政治はどちらかと言えば、共同体的なものであり、個人やマイナーなものを重視する魔術師の本分ではないかもしれませんが、一応、個人的な見解を書いておきます。ご興味のある方はどうぞ。
1.政治とは「連携」である。
2.「連携」にはスペクトラムがある。
3.すべてのシステムを一点に集約した連携を「独裁」と呼ぶ。
4.独裁的傾向をファシズムと呼ぶ。
5.非独裁的傾向とは、システムの分散化である。
6.この非独裁的傾向を、個人主義と呼ぶ。
7.非独裁的傾向とは、非コントロール的傾向である。
9.非コントロール的傾向の極限を、自由と呼ぶ。
10.この際、便宜的に、独裁から自由へと向けて、政治体制のスペクトラムを表すことができる。
11.スペクトラムは連続しており、様々なファシズム、様々な自由主義が存在する。
12.政府とは、大なり小なり独裁である。
13.自由とは、大なり小なり無政府主義(政府がいらないということは、非コントロール的な傾向のこと、個人主義の極限)である。
14.共同体や成員個人の性質によって、これらのバランスの程度はさまざまである。
15.実際には、僕たちは、ある程度の政府(独裁傾向)を容認し、ある程度の自由(無政府傾向)を容認している。
16.人間は誰でも間違うことがある。
17.独裁を行った場合、独裁者に間違いは許されないが、それは不可能である。
18.したがって、独裁は成立しない。
19.人間は誰でも間違うので、生きるためには、間違いを保護するための緩衝材が必要となる。
20.したがって、間違ってしまった人を助ける力、「相互扶助」が必要となる。
21.相互扶助は、大なり小なり共同体を形成する。
22.共同体には、大なり小なり統制機関が存在する。つまり、大なり小なり政府的傾向を持つ。
23.したがって、スペクトラムの二極点としての、自由と独裁はいずれも、成立が難しい。
24.よって、自由と独裁の間のバランスを取ることが必要となる。
25.必要な相互扶助の程度や自由の程度は、個人によって異なる。
26.したがって、個人ごとに応じて、ある程度きめ細やかなバランスの配分が必要となる。
27.つまり、様々な統制バランスを持った、様々な共同体が必要である。
28.自由、個人傾向のの強い集団もあれば、協力、集団傾向の強い集団もある。
29.そういった、様々な集団が必要となる。
30.ファシズムは、すぐにみんなで行動しなければならない時に、ただちに団結するのには向いている。しかし、指揮系統が単純な構造で、分散されていないので、指導者が破綻するだけで全て破綻してしまう。つまり、団結した行動能力は高いが、セキュリティ性能が低い。
31.自由主義は、指揮系統を分散し、複雑化し、多様化し、セキュリティ性能を上げるのには向いている。しかし、指揮系統が分散化しているため、リスクヘッジの能力は高いものの、すぐに団結して行動する力は薄く、緊急事態には向かない。
32.したがって、自由主義とファシズムは、世界における緊急性とさまざまなリスクとの兼ね合いにより、そのバランスが決定される。
33.リスクをあらかじめ避け得る段階では、自由主義が強い。
34.リスクを既に被ってしまった段階では、ファシズムが強い。
35.逆に言えば、「緊急性」の度合によって、政治体制は決定される。
36.したがって、人々の「緊急」という概念の感じ方によって、政治体制は決定される。
37.つまり、緊急事態であると広めれば、ファシズム傾向となる。逆に、今は安全であると広めれば、自由主義傾向となる。
38.したがって、悲観的になれば、ファシズムとなる。逆に、楽観的になれば、自由主義となる。
39.これらの動向は、メディアの「煽り」、政府の公式発表などの情報戦略によって操作することができる。
40.個人の立場はさまざまである。
41.したがって、ファシズム的な方が得をする者と、自由主義的な方が得をする者がいる。
42.両者はお互にさまざまな情報戦略を用い、自身の利益の高い政治体制にしようとする。
43.個人の感じ方はさまざまである。
44.したがって、緊急度への感覚は個人によって異なる。
45.よって、社会にはさまざまな自由―ファシズムレベルの政治体制についての是非の情報が錯綜する。
46.この場合、たとえ、誰も悪気なく嘘をついていないとしても、情報が錯綜する。
47.情報が錯綜する中で、自分に適した情報を探し当てることは困難である。
48.したがって、情報コントロールの技術の発展が重要となる。
49.一方で、情報のコントロールがあまりに熟達すると、情報統制の力が肥大化する。
50.この場合、権力が、情報統制を行うものの下に集中し、政府的傾向が肥大する。
51.したがって、情報のコントロールを阻害する、「ノイズ」を生み出す技術が必要とされる(これを暗号化技術と呼ぶ)。
52.情報コントロールの発達と情報のノイズの扱いに関する技術の発達の両方が必要となる。
53.このようにして、自由とファシズムの対立した構図ができてくる。
54.また、両者は拮抗することによって、一定の水準のバランスを保ち、ホメオスターシスの特徴を持つ。
55.このホメオスターシスの機能が崩れたとき、社会は破綻する。
56.したがって、様々な多様な対立構造の維持が重要となる。
57.以上は、個人が個人の利益を重視する場合を仮定している。以下、個人が個人の利益を重視しない場合について述べる。
58.まず、個人の利益はある程度担保されなければ、個人の生存が成立しない。
59.したがって、個人の利益の重視度は程度問題である。
60.よって、この仮定においても、ファシズム(共同体傾向)と自由(個人傾向)のスペクトラムを考えることができる。その後の議論は既に記した様となる。
