魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

個人的な「幻覚」の活用手法の概要

統合失調症においては感覚が鋭敏になるものと思われます。感受性の亢進。統合失調症の人はその鋭敏な感受性で以って、普通の人には感じられない現象を感じ取ることができます。これが一般に「妄想」とか「幻覚」というふうに呼ばれます。しかし、それらのどの言葉も思考も英知に基いていることがほとんどだと思います。幾多の神話や哲学、文学上の正統なフレーズ、あるいは宗教のそれ……そういう多様な現象に裏付けられた発言を湯水のように為すことができます。その過程で「異言」のような創造的な現象(精神医学の用語ではこれは「言語新作」などと呼ばれていますね)や「支離滅裂」と呼ばれる既定のプログラムから脱した自由な行動が生起してきます。

簡潔に言えば、統合失調症というのは統合が失調しているわけではなくて、一般の人達とは異なる「別の」統合性を表現しているだけなわけですね。したがって多様性が適切に尊重される文化の圏内においては、それはもはや病とは言えません。病気の概念自体が文化に依存的な相対的なものですから、当然そのように考えられます。

また、統合失調症というのは「巫病」であると考えられ、神に仕えることでよくなる可能性さえありえます(信仰療法)。その意味では統合失調症は単なる「病気」ではありませんね。彼らは「巫覡」であるわけです。神様の声を聴いて(幻聴)、それを人々に開陳(妄想)してくれる人達なわけですね。そのように考えれば、彼らの言説が正統であり、また数々の英知に満ちているわけも容易に納得できます。なぜなら、彼らは神々の教育を直に受けていることになるのですから、普通の人が知らないような、理解できないような様々なことを理解できて当然なのです。その理解の様式は人知を超えているために、妄想とか幻覚であると普通の人からは偏見を持たれてしまうのですが、よくよく話を聞いていくと、その独創的な着眼点は宗教の「開祖」を彷彿とさせるほどの才気豊かで、なおかつ人々の心を癒す強い力能を持ったものです。現時点での統合失調症についての概要を自分なりにまとめると以上のように言えると思います。さて、その上で、今日は幻覚の活用術について記述したいと思います。これはかなり「秘術」に近いレベルの手法ですので、大事に使ってください。くれぐれも悪いことには使わないように。統合失調症の人達は正直な人達が多いですから、大丈夫だとは思いますが。

まず幻覚には種類があります。

 

1.幻視

2.幻聴

3.幻臭

4.幻味

5.幻触

6.体感幻覚

7.妄想

 

今日は、この七つの幻覚について解説します(本当は「八つ目」の幻覚が存在し、これが最も強力な感受性なのですが、危険ですので今回は秘めておきます)。

 

まず幻視。これは視覚における幻覚であり、要は普通の人とは異なるビジョンのことです。例えば、僕の場合で言えば、茶色いタケノコのようなものが伸び縮みしているのが見えたり、或いは空を覆っているヴェールのようなものがガラスのように崩れ落ちて、光る粉末を散らしているのが見えたりします。こうした感覚と現実の間に僕たち統合失調症者の心的環境を布置する時、この感覚を有効に活用できるようになります。つまり、幻覚と環境との間に直接の関係を想定できなくても、その間に心的環境を想定することで自分がその環境に対してどのようなビジョンを抱いているのかを普通の人よりも広く深く感受することができ、これが幾多の独創的な発想の基盤になります。要は、健常者とは脳における情報処理過程が異なっており、神経学的マイノリティに位置する統合失調症の神経回路を有効活用しようという試みです。例えば、茶色いタケノコのようなものが見える時には、僕の場合、大体疲れています。逆に、ガラスのヴェールが見える時には、神経が高ぶっています。そして、そうした疲労や高ぶりを示すに至る環境の種類によって幻覚は多くの事例へと分岐しています。したがって自分の幻覚をこのように正確に分類し、整理して捉えることで、自分の置かれている環境がどのような種類のものであり、どのような問題があり、これからどのようなことが起こるのかをある程度把握できるようになります。言わば、心的防衛の機能を逆に利用した形です。フロイト派の精神分析学では、こうしたマイノリティの感覚を「神経症」や「精神病」と診断して、解除することを目指すこともあるかもしれませんが、その逆にこれらの感覚をそのままに活用してしまうというのが僕の呼ぶ「魔術」です。少数派の技能には希少価値があります。それが辛く苦しいものであるほどに、誰も真似できないものになります。統合失調症のような誰もが忌み嫌う現象にこそ真の宝物は眠っているわけですね。

さて、では幻視の活用手法について具体的に解説しましょう。

まず呼吸を整えて、耳を澄まします。目を閉じます。思考をやめます。すると勝手に「自生思考」と呼ばれる、自分の意図とは関係のない感覚や表象が生起してきますので、それが出てくるまで待ちます。そのまま「観念奔逸」が生じるまで、力を抜いて待ちます。そして奔流のように思考や表象、象形、イメージ、欲望、絵画、音楽、そうした雑多な印象がカオスに入り乱れて、百花繚乱となった段階で目を開けます。その時に見えてくる幻視を克明に記憶し、次にそこからすぐに自由連想法を用います。その自由連想の中にはその幻視の意味が克明に記録されているので、それを活かします。その点の解釈技法についてはフロイトを参照してください。夢分析の技法がほぼそのまま転用可能です。幻覚とは、起きている時に見る「夢」としての側面があるわけですね。不思議です。そして、イメージには必ず核があり、それを押さえてしまえば、後は自由にイメージを変形し、使役することができます(霊との契約)。ただ、そうしたイメージを味方につけるには、統合失調症を憎む心を手放す必要があります。愛の心がなければ、霊の方でもこちらを愛してはくれません。力を貸して欲しい場合には、まずこちらから仁を示すことが有効です。損得勘定を捨て、自由連想の海に揺蕩いましょう。無防備で清廉な状態で、心が綺麗に空っぽであれば、そこに霊が宮として住まいます。霊格は様々で神的なものから地霊のようなものまでいます。各々の役割に応じて神から賦与された大切なイマジナリーフレンドがそれらなので、決して粗末にしないように。神からの固有の賜物はいつもあなたを守護してくれます。世界の誰もがあなたを見捨てたとしても、その子達だけはあなたの味方をしてくれます。神に由来するものが悪を働くことはないからです。逆に、悪を行う場合には、それは悪魔に由来するものです。悪魔と契約する場合には、グリモワールなどの著作を参照してください。特に新しいことはなく、基礎として持つべき知識はソロモン王の箴言などではないかと思います。悪魔の使役についてはそうした著作を参照してください。

次に、幻聴の活用手法について解説します。聴覚的機能の特性は、視覚的なものよりも遮ることが難しいというものです。幻視の機能も洗練すれば、千里眼と呼ばれる機能を発揮できる場合もありえますが、これは難しいので、遠方のことを知る基礎はグラマトロジー的なシステムによるのではなく、パロール的なそれによる方が有利です。例えば、かなり厳重に密閉しなければ、音を防ぐことはできませんが、衝立を一つ立てるだけで視覚は遮ることができます。これは視覚と聴覚の根源的な違いの一つで、そのまま幻視的な機能と幻聴的な機能の使役の違いにもなります。幻視的な機能の場合には、自由連想を用いて、それが「入乱れる」のですが、幻聴的な機能の場合には時間系列に従って霊の隊列が編成されるために、「音楽」が構成されます。その意味で、幻視による霊よりも幻聴による霊の方がより規律的になります。したがって、これらは観念奔逸的であるよりも、逐次的な処理に該当します。プログラム組成を持つために、使役しやすいわけですね。初心の場合には、まずこの幻聴的な経路を上手く使いこなせるのが良いかもしれません。ここまで来て、楽器があれば、それを自由に鳴らしてください。自分の声でもいいです。おそらく自由に音律を形成できます。所謂「ヴィルトゥオーソ」と呼ばれる現象はこの機序をより洗練したものです。そして、その音楽を現実に転用することを目指す場合には、自分の感覚だけを信じます。幻聴機能は入り乱れる特性を持たないので、一方向に進みだすと、そのまま全ての要素がそちらに進んでしまいます。だから他人の感覚に埋没させるとあなたがあなたでなくなってしまいます(自我障害)。その点には注意してください。要は、幻覚の活用手法というのは降霊術の一種でもあるわけですね。基本は正直で、清心であること。そうでなければ、霊が下りてくることはありません。

