魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

『天気の子』の感想? みたいなもの

皆さん、こんばんは!

 

今日は、新海誠の『天気の子』を見て感じたことを書いてみようと思います。なるべくネタバレしないように(笑)

 

ありきたりな言葉で言えば、感動しました。個人的には大好きな作品でしたが、「大好き」という言葉でも、その実相を表しきれないくらいに好きな作品でした。言葉にできない。

 

君の名は。』でもものすごくすごいというふうに感じていましたが、『天気の子』に含まれている情報? というか描写? の正確さには舌を巻きました。

 

何というか、文学的に優れているとか、芸術的に優れているとかいう枠を超越して、もはやある種の科学の価値観にすら符合し得るのではないか、みたいな感覚って言えばいいのでしょうか? 難しいですが。

 

想像力が非常に緻密に作用していて、それが天才的な手腕(天与のもの? と言えばいいのかもしれない)によってまとめ上げられ、結果として、非常に有力な仮説を説得力豊かに実現しているように感じられます。

 

物語における、主人公たちの最終的に取った選択については、非常に自然というか、不自然さをひっくるめて自然というか、老子的な自然観もクリアした上で、さらに何かの配列を打っているというか、ニーチェが理性の上に置くある種の「嗅覚」のようなものの所在を感じました。あれでいいのだと思います。

 

人間の立法機能やその行使を担うものとしての警察、そういった機能は必要なものなのかもしれません。ただ、やはり、それらは万能ではない。粗いプログラムの網の目からはどうしてもこうしても漏れ出てしまうものが出てきます。「法」の外側へと。

 

法は少なくとも一般的に広く機能する必要があります。つまり、一般の多くの人達を納得させるに足るだけの論拠、そういうものに支えられていることが好ましいものと思います(一般の人達が、法に疑いを抱く状態であれば、法からの逸脱が相次ぎ、法治国家が崩壊するリスクがある)。しかし、それは「一般的なもの」に過ぎず、そうした「普通」なものから漏れ出たいわゆる「異常」な人達は排除されることになります。

 

世界において、不思議なことが起こったとしても、もしもその現象が極めて希少な現象であれば、そして極めて目立たない透明度の強い現象であれば、それは多くの人には観測できない。

 

しかし、多くの人にとって観測できない物事が、少数の人達にとっても観測不能であるとは限らない。そういう事は常に言えます。

 

多くの人は、そこまで「可能性」について思考することはしませんし、多くの場合、「一般的には」そこまで深く考える必要もないという事なのかもしれません。一般的には。

 

この時、多くの人達は、「この世界に不思議なことなど何もない」と考えるでしょう。なぜなら、それを「自分は」知らないから。人は一般的には自分が知っていると思い込んでいる狭い範囲の情報に基づいて判断を下す事しかできません。

 

こうした事情にはしょうがない面もあります。僕たちの社会は「常識」というものを使用しています。したがって、そうした一般的な常識を崩してしまうような「例外」の存在は非常に都合が悪いのです。

 

にもかかわらず、現実的には、例外のない規則はない。そして、世界は幾多の不思議によって成り立っているというのが現状かと思います。

 

ソクラテスの逸話が示したことは、「私は知っている」と豪語している人の中にただの一人も知者はなかったということ。「私は何も知らない」と謙虚にも正確に把握していたソクラテスが最も偉大な知者であったということ。この教訓は非常に多くの示唆を含んでいるように思います。そして、そうした例外的な存在であるソクラテスがどのような末路をたどったか、ということも。

 

もしも、誰かただ一人の人を犠牲にして、世界を修正可能であるという時、その「一人」を犠牲にするべきでしょうか?

