魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

佐奈と小夜

 佐奈は小夜と仲良しである。とてもとても仲良しだ。これ以上ないくらいに。

 佐奈は小夜とたびたびセックスした。秘密のセックスだ。何せ、佐奈も小夜もどちらも性を拒絶していたので、通常の性的な規範からは明らかに逸脱していたし、そうした<異常性>というものは世の人々には拒絶され、彼女たちの間に生じている幾多の事実の類が公に露見することには、大惨事となることが目に見えていたからである。普通、人々は自分とは違うものを嫌う。孤独なものを。

 佐奈は引きこもりがちな生活をしていて、インドア派だ。

 対照的に、小夜は、外交的な気質で、何事にも挑戦してみるという傾向があった。

 佐奈は記憶力にずば抜けているが、小夜はよく忘れた。しかし小夜は極めて運動神経が良く、創造的な資質に恵まれていた。

 まったく共通点がないかに見える二人だった。おそらくは、相補的な部分すらないだろう。彼女たちはしばしば喧嘩した。多くの理論的見地において、どんなに議論を重ねても、永久に一致を見ることがなかった。

 もしも、<意見が同じ>ことが仲の良さを示す証左なのだとするなら、彼女たちは間違いなく仲が悪かった。

 にもかかわらず、彼女達の互いに対し抱きあっている感情は愛に他ならなかったし、それは相補性にも還元され得ないような、圧倒的な互いの異質性に裏付けられた愛であった。

 

 佐奈はプログラミングをしていた。あるデータの相関係数と共分散を調べる簡単なプログラムだった。使っていた言語はPythonだった。佐奈はプログラムをしているうちに、だんだんと小夜の滑らかな肢体のことが思い出されてきて、ムラムラした。しかし、佐奈はそれをバネにして、より意欲を旺盛に、学習や実践に乗り出す気質を持っていた。ただし、インドアである。佐奈はありとあらゆる情報を普通の人達よりも容易に記憶することができた。スポーツなどの運動も自分の記憶の中に構成された範疇に収まる領域のものであれば、とても得意だった。佐奈は純粋に<記憶>が好きだった。記憶的な人間である。記憶を愛した。

 対して、小夜は非記憶の人である。まさに、佐奈と小夜が巡り合えたのは奇跡的な出来事である。何せ、彼らの領域は全くと言っていいほど、共通点がなかったから。強いて言えば、彼女たちは自分の意志を持っていた。つまり、周囲の常識に流されることによって異質なものを排斥することがなかった。彼女たちは異質なものを愛する、という性質を持っている。小夜は、ポンポンポンポンと次から次へと、見事に、様々なことを忘れた。しかし、その<柔軟性>は佐奈をはるかに上回っていた。なんでもすぐにマスターするが、なんでもすぐ忘れる。そういう資質だった。表面上は。

 

 佐奈は絵がとても上手で、小夜は音楽がとても得意だ。佐奈は絵画的で、小夜はとても音楽的だ。佐奈は直観像記憶を持っていたし、小夜はある種の絶対音感というか共感覚のようなものを持っていた。彼女は佐奈にだけそのことを話していた。小夜は「霊が見える」とよく言った。

 小夜によれば、付喪神とは共感覚現象のことで、付喪神を<モノにする>ことで様々なことを記憶なしに、己の術とすることができるのだという。

 佐奈はある時、小夜のその資質について向学心を持った。

付喪神というのは一種の抽象法則みたいなもの?」

 佐奈は小夜にそう尋ねた。

 小夜は一つ頷くと、

「私は確かに抽象的。」そして、「貴方は具体的だね」

 と言った。

「小夜はIQ的なのかな?」

 佐奈は腕組みをしてそう聞いた。ついでに頬を掻いた。

IQ?」

 小夜は笑った。

 ちなみに佐奈には何が可笑しいのかは分からなかった。

 

 佐奈はよく<ハッキング>をした。しかし、彼女の言うハッキングは、コンピュータ領域に限定されるようなものではなかった。逆に言えば、彼女にとっては、あらゆるものが<機械>であった。そこに神霊の余地はなかった。少なくとも、外側からはそのように見える。彼女は記憶を用いて、機械をハックし、自分の目的を遂げる。彼女の視野は、ジル・ドゥルーズやフェリックス・ガタリなら、<メカスフェノール>とでも呼ぶかもしれない。機械圏。

 佐奈の視野では、あらゆるものが複雑にねじれている。その視野にマルコフ性が成立しているのかどうかも分からない。もしかすると、現在を飛び越えて、過去から<直接に>未来へと影響を及ぼしているのではないかというほどの<ウィザード>ぶりだった。それくらいに、彼女は過去の人、つまり、記憶の人だった。彼女は過去を司る。記憶を司る。だから、あらゆる例証に通じていたし、あらゆる事例に通じていた。そして、そのことが、彼女にあらゆる物事に<アクセス>する権限を与えた。彼女は全く神霊の類を信じてはいなかったが、しかし、発達した科学と発達した魔術とが区別不能であるとする説にはほぼ完全に同意していた。

