魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

身体と領域

一見すると何でもないようなことを真剣に深く掘り下げて考えている人のブログを拝見させていただくと、ただひたすらにすごいな、と感じる今日この頃。どうもプルプルタンです。

 

いやー。マジですごいですよね。すごい人はすごい。頭の良さみたいなものというか、それよりももっと深遠な領域みたいなのがあって、そこがドーン! バーン! となんか爆発しまくってて、とーーーーーってもエキサイティングな位相というのがある気がするんですよね(我ながら意味不明。ただ、正直な所感を言葉にするとこうなってしまう)。

 

頭の良さって、それはそれで大切なのだろうと思うんですけど、そういうものを遥かに凌駕してすごいものというのもある気がします(特に何かの分野の創始者的な人とか、そういう傾向が強い気がする。例えば、精神分析を創始したフロイトとか。半端ない。個人的には精神分析とは反対? 的な立場を取ることもあるかもしれないけど、僕は逆説的に精神分析が好きなのかもしれない。フロイトがすごいかすごくないかで言えば、すごいのだろうとは思う)。

 

精神分析ねえ……

 

難しいですよね。僕なんかだと、割と単純な頭をしているので、

 

精神分析!! なんかかっこいい!!!」

 

みたいな感じで嬉々として勉強してみたりしますけど、やはりもっと僕なんかより頭の良いというか、深遠な人から見れば、色々と問題があるんだろうな、と思います。

 

深遠って何だろう? とふと考えてみるのですが、考えて分かるようなものであれば、それはそもそもからして深遠ではないのではないかというふうな気もします。つまり、考えても考えても、それでも考えつくせないものが、「深遠」なのではないかという仮説です。

 

簡単に言うと、僕の頭脳の演算力を遥かに超えてしまっている事象は、僕にとっては深遠であるという事かもしれません。そうした深遠はまるで、仮想的で理念的な、純粋な数学的空間において、磨滅することなくどこまでも粘り続ける、そういう粘性の物体をイメージさせます。納豆のイメージを援用すると分かりやすいのかもしれません。如何に強靭なネバネバ力を誇るあ奴と言えども、どこまでも伸びられるわけではなくて、引っ張りまくっているとある時にぷつりとネバネバの糸が切れてしまいます。これは納豆が物理的な性質を持っており、様々な力学的な作用をその身に受けるためにそうなるのであろうと思われます。では、納豆のような粘性の物体を、物理的なレイヤーから数学的に色々と捨象されたレイヤーに移した場合、何が起こるんでしょうね。物理的、物質的なものとしての有限な「納豆」が、純粋で無限な「粘性」に変換される様を僕はなんと呼べばいいのでしょう? その粘り以外の他の物理的諸条件を全く捨象された純粋な粘性としての「数学的納豆」。何かロマンを感じます。僕は納豆になりたい……! そんな数奇な想いさえ抱いてしまいたくなるほどに崇高な思いがします。そうした純粋な粘性としての数学的納豆は僕の憧れのようなものなのかもしれません。どこまでも粘り強く……かっこいいですねえ……。

 

まあ、僕がこうした数学的納豆に憧れを持つのは、多分、僕自身がそうした粘り強さに欠けているためなのだと思います。僕はとにかく飽きやすく、さらに人よりも意志が弱いのです。だから、色々な工夫をします。そうした工夫はささやかなものですが、あるいはちょっとした魔法であるのかもしれないとも思っています。ささやかにでも誰かの役に立てていれば、それはうれしいことだな、とは思います。

 

普通の人が躓かない部分で、躓けるというのは優れた資質であると僕は思います。躓くことでしか分からないことというのが、この世にはたくさんあるようで、極端な話、「躓く才能」というものがあるとも思っています。ちょっとしたことで躓く人は、躓かない人よりも、ものすごく多くの滋養を得る事ができるのではないかと僕は思います。しかし、困ったことに、そうした躓ける素敵な人に限って、自身の「躓くことができる」という美質を悪しきものであると思い、悩んでいることもあるようです。

 

僕は頭は良くないのですが、その割にあまり物事に疑問を持つことが少ないタイプかもしれません。何か疑問を持つべきところがあっても、何となく分かったふうに思ってしまうところがあるというか、何を読んでも、最短経路の個人的な最適解を勝手に計算してしまうというか、このように言うと、何やらかっこいいようにも見えますが、全くそういうことはなくて、単に物事を「深める」ことがなかなかできないのです。

 

例えば、1+1=2と言われて、躓くことができる人は、「ん? それって違くない? 的な神がかりな発想を持って1+1=1を提唱し、後に発明王として世の人々に崇められるようになります」

