みなさん。こんばんは。とても寒いですね。少なくとも、僕はとても寒いです。気候が。
気候って半端ないですよね。もうものすごい大自然の凄さが猛烈に迫ってくると言いますか……。
このような季節において人間にできる事は何なのかについて考えさせられます。とてもとても寒い時、凍えるほどにそうである時に、人間にできる事とは何であるのか? これを知るためには、実際に凍えてみなくてはなりません。僕は家の外にでます。もちろん、外はとても寒いです。僕の感覚からすると、極寒といっても差し支えないほどに。すると、とても困ったことが起こりました。手がかじかんで上手く動かせないのです。したがって、極寒の中では、スマホをいじったりはしづらいのかもしれません。特殊な場合を除けば。そして、鼻水が垂れてきました。自然現象です。もしかしたら、身体があまりの寒さに悲鳴を上げて、何かの細菌とかウイルスとか、諸所の物理的な刺激から身を守るために自動的にそうした現象を生起させるのやもしれません。詳しい事は僕にはわかりませんが、この辺りの知識もよくよく調べて考察してみるととても面白いように思われます。医学的にとか、生物学的に。
僕はコンビニに入り、ティッシュを買いました。しかし、その後にも問題は続いていました。例の手のかじかみです。ティッシュが上手く使えないのです。極寒の中での生活的な行動というのは非常に難度が高いようです。おそらくは、体温が急激に低下させられる事で、正常な人体の生物学的ホメオスターシスの機能が阻害されることで、こうしたことが起こっているのではないかと僕は思うのですが、確かな事は分かりません。調べてみないと。
さて、世の中には調べる事で分かる事と、調べる事では分からない事がありますが、そうした区別は何を調べれば知ることができるのでしょうね。とても難しいです。
「調べられない物事を調べるためには、どうすればいいのか?」
難問。
僕の頭では、数百年かかっても解決しそうにない難問です。世の中には、「決して知り得ない事」というものが存在しているのかもしれません。
矛盾の扱いを如何にするか? 矛盾へのスタンスは様々な状況への対処行動を変化させるように思われます。
僕は散漫に無為な時間を過ごす事はとても価値あることだと思っています。また、脈絡なく、矛盾したことをつらつらと述べる事にも、同様かそれ以上に価値があるだろうと。したがって、無為な時間を恐れずに、どんどん実際に作業していく事から、導かれてくることが多くのあるのではないかと思います。何気ない日常生活からでさえ、無限に学ぶべきことがあふれ出てきます。
としますと、
一つの式にネイピア数、虚数単位、円周率がどれも詰まっているという、非常に美しい式です。とても有名な式かと思います。僕はこの式を見るたびに、どうして、世界にはこのような機構が存在しているのだろうと、とても不思議に感じます。ネイピア数や円周率のような超越数が、どうしてある一定の組成を与える事で、「-1」になるのだろう? そんな事を思います。
-1
とても単純な数字です。単に整数としてこの数字に対峙していても、下手すれば、そこに根付いている特異性を見過ごしてしまうくらいのものかもしれません。しかし、一旦、公式としての組成をそれらが獲得し、「証明」されて導出の作用を受けてしまうと、不思議なことに、そこには一種の「個性」のようなものが生じるように思われます。それはとても「-1」らしいように感じられます。
こうした特別な存在としての数字というのは、-1以外にもあると思います。
3.14
とても単純な小数に見えます。しかし、そこに「円周率」と呼ばれる概念の組成を与えてやると、不思議なことに、この数字は独自の権威を発揮し始めます。不思議です。
2.71
この数字に、ネイピア数という概念の組成を与えると? どうなるでしょうね。ただの数字にしか過ぎなかったはずのものが、恐ろしいほどの独自性を獲得し始めるように感じられます。
不思議な事に、世の中においては何の変哲も無いようなものも、その使い方次第では、一瞬にして至宝に化けるということがあるのです。
ある意味、僕たちの身の回りにはたくさんの宝物が埋没しているわけですね。今ここに生きる事という、半端じゃない奇跡性は、一周回って特筆に値するのではないかと思います。
凡庸なものもその使い方次第では、唯一無二の作用を発揮します。
弘法は筆を選ばず。
世の中というのは不思議なもので、本当にそのような現象が起こるようなのです。奇跡はあなたのすぐそばに無限に存在しています。その埋没した宝物を掘り起こすのに必要なものは、一つの「心」だけです。後は、あなたがそれに手を伸ばすかどうか、という問題なのかもしれません。
難しいものが難しいとは限らず、簡単なものが簡単だとは限りません。僕たちはいつも、「そこ」に根付いている豊かな意味のほとんどすべてを意識すらすることなく、見逃し続けているのですから。難しいものは難しいのみならず、簡単でもあります。簡単なものは簡単であるのみならず、とても難しい問題を含んでもいるのです。この時、「難易度」というものは極めて複雑怪奇な人知を超越したパラメータとして機能し始めます。その帰趨を見極められる者がいるとすれば、おそらく聖人か神くらいのものでしょう。矛盾した幾つものパラメータが複雑に、あるいは優雅に、そこに準拠している美を位相上に展開するのです。
個人的には、どのような状況にあっても、諦めたくないのであれば、無限に挑戦し続けるのも一つの手ではないかと感じています。
諦めないあなたの手に握られている「それ」は、あなたのその「心」は、どのような業物なのでしょうか?