 

 小夜はしばしば、お月見をした。彼女は天使よりも悪魔を好んだが、実際にはどこまでも天使からの寵愛を受けている類の女の子だった。先述のとおり、佐奈とはよく喧嘩した。小夜には巫女のような資質があった。あらゆる発想をあらゆる発想に対して繋げることができた。それも完膚なきまでに<有効に>そうした<創造>を行うことができた。小夜は、佐奈よりも、話すことが得意であり、その資質としてソクラテス的である(佐奈の資質は記憶的でありながら、痕跡的であり、逆説的にある種のデリダ的なものであった)。

 

 天才でありながらも引きこもりがちである佐奈は何となく、天岩戸に引きこもった天照大神を思い起こさせる。同じ天才でも、外交的な小夜とはまったく所持している経緯や事情が異なっていた。天才の独創性はすさまじく、<すべての天才に共通の特徴>などというものは存在しない。彼女たちはそれぞれにそれぞれの道を歩みながらも、それぞれに絶えることなく、その時々に<完成>し続けている。天才は、どこにでも、いつであっても、ある日突然に生まれる可能性を持っている。どんなに上手に遺伝子を科学技術によって制御しても、どんなに厳しく環境を支配しても、天才の誕生を妨げることは誰にもできない。それらはあらゆる統計的法則に逆行するような形で、――つまりは圧倒的な希少性、例外性の発露として――この世に生まれてくる。あるいは、そもそも天才とはそうした天から愛された例外的な存在のことを言うのだ、などと言ってもいいかもしれない。彼らの為した偉業はまず、多くの人々に驚きと嫌悪の念を与える。驚きは、一般に人が生きるために有用なものに対して感じる感嘆や賞賛の念の一種として生じ、嫌悪は人々が天才に対して抱く嫉妬の念から生じる。いつの世でも天才は大なり小なり不遇なものであるが、彼らのおかげで世界が保たれているような側面もある。

 天才に嫉妬する凡庸な人々からすれば、天才は目障りな存在である。多くの場合、人々からは天才が天才であるがゆえの苦しみがあまりよく見えていないがために、人々は天才たちに対して容易に嫉妬の念を抱いてしまうのだが、もしも彼らが天才についての全容を知った後にも、そうした嫉妬心を維持できるのかどうかというのは一つの面白い話題でもある。凡庸さは、あらゆる天才を駆逐しようとする。なぜなら、天才が例外的な存在であるから。天才が凡庸ではないから。排他性とは一種の凡庸さの発露でもある。底抜けの寛容性や優しさが一種の天才の発露であるように。

 

 世には天才に憧れ、それになりたがる人もいるかもしれない。しかし、天才の道は少なくとも一般には絶大に<苦難>の道であろうと思う。最近では、一般的な苦難に個人的な快楽を感じる人がいるとする言説もある。こうしたことが起こることも、もしかしたらあるかもしれない。もしもそうであるなら、人と違った感性というのはそれだけで財産である。人と違ったことに快楽を感じ、人と違ったことに苦難を感じるという独特の感性。そうした個体は嫌でも独創的な方角へと邁進していくであろう。そこには勝手に希少価値が生じる。苦難に対して快楽を感じる人がいる、とする仮説はかなり有用な命題の一つである。これの如何によって多くの物事の理路が変化してくる。この問題は「苦難とは何か?」とする説に関わってくる。一般に苦難と快楽とは別の概念であるから。天才は苦難を苦難として感じず、快楽として感じることもあるのかもしれない。あるいは、苦難をその才能によって馴致することができるのかもしれない。個人的には、天才とは一般的な意味での不幸すらも自身の糧にできてしまうような人種なのではないかと感じている。彼らは不幸の中に甘んじているように見えることがある。彼らには独特の、しかし普遍的な正義感がある。普通の人なら悲鳴を禁じ得ないような類の苦痛を、彼らは活かすことができるのかもしれない。しかし、苦痛や苦難というのは高度に主観的な観念でもある。完全に客観的に数量化することは、少なくとも現時点ではできないだろう。そもそも<客観>的とされている事柄に、どの程度の意味が宿っているのかについては、私にも今一つわからないのだけど。

 

 

「小夜は将来どんな仕事をしたいの?」

 佐奈は小夜の隣に寝そべりながら、そう聞いてみる。

 小夜は、

「さあね……わかんない(笑)」

 と言った。「貴方は?」

佐奈は唐突に自分に対して、疑問を差し向けられるのが苦手だった。特に小夜の用いる筋がすべからく苦手だったが、だからこそ、小夜のことが他の何にもまして、愛しいのだった。自分の持ちうるあらゆる戦略や戦術、ハック、知識、技術……そうした諸々の物事を容易く乗り越えてきてしまえる小夜のその才能。

「……」

「佐奈?」小夜は微笑んで、小夜に見惚れて黙っている佐奈にそっと口づけた。

 小夜は桁外れに直感が優れている。彼女には直感的に物事の本質を見抜き、様々な事物を味方につけてしまう、戦略的、芸術的能力がある。

 

