魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

因果術

 I. Per causm sui intelligo id cujus essentia involvit existentiam sive id cujus natura non potest concipi nisi existens.

 

(Bnedictus de Spinoza, "Ethica", https://la.wikisource.org/wiki/Ethica より引用)

 

I. By that which is self—caused, I mean that of which the essence involves existence, or that of which the nature is only conceivable as existent.

 

(Bnedictus de Spinoza, "The Ethics(Ethica Ordine Geometrico Demonstrata)", translated from the Latin by R. H. M. Elwes, http://www.gutenberg.org/ebooks/3800 より引用)

 

(私訳)一. 原因によるその原因は、本質が存在を含むそれとして、または、性質が存在それ自体以外とは想像できないそれとして理解する。

 

皆さん、こんにちは。いやーあれですね。夏が近いですね。場合によってはもう夏と言ってもいいのかもしれませんね。しかし、僕にはあまり季節性がないみたいで、季節によって行動を左右されるという事があまりないようにも思われます。時間があれば、大体、本を読んだりとか楽器をいじったりとかデッサンとしたりとか料理したりとか、……そんな感じです。

さて、季節に行動を左右される人の事例について考えてみます。季節を原因として、行動が生じていることを、「季節→行動」と表してみます。すると、僕の行動様式はどのように表現されるでしょうか? そうですね……こんな感じでしょうか。「非季節→行動」。

……

…………

………………

「非季節」って何だろう? そうですね。例えば、「自分」という概念とかはどうでしょう? これは少なくとも季節ではないので、非季節の一種と言えるかもしれません。では、とりあえず仮に、僕の行動様式の原因にあたる部分を、僕自身に当たるものとして表現してみます。「自分→行動」。

うむ。何やら奥深いような、当たり前すぎて役に立たないような微妙な式が出てきました。

 

第一テーゼ 「季節→行動」

第二テーゼ 「自分→行動」

 

季節とは何か。これは春夏秋冬などの事。春夏秋冬とは何か? 気候なのかな? 気候とは何か? 何だろう? とりあえず、「環境」の一種であることは間違いないように思われます。そこで、「季節」の項に「環境」を代入できる場合を考えてみます。すると、

 

第一テーゼ 「環境→行動」

第二テーゼ 「自分→行動」

 

となってきます。

ここで、自分と環境との関係について考えてみます。

すると、ここで問題になってくるのが「自分って何?」ということ。

色々と考えてみるのですが、これは僕にも全然分かんないです。なので、「環境って何?」という問いを立てて補助線を引いてみます。

環境というのはそれこそ気候とか、自然とか、あるいは住居とか、色々。いわゆる「場」のこと。すると、どうも、その場の「内」に存在している「観測者」のことをどうも「自分」と呼ぶのではないか? みたいな仮説が出てきます。ここまでの議論をまとめて、テーゼを書き換えてみます。

 

第一テーゼ 「場→行動」

第二テーゼ 「場の内に存在する観測者→行動」

 

では、「場の外に存在する観測者」というのは存在するでしょうか? もしも、「存在」しているとすれば、それは「ある場における存在」であると考えるのが一般的かもしれません。なぜなら、どこの場にも属さない存在というものを概念として許容すると、「どこにも存在しない存在」というパラドックスが顔を出してくるからです。これは面倒くさいので、今回は、ちょっとこいつの処理は割愛して、一般論の力を借りておきます。つまり、今回は、場の外の存在については考察しないでおきます。

すると、場と観測者のどちらが先にこの世界に存在していると言えるのか? という問題も持ち上がってきます。この場合、存在の定義について軽く考察する必要があります。「存在って何?」。ある観測者を想定した時、観測者が存在しなければ、観測は存在しません。観測が存在しなければ、あらゆる存在を観測できません。もしも、観測できる対象のことを「存在」というふうに呼ぶのならば、観測が存在しなければ、あらゆるものは存在しません。あらゆるものの中には「場」も含まれます。このように考える時には、場よりも「先に」観測者が存在していることになります。しかし、もしも、場が存在しなければ、そうした存在は「場の外の存在」となってしまい、例のパラドックスが発生します。つまり、次の結論が得られます。

 

「場と観測者は同時に生成し、並立して存在している」

 

場と観測者は切り離して考えることができません。なぜなら、場なくして観測者はありえず、観測者なくして場はありえないからです。さて、式の代入項を過去にさかのぼる事ができる場合を考えてみましょう。その場合、次のように現象を捉えることができます。

 

「環境と自分は同時に生成し、並立して存在している」

 

こうした「環境」と「自分」が一体となった状態を環境を「客体」、自分を「主体」と考えて、「主客一体」と仮に呼ぶことにしましょう。この時、自分とは環境であり、環境とは自分のことです。つまり、環境に従って動くことと、自分の意志で動くこととの間に違いがないような状態。

 

すると、二つの相反するかに見えたテーゼは次のように融合できます。

 

第三テーゼ 「主客一体→行動」

 

ここで、この式の左辺は原因であり、右辺はそこからもたらされる結果であるように表記されているわけですが、この事情を式に表しますと、

 

第四テーゼ 「原因→結果」

 