 

さて、話題を変えます。

 

例外的な現象は、一般の人には理解不能に見えます。一般には理解できないような言動を行う人に対して貼られるレッテルの主なものの一つは、現代においては「精神病」です。その中でも、「統合失調症」とされるケースが多いのではないかと思います。とりあえず、一般的に意味不明な信念を抱いている人、そうした人は、「妄想」を抱いているというふうにレッテル貼りを受けるのが概ねの所ではないかと思います。

 

僕は、病態としての統合失調症の存在を少なくとも現時点では、必ずしも否定するわけではありませんが、現在において「統合失調症」と診断されている全ての症状がその実、いわゆる病としてのそれであるとは限らない、というふうに考えています。

 

つまり、統合失調症の中には、ある程度、「誤診」が含まれているであろう、というふうに考えています。

 

この判断は次のような理屈によります。

 

1.人間は神ではない。

2.人間は全知全能ではない。

3.人間には知らないことがたくさんある。

4.人間は天災すら満足にコントロールすることができない。

5.世界には不思議なことがたくさんある。

6.よって、世界に不思議なことがない、起こらない、と判断するのは現実的ではない。

7.ならば、現実的に世界では不思議なことはいくら起こっても不思議ではない。

8.人を納得させてしまうような虚構を構築するには、天与の能力が必要である。

9.なぜなら「ないものをあるものとして」存在せしめる「虚構」は神の技であるから。

10.無から有を創造できるのは、神だけである。

11.天与の能力は、天与のものであり、神に由来するものである。

12.神がかった芸術作品の存立それ自体が、そもそもからして神兆の一種である。

13.不思議なことは僕たちの目の前に常に起こっている。

14.ならば、不思議な存在や摂理を頑なに否定するのは誤謬である。

15.また、神がかった天与の能力は稀なものである。

16.稀なものが歴史的に何度も生起したというふうに考えるよりは、それらは稀であるとする方が合理的な判断である。

17.神がかった虚構の存立は、神がかった天与の能力によるものであり、そう何度も起こるものとは考えづらい。

18.むしろ、存立された情報の比率としては虚構の数は少なく、事実の数が多いと考えるべきである。

19.巫女にまつわる情報や、神や霊、その他もろもろの不可思議な事柄についての情報は、かなりの数に上る。

20.かなりの数に上る情報のすべてが完全に虚構であると判断することは現実的とは言えない。

21.むしろ、現実的には、世界には何らか不思議なことが起こりえるというふうに考えるのが妥当である。

22.不思議なことは如何にそれが希少であっても、起こりえるかどうかで言えば、常に起こりえると考えねばならない。

23.多くの人々の経験の外における希少な出来事は、多くの人にとっては意味不明なものに見える。

24.ならば、ある大多数の観測者にとって意味不明であることが、ある特定の観測者にとっても意味不明であるとは言い切れない。

25.もしも、ある特定の観測者のみに理解可能な言語が存立可能であるとすれば、それは「私的言語」でありえ、それを可能にしたことは極めて偉大な功績である。

26.だが、私的言語の存立はかなり難しく、現時点では現実的ではない。

27.ならば、意味不明なように見える言語は、意味不明なのではなく、その実、他者に理解可能な言語である可能性の方が高いと判断できる。

28.つまり、意味不明なように見える言動に「妄想」のレッテルを貼ることで、それを意味不明なものとして排除するのは現実的な判断とは言えない。

29.むしろ、一般には理解不可能な訂正不能な信念としての「妄想」の概念それ自体が妄想であるとするのが現実的である。

30.こうした妄想の症状を統合失調症と呼ぶことがある。

31.この時、統合失調症という概念は、それ自体が根本的に崩壊しており、虚妄の概念である。

32.虚妄の概念をよりどころにすることによって、現実的な判断を行うことはできない。

33.ならば、統合失調症という概念の基準を用いるよりも、歴史的正統性のある巫女やシャーマニズムの概念を用いる方が、少なくとも現時点では、大分現実的であるとも考えられる。

34.僕のこの理論の不備をあらかじめ予期し、百歩譲ったとしても、少なくとも統合失調症の中には、深刻な誤診が含まれうる、とまでは言えるものと考える。

35.以上の事より、「統合失調症統合失調症ではないことがありうる」と考えられる。

 