 ある日、彼女たちのもとに問題が起こった。なんと同時に、二人とも、それぞれに、男性に告白されたのだ。しかし、彼女たちはそれを断った。男性からのアプローチを断ることに関して、彼女たちは阿吽の呼吸を持っていた。それは彼女たちが神霊的に通じ合っていたからかもしれないし、あるいは機械圏において、機能上の連結を為しているためなのかもしれない。彼女たちはあまり生殖に興味がなかったし、お互いのことがとても大好きだったので、他の人が目に入る余地もなかった。お互いがお互いに対して、並々ならぬ信頼と感情を持っていて、お互いの異質性が、彼女たちにとってはとてもとても心地いいのだった。彼女たちは、自分には制御できない天災のような人が好みであったわけである。実に、変わった好みをしている。普通、人は天災を避け、恐れるのが定石(定跡)であるのに。ちなみに、佐奈は将棋が得意であり、小夜は囲碁が得意である。将棋と囲碁では、その性質が異なっているが、その異質性は、佐奈と小夜の違いによく似ている。

 

 ある時、小夜は落ち込んでいた。自分が人を拒絶することが、その拒絶された人にとってどのような意味を持ち得るかについて悩んで。

 佐奈はそんな小夜を慰めて言う。

「大丈夫だよ。小夜は美人だから色々と大変だろうけど、私がいるんだから、他の人のことなんて考えない! 考えない!」

 小夜はぼうっと佐奈を見ていた。そして、佐奈にしがみつくと泣き出してしまった。

 小夜はとても繊細な心を持っていて、よく泣いた。

 佐奈は「小夜は美人」というふうに、助詞としてあえて<は>を用いたが、これは佐奈の一種の戦略であった。どのような戦略かというと、小夜に「佐奈も美人だよ」と一言言わせるためのものである。小夜にはそうした佐奈の<戦略>が手に取るようにわかるので、――そうした戦略の稚拙さを呈してしまう事態というのは、佐奈にとってはとても珍しいことなのだ――、笑ってしまった。

 

 佐奈も小夜もこの世界に生きるには、あまりにもあまりにも繊細過ぎた。世界は常に、彼女たちにとって過酷なものであった。ありとあらゆるものが、彼女たちの柔らかな心の襞を抉り傷つけるのだった。彼女たちは天才だった。

 

 しかし、彼女たちには、世界の残酷さに負けないだけの<抵抗力>のようなものもある。彼女たちのそうした精神的、社会的、物理的なものとしての<免疫機構>は極めて強力である。だから、彼女たちは、きっと、この先も、色々と傷つきながらも、何とか生き残っていくのだろう(天才だから、美しいからと言って、楽な人生を歩めるわけでもない)。

 

 次第に、彼女たち二人の能力は混じり始めた。つまり、佐奈は小夜的なものを、小夜は佐奈的なものを培い始めた。しかし、不思議なことに、そうした能力の混淆にもかかわらず、彼女たちの独自性はどこまでも高まっていくのだった。

 

 佐奈の<付喪神(守護霊と言ってもいいかもしれない)>は、どうにも記述するのが億劫なそれなのだが、何というか、短気で思慮を欠き、でも純粋で素朴で素直な子だった。戦略的思考を自負している佐奈とはかなり異なった傾向を持っている。

「能力は一緒にいる人と混じり合うことがあるんだね」

と佐奈は小夜に言った。

小夜は、

「朱に交われば赤くなる?」

と疑問形。

二人は、コーヒーを飲んだ。

 

 佐奈の付喪神についての分析。

 付喪神は、ある道具に付着する情念のようなものらしい。それらは我々人間と同様に自律性を持って行動しており、ある時に顕現する。顕現のタイミングは完全に付喪神の自律性によると言わねばならないが、それというのも、その出現確率のランダム性による。ある現象が生じる時に、こちらにコントロール権限が委ねられないのなら、もはやそれは道具ではないが、付喪神とはこうした<道具が道具でなくなる>タイミングに生じる何者かであるということは言える。こうした現象が科学的にどうかというのはとても難しい問題だが、それは高度に観測上のそれである。つまり、人間の意識上にそうした付喪神のようなものが生じるとして、それはその人の意識上のものなのか、客観的に存在する何かなのか、という点が肝である。さて、ある対象が、観測者によって異なるstateを呈するということはあり得るだろうか? これはあり得る。例えば、私にだけ見られる小夜の姿がある。こうした帰結が付喪神の出現の際にも表れるのだろう。物事を道具としてしか思わない人と、<愛着>を持って大切にする人とでは、全く異なった風景を得る。見えるものが異なれば、能力の形式も異なってくる。能力の変化は、才能の開花や退縮として現れるだろう。その帰結の如何は、道具との共感可能性(共感覚といってもいいかもしれない。)による。科学においては、共感性の概念への批判も見られるが、このことはそれほどまでに共感概念が強力なものであることを示しているのだろう。<もの>と共感すること。道端に落ちている石ころと共感すること。その時、その石は付喪神となり、貴方に神霊としての無限の力を授与するだろう。