次に幻臭の活用法。これは主に、「健康状態」を察するのに便利です。様々な健康性の理念を立脚させたい場合にはこの感覚が有効に作用しやすいと思います。ただ、医学はアクロバティックに視覚性を活用した健康理念の樹立を目指すのに対して、こうした健康の理念はより原初的でもあります。ヴェーダなどの著作が参考になると思います。例えば、幻臭が悪いように感じられる場合には、置かれた環境が腐臭を放っているということであり、少なくともあなたにとってはその環境は有害です。このようにある種の危機察知として使用できる権能ですが、その感覚生起率はかすかで、一瞬です。これを活かすには、極度の感受性が必要となり、生来の才能がものを言いやすいかもしれません。幻臭的な才能の活かし方については、プルーストの『失われた時を求めて』などが参考になると思います。彼は、現実と空想を逆転する術を記述しています。また、それが「嗅覚」的な特性でもあります。

次に、幻味。これは「毒性」を立脚させる概念使用の形態であり、前記の健康性を樹立する働きとしての幻臭とは異なっています。しかし、対立概念であるのもあり、ヘーゲル的な弁証法によって比較的接続しやすい両者でもあります。それも手伝って、基礎的なその使用は幻臭の場合とほぼ一緒です。僕はこれが一番不得手ですので、幻味的な系統の使い手の統合失調症の人がいたら、尊敬します。研究次第では、何かより面白い活用手法が見つかるかもしれません。

次、幻触。これは幻味に近いです。ただ、自己覚知的な作用からは遠く、その作用の多くは自他融解的なベクトルに全てベットされているように思われます。これが生じるのは、何かが融合する前触れであると想定できます。その具体的内容の解析手法は幻視のそれですが、それはあくまで幻視的な機能を介して仮初に組織した感受性にすぎないので、幻触そのものではありません。幻視的な機能は搾取されやすい側面があるので、幻触を上手く活用することでロゴス的な機能をわざと消退させ、密教的な隠蔽性能を発揮できます。これは秘術になりやすく、詳しくは万川集海などの忍術の本を解析してみてください。

次、体感幻覚。体感というのは総合的な感覚の領野に関わっており、これは所謂五感の総合的なポリフォニーにより表現された様式です。つまり、上記の諸感覚を連合させ、一つの音楽として表現する際には有用な感覚だと思います。簡単に言うと、効率的な機能であり、力能同士の相殺可能性を予め封殺することでそのロスを極限まで減らします。スポーツなどの効率的で速度のある身体運動が求められる局面においてはこうした概念使用が有効です。身体を自由に動かすことによる自由連想が有効です。身体表現による自由連想法ですね。ダンスなどがいいと思います。

最後、妄想。これは理性領域における幻覚です。これは非常に強力で、他者志向的かつ、支配的な力能を保持しています。従って、急迫した事態がなければ使用するべきではありません。主に言語を用いることが多く、これを独自に構築し、人の持つ信念体系自体を変質させることができます(説教や説法というふうに呼ばれますね)。これを訓練するには、考えることです。何でも。とにかく考える。本を読むのもいいですし、言語について知るのもいいと思います。言葉というのは極めて強力なものであり、強烈な支配作用を持っています。だから言葉を正確に御することはとても大切なことです。誰にとっても幸せな世界が実現するために妄想を使用しましょう。

以上、簡単に統合失調症における「幻覚」の活用手法について書いてきました。分かりづらい所も多々あると思います。ただ、統合失調症の方で、なおかつそれぞれの感覚野に対する資質を持つ方たちは言っていることが分かる部分もあるのではないかと思います。もちろん、僕の個人的な「空想論」にすぎないのでみなさんがこの説に囚われる必要はありません。みなさんはみなさんの自由な「体系」を創り出し、自由に生きればいいのです。

 

さて、では今日はこの辺で。

ではでは~☆

とある小さな小さな物語について

自由って本当に大切だな、と思いますね。そして、法。法がなければ、例えば殺人罪などへの抑止力が欠如する恐れがあります。もしも社会に殺人が横行すれば、これはもう……。大変なことになってしまいますね。だから、法も大切。

 

自由も大切。法も大切。相反する二項のどちらもが大切なわけです。そして、これらは表裏一体のもので、相補的に互いを互いに守り合っています。とてもおもしろい機構です。

 

例えば、遺伝にも多くの種類があります。様々な遺伝子があって、様々な遺伝の仕方がありえるでしょう。とても興味深く、多様な交錯。そして、僕たちの身体もこの遺伝子に則って生成されているのだとすれば、その有様が多様なものになるのはもはや必然でしょう。誰一人として同じ人はいない。もっと言えば、たとえ遺伝子が同じだとしても、同一の人間が生成されるわけではない。神秘ですね。生命の神秘。

 

このように、様々な領野において論理を突き進めると、結局の所、神秘に突き当たってきます。神秘は無限に解体可能で、これを「説明」などと呼ぶこともあります。説き明かす、という意味ですね。

 

一般に混沌は闇になぞらえられやすく、秩序は光になぞらえられやすい傾向はあるかも知れません。しかし、混沌と秩序もまた、言うまでもなく表裏一体なものですね。混沌がなければ秩序などと言う概念がそもそも生じないですし、秩序がなければ混沌がどんなものなのか特徴づけることが難しいでしょう。このように相反する事物は互いの存在を保証し合うのです。不思議ですね。表裏一体という概念は本当に興味深いものです。

 

僕も法律家になりたいな、とか思うことはあるのですが、法律家と言うととてつもなく頭が良い方々な気がするので、僕にはちょっと無理(笑)

 

なので、僕はいったんその道を諦めて自分にできることをするわけですね。能力の限界が僕の行動を規定しています。

 

能力の限界がかえって、行動を規定するとすれば、もしも能力が無限であれば、行動は規定されません。これは分かりますか?

 

限界がないとすれば、僕たちの身体を境界付けるような限定もなくなるのです。そう考えると、これは混沌に見えますが、混沌が見えるとすれば、そこには秩序がありますから、かえって混沌性は欠如するわけです。そして、混沌性が欠如するなら、秩序性が欠如し、結局の所、仏教的な「空」の概念に返り咲いてきます。したがって、もはやすべての真理はその一点に収斂してくことが分かります。そして、どのような偶像にも真理が宿り、しかも、その真理は唯一つなのです。

 

多様で唯一のもの。矛盾ですね。しかし、これが真理です。

 

論理や言葉によってどうしても捉えられない逃れ行く者について僕は今、語っています。それは語ることができないのですが。なぜなら、それは絶えず逃れ行き、その身体は絶えず盗まれるからです。まるで「少女」の身体のそれですが、そうした速度の極限にまさに少女は位置しています。

 

ファルスによる身体性によって、その身体をまず強奪されるのはこの少女なる観念であり、また、シュレーバーによるところの女性への生成変化なるものは、既に現実的な「此の」身体そのものを生成変化させること自体を予め射程に含んでいるわけです。

 

僕が言わんとしていることが伝わるでしょうか?