となります。ここで、原因の場に「主体」を置いてみましょう。すると、結果の場は原因の場から観測して「客体」となります。こうした主体の取り方に立脚した理論を、「原因論」と呼びましょう。次に、結果の場に主体を置くと、今度は原因が客体になります。これを「結果論」と呼びましょう。つまり、主体の位置を自由に取ることが許される場においては(つまり、主体が自由に移動できる場においては)、

 

第五テーゼ 「{(原因=主体) and (結果=客体)} or {(原因=客体)and (結果=主体)}」

 

原因も結果も、主体でも客体でもありえます。原因論の立場を取るにせよ、結果論の立場を取るにせよ、原因も結果も、ある時には主体的であり、ある時には客体的です。さて、この式を見ていると、いまだ表現し切れていない場が存在していることが分かります。それは次のような場です。

 

第六テーゼ「{(原因)=(主体) and (結果)=(主体)} or {(原因)=(客体) and (結果)=(客体)}」

 

さて、主体(自分)が主体である限り、主体は基本的には一つしか存在しません。もしも第六テーゼのような式が成立する場があるとすれば、そこでは、「原因と結果は同一の現象」として生起していると考えられます。ただし、それは第六テーゼの左辺から導き出されることであって、右辺のそれではありません。右辺は主体(自分=観測者)が存在していませんので、そこにおいては何も観測することはできず、そもそも「存在が存在しない」というふうに今回の論法の場合には考えます。つまり、この第六テーゼから導き出せるものは次のようになります。

 

第七テーゼ「{(原因)=(主体) and (結果)=(主体)}」=「{(主体)=(主体)} and {(主体)=(主体)}」

 

この場合、原因も結果も全て主体です。そして、主体は一なるものなので、全てが「一」であるというふうに捉えることができます。

こうした、原因と結果を統合し、原因と結果という図式自体を生み出す原因となっている究極的な原因(原因の原因)を「神」と呼びましょう。

この時、神は、原因であり、同時に結果でもあります。

 

 

P.S.

 

私訳はあまりあてにしないでね☆ めちゃくちゃ適当なので(笑) 一応、スピノザさんの英語の訳を見つけてつけておきましたので、そちらをご参照ください。それにしても、何か感慨深いです。色々な事が。季節の移り変わりが美しいなあ、と。うむ。そんなことを思います。

 

「魔法を使えるようになる方法」についてご興味おありの方へ。

 

それは……我が道を行く事だ……

 

ふっ……☆(自慢げな表情)

 

それはそれとして少し真面目にお応えしますと、古典とかいっぱい読んでみるのも一つの手なのかもしれません。古い本、良いですよ~。とても。カントとかドゥルーズとかが僕は好きなんですけど、それこそスピノザとかも全然いいと思いますし、何をやってもいいのではないかと(もちろん、犯罪とかはダメですけど(笑))。これね、本当に何でもいいと思うんですよね。自分のしたいことをするのが一番いい気が僕はするのですが、色々な人がいますからね。その人によって処方するべき方策が全然違うので、少なくとも僕が何かをあなたとかに教えさせていただくということになりますと、まず会ってお話したりとか、一緒に遊んだりとかするところから始まるのかな? とは思います(その人にはその人の「道」があるので、それを僕が曲げるわけにはいかないんですよね(汗)だから、せいぜい普通にお話したり、一緒に遊んだりとかして、後は、僕の振る舞いなどから発想なり技術なりを自分なりに勝手にもぎとっていただく、というのが基本なのかもしれません)。別に、そうした「弟子入り」のようなものの対象は僕以外の誰かでもいいと思いますし(むしろ、僕は人に教えるのがとても下手なので、僕以外の人に師事する方が良いと思う(笑))、自分が好きな人でいいと思います。人に対して声をかけるのは難しいという場合には、このブログなどを参考にしていただくという手もあるかもしれません。文章による効果は、やはり仮構的な側面があって、まして僕の文章は拙いレベルのものですから、どうしても僕の文章のレベルでは自分自身以上のものは作り出せないのです。ですから、もしも僕が皆さんに自分にできる限りの最高のものを提供しようと思えば、一番なのが、一緒に「遊ぶ」ことということになるかと思います(ホイジンガという思想家がいますので、「遊び」の概念について調べる際の参考になさってください。)。また、僕も魔法使いになりたいと常日頃から思って、色々と頑張っていますが、僕自身は極めて平凡な人間ですので、特別、僕の文章や僕に師事することにこだわる必要はないと思います。基本としては、あなたはあなたの道を行くのが一番いいのではないかと、僕はそう思っています。

絶え間なく流れゆく季節の中で、もしも僕の文章なり僕自身なりが、誰かのお役に少しでも立てたなら、それは幸いです。

ただ、もしも……

もしもですよ? とにかく何としても僕の力が必要で、僕なしでは如何ともしがたいような出来事があったとすれば、その際はできる限りでは対応はしますので、とりあえずコメントとか下さればいいのかな、と思います。そんな感じでどうでしょうか。最後に、魔法を使えるようになる方法についてのポイントをまとめておきます。

 

 

魔法使いになるための、僕が個人的に考えるポイント? みたいなもの

 

1.自分の「道」を行く(「道」の哲学については、老子などを参照してください)

2.自分が好きな人、良いと思う人に弟子入りする(詐欺などには注意してください)

3.古典を読む(ジル・ドゥルーズやフェリックス・ガタリの著作が個人的に好きです)