1.桜をよく見てみるといい。様々なものがある。一つとして同じものはない。隣人の顔の造作を人知れず観察してみるといい。同じ時はなく、同じものもない。
2.あなたは語学が好きだが、なぜそうするのかを考えたことがあるだろうか? そもそも限られた技能が限られた人にしか授けられない訳についてあなたは考えたことがあるだろうか? 戦争をしている時に、司令部の意見が割れれば、組織は混乱し、機能を停止する。それは敗北をもたらすだろう。
3.自分がなぜ桜の木が好きなのかについて考えたことはあるだろうか? 好きという感情が透き通って純粋なものであることを洞察できるだろうか?
4.知識を得る時、読書をする。読書をする前、その本に書かれていた知識を知らなかったとしよう。では、知らない物事について知ろうとすることはできるのであろうか? そもそもそこに知らない知識についての知識がないのならば? あらかじめ知っていなければ知ることはできない。知る以前には知ることができない。なら、私たちはどのようにして知るというのだろうか?
5.知恵は神秘である。
6.同じ知恵は一つとしてなく、異なる知恵も一つとしてない。
7.伴侶を大切にすることは、自身の心の調和のために有効である。伴侶が神からもたらされないのなら、そしてあなたがこの世に確かに存在しているのなら、確かに別の賜物があるということである。無益な人はおらず、無駄な作業もない。無益は無知の目にのみ映り、無駄は怠惰な耳にのみ聞える。
8.桜を愛するのがいい。すぐに機嫌を損ねて失われてしまうものの中に、永遠に根付くものがある。根が張られている場所には、必ず正統性が生まれている。だが、私たちは木々とは異なっている。動くからである。
9.最奥の秘跡に、書道がある。上手な字の形態は下手な字の形態に交錯する。下手な字の形態は上手な字の形態に交錯する。二項が存在する空間に、簡単なことが一つもないのなら、上手下手の判断についてもそう言えるであろう。玄人と素人の技は外形が似ており、内実が異なる。
10.言葉の無意味さに思いを馳せてみるのがいい。それは何も説得する力を持たない。霊に仕え、神に祈る時には、かなり多くのものが澄み渡るものである。理論的には、全ての物事がそうであると言える。理論と現実の二項が交錯する。
11.煙に巻く必要はない。純粋であればいい。どんなに透明でも、無限の深さを備えていれば、光は深遠の底に届くことはなく、底を求めてさまよう光はさながら、迷路に迷い込んだ小人のようなものであり、永久に反射することはなく、観測者の網膜に像を結ばせることがない。神は隠す。
12.あなたの愛する人があなたを愛するように。
13.父を機軸にしても、母を機軸にしても、どちらが優れているとか、劣っているとかいうことはない。子も同様である。
14.ひたすらに心を澄ますのがいい。柔和に言葉を用いるのがいい。必要なことを語るのがいい。そうでないのなら言葉を少なくし、またいつであっても、間断なく神に祈りを捧げるのがいい。
15.詐術としての物語がある一方で、真実としての物語もあるだろう。それらはとてもよく似ているが、その働きはまったく違う。一方は命を殺し、もう一方は生かす。
16.恨む心、怒る心、憎む心、こうした概念は語義矛盾である。心は恨まず、心は怒らず、心は憎まない。むしろ、こうしたことは肉の仕業である。
17.心あるものは、律法を知り、祈りを知り、謙虚を知る。それらのどの義も、律法学者の義でも、祈祷師の義でも、修行僧の義でもなく、さらに大なる義である。空間を箱の表象で記号的に表せば、小さい空間はそれと視認できるが、遥かに大きい空間は大きすぎてそれとはわからない。老子がそう言う時、大なる義とはこの大きい箱のようなものである。大義は小さい器から漏れ出し、大きい器には収まる。
18.器量というものがある。小さい器は大量のものを扱うのには向かない。大きな器は少量のものを扱うのには向かない。世間の義は小さい者のためのものであり、聖者の義は大きい者のためのものである。
19.差し引く必要も、付け加える必要もない。あるがままをあるがままに把握するのがいい。多くを望めば増えるというわけではないし、少なく望めば減るというわけでもない。だが、神に委ね、その声に素直に耳を傾け、聞える言葉を率直に書きとめ、それをまったく歪めないのならば、そこには義がある。
20.虫に魂がある。神は細部に宿る。小さい者を侮るべきではない。
21.傲慢な心は破滅の予兆であるかもしれないし、試練の予兆であるかもしれない。いずれにしても苦難の予兆ではある。司る神は慈悲深いが、天罰も降らせることができる。
22.美しいのは感じる心である。
23.力をもたらすのは思考である。
24.財貨は言葉である。
25.良い確信は賜物である。
26.疑心暗鬼もまた神の同意である。憔悴するなら、肉は衰え、地上の価値は無味乾燥である。地上の価値が無益に感じる時、それは天上の国に思いを馳せる契機にもなる。
27.強く神を信じ、揺らぐことなく、豊かな知恵の泉であり、慈悲深く、愛情深い、そうした確信的な振る舞いは、やはり恩寵である。そうした人は、財貨や力や美によらない。強いて言えば、美による。だが、正確にはそれにもよらない。財貨は神意に背くことの強度であり、力は神権に背くことのそれであり、美は偶像と神を取り違えることのそれである。
28.あなたに異言があるのなら、心に浮かぶそれを率直に表すのがいい。そうした異言の扱いについては、間断なく祈りを捧げる中で聞こえてくる囁きに耳を澄ますのがいい。石は囁くし、虫は囁くし、空は囁くし、あらゆるものが囁く。
29.悪と善は外形が似ている。そして内実が全く異なる。賢者は知識を持ち、分別ができる。
30.どこからともなく幻聴が聞えるのなら、その幻聴が正しく信仰を呼び掛けているのなら、信仰に乗り出すのがいい。地上の人間は天上の神とは違い、全能ではない。地上の財貨や力や美によるよりも、天上の財貨や力や美による方がいい。地上の権威よりも神の権威を重んじるのがいい。神の弱さは、人の強さに勝っている。