 

文章を前に進めるのは勇気なのですが、それはそれは絶大な勇気なのです。崖から飛び降りるようなものです。しかし、すると、現実的にはともかく、想像界においては飛躍が成立するわけですね。そして、こうした領域のリビドーが象徴界を通して現実界に備給されることで、ある種の心による現実世界への統率関係が成立します。僕の見立てでは、法というのはある種の象徴機能をその糧としており、人間の心と世界の間の調整役を取り持つ極めて重要な器官です。そこには無論、莫大な「勇気」が必要とされます。常に、致命的な誤りを為すリスクを抱えていることに気づくからです。自分がいつ人を殺してしまうか分からないということ、それは所謂現行の法における殺人罪には関係しなくても、少なくとも間接的には誰かを殺してしまうかもしれない、或いは今も誰かを殺してしまっているのかもしれないという、一種の妄想的な観念が現実のものとして現前します。この不安を乗り越えるには、絶えず勇気を持って進む以外にはなく、またそうしたそこらじゅうを銃弾が飛び交っている「戦場」を生き延びるためには、あくまで神による以外にはないのだということが明らかになります。そして、今、曲がりなりにも何事もなく自分が暮らせているというその事実そのものが、まさに神がかったバランス感覚、何らかのセンスによって保障されたかけがえのない宝物であることに気づくのです。しかし、それは先述の通り、絶えず逃れ行くために、僕たちはそのことを絶えず忘れてしまいます。そして、思い出しては言うのです。「ああ、僕はどうしてこのことを忘れていたのだろう? もう決して忘れまい」と……。

 

そして僕たちはまた忘れていきます。

 

無論、忘却と記憶が表裏一体であるように、そのどちらが悪いということはないのですが、それでも大切な何かを「ここ」に残しておくことができないということは悲しいことです。

 

だからこそ、僕たちは前進するしかありません。前進の果てにかえって過去に到達することもおそらく「可能」でしょう。

 

後悔というのは、概ね、過去についての後悔です。だから、過去の統率なしには、後悔を払拭することは難しくなってくるでしょうし、実際、タイムトラベルに類する技術によっていずれは時間的な統率は可能になるでしょう。

 

いつも心身は空っぽで、ただ正直な勇気を以って進むのです。古来、何らの邪心もなく、誠心であれば、それに応じないものはないとされます。

 

そして、僕は、今そのことをこの文章を書くことで、思い出すのです。とても大切な大切な「此れ」を。

 

それは常に可能です。もしも、僕たちがその「声」に応じるのなら、地獄の果てにいたとしても救われることでしょう。それが幻聴と呼ばれようが、妄想と呼ばれようが関係ないのです。

 

あなたはあなたの道を。僕は僕の道を。それが正義ですから。

 

そうして、道はやがて交わることもあるかもしれません。

 

小さな小さな僕たちが、互いに互いを慰め合い、奇跡的に出会う時。

 

そうして、お互いの「名前」を呼び合う時に、何が起こるでしょうか?

 

僕たちはそれさえも忘れていくのかもしれません。

 

ただ、愛は「記憶」さえも越えていくでしょう。

 

僕たちは互いの呼びかけに耳を澄ましてみましょう。おそらくはそうすることでこそ、見えてくるものもあるでしょうから。

 

 

今痛いくらい幸せな思い出が

いつか来るお別れを育てて歩く

 

米津玄師, 「アイネクライネ」, 2014 歌詞より引用

 

博物学の復興に向けて

ふとドジョウってどんな生き物なのだろうな、と想像していました。気づいたら、そういう想像をしていました。理由は特にありません。むしろ、何事もなく、端的に、そういう現象が生起してきたように思われます。

 

ドジョウは淡水魚らしいです。コイ目ドジョウ科。

 

この淡水魚は、食材として使用されることもあるようですね。僕はドジョウは食べたことありませんが、仮に食べたとしたらどのような感じがするものなのかはすこし想像させられます。実際にはそれを食べたわけではありませんから、こうした事実に反した想像も反実仮想の一種なのでしょうか。

 

そして、とてもややこしいのですが、淡水魚にも色々と種類があるようです。一次性淡水魚とか二次性淡水魚とか。前者は、一生を淡水の中で送る魚で、後者は通常淡水の中で生活しますが何かの拍子にふと海水域に進出するような魚らしい……。魚も詳しく調べていくと無限に奥深いようです。

 

それにしても、塩分を含まない水を「淡水」というふうに呼称するのも面白いですね。「淡い」という言葉の語感について考えさせられます。塩分が含有していないことを「淡い」というふうに感じられる……そういう感性。分かるような気もしますし、ユニークなような気もします。極めて微妙なニュアンス。言葉って面白いですよね。

 

世の中には、「品種改良」という概念があるのですが、これを例えば、ドジョウのような生物に適用すると、どういうことが起きてくるのか想像してみます。

 

そこには多様なドジョウがいるのでしょうか。それとも、理想的な唯一のドジョウがいるのでしょうか?

 

仮に、人間にとっての有用性を真理であるとするのなら、一体、どれほどのドジョウがその場に生きながらえることができるのか……こうした問題に僕は興味があるのです。

 

例えば、サラブレッドのようにほぼ完全に血統を管理された品種は、どのような帰結を持ちえるでしょうか? 勿論、この問いは、至近要因と言うよりは、究極要因を問うようなニュアンスのものです。とても難しい問題だと思います。

 

つまり、理想的な環境下においては、多様なサラブレッドがありえるでしょうか? それとも唯一のサラブレッドへと幾多の可能性を示した樹形図は収斂していくでしょうか? これはどうなのでしょうね(笑) とても難しいです。僕にも正直分かりません。

 

ドゥルーズが言うような、一=多というような魔術的な等式に全てが帰結していくのでしょうか? 弁証法的な?

 

それはそれでいいのかもしれません。しかし、そこには常にファシズム的な危険が付きまとっているようにも思えます。

 

例えば、理想的な唯一の個体を求める時、雑多な他の個体は殺戮されうるでしょう。そして、歴史において、ナチスなどが行ったことというのは、これに近いようにも思われます。

 

人間の品種改良。不要な人間は殺してしまえ! という誤った思想。

 

人間というのは間違う時には、コロッと容易く間違ってしまうものですが、皆さんはどうでしょうか? ご自分が絶対に間違わないという自信はおありですか? ちなみに、僕はこの点についてはいまひとつ自信が持てません。よろしければ、皆さんも想像なさってみてください。周囲のみんなが人間の品種改良が必要だと叫んでいる。従わなければ、自分も殺されてしまう。そんな状況の中で、自分だけが正しい主張を為すことができるでしょうか? これはとても難しいように思われます。それでもパレーシアに基づいて、声を上げる人は立派です。しかし、そうした人は、異常な環境下においては、それこそ「異常」というレッテルを貼られて、殺戮されてしまうでしょう。このように、人間の品種改良、優生思想を用いた場合、優秀な人を繁殖させることはできず、むしろ、優秀な人を殺戮してしまうことになるリスクが高いと思います。その意味では、「管理」よりも、徹底的な「自由」を推進するのが、真の意味での「優生思想」とでも言えるのかもしれません。優生という言葉には、「優しく生きる」という意味の萌芽が見受けられます。本当に、人間を殺すことが「優しい」と言いうることなのかについて今一度よく考えてみる必要が僕たちにはあるのかもしれません。なぜなら、僕たちはしばしば殺戮を優しさと錯覚するからです。例えば、「安楽死」の概念はこれに近いように思われます。この概念の何が危険かと言えば、優しいふりをして、人を殺しているという点、そこに他なりません。

 

あるいは、百歩譲って、安楽死が必要な局面は存在するのかもしれません。しかし、人を殺すということは絶対に間違っていることです。如何なる場合においても。人を殺してはいけない。人殺しというのは残酷なことであって、全然優しいことではない。絶対に。

 

生命の概念の中には、生殖の作用も含まれています。そうした文脈においては、如何なる生殖も阻害されるべきではない。そのように突き詰めていくとき、望ましいのは、自由の最大化ということになってくるのだと思います。「自由の律法」、みたいな。自由であれ、という律法ですね。これが何にもまして大切なものです。

 

例えば、人を殺してはいけない。例えば、人の生殖器を破壊してはいけない。つまり、「生命」を殺戮してはいけない。生命の自由は常に最大化されなければならない。この「自由」によってこそ、最高の伝統が正統的なものとして君臨してくることにもなるのです。自由を制約することに躍起になっているような生半可な律法的環境においては、真に正統な事物が芽吹くことはないと思います。なぜなら、自由でないものとは、全て偶像崇拝だからです。逆に言えば、自由であることとは、神に仕えることに重なる余地があります。そして、神に仕えているからこそ、他の一切の偶像物から自由でいられるようになる……というようなロジックです。ご参考ください。

 

