魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

社会術について

 そのうち、プラトンこの『国家』について、何か書きたいですけど、ちょっと迷ってるんですよね。

 できる限り、ネット文化充足的にしたいというふうな方針で、このブログを書いていますので。

 いい本はたくさんあるのですが、このブログでは、少なくともまだ、紹介していないですね。

 どうしましょう?

 まあ、とりあえず、プラトンには直接触れるのは置いておくことにしましょう。

 さて、僕たちは、現在、民主制の世界に暮しています。

 そして、僕たちの生活が万能ではないように、民主制というのは万能ではありません。

 では、その民主制をどのように考えるべきか。あるいは、魔術師としては、民主制にどのような態度を取るのかについて、考えてみようと思います。

 対立するのは、大きく二つの勢力かと思います。

 一つが、管理体制を敷く勢力。もう一つが自由を敷く勢力。

 魔術師は、――少なくともこのブログで言う意味での魔術師は、――自由に加担するというふうに言えるかもしれません。

 歴史をみるに、管理体制は、あまり上手くいっていないようですね。ファシズム共産主義も。とりあえず常識的には。

 はたして、管理するのと、自由を尊重することのどちらがいい目を見るかは、巨視的な視点からだと、ぶっちゃけ、分からないです。僕にも。

 ただ、個人個人の能力のパフォーマンスを見た場合には、どうも自由のほうが良いようです。というのも、自由にしたほうが、学習効率がいいように思われるからです。

 この学習効率という概念も厄介で、いったい何が善い学習なのかとか考えだすと、まさしく切がないのですが。

 とりあえず、わかるのは、大なり小なり多様性が大切であるということ、つまり大なり小なりみんなの力が必要ということ、これは確かかと思います。一方で、現時点では、貧困問題などもありますので、ある程度、補助が必要ということ。補助するということは、国によって管理するという意味合いを厭が応にも持ってしまうものと思います。

 そうですね……例えば、「果たして、総理大臣になる人は誰でもいいのか?」という問題について考えてみると、案外おもしろいかもしれません。多くの場合、誰でもは良くない、というのが主流な意見ではないでしょうか。この時、既にその判断の中には、「個人差」の概念が適応されています。つまり、総理大臣を「選ぶ」ということは、既に人間には、何らかの個人差があるということ、つまり、適性の個人差があるということを、認めているということになります。すると、個人差があるので、人それぞれということになります。つまり、人それぞれに適正な環境がある。すると、人それぞれに、適正な自由の程度があるかもしれない、などというふうに、ある種の「差別化」が進行する種となります。個人差を考えることは、差を考えるわけですから、大なり小なり差別の思想になって来ることと思います。

 つまり、僕たちの住んでいる社会は、名目上は自由であるかのように見えますが、その実、かなりの程度、管理的でもあるのです。大概のものは、選別のシステムの過程を経た上で、僕たちの目の前に並んでいます。選別のためにシステム化された長い長いベルトコンベアに乗って、ウィンウィンと運ばれてきます。ウィンウィン。

 その意味では、自由民主主義というよりも、差別選別管理主義と言ったところではないでしょうか。

 とはいえ、あまりにも変な人が総理大臣になったりしたら、それはそれで大変なことになるのではないでしょうか。すると、驚くべきことに、差別選別管理主義は、ある程度、やむを得ないというロジックとなります。おそろしいことです。実に。

 つまり、僕たちの生活は、大なり小なり差別を肯定したうえで成り立っています。差別はいけないことと習うものの、現実にはある程度の差別が必要になってきます。すると、ここに一種の矛盾があります。

 社会は、僕たちに、「差別をしなさい。かつ、差別をしてはならない」というふうに二重の命令を発していることになります。しかし、その指示は、先述の通り、矛盾しています。

 このように、社会の問題を少し掘り下げただけで、様々な矛盾がドバドバと溢れてきます。矛盾は、僕たちの生活の主要な構成因子となっています。

 矛盾は本当にどこにでもありますね。おもしろいくらいに。その全ての矛盾を消化しきることは難しいかもしれません。

 この矛盾の領野においては、もはや論理では行動までこぎつけません。いくら論理を駆使しても、次々と矛盾が立ち現れてきて、困ってしまいます。

 解決策の一つに、「中庸」というものがありますが、中庸は、中庸自体をも否定しなければ、真に中庸足り得ない面がありますので、結局は、同じように訳の分からない矛盾の渦に吸い込まれてしまいます。

 さて、矛盾というのは、あんまり珍しいことではないようです。むしろ、社会は矛盾しているのが当たり前であるような側面があります。

 人はそれぞれ、ある程度正しくありたいと願うものです。だから、お互に矛盾を指摘しあいます。しかし、一向に矛盾が無くなる気配はありません。喧嘩で一生が終わってしまいます。

 なら、どうするか。

 論理がダメなら、――より正確に言うなら、論理を十分に検証した上でそう判断したのなら――直観に頼る以外にはありません。

 しかし、これは、論証ではありません。なぜなら、直観とは、矛盾の果てだからです。つまり、ここに書かれていることは、不可思議な、魔法の言葉です。

 ここに書かれている、文章は、あるいは、社会は、僕たち、人間は、どうも魔法の産物であって、論理の産物ではないようです。論理は副次的なものなのかもしれません。とは言え、論理を全て放棄すればいいというものでもないようです。論理的な人というのは、重宝されることも多いのではないでしょうか。

 しかし、論理は論理的にではなく、あくまで魔術的に用いられます。なぜなら、論理を徹底すると、自然と直観に、つまり、創造に、魔術に、到達してしまうからです。

 では、これらの文章は、論理構造に還元できないとすれば、いったい何なのでしょう?