 

 小夜の付喪神についての解釈。

 付喪神は友達。友達だから、私が困っている時に色々と手助けしてくれる。感情と理性の対立は難しい。付喪神も、感情と理性の対立を持っていて、そこには自由意志がある。人間も神も、それぞれに、それぞれの生活を抱えている。互いに排除し合うには及ばない。きっと仲良くできる。

 

 佐奈の予言。

 予言の機能は様々であるが、そのおおよその意味とは、未来について予め言われた言説群のことである。ある関係のないとされる物事の間につながりを見出す症状は、いわゆる統合失調症(連合弛緩)と呼ばれることがあるが、この概念群にも何らかの筋があり得よう。それはかなり有用な手筋なのかもしれない。常に、世の中において、最も無価値で蔑むべきであると頭に刷り込まれている価値観に警戒すること。手厳しく何かを排撃している人がいたら、どうしてその人はそれほどまでに手厳しい<攻撃性>を露わにしなければならないほどに<切羽詰まっている>のかについて考えること。それは優しさのためなのか? それとも利得のためなのか? これを容易に見分ける方法はない。そして、こうした複雑な事情に精通し、また物事を正確に類に分けられる能力を<分別がある>と一般に言い、こうした分別があるstateが未来を志向する場合、そこから生まれた言説群が<予言>と呼ばれるのである。

 

 小夜の予言。

 読みにくい文章には、多くの場合、豊饒なものが詰まっている。困難の中に実りがある。なぜなら、人は困難を避けるからである。人が避けるものには希少価値が生まれる。困難でなければ、そこに価値は生まれない。そうしたものは容易だからである。

 

 経済理念から様々な事象をハックしていくのは、比較的容易である。ただ、より抽象度の高い理念から様々な事象に対していくというのが、小夜の美学だった。彼女はソシュールの本をよく読んでいた。

 一方で、佐奈は、資本の機能から出発して多くの事象を分析していく癖のようなものがあった。佐奈は<できる限り>具体的なものから出発することを好んだ。ある種の日本的な倫理学にはこうした傾向が見受けられることがあるが、佐奈がどのような倫理を持っているのかについては、諸説考えられる(佐奈は<倫理>や<道徳>という単語を恥ずかしがっていて、それらについてのことをあまり話すことをしない)。

 佐奈は小夜がサッカーをしているのを見たことがある。彼女は小夜の運動の様態を観察することで、様々な発想を得ることができた。創造性のある人にとって、創造性のある同時代の天才ほど好ましいものはない。なぜなら、天才の逐一の些細な動作までもが、――つまり、息遣いや身のこなし方までもが、――極めて豊かなインスピレーションを当人たちに与えるからである。彼女たちは、世間一般的な価値観からして、仲が悪いかもしれないが、それでも、お互いにお互いが唯一の理解者でもあるのだ。互いを理解できるから、喧嘩することもあるし、一方で愛し合うこともあるという、一見したところでは矛盾しているような二極的な構造の関係が展開される。

 

 <財閥>という観念がある。この言葉の専門的な意味合いは込み入っている部分もあるが、かなり簡略に述べると、お金持ちのことをそう呼ぶ。お金はとても分かりやすい。数量化されていて。しかし、あらゆる事象の数量化がそうであるように、資本の正確な数量化は極めて困難だ。ここに、二種類の富豪の存在を仮定することができる。一つが不正確な意味での富豪であり、もう一つが正確な意味での富豪である。

 これについては簡単な進化論的な図式を援用して考えていくのがわかりやすいだろう。さて、たくさんの子を生んだ個体において、その遺伝子の継承確率は上がると言えるであろうか? もしもすべての個体に生存と生殖に関する才能の違いがない場合、こうしたことはある程度は言えるのかもしれない。しかし、もしもその才能に<個体差>があったら? (そして、現実的には個体差というものはこの世界に存在している) もはやその個体の<繁殖量>のみでは何も言えない。例えば、長期的な遺伝子の継承確率が0.001%であるような1000人の子供を世に残した人と、長期的な遺伝子の継承確率が100%であるような1人の子供を世に残した人がいるという時に、これは遺伝子を継承する上では、どちらが有利であろうか? これはどちらとも言い難い。……つまり、もはや<量>の問題ではないのである。

 ところで、金銭とは量である。もしも、金銭に<質>による違いがあったとすればどうだろうか? ある人の持っている金銭の質は他の人に比べ豊かであることがないと言い切れるであろうか? 実際問題として、お金は用い方によって、増えたり減ったりする。つまり、実質的な金銭量は目に見える額面通りの金銭量とは必ずしも一致することがない。無知なままに大量の金銭を保持することは、無免許の人が車を運転するようなものであるのかもしれない。富に依存し、他ならぬその富によって身を滅ぼしてしまう事例もあるだろう。

 一銭も持たずに、その知恵によって実質的には富豪であるような人がいるであろう。逆に、莫大な富を有しながらも、その無知によって実質的には貧しい人もいるであろう。このように言うとすれば、その時にはもはや<富>の概念は意味を失ってしまっているのだろうか?