さて、もしも、例外的な不思議な出来事に遭遇した主体の存在を想定した場合、その人は一般には理解困難な言動を呈する可能性があります。彼/彼女は、その時、「統合失調症」あるいは何らかの精神病として「一般には」処理されるのかもしれません。もしそうなら、統合失調症という概念は、その基本として「すべての稀有なもの」を圧殺する機能を担っていると言えます。こうした暴力的概念の存立はどの程度まで妥当なのでしょうか? そもそもそれがある程度でも、妥当なのかどうか、それすらも僕にはわかりませんが。

 

一般的でない「異常」な状況に遭遇した人に援助の手を差し伸べられる人はどのような人なのかについても考えさせられます。それは、一般的でない絆を持った人たちなのかもしれません。

 

少し神学っぽく考えると、人の能力の範囲外の事は、人外が司ります。そして、その人外の最終的な主体は神となります。神と人々との間に巫女や祭司がいます。巫女や祭司は神と人との間に横たわる分裂を媒介しようとします。しかし、「境界」に位置するものは、穢れをもちます。穢れには浸食の作用があります。例えば、神と人との境界には、神でもあり、人でもあるようなものがあります。そうした存在は一般にはタブー(聖なるもの)となります。なぜなら、その存在は神と人との間にある分別を融解させてしまうからです。だから、穢れを清めるための「儀式」を行います。それによって、清浄さを保とうとします。そうした儀式の中には、「生贄」という様式も含まれています。人柱。

 

少し話がそれましたが、何が言いたいかと言うと、人の手に余る所業は、人ではないもの(例えば神とか)が司るということです。神の御業は「奇跡」と呼ばれることもあります。巫女の祈り、あるいは巫女に近い者による祈りは、奇跡によって運ばれ、神に届くのかもしれません。その願いが仮に、世界にとって破滅的なものであったとしても。奇跡的に。それがどんな形であるにせよ、彼らは世界を選び取るのかもしれません。また、破滅的に見える世界と実質的に破滅的な世界というのは、異なります。窮地に見えても、存外「大丈夫」なこともままあるものです。

 

世界が出鱈目であることと、出鱈目に見えることは全く別の事ですが、「境界」に位置する者たちは、世界への選択肢を持つのかもしれません。そして、人にとっては、いつも世界は出鱈目なものです。「狂っている」と言ってしまいたいくらいに。

 

もしも、神が完全であれば、神は人などに対する無駄な関与を行わないはずです。特殊な境遇の人々を守るための手段の一つに「過小評価」という手法があります。特殊な境遇の人々のそれが、もしも重大なことであると多くの人にばれた場合、それは大事になり、下手すれば、そうした特殊な人々の安否が危うくなります。しかし、もしも、その重大性を人々に過小評価させることができれば、その分、そうした重大な選択を行った人々の境遇を守ることができます。また、神がこうした僕でも思いつくような戦略を知らない、などということは、もちろんありえないわけです。

 

特殊な境遇の人々は、通常の境遇から退かざるを得なかった人たちですが、そこにおいては通常の法規や原則が正当性を発揮する事が難しくなっていきます。

 

功利主義的に、一人でも多くの人の事を優先するべきだ、とするのが普通に近い感覚なのかもしれません。しかし、ひょっとすると「愛は世界を超える」……のかもしれません。たった一人のことを愛する気持ちは、世界をも変えてしまうだけの力を持っている……のかもしれません。

 

 

君と育てた愛だから 君とじゃなきゃ意味がないんだ

 

RADWIMPS,「愛にできることはまだあるかい」の歌詞より引用) 

 

 

P.S.今回、『天気の子』を見て、この作品を作ってくださった新海誠さんに純粋に感謝の念が芽生えてしまいました(笑)。個人的に(笑)。僕には大したことはできませんが、それでも一ファンとしてできる程度には、応援させていただきたいな、と感じました。とても素敵な映画でした。言葉にできないくらいに。素晴らしい作品を本当にありがとうございます。