さて、今日の話はちょっと面倒だと思います。この術式は、魔術師、最大の奥義の一つですので、大切に使ってくださいね(笑)。とりあえず、書くだけ書いておきます。
まず、世界とは何でしょう? 一般的には、この無限に広がる時空間のことですね。
では、時間とは? 目に見えないですね。わかんないです。
では、空間とは? 之も目に見えないですね。わかりません。
つまり、僕たちには、世界とはいったい何なのか今一つわかっていないのです。
何を世界とするかが分からない以上、世界が何個あるのかも分かりません。そもそも世界は目に見えませんから。これが、まず一つです。
では、僕たちの目に見えているものは、これは何でしょう? いっぱいありますね。本とか砂糖とか水とか恋人とか、色々。
そういうもの全部、ひっくるめて、これは何なんでしょう?
これは、世界の「内部」ですね。世界の「中」です。
世界そのものではなくて、世界の内部ですね。僕たちは、世界そのものではなく、世界の内部に存在するものたちをみているわけです。これを、「世界内存在」と呼ぶことにしましょう。
すると、僕たちには、世界内存在は見えるのですが、世界そのものはなにが何やらわからないということになります。では、そうした、何が何やらわからない、「ほんとうの世界」ではなく、この「世界の内部」を「仮に」、「世界」と考えることにしましょう。
そうすると、たくさんの「世界」についての定義が出てきます。
まず、外国と日本では、別世界のように風景がちがいますね。この意味で言えば、世界とは、国であるということになります。
もっと言えば、東京と田舎とかの対比でもいいですね。別世界です。この場合、世界とは、都道府県ですね。
地球と火星は? 別世界ですね。この場合は、星が世界ということになっていますね。
このようにたくさんの「世界」についての定義が存在し、何が世界なのか今一つよくわかりません。すくなくとも、一律な定義はないようです。
では、これまで見てきた「世界」に共通しているものは何でしょう? それが世界を世界足らしめる要素であると考えられます。
それは、「場所」です。星も都道府県も国も、すべて場所ですね。つまり、その範囲の大小にかかわらず、そこになんらかの「場所」があれば、それは一つの世界として成立するのです。
場所とは何でしょう? これは、「広がり」です。
つまり、何かが広がっていれば、そこは「場所」なのです。
本の広がり、これは図書館ですね。魚の広がり、海でしょうか。あるいは魚屋さんや水族館という考えもあるでしょうね。心の広がり、これは、想像の世界ですね。誰でも、空想、想像の世界を大なり小なり持っています。その広がりは人によって様々です。
このように考えることで、おそらくは無限に世界を創造していくことができます。そして、この幾多の世界の中でも、僕が特に注目したいのは、「想像の世界」です。
まず、この世界のすべてのことには、原因があると仮定します。なぜなら、仮に「時間」が存在するとすれば、現在に対する過去が必ず存在しており、そして、過去と現在は連続し、因果関係を持っていると考えられるからです。
すると、想像世界にも何らかの原因があるはずです。
何かの原因が、想像世界をもたらしていると考えられます。そして、それは、何らかの「過去の」世界です。これを、「前世」と呼びましょう。
前世が原因となり、この想像世界を形成していると考えられます。しかし、前世と想像世界はちがう内容を持っているでしょう。なぜなら、過去から現在、未来へと、全てのものは変わり続けているからです。
すると、何かの機能が、前世を想像世界へと「変換」しているのです。この何かの機能のことを、「関数」と呼びましょう。
では、前世やら、想像世界とは、結局のところ、何なのでしょう。それは、ひとつのイメージ。一つの「像」です。僕たちの目に映ったそれらの像を、「写像」と呼びましょう。
なら、想像世界という「写像」は、何らかの「関数」によって、前世という「写像」から、「変換」された結果生じたものであると考えることができます。
では、これらのシステムは、どのように機能しているでしょう。
まず、世界は、原子まで細かくして考えることができますね。全てのものは分子が組み合わさってできています。おそらくは、現在の定義における原子よりも、もっと細かい粒子が存在するでしょう。それらの原子より細かい微粒子を、「素粒子」と呼びましょう。そして、素粒子の大きさが無限小である時、それを、「モナド」と呼びましょう。