 もはや何が真に富んでいると言えるのかは明瞭ではない。そうしたいささか明瞭さを欠いたような地点に佐奈と小夜は位置している。佐奈と小夜は<正確な意味での>富者であった。その<富>は、言わば神の国に位置するものであり、使用したからと言って減ることはないし、暴君に搾取されることもないし、盗人に盗まれることもない類のものである。そうした真正の富は<知恵>と呼ばれることがある。お金なら盗まれる恐れがある。不動産なら火事で燃えてしまうかもしれない。時代の転換期なら、土地という資産ですら搾取されてしまうかもしれない。預金は銀行の体制が破綻したらなくなってしまうかもしれない。しかし知恵であれば、盗まれることも、燃えてしまうことも、搾取されることも、破綻することもない。

 佐奈と小夜は<正確な意味での財閥>であるとも言えるかもしれない。彼女たちには潤沢な知恵が備わっていた。必要があれば、知恵を用いることで、必要なだけのお金を用意することもできたし、労力と時間をかければ実際に大金を入手することもできた。彼女たちの知恵が、彼女たちやその周囲の人たちを助けた。

 世の中にはいくら大金を積んでも手に入らない類のものがあるが、それというのは、そうした物事の価値が金銭を遥かに上回っているからそうなるのである。例えば、セックスをお金で買えるということはあっても、愛をお金で買うことはできない。なぜなら、まず前提として、お金で買えるものならば、それはいわゆる利得と関わりのないものとしての<愛>ではないわけであるし、そもそも愛は、お金とは交換不可能なほどに莫大に高価なものなのである。結婚していても愛があるとは限らないし、セックスしていても愛があるとは限らない。それらは身体だけの関係であったり、金銭上だけの関係であったりするかもしれない。そうした利害計算による関係性は愛による関係性とは一般に異なっている。

 佐奈と小夜のその関係性は<愛>であったが、彼女たちのように、純粋な愛と知恵と才能を持つことができる様態というのは、この世界において最も尊いことの一つなのであろう。

 

 小夜は月夜の晩に散歩をしていた。その時は夏であったので、冬のような寒さはなかった。寒さというのは生命の身体を蝕む恐れのあるものである。彼女は悪魔的なものを好むような性質を持っていたので、寒さ、つまり冬が好きだった。冬になって、辺りに雪が敷き詰められると、小夜のテンションは爆発的に上がるのだった。ルンルン。

 佐奈は冬よりは春が好きだった。佐奈は多少、小夜に比べると偏屈な印象を人々に与える(あるいは多くの人にとっては偏屈であると感じられてしまいうるような印象、とでも言えば正確かもしれない)。さて、<偏屈>な佐奈は<命>を好んだ。命が芽吹く春を。一体、どのような無知や無神経さがあれば、彼女のことを偏屈などという言葉で片付けてしまえる人がいるのか、私には謎である。

 

 佐奈と小夜は二人で一緒に散歩することもある。彼女たちの相思相愛ぶりは、それはそれはうらやましいくらいのものであった。佐奈は小夜に、小夜は佐奈に、マフラーを着用させてあげていた。彼女たちにとって、それは何かの儀式であるようだった。こうした儀式めいたことを彼女たちは数多く行っていたが、おそらくは、それは無知な観察者にとっては儀式に見えるだけのことで、そこには何か彼女たちなりの――しかし、極めて客観的に有効な――理由があるのだろう。

 小夜の歌謡や踊りはそれはそれは見事なものだった。佐奈は小夜に比べると、華やかさに欠けて見える部分もあるのかもしれない。実際には、佐奈も小夜に引けを取らないくらいに<華やか>なのだった。ただ、佐奈のような人は自身の華やかさを、ある種の気恥ずかしさによって隠蔽しているに過ぎない。彼女のような人は、本当に心から信頼できる人にだけ、その花を見せてくれる。警戒心は強く、パーソナルスペースが広い。そうした過敏性も、彼女がインドアであり、引きこもりがちであるような傾向を後押ししているのかもしれない。彼女は人嫌いではなかったが、気の合う人は少なかった。ほとんどの人はまずもって、彼女の知識のレベルについていくことすらできなかった。小夜はそんな佐奈にとって、うれしい<例外>である。

 