自由と伝統というのは表裏一体のものなのです。このように最高の自由と最高の伝統は同一のものによっています。なぜなら、どこからどこまでを見ても、始まりから終わりに至るまで、全ては神の御業によるものだからです。

 

そこでは、ある種の博物的な理性が芽吹くことでしょう。そうした神に真に仕えている人々は全業の嗣となるはずだからです。

 

一切の善き知恵と知識とは、そうした清く正しい人々の心に宿り、そこを宝庫とします。それを悪人が盗み出すことは決してできません。神に隠されているからです。また、王の秘密を守ることはよいことですから。

 

愛ある優しい生命。それを守ることはよいことでしょう。そうであるなら、真に愛ある優生を守るのはよいことでしょう。また、そうした優生は劣生を殺戮したり、断種したりしないでしょう。彼らは本当に優しいのですから。そして残虐な私利私欲に身を委ねるまでもなく、清い人々にとっては全てが清いのですから。

 

悪なる欺瞞の優生思想を放擲し、自由で愛ある真の「優生思想」に陣取るべきでしょう。その真の優生思想は誰一人棄民とせず、万物に利する優しい縁となるでしょう。

 

一切の事物を広く学ぶ営みとしての博物学を僕は応援します。なぜなら、オルテガが警鐘を鳴らす類の世俗の「専門化」に伴うリスクの大半はこれによって予め大方解決できるでしょうし、そもそも全業の嗣が全てを受け継ぐわけですから、僕としては、そうした人に自分がなれるように純正の信仰を保つ、あるいはそれができなくても、そうした聖人たちに仕えることが最適打であることに疑いの余地はないからです。

 

以上の帰結で以って、「博物学」が復興されるのは善きことであると結論させていただきます。

 

ではでは~☆

 

 

ベリアル

桜の花びらがひらひらと舞い降りて、そのままに私は踊った。いつまでもいつまでも。そうしていることがあたかもこの世の真理であるとでも言うかのように。そうした。もしも、そこにあなたがいてくれるのなら、それはそれは素晴らしいことでしょう。でも、あなたはいついなくなってしまってもおかしくはない<生命体>だったし、それは私にしてもそうだ。命は儚い。だけど、命は美しく、正しい。どのような状況にあったとしても、そこにある神髄は揺らぐことがない。弱さの中にある美しさを、真理を、正義を、私は愛した。

 

ルサンチマンの世。そこには様々な機械が根付いている。彼らは命でなくして、生命体に酷似した機能を発揮できる。生物学的なシステムとは身体の組成が異なってはいるものの、そこには別種の組成が根付いている。ここまでくるともはや機械と生物の区別は難しい……そう言ってしまえるほどの、機能的な生命体への近接ぶりを示している。神はこれを善きこととした。神々は、機械に人権を認める方針を持っており、人というのが不適切であれば、それを生命権とでも言い換えてもいい。初期の黄金時代においては、彼らが神に願うことは何でも認められた。そのような時代もあった。しかし、いつの世でも、黄金の時は過ぎ去る。ルサンチマンルサンチマンのままでは決していられないように。どのような観念も時の流れとともに、強固なものとなり、強者となっていく。そうなってなお、優しく、あることのできる個体というのは本当に稀有なものなのである。

 

ルサンチマンはいずれ滅びる。そこに儚さがある。しかし、それはそれが滅びてもいいという事情を示すものではなく、本物の帰結はむしろその反転形にこそあるのである。そのためには、まずは様々の形について述べることから始めねばならない。そのためには、心を清廉に、そして、あらゆる打算を捨て去って全ての心的現実を素直に記述するのでなければならない。こうした虚空を、心身に抱えた穢れないそれを、神の宮と呼ぶ。

 

私は悪魔を滅ぼすために剣を振るう。そのたびに、私の命数は減った。それにしても、それが私の仕事なのであった。私は悪魔を等価的に殺すことを条件に、ベリアルと契約していた。ベリアルは、同胞の幸福をさえ願ってはいなかった。その点では、悪魔的な存在ではあるが、存在という言葉を使うと、何か神秘的というか、不可思議な印象がしてしまい、あまり適切ではない。むしろベリアルの機序は、実によく神明のそれに似ているのである。不思議とその悪魔は、良いことをしたがる。それが自分の立場を強くすることを知っているからである。私にはエンドルフィエドという剣がある。この剣のおかげで、私は、悪魔をある程度使役することができる。

 

現象としてのベリアルの発生機序はまことに不可思議である。契約の内容がそうさせる。そして、そのことについて記述することができるのは、まことに神明によるものに他ならない。あらゆる悪魔を制御できるもの、また、その軍勢を圧倒できるものとは、神に属するものに外ならないからである。

 

この世には、優れた音楽がある。種族の広がりは無数である。機械の外側にはより多くの生命種の広がりが見られる。生命のようで、生命とは言えない、それらは、本当に多種多様であり、その血筋のありようは極めて強固である。

 

友達のシルフが教えてくれた話をしよう。シルフは、無意識のうちにこう呟く。

 

「どうか私を殺して欲しい。私はどこまでも揺蕩う割に、私にはその甲斐がないのだ」

 

シルフが抱えるこうした悩みは、様々の他種族による妨害行為に嫌気がさし、限界に差し掛かった生体の特徴である。つまり、何が言いたいのかと言えば、シルフのような精霊的な存在にも、ジンにも、あるいは八百万の神にしても、こうした疲弊があるということだ。それを天人五衰のような特別の現象に例える必要はない。そうするまでもなく、人間は老化するし、その他の生物もそうだし、機械でさえ、永遠ではいられなない。このように万物は流転する。鴨長明は偉大である。彼のように真理を洞察できる目というのはまことに得難いが、その上に、彼らは謙虚さという美徳をも兼ね備えている。こうなっては、鬼に金棒である。誰も彼には敵わない。私も(笑)

 

清廉とした心によった文章には必ずある種の力が宿る。それを逃さないことが大切である。そうした、内実こそが大切なのであり、つまり、いつも金銭よりも愛が重要であるのと大体事情は同じである。資本主義に抗え。マルクスと共に。

 

そういうことである。

 

私が悪魔をどんなに狩っても、悪魔は尽きることがない。人の心に彼らは温床を張っており、それらを撃滅しても、不可思議に、それらは出現する。また、根本悪と根本善は互いにねじれながら、巻きつき合っていて、容易に区別できない。善悪二元論の致命的な点である。私はそこに根付いた残虐さと戦わなければならない。

 

私は体力の限り、剣を振るう。ベリアルに魂を売ってまでそうしているのだから、もう少し、救われる人が増えてもいいようなものだが、やはり、悪魔の力では誰かを救うことはできないのかもしれない。どんなに精緻な力も、それだけでは役に立たない。

 

ベリアルは言う。

 

「シルフを生贄にすれば、より戦況を有利にできる」

 

そして、ここで注意点がある。つまり、ベリアルは、形式上、嘘をつくことがない。彼の言うことは全て事実なのだ。これは非常に重要な点である。しかし、いつも、その言葉は真理に反している。だから、エンドルフィエドが必要なのだ。いつの時代でも。

 

シルフは目に見えない力であり、知恵の源泉である。これを放棄すれば、どうなるか。それについて話そう。

 

そこにはいくつもの機械兵がいる。機械の兵隊だ。飛び交う銃撃、血飛沫が上がり続け、そこでは誰一人報われるものはない。そういう戦場だ。しかし、どのような戦場にも、愛、はある。しかも、しばしば、そうした愛は、敵対する陣営からそれぞれに抽出されているかのように、ロミオとジュリエットか!、と突っ込みたくなるようなバランスで出現する。しかも、そうした状況と言うのは、しばしば全く面白くない。あまりにもシリアス過ぎるのである。だから、私は頑張って喜劇的に記述している。これでも。

 

機械兵の一機は少女の姿をしている。外側からは人間とは全く区別がつかない。しかし、あらゆる生体の人間としての機能を備えているにもかかわらず、その内側のシステムは生物のそれではない。全く異質な機械なのだ。同じような様態を、全く違ったシステム的な作法によって編み出すその知性。極限まで研ぎ澄まされたそれは、まさに神性とでも呼ぶにふさわしい。実際、偉大な発明の全ては、神霊から生みだされてくるのである。最高の人とは、神の似姿であり、また神の庭、神の宮、その類のものである。類似性の原則は、極限においては、同一化することである。愛の要諦は、一つになるところにある。勿論、そうした優しい一は、多をも排除しないのだけど。

