魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

魔術師になるには(個人的な考えです)

今日はちょっと、「魔術師のなり方」について自分なりに「考察」してみようと思います。いつも通り、個人的な空想論ですが、その点はご承知ください(笑)

 

まず「魔術師」とは何か? について整理してみます。

 

これは「不思議な術を使う人」の事ですね。

では「不思議」とは?

 

これは「考えたり、議論したりできない対象の様態」を意味しています。

つまり、その術が考察の対象になり得たり、議論の対象になり得るのなら、それは「不思議」ではなく、「明晰」であるわけです。

 

所で、魔術とは「不思議な術」の事ですね。したがって、それは明晰ではなく、それについて議論したり考察したりすることはできない事になります。

 

つまり、魔術師になるためにはまず、「考察」と「議論」への依存を断ち、精神的に自立した状態を持つ事が有効であることになります。

 

よって、まず考察的な姿勢と議論的な姿勢を放棄します。では、ここで言う、このような「姿勢」とはどのようなものなのでしょう?

 

これはざっくり言ってしまうと、「他者と共有可能な姿勢」として良いかもしれません。

 

考察をするのは、それを「方法化」するためです。つまり、「反復」を可能にするために、そういう事をします。ところで、方法化し、反復可能なのであれば、それは誰にでも行使可能なものになり、ユニークとは言えません。また、方法化され、そこから反復の作用による再現性を誰でも客観的に実現可能なのであれば、それは、「明晰」であると言えるので、したがってそれは厳密には「魔術」とは言えない事になります。

 

また、議論をするのは、これもまたそれを「方法化」するためです。定式化、理論化、と言っても大体OKだと思います。以下同文。

 

しかし、魔術は「極度に普通」なものでもあります。なぜなら、そこから何かの「特徴」を抽出可能なのであれば、その性質は明晰であり、それは不思議な術としての、魔術ではない事になるからです。このように、「普通」なものもその程度を極める事で、無徴化する事ができ、それによって、その術を不可視化し、他者との共有可能性のない状態に生成する事で、ユニークなものとする事ができます。この文章も、この経路を利用して書かれています。なぜなら、方法化できないはずの魔術を、方法として記述するためには、それが方法である必要があるからです。この二重性を、時系列に対して直線的に再配分し、その現在から未来にかけての「ズレ」を利用しています。

 

簡潔に言うと、魔術は方法化できない。しかし、方法を非方法へ生成変化することはできる。したがって、方法から、方法化できない魔術に至る事ができるかと言えば、可能性はある、という事です。

 

とにかくどんなものでも、極度に極めれば、それは「魔術」となり得ます。こうした全ての達人の技の事を「魔術」と僕はそう呼んでいます。

 

よって、「魔術師になるには何かの技を極限まで鍛え上げればいい」というふうに考えることができます。

 

その「技」は原理的にどんなものでもOKで、むしろ奇天烈なものであるほど、魔術らしくはなるかもしれません。ただ、最初は奇天烈でも、上達に従い、正統性の由来を認知しやすくなり、それに伴い、技は洗練され、人目にも美しいものへと徐々に変化していきます。しかし、結構な労力をかけて修練する必要はあります。すくなくとも、普通の人よりは多くの修練が必要であると思われます。

 

さて、今度は、「極める」とはどのようなことなのかについて考えてみましょう。

 

これは反復練習によって生じることが多いです。

 

例えば、剣道の修練は、主に竹刀などの「剣」の扱いを繰り返し修練する事で磨かれていきます。料理の修練は、フライパンの扱いや包丁のそれ、あるいは食材の質の見極めなどを、繰り返し練習する事によって育まれていきます。このように、「反復練習」により上達は生じます。

 

しかし、上達速度には個人差がありえます。例えば、同じ年月を生きた人同士でも、その能力は著しく異なる場合があります。もしも時間が重大な能力養成のファクターであり、なおかつ時間があれば誰でも等しく上達するのだとすれば、長寿の方の全てが、ダ・ヴィンチのような才能を有していてもおかしくはありません。しかし、時間が等しく与えられていても、全ての人がダ・ヴィンチになるわけではないのもまた事実です。であるのなら、時間は確かに一つの能力養成の要素ではありますが、それだけで能力が構成されているとは考えづらくなります。よって、上達速度には個人差があると考えられます。ただ、僕の実感では上達自体は誰でも起きているように思われます。ただ、上達速度が、その人の感覚の繊細さが感受できるサイズよりも、さらに小である場合、その上達を本人が感知できない可能性はあると思います。

 

ここで、誰しも資源は有限であるとする仮定を導入して思考してみます。実際、多くの資源は有限であり、この仮定はある程度現実的に有効な可能性が高いと言えます。

 