 佐奈は小夜の隣を歩き、小夜は佐奈の隣を歩く。

「楽しいね!」

 と佐奈は言った。その顔は薄っすらと紅潮していた。その時の季節は秋だった。

「そうだね」

 と小夜は言った。「佐奈と一緒だととても楽しい。私も」

 佐奈はその顔に、向日葵のような大輪の笑顔を咲かせていた。向日葵。

「小夜はどんな色が好き?」

 と佐奈は言った。

 小夜は少し考えてから、

「青?」

 と言った。小夜は応答するときに、どういうわけか言葉遣いを疑問形にする癖がある。

「青かあ」

 佐奈は何事か考えながら、青、青、と呟いている。

 小夜の長いまつげが瞬きのリズムに乗って揺れている。

 二人の間に沈黙が下りてくる。

 公園のベンチに二人が座る。

 夕暮れ時。

 周囲には誰の姿もない。

 そっと二人は口づけをした。

 

 偽り。それはとどのつまりは、人為的なもののことである。自然の流れに反するもの。真実とはその逆である。天才は極めて自然でありながら、人為的な存在である。その姿は見るものによって、千変万化。その才能の大きさも形も、自在に変化する。天才とは偽りであり、また真理でもある。彼らは意志を持っている。そして、この点は説明が難しいが、彼らにとっては、意志の所在など、どうでもいいことであるようである。本当に巨大なものが、本当に巨大な姿をしているとは限らない。本当に矮小なものが、本当に矮小な姿をしているとは限らない。偽りとはこのようなものである。

 天才は、偽りを自然にしてしまうし、自然を偽りにしてしまう。彼らの世界では、真偽というものがさほど重要ではないのだ。

 佐奈は、「真実だとしても、無価値であれば、それは無価値である」と言った。小夜は佐奈に応じて、「偽りだとしても、価値があれば、それは価値がある」と言った。

 

 真偽不明の世の中で、どのように生きていくのかは、かなりの程度、その人の自由なのかもしれない。真実と偽りが互いに交わりあうような、不明瞭で曖昧な地点に、色々な宝物が眠っているのかもしれない。苦難の中に秘宝が存在する傾向がある。おそらくは、苦難がその秘宝を守っているのだろう。

 そして、世の中というのは、奇妙に上手くできている部分があって、<秘宝>は横取りができない。苦難を経験し、秘宝を自分の手で掴み取った人から奪い取ろうとしても、それは上手くいかないだろう。秘宝は必ず、苦難と表裏一体をなしていて、それらは分離できない。苦難を軽減すれば、秘宝の価値も軽減されていく性質を持っている。苦難を避けると、その分、秘宝が逃げていく。しかし、苦難というのはその人の主観的な感覚であって、それに客観的な度合いが存在するのかどうかも分からない。その人の苦しみはその人だけのものであるような側面が大いに存在しており、何が最も苦しいかは人によって違う部分もあろう。そうした事情を鑑みて、事態は極めて複雑で難しいのだということを悟った後になら、<秘宝は苦難に守られている>と言っても、ある程度は差し支えないとも言えるのかもしれない。非常に簡潔に言うと、筋肉が厳しいトレーニングの末に強化されていく、というような事態に似ている。ある種の<苦難>という試練を乗り越えた人々が、天才と呼ばれることもあるのかもしれない。あくまで絶望的な状況であっても、それ<だけ>であるということはまずなくて、何らかの進歩を見込めるものである。そうした進歩には、当初は見込まれてすらいなかったような、新奇なものも含まれている。

 

 佐奈と小夜の馴れ初め。

 佐奈はさまざまな人間に痛めつけられていた。学校ではいじめられ、家庭では虐待を受けていた。そして、彼女は部屋に引きこもった。誰も彼女のことを気にかけてはくれなかったし、助けてもくれなかった。彼女に向けられる感情の専らなものは、佐奈の天才への嫉妬をその発露とする逆転的な<蔑み>や<嘲笑>。それらである。佐奈の心は冷たく凍え、死んでいた。

 小夜と出会ったのは、佐奈にとって大きな転機となった。

 

 佐奈はかなり多様な虐待の数々をその身に受けることで、深く傷ついていた。その中には性的な虐待も含まれており、とりわけそのことが彼女の心身を著しく傷つけた。彼女はその高能力がゆえに、潜在的なプライドが高いこともあって誰かに助けを乞うことができなかったし、そうでなくても自分が受けた性的な虐待の経験などを人に打ち明けることは骨が折れるものである。その頃の彼女は、他責的な感情を失っており、何もかもを自分が悪いのだと、呪文を唱えるように思い込み続けていた。小夜に出会うまでは。

 

 佐奈は公園のブランコに揺られて、月を見ていた。真っ白な穢れのない月で、まるで佐奈の心のようだった。

 そこに月見をその生業としている小夜がやってきた。その時の小夜はなぜか、一種の袴を着ていた。

 小夜は、佐奈の隣の空いているブランコに座り、唐突に、

「月、綺麗ですね」

 と佐奈に声をかけた。

 佐奈は頭が重くなるのを感じた。身体の隅々までフワフワした感覚が広がる。<フワフワ>というと、何やら柔らかくて気持ちいいような印象を与えるかもしれないが、これは佐奈にとって気持ちの悪い感覚だった。何もかもがぼやけて、自分の存在すらも自分から遠ざかって行ってしまうような、そういう感覚。言葉で表現しづらい類の不思議な感覚である。そうした不快な感覚が生じるのは、佐奈にとって珍しいことではなかった。人と接するときは、大概、そのような気分になった。

