われます。もしそうなら、幽霊とはあくまで孤独なものであり、孤独で何事とも無縁である限りにおいて、かなり能力の高い存在なのかもしれません。「地縛霊」というのはある土地に束縛された霊のことをいうのだと思うのですが、これも何かへの因縁を引き継いだせいで、能力が停滞している事例の一つであるといえるかもしれません。地上の物質というのはすべからく重力によって束縛されているので、その意味では、僕たち人間はみんな地縛霊のようなものなのかもしれません。ただ、霊というのには宙に浮いているようなイメージがあります。すると、霊というのは物質としての人間よりはずっと軽々と自由な存在なのかもしれません。少なくとも、ある種の重力の影響を避けることができるのではないかと思われます。空を飛ぶということ。飛躍の概念。

 

著作権について。

 

僕は理想的には著作権自体に反対の立場なのですが、この辺りの問題も非常に難しいな、と思います。おそらく、言いようによっては、「全ての作品は二次創作である」とも言えるし、「オリジナリティとは幻想である」などとも言えると思いますので、著作権の規制を厳しくしていくと、すべての創作物が抑圧されていくのではないか、みたいなことを思います。そして、芸術家たちの創作活動を圧迫していけば、文化も衰退していくと思いますので、著作権が厳しくなるのにつれて、どんどんと僕たちの文化的な生活が衰退していくことにもなりかねないのではないか、というふうにも感じられます。

現実的に著作権が必要なのなら、それはそれでしょうがないと思いますが、少なくとも言えるのは、あまりに著作権を厳しくしすぎないほうがいい、ということではないかと思います。確かに人のアイデアを盗み、搾取して自分の功績であるかのように偽装したりする人もいるのかもしれませんが、それを取り締まるために、多くの芸術活動を圧迫するのはあまりコストパフォーマンスがよくないのではないかとも思います。僕は面白い作品がどんどん見たい。そのためには、芸術家達が広々と活動できる「自由」が必要です。「著作権」という「口実」によって、芸術家たちの芸術活動が損なわれることのないよう、僕としては祈るような思いです。とかく自由というのは能力を養成するためには大切なものなのだと思います。そして、普通に考えて、能力の高い方が色々な勝負において有利なわけですので、なるべくなら規制は少なくして、自由を保った方がいいのではないか、と僕は思います。

 

商業手法について。

 

少し商業手法について。

まず、芸術家は自分のパトロンになってくれる「優しい人」を見つけるのが手ではないかと思います。パトロンというのは芸術圏と経済圏の間の「交渉」を引き受けてくれる人なのだと思いますが、これには卓越した能力が必要です。少なくとも、芸術と経済、双方ともに深い理解を有している必要があります。どちらか片方だけが出来る人ならそれなりにいらっしゃると思いますが、このどちらもを備えている人はほとんどいないのではないかと思います。結果、芸術圏の人々は経済圏の人々を見下し、経済圏の人々は芸術圏の人々を見下す……などという運動が生じてくる、という場合も出てくるかもしれません。実際には、芸術も経済もどちらも由緒ある重要な分野に違いないのですが、人間は一般に狭量な側面もあって、ポジショントークに終始しがちであるという点も気を付けておいて損はないかもしれません。

無論、芸術家がパトロンを食い物にするのであれば、それは芸術家が論外ですし、パトロンが芸術家を食い物にするならば、それはパトロンが論外でしょう。その場合、おそらくは、彼らは真の意味での芸術家ではないし、パトロンでもないのだろうと思います。

芸術圏の力は実はそれなりに独立的なものなのだと僕は考えているのですが、一般には経済圏がすべての中心である(資本主義)とする考えが主流なのかもしれません。しかし、芸術には人々を感動させるというものすごい力があり、こうした力は人間の持ちうる力の中でも、最も偉大なものです。

芸術が昔から現代まで受け継がれ、ここまで隆盛しているのは、一言でいえば、偶然ではない、のだと思います。

芸術家はまず、自分のパトロンになってくれる人を見つけ、その人のために創作をすることでまずは基盤を確立し、その後に、極力、自由へと人々を導いていく、というのがいいのかもしれません。

お金は「厳密には」必要とは言えないものですが、世の中にはお金の絶対化という幻想にとらわれている人も多いように思われます。そうした囚われから人々を開放し、人々を自由な認識へと飛翔させるということも、芸術家の役目の一つとして数えられるかもしれません。

しかし、お金を「利用」するのは一つの手としてありでしょう。既存のシステムがあまりにも不正な場合には、それは壊すことで再起動させる必要がある場合もあると思いますが、正当性が十分にあるのなら、それを利用するのも手です。しかし、お金に囚われてはいけない。そうした「因縁」とはその縁を切らなければなりません。そのことが、芸術家の能力を発達させると考えられるからです。

芸術家は自由です。清貧でも能力があればそれでいいし、富豪でも能力があればそれでいい。しかし、そもそも能力を養成するには縁を切ること、つまり無縁、そのことによる自由が必要なのであり、まずもって極力は自由にすることが基本ではあるのではないかとも思います。それは本当は特別な設備を必要とするものではありません。少なくとも、普通の設備があれば、いくらでも作品を生産することは、ある種の才能があれば難しくはないのではないか僕は考えています。

僕も色々と考え、色々なことを試していこうと思っています。

才能には学歴も地位も収入も関係ないと思います。その意味では、才能のある人はどこにでもいます。しかし、それゆえに、どこにいるのか、まったく分からないのです。

また、どこにでもいる「可能性」のある自由で孤独な天才たちですが、彼らは極めて希少な存在でもあります。確率的には出会うこと自体が難しいかもしれません。

しかし、僕は思うのですが、もしもあなたが彼らに出会うことを望み、真摯にその才能を磨き、努力するのならば、そしてもし、その才能が天才の域に到達するのならば、その時にはあなたの作品は天才たちの目に自然と留まるのかもしれません。

学歴のある人のことは学歴のある人にしかわからないし、地位のある人のことは地位のある人にしかわからないし、収入のある人のことは収入のある人にしかわからない……などというふうに考えるその時、その一連の流れになぞらえて、「天才のことは天才にしか分らない」、とも言えるのかもしれません。僕は決して天才ではないので、こうしたことについては究極的にはわからない、と結論するしかないわけですが。それでも、僕はそのようにも感じています。

さて、僕も色々と精進していきたいな、と思います。

自分に為し得ることは何か? そして自分に「できる」ことにひたすらに励んでいきたいと思っています。もしもそうした行動が、少しでも人々の助けになるとするなら、僕としては僥倖です。

 

 

~今日のポイント~

 

1.孤独は能力を養成するのに適しているかも。

2.能力は自由の幅を広げるかも。

3.能力からお金を得るには優しい優れたパトロンを見つけるか、自分がその役割を兼ねるのがいいかも。

4.天才は「どこにでも」いるけど、とても希少な存在でもあるので、出会うことは確率的には難しいかも。

5.天才に出会うためには、まず自分の能力を磨くのが第一手になるのかも。

 

 

参考文献

網野善彦,『無縁・公界・楽 ――日本中世の自由と平和――』,平凡社,1982