 強いて言えば、連想としか言いようがありません。つまり、想像力によって書かれているのです。想像力の連鎖によって。これは、比喩です。そして、比喩とは魔法です。

 だとすれば、どうして、こんな不思議なことが起こるのか。そこには、超論理的な何かがあるのでしょう。それが何なのかはわかりません。なぜなら、一般的に、「わかる」というのは、論理における理解を示しているからです。それよりは、どちらかというと、芸術家などが言うような、神秘的な理解の方が、的を射ていると言えるかもしれません。

 僕には、社会が比喩の連鎖のように見えます。それが正しいことなのかどうかはわかりません。直観です。

 そして、この直観による文章が誰かに届くとすれば、それはまさに魔法としか言いようがありません。

 このように、魔法というのは、ずいぶんと身近なところで起こっているように思われます。

 むしろ、ここで重要となるのは、対立項のどちらか一方に加担することではなく、その都度、その中間に位置し、その都度、その時に必要な、行動計画を、それぞれが選びとっていくことであるように思われます。

 なお、中間は中庸と異なり、中庸と中庸の否定の間のことを中間と呼びます。その他の対立項についても、同様です。自由主義と管理主義とか。

 ここに至って、僕たちは、もうすでに、魔術的領域への足を踏み入れているものと思います。そこにはいわゆる意味での思考はなく、直観しかありません。そして、その直観が不可思議な力によって、言葉を紡ぎ、絵を描き、音楽を奏でます。あるいは、不可思議な力によって、僕たちは、この世界に生きています。

 さて、今回の文章によって、明らかになったことを簡単にまとめると次のようになります。

 

1.矛盾は社会に山ほど存在し、論理では消しきれない。

2.であれば、自分の直観に従うしかない。

 

 以上です。

 とはいえ、この『直観』というものが悪用されるケースもあるようで、なかなかむずかしいのですが。これも矛盾ですね。世の中矛盾だらけです。

 さて、では、論理主体ではなく(論理を使わないということではなく、それを魔術的に用いるということです)、直観主体で、少し社会について考察してみましょう。

 

 社会には、階層がある。なぜなら、個人差が仮定されているから。

 社会には、自由がある。なぜなら、自由が尊重されているから。

 社会には、管理がある。なぜなら、すべてを野放しにはできないから。

 社会には、結婚がある。なぜなら、淫行を制限しなければならないから。

 社会には、淫行がある。なぜなら、旺盛な繁殖には旺盛な性欲が必要であるから。

 社会には、平等がある。なぜなら、差別の深刻化はファシズムを産むから。

 社会には、バランスがある。なぜなら、振り切れることが恐いから。

 社会には、恐怖がある。なぜなら、恐怖が民衆を統制する手段となるから。

 社会には、勇気がある。なぜなら、恐怖政治は、人々の気持を挫いてしまうから。

 社会には、スーパーマーケットがある。なぜなら、食事を取らなければ、生きていけないから。

 社会には、ごみ処理場がある。なぜなら、衛生状態を保たねばならないから……

 ……等々。このように、社会には、様々なものが存在する。しかし、それのどれが正しいのかをしぼることはできず、どれも正しいと受け入れるしかない。社会は、一見矛盾に満ちた指令を持って、構成されている。あたかも、なんらかのフィードバック構造によって、機能しているかのように。社会は、相互作用的である。つまり、あなたが、発する言葉は社会を変える。社会はあなたの言葉を変える。これは相互作用的である。

 僕が、あなたを構成する。あなたが、僕を構成する。

 社会では一貫性のあるものが好まれる。なぜなら、長いものに巻かれた方が生存効率がいいと判断されているからである。

 社会では、権力が好まれる。上記と同じ理由による。

 権力とは虚妄である。なぜなら、盛者必衰であるから。

 金銭とは権力である。なぜなら、それは力を持つから。

 武力は権力である。なぜなら、それは、いつも両刃の剣であるから。

 同時に、社会は自由を好む。なぜなら、自由は権力の虚妄を破る唯一の光であるから。

 同時に、社会は権力を手放せない。なぜなら、自由になりきれない人もいるから。

 生存する人はすべて等質である。なぜなら、個人差は差別であり、権力の虚妄によって自滅するから。

 全ての人は自由である。なぜなら、権力は自滅するから。

 死ぬ人は、すべて互に異質である。なぜなら、生存する人の反対であるから。

 恐怖は人の口を閉じさせる。なぜなら、勇気は稀であるから。

 自由は稀である。なぜなら、勇気が稀であるから。

 桜の美しい花はいずれ散る。なぜなら、桜のの繁殖器であるから。

 社会の美しい花もいずれ散る。なぜなら、社会の繁殖器であるから。

 社会は繁殖する。なぜなら、社会は生物であるから。

 差別によって社会は死ぬ。なぜなら、権力は両刃の剣であるから。

 恥によって社会は構成される。なぜなら、恥により人々は自粛するから。

 自粛によって、自由は束縛される。なぜなら、自粛は自由を奪うから。

 自由を奪われると、人は差別に走る。なぜなら、自由がなければ権力に走らねばならないから。

 

 ……等々。社会という一つの言葉から、ほぼ無限に考察が展開されていきます。僕は、この先がどうなるのか非常に興味があるのですが、紙面があまりにも長いので、今日はこの辺で(笑)とりあえず、考察できることや書ける題材というのは、ほぼ無限にあるということが示せたところで、今日は終わりにしたいと思います。

 社会には、様々な矛盾があります。その上で、僕たちが、どのように手を取り合って行けるのかが、今後の世界の趨勢を決める、鍵になるのかもしれません。

 

人類すべてが手を取り合っていたら 

地球はもっともっと愛をくれてただろう

今日も向かって行く いつか見た世界の寿命に(スズム,『人類五分前仮説』,歌詞より引用)