61.では、どのような場合に、対立構造なしに、社会は成立するであろうか。
62.これは、人間の知性が極限まで高いことによって、可能であると予想される。
63.極端な例で言えば、人間が神であれば、対立構造を消化できる、という理屈である。
64.実際には、神とまではいかなくても、人間の知性が高いことによって、対立構造を消化できると考える。
65.ここに、人間の知性が対立構造(争い)を消化できるだけ十分に高いと考える一派と、それには十分ではないとする一派の二つが生じる。
66.人間の知性を信じた場合、社会はコントロール可能であるという観点から、ファシズム傾向となる。
67.人間の知性を信頼しない場合、社会はコントロール不可能であるという観点から、リスクヘッジへと傾き、多様性尊重、人間の知性を越えたものの存在への肯定的態度(宗教および伝統など)、自由主義傾向となる。
68.したがって、この図式も、自由とファシズムのスペクトラムによって考えることができ、その後の議論は前記の通りとなる。
69.一方で、人間の知性への感じ方は、やはり、個人によって異なる。
70.どの感じ方に重きをおくべきあるかは定かではない。なぜなら、曲がりなりにも個人主義傾向を持つ場合、多様性がある程度尊重され、個人個人の感じ方はある程度尊重されるからである。
71.したがって、人間の知性についてのどの見積もりが正しいかというのは一つの賭けである。
72.ここで、その賭けに、リスクヘッジの態度で臨む人(長期的視野)と、即時団結の行動(短期的視野)で臨む人が生じる。
73.無論、これも、程度問題である。
74.どちらが正しいかは、現時点では、誰にも分からないと主張する人がいる。この場合、その人は、自由主義傾向となる。
75.わかると主張する人もいる。この場合、その人はファシズム傾向となる。
76.いずれにせよ、あまたの意見のうち、どれが正しいのかは、今のところ不明である。
77.よって、対立構造(争い)は原理的には維持される。
78.したがって、政治のホメオスターシスを均衡状態に保つことが、社会の破綻を防ぐ上で重要となる。
79.ならば、平和は争いによってしか保たれない。
80.そして、この言説もまた、争いの渦の中で傷つけられるのでなければ、平和は成立しない。
81.平和とは争いの均衡状態のことである。
82.社会は多様な人たちによる多様な争いによって維持される。
83.この社会において、傷つくことは免れない。
84.傷つけることで作り出す絆によって社会は構成されている。
85.これらの状況を解決できるとすれば、つまり、傷つく人を守ることができるとすれば、それは、神にも類する知性を持った人々の手による。
86.しかし、どの人が神にも類する人々であるかは不明である上に、歴史上、英雄的崇拝は危険性を持っているという側面もある。
87.つまり、神にも類する人々、いわゆる「天才」を並外れた人々であると考えることは危険な側面を持っている。
88.ここに、「平等」の価値観が大なり小なり生じる。程度は個人によりさまざまである。
89.しかし、平等の価値観とは、争いを肯定する価値観でもある。なぜなら、神にも類する人々がいないと仮定した場合、傷つくことを避ける方策は見当たらないからである。
90.とはいえ、可能性としては、平等の価値観を保持したまま、何らかの奇跡的な手法の発見によって、争いを消化、あるいは低減できる可能性もある。
91.何が可能で、何が不可能であるかは、現時点では、必ずしも明瞭ではない。
92.したがって、ある意味では、可能性は無限大であり、絶望するのにはまだ早い。
93.もちろん、可能性の視点に立てば、神にも類する人々が存在する可能性も、また、否定はできない。したがって、その意味においても、絶望的には見えるものの、厳密には絶望ではない。
94.傷つけ合いを防ぐことは現時点では不可能である。
95.傷を癒すこともまた不可能である。なぜなら、癒したそばから、すぐに傷つけられてしまうからである。
96.しかし、僕たちには、この争いの未来を変えられる可能性は残っている。
97.何が可能であるかを見きわめるために、様々なことに自由に挑戦していくことはある程度可能である。
98.意志力とはコントロール力である。
99.自由とは無条件性、つまり、分散性である。
100.希望はまだある程度残存しており、ファシズム(コントロール力)と自由が手を取り合える可能性、つまり、「自由意志」は幾多の矛盾に阻まれつつも、まだ完璧には否定できない。
補足.私見としては、自由意志は「直観」により可能である可能性があると考えている。それらは、多様な芸術行為へとつながっていく。
以上、個人的政治術への見解でした。あくまで、これは、「マイナーなもの」であるので、その是非については、みなさんが各々判断してくださればと思います。
あー。疲れた(笑)。政治の話とか普段あんまりしないからな。なかなかに骨の折れる作業でした。
プルプルタンは、あまり政治に明るい人間ではないので、色々と不備はあると思いますけど、とりあえず、自分にできるだけのことは書いたので、そこは何とかご容赦を(笑)
ひとまず、僕一個人はこういうふうに思ってますよ、ということをみなさんにお知らせしておきます。みなさんの考えもいろいろと見れるといいですね。
何かのご参考になれば幸いです。
みなさんに、Nightcoreの『Kawaru Mirai』(本当はChouchoの曲、このブログでは、本当の歌手省略してること多いです)を送ります。
僕たちの声が
君の癒せない傷痕に届けば(上記曲歌詞より引用)