 と、<ふわり>と佐奈の身体を何かが包んだ。この<ふわり>は佐奈に何か、心地よい印象を与えた。その、ふわり、の正体は<香り>だった。小夜の髪の香り。

 少し後に、佐奈は、小夜が自分を抱きしめていることを知った。そのことを認識すると、また、意識が遠のきかけた。その時、左手に強烈な冷たさを感じた。小夜が携帯していた半分凍りかけのお茶の入ったペットボトルだった。

 佐奈は、

「冷たい!」

 と言った。目が覚めた。不思議なことに、不快な感覚が一時的にかもしれないが、少し軽快していた。

 小夜はそんな佐奈を心配そうに見ていた。

「ごめんなさい。何か並々ならぬ雰囲気を感じたので」

 と小夜は言った。

 佐奈は何が何だか分らなかったが、とりあえず、小さな声でボソッと、

「……いえ」

 との一言を喉から絞り出した。

 小夜はその言葉を聞くとにこりと笑った。

 それから佐奈と小夜は色々なことを話した。好きなものは? 嫌いなものは? どこの学校? 何歳? 小さい頃は何をしていた? 今は何をしているの?

 色々な話をした。

 中でも、<逸脱>についての話が佐奈の心に残っていた。

 世間の常識についての意見を交わしている時に、プログラムとは何か? という話をした。佐奈はそれは<自動>であると答えた。言い換えれば、<自然>のようなものだと。

 それに対して小夜は、

「世間の常識は本当に自然なのかな?」

 と言った。

「そう言われると……私には何とも……」

 この頃の佐奈はとても人を怖がっていた。いじめや虐待を散々に被ってきたのだから、無理もないことである。当時の彼女には自分の主張を持つということがとても難しかった。しかし、佐奈の奥に煌めいている何かに小夜は気づいていた。小夜は初対面の印象から、佐奈のことを<芯>のある人間だと見抜いていた。芯とはある意味での、抽象度の高さを表現する概念である。抽象度が高い現象には芯がある。

 小夜は次のような仮定の話を佐奈にした。

「常識というのがもしも人によって作られたものだとしたら、それは自然なものと言えるのかな? そして、普通は、常識というのは人が作ったものだよね」

「……ですね」

 と佐奈は頷く。

 小夜は続ける。

「人の手によるものが自然なものではなくて、人為的なものなのなら、人は何から生まれたんだろうね? 人為的に人は作られたのかな?」

 小夜は足を自由に無邪気にぶらつかせながら、そう言う。小夜の髪が佐奈にはきらきら光っているように感じられる。辺りは暗いのに。単純で一般的な意味での物理現象としては、公園の中の電灯の侘しい光だけが二人を照らしている。

「……人が人を作った?」

 と佐奈は疑問形。

 小夜は柔らかく微笑む。「かもね。可能性としてはね」

「……人が人を作ったのなら、その人を作った人は何から作られたんでしょうね」

 と佐奈は言った。

「自然か人為か、って難しい問題だよね」小夜はペットボトルのお茶を飲む。

佐奈は何となく小夜の喉仏の動きを見ていた。それに気づいた小夜が佐奈に「どうしたの?」と言いたげに、眩しい笑顔を向ける。

 佐奈は不思議な心地だった。小夜と一緒にいると、不思議と今までの感じとは違う世界に開けていくようだった。それがなぜなのかは佐奈にも分らなかったし、小夜も――彼女は元来から天然なところがあるためなのか――よく分かってはいないのだろう。

 この時には、もう既に、小夜は佐奈にとっての心のオアシスになっていた。それがなぜなのかは、二人にもよくわかっていない。当の彼女たちにもわからないような謎の関係性。それらは強いて<愛>と呼ぶことができるくらいのものである。言うなれば、神々が二人を引き合わせたのだろう。私にはそのように言うのが、手一杯だ。愛は明確でありながらも、不明瞭なものでもあるのだから。

 

 佐奈の心を変えたのは、小夜との出会いだった。

 ……では、貴方の心を救うものとは何なのだろう? 私はそれにとても興味がある。もしかすると、それはいわゆる<人>ですらないかもしれない(付喪神とか何かの機械とか)。

 今がつらい貴方へ。私には正確に言って、何も言えない。しかし、不正確になら、強いて何かを言うことはできる。<本当は>人が人を救うことはできない。でも、<嘘になら>それができることもあるのかもしれない。自然が、世界があなたを蝕むようなその時に、貴方を救いうるものとは、何らかの人為、つまり<偽り>に他ならない。もしも、自然が貴方を淘汰しようとするのなら、貴方が自然を淘汰すればいい。正当防衛である。貴方は貴方を排除しようとする者たちに、付き従う必要はない。嘘の中に眠っている溢れんばかりの真実たちが、貴方の心の中で美しく芽吹くように。貴方がいつの日か笑って、生きててよかったと思えるように。私にできることはないが、ここで<嘘>が許されるのなら、次のことを言いうるようになる。