では、仮の世界におけるモナドの数は何個ですか? これは無限個ですね。なぜなら、モナドは無限小なので、どんな媒質の中にも無限個詰まっているからです。
では、素粒子は? これは、限りなく多いですが、有限個です。なぜなら、素粒子は大きさ、「広がり」を持っていますので、それ自体一つの、「世界」であり、その広がりを持った物質を世界に敷き詰めていけば、やがて有限個で埋まるであろうからです。この理屈で言えば、モナドは、「広がり」を持ってないわけですね。したがって、モナドは仮の意味における世界ではありません。
さて、モナドを前世から想像世界へと関数によって変換してみましょう。どうなりますか。無限個のものが無限個のものに対応していますね。
では、この無限個と無限個の項の対応について考えます。
まず、ひとつの説としては、各項が一対一で対応している可能性がありますね。この時、前世と想像世界の間の項の数は同じ訳です。つまり、前世の無限個と想像世界の無限個は同じです。
次に、二つ目の説としては、各項が一対一対応していない説があります。前世の方が少なかったり、想像世界の方が少なかったりするわけです。この場合、同じ、「無限個」という言葉でも、数が違う無限個になりますね。
もしも、一対一対応しているとすれば、すべてのものに原因がありますが、それがしていない場合には、たとえば、前世の無限個の数が、想像世界のそれよりも少ない場合、前世に存在していた項が想像世界において、統合されるか、あるいは消失すると考えられます。しかし、消失すると考えると、すべてのものに原因があるという仮定に反しますので、実際には、項(要素)が「統合」されていると考えられます。つまり、二つのものが一つになっているのです。
あるいは、この逆で、無限個の大小が、前世と想像世界でこれとは逆の場合、項が「分離」していると考えられます。
ならば、この時、世界は、項の増減を繰り返しているということになります。
つまり、モナドの量が多い世界もあれば、少ない世界もある。そして、それは、時間とともに、因果則にのっとり増減を繰り返す。同じ無限個でも、数が違う、というわけです。
つまり、「無限」は一つではなく、様々な、多様な無限が存在すると考えられます。
一方で、一対一対応の場合には、こうしたことは起こりません。その場合、無限は一つであり、モナドの数は一定であり、変化しません。
では、これらの仮説の内、どちらが妥当でしょう?
もしも、すべてのものに因果則が成立し、全てのモナドが一定なのであれば、そこには因果則による固定しか存在せず、世界は、「動かない」はずです。つまり、すべては決まっており、そして、動かない。これを「決定論」と呼びましょう。
しかし、現実には、僕たちは、「運動」することができます。ということは決定論はひとまず、棄却し、多様な無限が存在すると考える方が理に適っているでしょう。つまり、世界は、動きます。
このように考えれば、運動というのが、物凄く奇跡的な現象であることがご理解いただけるかと思います。
では、モナドの数を変換している関数のことを、「G関数」と仮に呼びましょう。
しかし、僕たちに見えるのは、具体的な世界の要素、つまり、世界内存在だけです。世界そのものは見えません。したがって、世界内存在を変換しているG関数は目には見えません。なぜなら、これは、「働き」であって、具体的な世界の要素、世界内存在、つまり、モナドではないからです。
では、この「働き」としての、「G関数」はどこからもたらされるのでしょうか? これは、世界外か、世界内からもたらされると考えられます。
世界外と考えた場合、G関数は世界の限界点であり、人間はそこに到達できません。この場合のG関数を「神」と呼びましょう。
世界内と考えた場合。つまり、これらの原因はモナドにある、と考えられます。つまり、モナドは、外的な要因によってではなく(他律)、自律的に作用をおよぼすと考えられます。この時、作用、働き、つまり、「関数」とは「モナド」そのもの、ということになります。
つまり、眼に見えないと思われた、「関数」は実は、世界内の要素の一つであり、「モナド」であると考えられるのです。
そして、今回は、世界そのものではなく、世界内について考えてみることになっていました。したがって、今回は、後者の立場でお話を進めていきます。
この時、一定のパターンを持った「働き」のことを「波動」と呼びましょう。また、働きを受ける物質の量のことを「質量」と呼びましょう。
