魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

自信を持つための術式

 自信のある態度には、感銘を受ける人も多いかもしれません。僕も、誰かの自信のある毅然とした発言に助けられることが多々あります。そういう方々には、いつも感謝しています。

 さて、今日は、自信のある態度について、少し研究してみましょう。

 自信があると言ってもいろいろです。

 ただ、大きなポイントは次の二つでしょう。

 

 1.本当に自信がある。

 2.自信はないが、自信があるように振舞っている。

 

 自分に自信があるかどうか、明白に分からなくするポイントは、この二つかと思います。なるほど、これらは、外側からは判別することが難しいかも知れません。

 しかし、この問題は、実にむずかしく見えるのですが、そんなに難しくないとも言えそうです。

 なぜなら、自信とは、気持の問題であるからです。気持ちの問題は、信じるか信じないかの問題ですので、ある意味で、その人が自分は自信があると思っていれば、本当に自信があるということになるのです。というよりも、その人が今、信じていることが、その人の心理を形づくっていきます。

 言い方を変えれば、他人につく嘘はともかくとしても、自分につく嘘は本当になります。嘘から出た実、という言葉もありますね。

 だから、自信の有無のような、気持の問題の話で言えば、自分が信じている自分の自己イメージがそのまま真実になると思います。勿論、自己イメージは、現実にも多大な影響を及ぼしますので、大なり小なり現実も、その自己イメージの通りになっていきます。いきなりは、どうなるか分かりませんが、少なくとも経時的に見ていくと、大体、自分の思い描いているような方向に、人生というのは進んでいくみたいです。もちろん、個々の瞬間には突発的に見える出来事や予測不能のことも起こるのですが、全体として見ると、そういう傾向があるみたいです。

 ですので、自信を持つ方法とは、けっこう簡単で、要は、自分を信じることができれば、それで、自信があるということになるのです。信じられれば、証拠も論理も必要ありません。

 では、どうすれば、信じることができるのか。

 これには、信じるということがどういうことを意味しているのかを、まず考えてみましょう。

 信心とは、そもそも論理的証明によっている類のものではありません。すくなくとも、どちらかと言えば、宗教的な物であり、科学的な物ではありません。つまり、信心は一種の直観であると考えることができます。

 であれば、まずは、精神を直観に誘導してみましょう。

 論理の刃を向ける対象はなんでもかまわないのですが、例えば、自信を奪う事実に其れを向けてみます。

 例えば、あなたが、上司に怒られて落ち込んでいるとします。そうしたら、その上司の行動や、自分の感情、心拍数、呼吸回数、メンタルの質感、そう言ったものを全て、分析してみましょう。これは、論理的分析でOKです。すると、あなただけではなく、上司の行動にも相当におおくの粗があることが見えてくるものと思います。欠点のない人間はいませんから、絶対に、粗は見えてきます。ここで、分析を終えれば、気持を、上司への怒りに変換することができます。なぜなら、この時、上司の欠点が、あなたのあたまの中を占めており、ある意味で上司を非人間化しているため、すべてを上司のせいにしてしまうこともできるのです。この手法は、あまりにもメンタルが切迫していたりするときには非常に有効でしょう。自己責任の重みに耐えきれない時などは、用いるといいかもしれません。さて、次には、自分の感情や行動について目を向けてみます。すると、自分の行動にも粗があることが見えてきます。すると、一概に上司を責めることは出来ないな、という気持ちにもなるでしょう。しかし、悪いところもあれば、良いところもあるはずです。ですので、たとえ、一時的にあなたが何かの失敗を犯したとしても、その失敗があなたのすべてを決めてしまうわけではないのです。ポイントは、あなたが悪いのではなく、あなたのほんの一部としてのある一つの失敗があるということです。そして、その失敗は、あなたの糧となるでしょう。そう考えれば、失敗すら悪いこととは言えなくなります。このように捉えれば、失敗を前向きにとらえ直すことができるでしょう。失敗を重ねただけ、経験を積んでいるのですから、その分、今後の適応に良い影響を及ぼすであろうと考えることもできます。むしろ、自分にできることだけをやっている人よりも、自分にできないことに挑戦して、失敗の経験を積んだ人のほうが、最終的には良い結果を収めるという事例もあるでしょう。ウサギとカメのお話や大器晩成という言葉は、そういった事情をよく表しているのではないでしょうか。