しかし、僕はと言えば、1+1=2と言われると、「ふーん、そうなんだ」で終わり、1+1=1と言われると、「まあ、そういう規則なのね」で終わってしまうことが多いです(笑) まことにお恥ずかしい限りですが(笑) まったくもって、自分の低能ぶりには困ったものですが、それでも、できる限りのことは為していきたいな、とはいつも思ってもいます。

 

その代わりなのかどうかはわかりませんが、自分と他の人が違うと思われる点の一つに、「受容力」のようなものがあるかもしれないな、とも思います。なんか、大概のものはなんでも受容して、自分の中に受け入れてしまえるというか、その点は結構違うかもしれません。しかも、受け入れたものを、整合性が取れないままに、ばらばらに分裂したまま、保存しておけると言いますか……。

 

例えば、マルクスを読むと、そのまま彼の文章を無批判に受け入れて、マルクス領域みたいなのが脳というよりも体の中にできる感じです。それで、マルクス領域を起動すると、後は自動的にマルクスの思想を再生できる……みたいな感触。もちろん、しょせん、こうした幻覚は、僕の脳が演算して作り出しているものだと思いますから、本物のマルクスに匹敵するだけの思考力を保持しているとは思いませんが、それでも色々とマルクスっぽい助言をくれたりして、とても助かる事もあります。他にもドゥルーズ領域とか、ライプニッツ領域とか、色々あります。ただ、先述のとおり、すべて無批判に受動的に受け入れているだけなため、あまり主体的な理解ではないですし、理論的な統一性にも欠けています。本当に、そのまま受け入れるだけで、そこから発展を引き出すには、ごちゃごちゃとした作業が必要になります。

 

つまり、マルクス領域やドゥルーズ領域など、色々な領域と対話して、その上で、少しずつ意見をすり合わせていかなくてはいけません。上手く統率が取れないと、無為に時間を過ごしてしまうこともあります(汗) そもそもマルクスにしても、ドゥルーズにしても、(僕の脳が生み出した劣化コピーであるにせよ)、僕ごときに統率が取れる方々ではないので、頭の中は常にごちゃごちゃとしています。それこそ、僕には統合失調症がありますので、そうした幻覚や妄想的なことでこうしたことが起こっているのかも? しれません。ただ、存外、悪い気はしなくて、にぎやかなので、一人でいても、あまり寂しくなりませんし、頭の中で会話していると楽しいですし、不思議と心が安らぎます。

 

とにかく、僕は、情報を「鵜呑みにする」ことにかけては割にすごいのかもしれません(全く褒められたことではありませんが(笑))。

 

何かを受け入れることは、もしかしたら得意な方なのかもしれません。ただ、情報を鵜吞みにするのはやはり危険なことだと思いますので、人にはすすめられないですし、僕自身も情報に飲み込まれないように、「情報は鵜呑みにしてはいけない」と常に念じ続けています。ただ、それでも、やはり、情報が身体になだれ込んでくることは止められず、どうしても、マルクス領域なり、ドゥルーズ領域なりに、身体が乗っ取られるような感覚があります。僕が下手に行動するよりも、彼らが行動してくれた方が良いような局面も多々あるようにも思われます。全ての領域が、それぞれに異なっていて、得意なことや不得意なことがあるので、うまく切り替われればいいのですが、やはり、頭がごちゃごちゃしているのは僕の専売特許みたいなところがあって、うまくいくとは限らない気もします。

 

こういう操られるというか、身体を乗っ取られるような感覚は、いわゆる自我障害と呼ばれるものなのかもしれませんが、これはしんどい事もありますが、わりに悪くはないよな、とも思ったりしてもいます。頭の中が賑やかで楽しいから(笑)

 

僕は結構一人でいるのが得意なのですが、孤独を感じるか感じないかで言えば、感じる時も、感じない時もある、というのが本音かもしれません。なんといえばいいのか分からないのですが、心の中に様々な経路や領域があって、そのうちの一つの経路が不自然にブロックされたり、あるいは逆にリビドーというか感情の流れ? みたいなものが過激すぎたりすると、感情がスタックしてうまく作動しなくなり、結果として、孤独感などが生じたりとかはあるかもしれませんが、うまい順序でそれぞれの領域を作動させて、そのプログラムを何回か念じるように繰り返すと、孤独感が消失するというか、そんな感じです。自分でもよく分からないのですが。無理矢理に言葉にすると、そういう雰囲気。

 

人から見るとかなり珍妙なこと書いているのかもしれないという気はしますが、そんな感じです。

 

全ての存在が、人格を持って見えるというか。アニミズムみたいなものなんですかね。こういうのって。

 