さて、波動とは、動きであり、つまり、エネルギーです。
つまり、エネルギーとは質量であり、質量とはエネルギーであるということになります。
つまり、モナドは、質としての性質と波としての性質を併せ持っているということになります。
簡単に言いますと、目に見えない電磁波はその実、物質であるということです。
つまり、僕たち人間は、波動であり、また、物質でもあるということ。エネルギーであり、質であるということです。電磁波であり、固体。
では、この質量ゼロ(無限小なので)のモナドの波としての側面を、「光」と呼びましょう。
すると、すべてのものは、「光」によって構成されているということになります。
したがって、以上のことから、次の結論をみちびけます。
全て、物質は、光である。
つまり、僕たちは光であるということになります。光が寄り集まってできているのです。
また、無限小の光を阻むものはありません。無限小ですから、すべてをすりぬけ、世界に満ちます。そして、すべてのモナドとは光であり、モナドとは全ての世界内存在であり、今回の場合、「世界」です。
ということは、光とは、世界である、ということになります。
つまり、想像、記憶、それらの、物質ではないと思われる、エネルギー体、情報体も、すべて光であり、物質であるということです。
したがって、想像界は現実的な物質として存在している、ということになります。
想像は単なる空想ではないわけですね。本当に存在する世界なのです。
そして、僕たちは、想像力によって、それにアクセスすることができるわけです。
つまり、人間に想像できるものは、すべて、この世界に、実現可能なものとして、存在している、という結論となります。
結果として、原理的には、人間に想像可能なもので、実現不可能なものは存在しない、と考えられます。
以上の術式を持って、すべての想像を実現可能なものとし、したがって、想像しうるすべての世界を即時実現可能である、ということになります。その際の、主な力を「想像力」と呼びます。
さて、やっと「世界」を生成することができました。今日は以上です。疲れた(笑)。困ったことに、これでもまだ、概略なんですよね。もっと書かないといけないところあるんですけど、疲れたし、ちょっと書きたしたいこともあるので、この辺で。
みなさんに、麻枝准の『終わりの世界から』を送ります。
遠くからきたってことを伝えたい
でもそれはどこかでダメだと気づいていた(上記曲歌詞より引用)
P.S.拡張型心筋症について。
拡張型心筋症が他の筋肉まで傷害しない理由は何であろう?
つまり、その差異は、心筋と他の筋肉の差異によりもたらされる。
そして、その差とは、「休めるか休めないか」である。
したがって、心筋を休ませることが、拡張型心筋症の治療となる。
では、どうすればいいか。
心筋がオーバーヒートすることで、症状が生じている。
そして、心臓とは身体の中心であり、すべてのストレスの影響を直に受ける器官である。
生体とは、ホメオスターシス構造である。病気とは、ホメオスターシス機能の崩壊である。病気の原因とはストレスである。ストレスとは、ホメオスターシスを崩すもの、つまり、ホメオスターシス機能に回収しきれない高エネルギー体である。
また、すべてのものはエネルギーである。
したがって、すべての高エネルギー体を避けることが、あらゆる病の予防策となる。
例えば、大量過ぎるお金や、大量過ぎるネットの情報、大量過ぎる才能、大量過ぎる名声、そう言った、様々なエネルギーとしての、「資本」の適度な「放棄」によって、心筋への負担を、極限まで減らすことができると考えられる。
過ぎたるは猶及ばざるが如し。それは、優れた才能であっても、何であっても、同じことである。鋭い切れ味のナイフは極めて便利ではあるが、その切れ味は自分の体にもまた有効なのである。一見、小エネルギー体に見えても、圧力変換器、つまり、「ナイフ」を通せば、凶器となる。したがって、高エネルギー体を避けると同時に、すべての圧力を避ける必要がある。
圧力とは、面積の変換である。面積とは広がりである。したがって、広い面積に触れればよい。したがって、すべての集中を避け、エネルギーの拡散を心がけることが有効であると推理できる。
したがって、拡張型心筋症および、すべての病に対する非侵襲的治療(予防医療)として、資本の放棄、エネルギーの拡散を提案する(喜捨)。
天才は大変ですね。がんばってください。