この場合、その資源を集中する事で、ある技を極めやすくなると考えられます。なぜなら、例えば、数学なら数学に全力を傾注する事で、少なくとも、数学能力を養成する事はできる可能性が高くなると考えられるからです。あるいは、数学をしなければ、数学が上達しない……とする仮定が成立すれば、後は単純に、どれだけ数学についての修練を積むか、という問題にもなります。これを、集中型の魔術と呼びます。

 

もう一つ筋がありえます。それは分散型の魔術です。これは、遅効性ですが、長期的な利率はおそらく高い術になると思います。ただ、ただでさえ、時間のかかる修練が、さらに遠大な時間を要するものになり、かなりの忍耐を要します。長い間、人より劣った環境に甘んじ、人より劣った自分像に苦しみ、また、そこまで頑張ったとしても、上達速度が十分でなければ、一生涯を無益に過ごす事になりえます。

しかし、もしも成功できれば、『みにくいアヒルの子』のお話のようにして、大きな美(能力)をある程度開花する事が可能になりえます。この現象は一般に「大器晩成」と呼ばれます。

 

しかし、自身の才能が「大器」であるという自信が今一つない場合には、集中型の魔術を駆使する方が無難ではあるのかもしれませんが、人生の選択権は皆さんのものですので、そこについての判断は、個人的には差し控えます。

 

ただ、利益を確定する、という観点からすると、集中型の魔術の方が、安全ではあるのかもしれませんが、そもそも魔術自体が方法化できないものである以上、著しく安定性を欠いています。したがって、その道を志す場合、それなりの覚悟は要するとは言えるのかもしれません。

 

僕個人は、自分が統合失調症であるのもあって、分裂的な道筋を取ったのですが、その結果がどうであったかと言うと、少なくとも現時点では、名声の点では、集中型の修練方法を取った人々に劣っていると思います(笑) したがって、いわゆる「成功」したい場合には、集中型の魔術を取る方が良いのかもしれません。

 

その意味で、この分散型と言うか、分裂型の修練方法は「リスクがある」という事は一応、忠告いたします。また、そうした道義的責任上、あまり詳細について記述する訳にもいかないのですが、このような言い方をすると、気になってしまう人もいらっしゃるかもしれませんので、簡潔にだけ書いておきます。

 

例えば、統合失調症(分裂症)の症状に、連合弛緩というものがあります。

 

これは色々な物事が勝手にどんどん関連付けられる思考の特徴の事です。この思考を利用すると、普通の人とは異なった思考経路を得られますので、結果、普通の人とは異なったユニークな成果を得る事ができます。

 

また、この症状には、被害妄想と呼ばれるものもあります。

 

これは、自身が何かの被害にあっている可能性が強迫的に妄想(普通ではない思考)として絶えず現れる症状です。このままだと、怖くなって疲弊してしまいます。しかし、意識が、被害可能性を察知する能力自体は、常人を凌駕する状態であるとも言えます。これを活用すると、普通の人よりもリスクに対し敏感に反応できるため、普通の人よりも損失やエラーの発生率を減じることが可能になりえます。簡単に言うと、普通の人が危機を感じないところで、危機を感じることができるので、普通の人よりも危機を避ける確率を上げることができます。しかし、そのためには、現実的な戦略論をある程度、勉強する必要があると思います。戦略を適切に知らなければ、被害可能性をせっかく察知しても、それへの対処行動を誤ってしまいます。これが統合失調症的な問題行動として噴出してしまう事はありえると、僕は思っています。無論、個人的な空想論ですが。

 

最後に、この症状の特徴の一つである「集中力の欠如」について。

 

集中力が欠如するので、分散型の魔術を行使しやすくなります。これは、簡潔に言うと、統計的な技法を応用した魔術手法であると言えると思います。多様なデータを大量に偏りなく収集し、そこから論理的に正しく答えを導き出す事で、偏りのないより普遍度の高い方式を抽出できる可能性に賭ける手法です。従って、一つの物事に集中するのよりも、集中力が欠如している統合失調症の状態の方が、分散型の魔術の行使には有利であると考えられます(集中すればデータが偏り、分散すればデータの偏りを減じることができうる)。この修練法は、先述の通り、リスクは高いですが、成功すれば、「理論上は」、絶大な効果を見込めます。ただ、僕はこの魔術を行使したのですが、その割に実力が高いとも言いかねるので、その点の解釈は皆さんに委ねます(笑) 大器晩成を成し遂げる「大器」が備わっていると自信がある方の場合には、そうした道もありえると言えば、ありえるとは思います。しかし、リスクは高いと思いますので、その点は予めご了承ください。また、その関係上、私はこの手法を皆さんに推奨することはできません。したがって、「決して、真似しないように」とひとまず言わざるをえません。

 

一応、「魔術師になるには」という問題について僕なりに考察はしてみましたが、何かの参考になれば幸いです。

 

ではでは~☆