 このように、一口に失敗と言っても、それは、様々な面を持っていて、一面のみでもっては、判断しきれるものではないのです。たとえ、上司があなたに感情的に暴言を浴びせたとしても、そうです。その暴言のみでは、あなたの人格を損なうことはできませんし、まして、規程することはできません。人格にはさまざまな面があるのです。多面性。

 このように考えれば、たとえ、失敗したとしても、大きく自信を失ってしまうことはないのではないでしょうか。失敗も長期的に見れば、すべて糧になっているはずです。トライアンドエラーの繰り返しが、その人の能力を研鑽していくものと思います。その意味では、エラーというのは、成長に欠かせないものです。むしろ、エラーを悪いことだと考えてしまうと、絶対にエラーしないようにしようと、何の挑戦もできなくなってしまうのではないでしょうか。これでは、成長はありません。小さなことでもいいので、むしろ、エラーを承知で、挑戦してみることが、成長の兆しを産むのではないかと思います。

 そのためには、時に野心を持ち、ある種の傲慢を意図的に持つことも手かもしれません。健全な野心は、健全に人間を成長させてくれるのではないでしょうか。

 もちろん、すべての人が傲慢になる必要はないと思います。いろいろな人がいていいでしょう。みんながみんな傲慢だったら、それはそれで困ったことになるかもしれません。そもそも社会とはそのように色々な種族の人たちがいることで成り立っているのですから。

 しかし、時に、自信満々の人たち、野心家と呼ばれる人たちが、僕たちの住む世界を大きく改善するということもまた事実です。彼らは、一見、無鉄砲で、どうしようもないわがままな人に見えることもあるかもしれませんが、そんな彼らの資質を一概に悪であると決めることはできません(もちろん、時に悪となってしまう事例もあるとは思いますが。何事にもメリットとデメリットがあり、その双方に目を向けていかなければなりません)。おそらく、彼らは厳密な意味では、わがままというよりも、真剣に何かを求めているのだと思います。それで、普通の人の常識からすると、逸脱した行動をとり、それがわがままと言われるのかもしれません。彼らの探し物が見つかるといいですね。

 もしも、あなたが本当に、自信家でありたいと願うのなら、その時、もうすでにあなたの願いは半分叶っていると思います。あとは、自信を直観するだけです。そのためには、徹底的に思考し、思考の無限性と多様性、論理的判断の不可能性(いくら考えても答えが出ないということ)を完璧に把握する必要があります。いくら考えても答えが出ないということは、いかような論法によってもあなたの内なる自信を打ち砕く術はないということでもありますから。こういった過程を経てあらゆる思考が放棄された領野で、空っぽの精神状態だけが残り、何も余計なものが付加されていないその状態で、正しくありのままに物事を見ることで、つまり直観することで、自分の自信をある種魔法的な不可思議さを通して獲得できるのではないでしょうか。それは、いかなるプログラムにもよらない、自発的な自信でしょう。したがって、プログラムによっては、打破されることはありません。それが打破されるとすれば、何らかの強力な魔術(つまり、負の直観とでもいうべきもの。「黒魔術」と言ってもいいかもしれません)によってでしょう。また、徹底的に考えつくしたという経験は取りも直さず、あなたの自信を形づくってくれるでしょう。

 今の日本で考えますと、もうすこし、野心家な人がたくさん出てきてもいいのかもしれませんね。賛否両論かと思いますが(笑)

 

 みなさんに、Nightcoreの『primadonna』を送ります。

 

Primadonna girl,yeah

All I ever wanted was the  world

I can't help that I need it all

The primadonna life,the raise and fall

You say that I'm kinda difficult

But it's always someone else's falut

Got you wrapped around my finger,babe

You can count on me to misbehave

Primadonna girl(上記曲歌詞より引用)

 

 みなさんは、こういったprimadonnaたち(男でも女でも中性でも)について、どうお考えなのでしょうね。僕は好きですね。こういう人。なんとなくシンパシーを感じる(笑)