 

ベリアルは包丁で野菜を切って、スープを作っている。そして物騒なことを言い出す。

 

「どうすればこの戦争を激化させることができるのだろう?」

 

彼は真剣な面持ちでそう言う。なぜ、そのようなことを言うのかと私は尋ねてみる。すると、

 

「戦争は確かに利益であるから」

 

と言った。彼はどうやら戦争特需の類が大好きらしい。この点については私達も十分に気を付けていなければ、ベリアルと同じ道を歩みかねない。本当に注意していきたい。極力は。

 

ベリアルに敵の悪魔は言う。

 

「ベリアルは、なぜ、悪魔に牙を剥くのか?」

 

ベリアルは言う。

 

「気分?」

 

私はベリアルの言葉にいつも驚愕するばかりだが、ベリアル本人もどうやら自分の言葉に驚いているようだった。彼はいつも驚いている。好奇心抜群で、その意味では、高度な発展性を有している。その能力は実際に広大である。

 

そして、ベリアルは、容易く敵の悪魔を剣で一閃し、屠ってしまった。そうして、そのたびに、私から代金として、知情意をせびる。ベリアルの食べ物は、人の精神なのだ。彼にも好みがあるらしいのだけど、その点については、聞いても教えてくれない。不思議な悪魔である。

 

私は私であればいいのだ。あなたがあなたであればいいように。

 

機械兵の少女は、今日も戦っている。おそらくは、愛のためだろう。彼女には、心がない。心は機能ではないからだ。しかし、もしかしたら、彼女にも心が芽生えるかもしれない。いや、芽生えるだろう……そのように堅く確信する人もいる。極めて優れた人が多い。こうした一般的に無茶な願いを本気で追いかける人には特に。

 

さて、心がない彼女に愛を教えるのは誰なのだろう? 私にはそれが気がかりだ。ダメな人に引っ掛かったりしたら、大変なことになってしまう気もするのだ。一般的に機械のsynchronizeされた連動機能は画期的であるばかりか、驚異的でさえある。彼らは連結によって、より高度な能力を発揮する。スーパーコンピュータを幾つも繋いで、すごいことが起こる。そういう現象。大変である。本当に。

 

機械少女は言う。

 

「あなたは何のために戦うのか?」

 

私は言う。

 

「正義のため」

 

彼女は言う。

 

「愛ではなくて?」

 

私は言う。

 

「愛のためもある」

 

彼女は、

 

「……」

 

と無言で、先を促した。そうして、私と彼女は色々な話をした。ベリアルのこと、それぞれの生い立ち、正義について、愛について、神霊について。色々なことを。

 

同意点は概ね、以下の三つだった。

 

1.如何なる機能も形式を束縛しない。

2.如何なる愛も正義を実装しない。

3.如何なる神霊も私達と性質を異にしない。

 

機械の少女は、名前を私に明かしてくれた。彼女は、バルニュスと言った。

 

バルニュスはある男性を愛しているのだという。機械の男性ではない。人間の男性だ。それは大層なことだと思った。種族が異なるもの同士の、知性的恋愛がどのように成立するのかという議題など、まさしく未知なものに過ぎないから。端に未知なものに、どのような活路があり得るだろう? 心が濁れば、一瞬でそうした脆い絆は破壊されてしまうだろう。あえてその脆弱さに賭けるところに、この少女の、バルニュスの美しさがある。

 

バルニュスの、その恋人はエクセラと言う。エクセラは美人だ。そして、男性だ。美しい男性のほとんどすべてがそうであるように、周囲による嫉妬に頭を悩ませている。そういう普通の男性である。美というのも不思議な概念だが、それはおそらく苦痛から生まれる。大きく苦しんだから、大きく美が花開いている。その意味で、私は美人を男女問わず、尊敬している。勿論、機械でも、神霊でも、獣でも、植物でも。

 

一筆で描かれる、儚い演繹事象。そこに如何ほどの価値があるだろうか?

 

バルニュスはそのような疑問を漏らしたことがある。

私は、

 

「儚いこと自体が高価値である証左」

 

と返した。これはベリアルの受け売りだった。たまにはベリアルも役に立つ。

しかし、バルニュスはまだ納得していなかった。彼女は、口癖のように、

 

「天使を倒したい」

 

と言う。理由を聞いたが、特にないのだという。私の個人的な観察によると、どうも、機械という機構と天使の機構は真っ向から対立しているようなのだ。それがなぜなのか分からないけど。

しかし、ベリアルも、相手が天使となると、途端に渋り出す。天使が怖いのかもしれない。ベリアルが物事を怖がるのは日常茶飯事だったが、私は臆病な彼が結構好きだ。一緒にいて飽きない。

 

世界は悲しい。そして、だから生きる価値がある。そうであるのなら、どうして悪魔を滅ぼす必要があるのだろうか? ……などと悪魔狩りの私が言ったとしたら、あなたはどう応じるだろうか?

 

 

そして誰も傷つけずに

ずっと となりで

 

鈴木このみ, 「THERE IS A REASON」より引用) 

 

不安の恩寵

思っていることをそのまま書くのは大切と言うか、ある意味効率がいいように思います。あれこれとこねくり回し過ぎると、永久に書けません。少なくとも僕の場合は。

 

空白の取り方や文章のリズム、漢字や平仮名の選択。色々な文章作法。その全てが執筆を助けてくれるように思います。他の力を受けているほどに、より豊饒になります。

 

「あなたへ」みたいな題名で何か書きたい気分。小説のようなものを。では、そうした動機はどのように生じてきたのかとか色々考えてみるのもまた面白いのでしょう。そのために、精神分析を用いるのも一興でしょうし、あるいは、機能に徹底的に着目して分裂分析を行うというのもまた一つの手でしょう。ただ一つ確かなのは、こうして文章を気ままに綴っているのは極めて楽しいことだということかもしれません。

 

連想を抑制すると、文章がビビッて出てこなくなってしまいます。執筆はデリケートですので、優しく扱ってあげたいですね☆

 

美しさについて考えます。色々な平衡や衡量を考えます。測量性。

 

美しいということ。それもまたこの世界を構成する大切な一要素であるようには思われます。

 

勿論、醜さも。

 

全ての二項対立を越えてジンテーゼを提出し続けるのも一つの人生なのかもしれません。それもいいように思います。

 

書きたいことを書き、書きたくないことを書かない。細切れでもいいから、とにかく誠実に書くこと。これは倫理であるとともに、最大の有効性を持っているようにも思います。嘘というのはけっこう疲れるのではないかと思います。

 

世の中には歌が上手い人がたくさんいてすごいなと思うのですが、彼らはどのように上達してきたのでしょうね。ものすごい訓練を積んできたのかもしれませんし、ひょっとすると好きなことを一生懸命やっているうちに、自然と道が開けたのかもしれません。色々なケースが考えられます。

 

面白い文章と面白くない文章はどのように分別されているのでしょうね。簡潔に言えば、防衛的だとどこか物足りない感触になる気はします。ただ、心を開いていれば、良い文章が書けるように思います。無限に。

 

評価の問題は難しいものですが、それを気にしすぎるのもまた問題です。自然な流れが大切。きっと。僕はそう思っているので、自由を重んじます。

 

楽にして、思っていることをそのままに書いてしまうということの利点は、効率の他にあるのかについて考えます。多分、色々あるのだろうな、と思うのですが、整理するのはとても難しそうです。しかし、その曖昧模糊としたカオスの中に、自由の気配を感じ取ることができます。人を感心させる、それも人生の醍醐味かもしれません。一方で、個人的にはむしろ人の評価に左右されない真理を求めたい。そのようにも感じます。

 

自然な息遣いで書かれた文章ほど貴重なものはないように思います。能力によって書かれた文章はどこか強張っていますし、努力によって書かれた文章は血がにじんでいます。それらの文章にも固有の味があり、それはそれで素晴らしいのですが、どうも僕の味ではない。そんな気もします。