さて、御託はそれくらいにして……

 

僕も数学的納豆を目指したいですね。粘り強い人間になりたいぜ☆ そして、躓くべきところで躓ける人間にもなりたいですね。たくさん疑問を持つことができて、なおかつそこから自分なりに自分の頭で考えていけるような素敵な人には憧れます。不思議なのが、そういう素敵な優しい人に限って、自分はダメな人間だ、頭が悪い人間だと、自責しまくっていることが多々あることです。不思議です。今の僕の抱く謎の中でも、まさしく最大級の謎です。そうした、自分自身がダメ人間だと思い込んでいる天才な方々にはとても興味があります。対して、僕は「無能性」のようなものをとことんまで極めていく感じの人生。有能な人達とは全く真逆の経路とも言えるかもしれませんね。すごく簡潔に言うと、「愚かさを極めることで賢慮に至ること」を目指します。これには次のような理論的な根拠があります。

 

まず、賢慮は普遍的なものであるとします。特殊な場合にしか通用しない賢慮というものもあると思いますが、一般的には普遍的な価値を持った知恵などが、賢慮と呼ばれるような気がしていますので、今回はこの定義を採用しておきます。

すると、賢慮は普遍的なものなので、どこにでも通用しているはずです。そして、そうした無数の賢慮の事例の中には「愚かさ」という場でさえも含まれているでしょう。したがって、もしも賢慮が普遍的な価値を持ったものであるとすれば、どのような場からでもそこに至ることが可能なのであり、愚かさを極めた先から、賢慮に至ること自体が原理的には可能であろう……と僕は考えます。

 

極論で言えば、「愚かな人は賢い」ということ。これを体現する事を目指しています。だから、世の中でゴミ扱いされている無数の事柄を自分の手で構成して、それを活かす事を魔術と呼び、そうしたことに日々精を出しています。一説によると、「発明」に必要なのは、「大量のゴミ」なのだそうです。「ゴミ=悪」とする図式は単純には通用しないように思われます。

 

だから、逆説的ですが、僕は愚かな人が愚かだと素朴に考える事はしません。そうした次元を遥かに超越した、賢慮などの事象がこの世界には純粋にありえるとそう考えるからです。

たとえ、愚かであったとしても、必ず活路はあるはずです。ただ、その際に人を不当に傷つけたりとか、犯罪したりとか、そういうのは基本的にはダメだと僕も思いますが、そういう最低限のことを守っていれば、後は自由にしていいのではないかとも思います。

 

世の中には色々な場合があり、事情は多様です。とても難しいです。だから、何事も一概には言えません。有名な人が必ず正当なわけではないし、無名な人が必ず無価値なわけでもないとも思います。

 

ネットなどを見ていても、素敵な方はいらっしゃるように思いますね。とても絵が上手な方もいらっしゃいますし、優れた哲学的論考や詩的で文学的な文章を書いていらっしゃる方もいらっしゃいます。彼らはもはや、有名とか無名とか、富豪とか貧民とか、そうした差別を遥かに超越した領域での機能を果たしておられるように思われます。

 

無理強いはしませんが、気が向いたら、あまり自分を責め過ぎずに、自信を持ってその道を歩んでいってほしいなあ、と身勝手ながら思います。

 

素敵で、学校の勉強とかと言うよりももっと純度の高い才能に恵まれた、優しい人たちに幸あれ、とささやかながらお祈り申し上げます。

 

優しい人へ。あなたがどんなに自分を責めたとしても、あなたの価値は毀損されるどころか、ますます輝くばかりであるのだと僕は思っています。どんなに苦しく、出鱈目な定義がまかり通るような末法の世の中においても、本当の「光」は互いに導きあうものです。夢はなかなかどうして儚いもので、切り捨てざるを得ないような場面もあるのかもしれません。しかし、その時、夢は「ゴミ」になります。ゴミは新たな創造を行うための原動力になります。逆説的ですが、「ゴミはゴミではなく、愚か者は愚か者ではない」、ということです。夢を捨てることは、新たな夢を生みます。

判断は原理的に人を傷つけます。それよりはかえって、あなたの優しい「ためらい」が、世界を明るく照らすように。純白の雪のように煌めきながら光を反射し、放射し続けるその運動には無限が詰まっているようにも思われます。やがては暗闇で藻掻くすべての人たちが幸せになれるといいなあ、と僕は思います。純粋なあなたがあなたを苦しめる記憶の桎梏から解放されるように。僕は無力であり、何もできませんが、あなたの光を信じています。

 

 

儚い欠片 舞い散る

その光 全て照らし 導き合う 

 

fripSide, 「Hesitation Snow」より引用)