 どうか生きてください。私のこの<願い>には如何なる正当な根拠もありません。ならば、文字通り、<根も葉もない嘘>であり、独りよがりです。これは私の<人為>です。ただの<偽り>です。でも、だからこそ、これは私の<意志>です。この世界に如何なる正当な根拠をも持たないような嘘、偽り。世界ではなく、他ならぬ<私>に根拠を持つ言葉です。そうしたものたちは究極的に昇華されていくと、<理想>と呼ばれるようになります。その理想の中で最もよくできたものは、<物語>あるいは<芸術>と呼ばれるようになります。それは、この世界において、最も美しいものたちのことです。深く傷つき、深く悩み、今は苦難の中にある貴方もまた、そうしたこの世界で最も価値あるものの仲間のようなもの、なのかもしれません。少なくとも、私の目には、明らかに貴方は美しく、まるで万物を温かく照らすお日様のように見えます。たとえ今は雨が降っていたとしても、雲の向こうには太陽が泰然として存在する、というのは、一つの有益な経験則でもあります。世界に生きている意味がないのなら、貴方が人為的にその意味を作ってしまうというのも面白い方法なのかもしれません。

 

 佐奈は小夜の腕の中で泣いている。さめざめと泣いた。一種の激しい雨みたいだ。でも、その涙は、彼女のそれまでの人生で流してきた涙の数々とは、本質的に異なった種類の涙であった。涙というものが、必ずしも、悲しみの象徴に限定されるわけでもないのだろう。透き通った綺麗な涙。

 

 雨は、川となり、やがては海に至る。一見したところでは、一粒が如何に小さなものであるように見えても、やがては必ず、大きく実を結ぶものである。

 

 私は、――おそらくは佐奈も小夜もそう言うでしょうが――貴方のような孤独を抱えた純粋な人のことが、とてもとても大好きです。これらの言葉は根も葉もない嘘なので、信じる必要はないし、受け入れる必要もありません。というよりも、私の言葉はすべて<嘘>であると解釈していただいてもかまいません。私は個人です。世界ではありませんし、自然でもありません。その限りで、私の言うことはいつもいつも個人的なことです。世界を差し置いて、自分のことを真実であると主張することは、誰にもできません。私は私です。貴方は貴方です。なぜなら、私とは、――貴方とは――人間である限りで、人為的であり、あくまで偽りであり、つまり自動的ではないからです。自然に理に適った自動的な動きも重要なものであることは否定しません。しかし、どうでしょう? 自動的に動くことと自分の意志で動くこととの間には実際、どれほどの違いがあるのか? それは疑問です。

 

 小夜と出会う前の佐奈は家の窓の外を見ていた。部屋の中から見える風景はとても狭いものだけど、佐奈にとってはそれが世界だった。その視界にはまだ小夜が入っていない。そして、本当は何よりもまず、その風景には佐奈自身が欠けていた。鏡が。もしも、正確な鏡がその部屋にあったのなら、――佐奈にとっての鏡は小夜であったわけだけど――、彼女はもっと早い段階で自分の美質に気づくことができたかもしれない。しかし、<鏡>はしばしば奪われるのだ。誰に奪われるのかはわからない。しかし、それらは奪われる。致命的に。とても過酷に。

 

 鏡を守らねばならない。

 

 佐奈は小夜と出会った後に、ある紙をごみ箱に捨てた。その紙は彼女の書いた遺書だった。佐奈が何を書いていたのかはわからないし、それを佐奈が言い出さないのだとしたら、そこには何かの訳があるのだろう。その秘密には。

 秘すれば花。見識ある人たちは個人の秘密を無闇に暴くことがない。さて、<彼女は>その紙を<遺書>だと思っていたが、<本当は>何だったのだろう? それは今となっては、誰にも分らない。

 

 佐奈:「人を道具扱いするっていうのはよくないね!」

 小夜:「そだね」

 佐奈:「そして色々なものを道具扱いするのも、本当はよくない!」

 小夜:「うん」

 佐奈:「全てのものに何かの価値が詰まっているね!」

 小夜:「そう思う」

 佐奈:「……」

 小夜:「……」

 佐奈「小夜もなんか言って!」

 小夜:「うーん……」

 佐奈:「そんなに深く考えなくていいよ。なんかパーっと軽く!」

 小夜:「実は小夜が佐奈だったり、佐奈が小夜だったり……して?」

 佐奈:「……」

 小夜:「……」

 佐奈:「ちょっとしたミステリだね……それともなんか哲学的な?」

 小夜:「難しいね」

 佐奈&小夜:「「ここまで読んでいただきありがとうございました!」」

 (二人がお辞儀する)

 

 

すがるように君の言葉だけを信じて

 

 

(すこっぷ feat.初音ミク,「クライヤ」の歌詞より引用) 

 

 

P.S.直観術は比喩です。