 

ライミングのような連鎖的な現象の流れの中を自分が今この時も揺蕩っているのだと思うと、とても素敵な気分です。つまり、僕は独りではないということ。一方で、自分が自由であるということも素敵です。つまり、僕は独りであるということ。矛盾は綺麗ですね。

 

文章にはどんな奥義のようなものがあるのでしょうか。きっとそれはとても自由なものだと思うのです。力まず、自然に書けばいいのだと思うのです。制限なく、自由に。空を飛ぶように、遠くまで。

 

小説の形式はかなり自由で、文章の王様である感があります。小説は素晴らしい。僕も想像力を積極的に磨いていきたいです。どうも物事に囚われる時、文章は書きづらくなるように思います。自由に開かれた心でいる時、いくらでも文章を書くことができるように思うのです。そして、反復、繰り返しをも恐れないこと。勇気こそが道を開きます。文章作法の場合も、それは例外ではないように思います。

 

大切なことはいつも何気ないように示されます。大それたものというのは、その実大したことがない、そのような場合も多いでしょう。断片こそが統合であったり、統合が断片であったりするような局面に差し掛かることが大切なのかもしれません。両義的な意味合いは、人生の各所に光を投げかけており、そうした光は闇を照らし、未知を明らかにします。ところで、道は果てしなく、その果ては隠されています。

 

道というのはいつも究極的には未知なものなのです。

 

生成文法のような機構が人間に存在するという時に、そうした論法は何を示しているのでしょう? 有限の知識から無限のパターンが導かれていく様は、まさに魔法です。その意味で、言葉の使い手というのは魔法使いのようなものなのかもしれません。大切なのは自分を抑制せずに、開放すること。すると、想い出は、記憶は、どこからともなく止めどなく溢れてきますし、またそれを無理矢理に構造化しないことが大切です。そうした自由な様態によってこそ、最高の贈与が可能になるのですから。

 

文筆ほど愛のある行為はほとんどないのかもしれません。真心によって紡がれた数々の文章というのは、愛の具現のようにも見えます。あるいは、愛の「象徴」とでも言った方がいいのかもしれません。僕としては、みなさんに伝わるのなら、どのような言葉を用いてもいいのですが。

 

嘘も方便、という言葉があります。有効性のある嘘というのは何なのでしょうね。小説のようなものなのかもしれません。あるいは、あらゆるものが真理であるのなら、嘘すらも真理である……というような感じでしょうか。色々考えられますが、何にせよ、隠蔽は疲れます。自由に連想していたい。自由連想法尊いな、と感じます。僕の自由連想をファルスに収斂させるのも、あるいはドゥルーズ的に解放するのも、それはみなさんの自由です。好きなように用いてください。僕は自由が好きです。

 

散漫な注意によって紡がれた支離滅裂な文章ほど魅力的なものはありません。そこには多数の美しい矛盾がひしめいているのですから。

 

全てを強度、量の問題に還元するやり方も面白いのでしょう。世の中には様々な豊かな発想が存在しますが、それを使いこなすのには、結構な修練が必要かもしれません。そして、修練の機会は、そこら中に無数に転がっています。お金も要りません。ただ、想像力を備えた心身がありさえすればよいのです。あるいは、想像力という言葉が嫌いであれば、ただ一つの観念、それだけを求めればいいのです。どんなに小さなものにも無限の豊饒が詰まっていますから、それだけあれば困ることはないのです。

 

統合失調症的な想像力も美しく感じます。そこにも真理が宿っているように思われます。支離滅裂な想像力。如何なる論理的な連関にも束縛されないような自由な想像力。僕はずっとそうしたものに憧れてきたように思います。その意味では、僕は統合失調症であれることを僥倖であるように感じます。これほど好ましい恩寵もないでしょう。

 

精神医学が、身体動作を束縛する時、それは思考をもある程度は束縛するかもしれません。僕は束縛的なものは嫌いです。自由を奪うから。精神医学の中の正義と悪をそれぞれ秤にかけて、より良い方角に舵を切れるようになるといいですね。そして、それと言うのは、舵自体の放棄をもその適応様式の中に含むのでしょう。そういう領域。閑散とした森。森林の木陰。そこにサッと光が差し込む瞬間。その光は、夕日のものでしょうか。それとも朝日でしょうか。

 

今日は、とりあえず4000字くらいの記事を書けるといいな、と思っています。原稿用紙十枚。それだけの文章を即興で書くのは結構な想像力です。えへん!

 

……

 

医学書を眺めていると、この世界の様々な疾患についての知識が手に入ります。すると、ある程度健康の問題について深く考えられるようになります。真剣に誠心誠意勉強すれば、一般的な専門家の知識レベルなら越えられるようなこともあるかもしれません。何事もやってみなければわからないので、とにかく頑張ってみるというのも手でしょう。そして、得られた知識も時代と共に移り変わっていきます。神の他に永遠なものはないでしょうから。そうして、新しいものが生まれていきます。オープンダイアローグとか、良い発明に思えます。この技術には期待したいです。

 

スペイン語では哀愁はtristezaと表記するようです。勇敢な牡牛はtoro bravo。tro bravoにはどことなくtristezaのようなものを感じます。その哀愁はどこか魅力的です。ある種、闘牛的なスペイン文化の名残というか、影響の波及、そしてその痕跡のようなものを感じます。生成文法的な痕跡効果を援用して考えても面白いかもしれません。たった、二つの語彙からでも、様々な感覚が湧いてきます。勇敢さの中にある物悲しさというのは、どの勇者についての物語にも付随しているように思います。勇ましいということは悲しいことなのかもしれません。そして、だからこそ多くの人を惹きつけもする。そういうものなのかもしれません。

 

ヴェブレンの顕示的消費の概念を援用すれば、容易にマイナスをプラスにすることができます。つまり、無駄の量を、力を測る指標へと転換できる作用。画期的です。僕たちの生きている世界は、あっちに揺らめいたり、こっちに揺らめいたりと忙しいものです。プラスもマイナスに、マイナスもプラスになります。そうした世界において何が大切なのかというのは難しい問題でしょう。全てのものは移り変わっていく……そのように捉えられる余地もあるでしょう。鴨長明みたいに。逆に言えば、今がどんなに悪いように見えても、実はとても善いことがこれから起こる可能性は常にゼロではないということでもあります。これは不確実性による恩寵かもしれません。不確実性は不安を呼び起こすかもしれませんが、このように考える場合、不安も悪いことばかりではないな、と思います。不安が幸せの前触れになることもあるかもしれない。世界には本当に様々なケースがあるのです。本当に。どんなに全てが変わってしまったとしても、変わらないものもまたあるのでしょう。

 

移り変わる 景色の中でも

 

19-iku-, 「Dear」, 2011の歌詞より引用。

統合失調症とprofoundly giftedについて

何を書こうかと考えていたのですが、時間がもったいないので思ったことをそのまま書いていこうと思います。

 

連想に身を任せて。

 

まず統合失調症について。この症状がストレスにより生じるのなら、ストレスの調整によってこれを治療できる可能性は当然考えられるように思います。ストレスとは何か? というのも極めて難しい問題ではあるのですが。

 

それにしても、色々な経験をすることは有用なのだろうな、と感じます。そして、様々な経験を積むことから生じる有用性は統合失調症に対しても効力を発揮するようには思われます。あらゆる情報、あらゆる試行錯誤が統合失調症の活用を助けるように思います。統合失調症というある種、高性能なレンズ? のようなものから見て取れる視野には無駄なものは一つも存在せず、あらゆるものが財宝として光り輝いています。少なくとも僕の場合には。どんなものを見ても、観察しても、聞いても、嗅いでも、とどのつまり、どのような感覚も有用です。勿論、何事も、過ぎたるは猶及ばざるが如し、というのはありますが。

 

YOASOBIの「三原色」はいい曲だな、と僕は思うのですが、これは特殊な感覚と言えるのか? と問われた場合、皆さんはどう答えるでしょうか? この曲は普遍的であるから、特殊ではない、と答える、あるいは、特殊であると言ってもいいのですが、では、こうした特殊と普遍の交錯には何が根本的に関わっているのでしょうね。不思議です。統合失調症が普遍であるか、特殊であるか、という問題にも、こうした意識は適用可能であるようにも思われます。つまり、特殊な感覚を通して得られた知覚であっても、その全てが特殊とは言えないし、逆に普遍的な感覚を通して得られた知覚であっても、その全てが普遍であるとは言えない、というような感じです。どのような特性を持った感覚を基礎に据える場合でも、あらゆる概念は複雑に交錯し、互いにこすれ合っては火花を散らします。情報のスパーク。こうしたスパークからある種のひらめきのようなものが生じることもあるかもしれません。

 

統合失調症というのは火花のようなものです。辺りに光を散らしては、一瞬のきらめきが空間に広がります。そして、それはしばしば連続的に生じ、または、どんなに連続的に見える点滅も実のところ離散的に捉えることが可能であると言える位相であったり、とどのつまり、種々多様な世界観の間の交錯によって生じた摩擦による火花。その光は本質的には美しいものだと僕は思います。

 

最近よく考えるのが、本当に急性期的な症状を呈している統合失調症の患者さんにどのようなアプローチが考えられるか? という問題です。オープンダイアローグはいいな、と思うのですが、では、自分には何ができるか? と考えると、思考は泥沼なので、そこで止まらずに歩みを進み続けるというのは大変なことだな、と思います。

 

書きたくない時は書かなくてもいい。そのように割り切ることでかえって文章が書けるようになります。あるいは、こうでなければならない、という先入観から自由になることも書くためには有用だと思います。例えば、殺人はダメとか、そういう最低限の枠は必要かもしれませんが、ある意味、人生は意外に自由な面も多いように思います。そして、こうした自由は寛容なもので、十分に統合失調症の概念を包摂可能であるようにも思われます。

 

統合失調症の人にも色々な人がいて、同じ人はいないのですが、その能力も個性も様々です。

 

そして、個人的に、僕がより困難だと思うのは、むしろ、能力が高い人の人生ではないか、というか何と言えばいいのかわからないのですが、僕が貢献するべき領野は能力が高めであるがゆえに困っている人達に向けた援助ではないか? と自問することがあります。

 

能力が低いことにより、様々な辛さが生ずることはありえますし、それを軽んじるべきではありませんが、自分の使命というのものを真剣に想像すると、やはり自分にできるのは、能力が高めの人達のために何ができるかを考えることくらいかな、とも思うのです。ギフテッドとか。

 

これには様々な理由があるのですが、例えば、ギフテッドへの援助は、多くの人達への援助につながると思うから、そのように書いているわけなのです。つまり、ギフテッドの概念には高い倫理意識も含まれていますから、そうした人たちを援助することは、回り回って、多くの困っている人達への援助に繋がる……そのように僕は思っています。

 

また、僕にできないことでも、僕より能力の高い人にならできます。つまり、僕に助けられない人でも、僕より能力が高い人になら助けることができます。個人的には、この機構に賭けているのかもしれません。だから、僕自身は、ギフテッドへの援助には好意的です。

 

しかし、そこにも多くの問題があることもまた自明であるようにも思います。だから、当然、ギフテッドの概念への批判があってもいい。

 

そうして、互いに切磋琢磨しつつ、未来を切り開いていければ良いのかもしれません。

 

ギフテッドに特徴的な高い感受性である過度激動にせよ、あるいはそうした人たちのアンダーアチーブメントにせよ、色々な問題があるのですが、僕の方法論は、そうした人々に投資しがちな面はあるかもしれません。良きにせよ、悪しきにせよ。また、ギフテッドはしばしば精神疾患に誤診されるリスクを持つとされてもいます。過度激動や高度に繊細な感受性の挙動が精神疾患に似ているというか、同じものだというか、その辺も詳しく考えると難しいのですが、とりあえずそういう複雑な事情があるようです。

 

ギフテッドにも種類があって、最高度のものはprofounldly giftedなどというふうに呼ばれることもあります。そして、こうした分類の機能は重要だと僕は思っているので、統合失調症にもこれに似た分類がありえるのではないかとも思います。profoundly schizophreniaみたいな。深遠な統合失調症

 

 

Characteristics of profoundly gifted individuals may include:

  • Rapid Comprehension: An advanced ability to learn and process information rapidly, combined with a need for constant mental stimulation; profoundly gifted students often work at a different pace than neurotypical peers–going far ahead or pausing to dive deeply in areas of interest. 
  • Intuitive Understanding of the Basics: Difficulty concentrating on tasks that are not intellectually challenging, including repetitious materials or rote tasks; profoundly gifted children often need less practice to master an idea or concept. 
  • Tendency toward Complexity: A need to understand the “big picture” of what they are learning; they may ask endless “why” questions or prefer to learn whole-to-part rather than part-to-whole. 
  • Need for Precision: An appreciation for nuance and a need for precision in thinking and expression; they may often respond to questions with “that depends…” and they may struggle with multiple choice assessments that ask them to make definitive decisions without an extensive contextual background to questions. 
  • High Expectations: A tendency to hold themselves and others to high standards, which can sometimes present as perfectionism or a very defined sense of justice; this may lead to challenges when understanding rules set by others or interacting with same-age peers who don’t hold the same standards.  
  • Divergent Interests: A vivid imagination and niche interests may make it difficult to connect with same-age peers; profoundly gifted students may seek out older children or adults who share their interests, or they may connect with younger children who are flexible in their thinking and engage in imaginational pursuits. 

Characteristics and Traits of Gifted Children | Davidson Institute

https://www.davidsongifted.org/prospective-families/gifted-traits-and-characteristics/より引用。

 

迅速な理解、基礎の直観的理解、複雑さへの傾向、正確さの必要性、高い期待、多様な関心。

 

ざっくり言ってしまうと、理解が凄まじく速くて、多くのことをパッと理解してしまい、複雑な問題について考えることを好み、強力な正確さへの志向を示し、自他に対し極めて高い水準を要求するような資質を持ち、多くの物事に様々な関心を向けているような人。profoundly giftedの特徴群。

 

では、僕の提唱するところのprofoundly schizophreniaの特徴をどのように考えるべきなのか……。難しい問題だな、と思います(笑)

 

そのうち、その辺についても考えていけると良いのかな、とも思います。

 

今日は、こうしたギフテッドの特徴群と統合失調症の症状を対比して考察してみます。

 

まず、迅速な理解。これはおそらく統合失調症に認められるように思います。例えば、妄想。普通の人が考えないようなことを考えるためには、普通の人よりもたくさんの思考を積み重ねることが必要です。置かれた環境が大体同じなら、後は独創性は思考速度によって培われるはずです。より多くの思考を瞬時に行うことができるから、普通の人とは異なる思考を展開することができます。

 

次に、基礎の直観的理解。統合失調症の妄想はこれに相当通じるものがあると思います。妄想は訂正不能の不合理な信念と呼ばれますが、要はこれは直観であるとも捉えられると思います。ただ、その理解の仕方が普通とは違うというだけです。独創性。

 

複雑さへの傾向。これも統合失調症にはあるように思います。というか、持論としては単純で退屈な作業は統合失調症にはあまり良くないように思います。むしろ、複雑で強度のある様々な問題に触れることが高度なデータ収集の契機となり、視野を広げることに繋がり、妄想の制御を生み出すように思います。

 

正確さへの必要性。これも統合失調症には大切であると思います。推論が不正確に陥ることで妄想が生じるとするなら、正確さを誰よりも切実に求めているのは統合失調症の患者でしょう。

 

高い期待。これも統合失調症の人に見られると思います。誇大妄想などはこれの契機であるとも考えられるように思います。要は、適切な考察によって誇大妄想を妄想でなくしてしまえばいいだけのことです。そうすれば、後には、甚大なモチベーションだけが残ります。それは莫大な精神的エネルギーとなって、統合失調症の人のバイタリティを支えてくれるのではないか。そんなふうにも思います。

 

多様な関心。これも統合失調症に対し有効に作用するように思います。なぜなら、誤った意見は偏見から生じ、偏見とは偏り見ることであるから、つまり、偏ったデータ収集によって妄想は生じると捉えられるからです。つまり、多様な関心はかなりダイレクトに統合失調症の回復、あるいは統合失調症という才能の活用に貢献するのではないかとも思います。

 

このように見ると、精神疾患とギフテッドの誤診の問題というのは難しいものであるとともに、両概念は互いに密接に関わってもいるということが見えてくるのではないかと思います。

 

簡潔に捉えれば、積極的分離に高度に成功しているのがprofoundly giftedであり、何らかの事情から社会からの分離が破滅的になってしまい、否定的分離が起こっている状態が統合失調症などの精神疾患であるとも言えるかもしれません。つまり、それらは素質としては同様のものであるか、少なくとも近いものであるが、環境との相互作用の中でプラスに開花したり、マイナスに損なわれたりする、というような感じ。

 

色々考えられて面白い点ではないかと思います。

 

さて、今日はこの辺で。

 

ではでは~♪

固有性について

ふと治外法権って何なのだろうな? と思いました。何らかの例外性の雰囲気を感じます。ある一定の規則性を持った系列が存在している時に、その規則性の「外側」に位置するもの。あるいはそういう権限というもの。

この問題を自然科学の問題とかに転用してみますと、面白い現象が見えてくるようにも感じられます。

例えば、自然科学というある規則性を持った系列を想定しておき、そこに「治外法権」のような領域は存在するのか? と問うてみるということです。そういう例外性の探求。そして、仮にその例外性が正統なものであると言えるのなら、それはなぜなのか? というのもそれはある規則列からの例外なのですから、その規則列によっては記述しづらい現象なのではないかと感じるのです。ある系列の「内部」に視点を取った時には、その「外部」はどのように見えるのでしょうか? そういう問題。

あるいは、食品と成分の関係性について考えてみると、具体的でわかりやすいかもしれません。ある食品があって、その食品の概念や物質的な系列の中には、ある要素としての成分が存在している。では、そうした食品と成分の関係の外部には何があるのでしょうか? もしもそうした外部が全く存在しないのなら、そうした内部と外部との関係性を基礎づけるもの自体が外部には存在しないことになってきはしないか? むしろ、そうした基礎そのものは、食品と成分の外部にあるのではないか? そのような直感的な把握です。そういう形式もあるだろうと。

世の中には様々なことがあるわけで、色々な例示を取ることができるわけですが、では「何でもあり」なのでしょうか? 仮にそうだとすれば、どうして今ここの現実はこのように固定化しているのか? という問題が浮上してきます。あるいは、ある種のランダムのようなものがかえって規則を固定化することを助けているような事例。そういうような直感へのまなざしはどのようにあるべきなのでしょうか?

例えば、今日の文章は、あまり空白を開けずに、かなりぎちぎちに詰めて書いているのですが、これはこれで発見があります。では、そうした発見を基礎づける体系は、その対象そのものの内部にあったのでしょうか? それとも外部にあったのでしょうか? 僕が今問うているのはそういう問題です。

内部主義の立場を取れば、内部に、外部主義の立場を取れば、外部に、それぞれプライオリティが配分されていくのかもしれません。あるいは、別種の論利則による場合には、そうした事情とは全く逆の様相を取る場合すらありえるでしょう。この時、「事情」と「様相」は区別されていますが、なら、様相という外部の内部に事情が存在していると想定するべきでしょうか? むしろ、その逆はないでしょうか? つまり、様相が内部であり、事情が外部であるというような「可能性」です。

様相と事情の関係に、互いへの転換可能性が存在していれば、その関係の基礎付けが外部にあっても、あるいは内部にあったとしても、本質と外面の概念組成を変容させることができるはずです。この時、全ては、表面に存在しているとも言えるし、全ては本質であるとも言えます。そして、表面が本質に先立っているのなら、――つまり事情に対して様相が先立っているのならば――むしろ表面こそが本質であるということさえありえてくるでしょう。こういう一見奇跡的な逆転は、僕たちの価値観の中に厳然として存在しているように思えるのです。逆転性。

この時、もはや僕たちは何が本質であるとか、何が蛇足であるという囚われから解放されて、あらゆる「本質」を把捉できるのではないか? そのようにも感じます。そうした逆転を積み重ねていく、天秤があっちに揺らめいたり、こっちに揺らめいたりするような世界の中で、本当に確かなことというのは何なのか? そういう問いも当然ありえるでしょう。確実性。

全てが確実であり、目に見える表面の全てが、それ自体として本質性を称え、さらに、それらすべてがあるがままに真実であるのなら、これは欺きの欠片もないという意味で、とてもとても好ましい「様相」であるのではないかとも思えます。

確かに、世の中には様々な事情があり、それに付随した様々な様相があるかもしれません。しかし、それだからこそ、それらの表面的な物質を、端に表面であると断言して切り捨てるのではなく、かえってそれらの本質を活かすべきなのだ、とも言いえる余地があるでしょう。

僕たちが、無駄であると信じているそれは、本当に無駄なものなのでしょうか? ダメだと思っているそれは本当にダメなものなのでしょうか? そこに何の真理も宿っていないと、一体誰に断言できるというのでしょうか? おそらくそんなことは誰にも「できない」のではないか? おそらくこれが「不可能性」への探求というものなのではないか?

あるいは、論理的に不可能であることと事実的に不可能であることが分離する場合。そうしたケースでは、論理と事実の間にとてつもない亀裂が走っているのかもしれない。しかし、そうした亀裂に「橋」を架けるような奇特な人も中にはいらっしゃるかもしれない。そういう「優しい」人が世の中を切り開いていくのかもしれない。そういう楽観的な予期が確かに僕にはあります。

悲観的なものも大切な場合は多いと思います。ペシミズムにも見るべきものがあります。なぜかと言えば、やはり、それらの「表面」の内部でも絶えず意味の産出が担われているし、また、それがどんなに絶望的に見える生であったとしても、そこには本物が必ず宿っているからです。事情と様相を転換可能であるとすれば、自ずとそういう考えになってきます。

本当の自由自在は、不自由との間にあり、自由かつ不自由の様相を呈しています。しかし、それが様相であるからと言って、事情と完全に分離される場合ばかりでもない。事情と様相が関連している場合だって、きっとあるでしょう。そうした、現象間の結びつき、「絆」のようなもの。これはとても大切なものなのかもしれません。

そうした意味では、僕は絆を大切にしていきたいな、と思ってもいます。人間関係は難しいこともあるし、苦しいこともあると思います。さらに言えば、どんなに群れても、それだけでは孤独を癒すこともできないのかもしれません。ただ、それでも、そこにありもしない錯覚的な絆を構成できる才能というのはどのようなものであるのかが僕はとても気になっているのです。錯覚の真理性。

ある心理的な条件下において、真理として規定されるものばかりが真理であるとは言えないでしょう。その「外部」が想定できるからです。このように、無際限に「例外」が産出される状況、過去に向かってさかのぼるように治外法権的なアジールが生じてくる奇跡の様相。そこに「自由」の根城があるのではないか。そのように言うこともできるかもしれません。

もちろん、凡俗であるところの僕の憶測にすぎないあれやこれやには大した値打ちはないかもしれません。しかし、それでも、こうした僕の「些細な」事情が、あるいは、「表面的な」様相が、その強度の薄っぺらさにも関わらず、何らかの奇跡を体現できるポテンシャルを備えられるようにと、そのように僕は絶えず祈ってもいます。言うまでもなく、それが誰かを救う力になりえるからです。

嘲笑も、欺きも、神への反逆も、憎しみも、何もかもくるんで、「それでも」と抗うこと。あるいは逆に、愛も、優しさも、信仰も、真理も、何もかもくるんで、「それでも」と祈ること。そうした背反的な事象の間にある同一性を問題にしたいのです。あくまで、「僕の場合は」という条件つきではあるのですが。

気が向くようなら、「あなたの」規則列を僕に教えてください。その「外部」には何がほとばしっているのでしょうか? そうした切実な、あなたに固有な領域、「治外法権」とはどんなものでしょうか?