なに書こうかな。
思うところを徒然と書こうと思います。徒然なるままに、日暮硯に向かいて……みたいな感じで。
洗脳って、何なんでしょうね。不思議な言葉です。一体、脳をどうやって洗うんでしょう? 不思議です。
Neruさんの曲に、『洗脳』っていうのがあって、すごく好きです。
洗脳って、何なんだろう? 信念とか?
すると、宗教はすべて、洗脳ということになるのかもしれません。
ググったら、洗脳の意味、思想改造って出てきました。
難しい。思想改造って何だろう?
多分、何かを絶対的なものだと思うと、洗脳を受けたことになるんでしょうね。多分。
だったら、すべてのものは相対的なものだと考えているのが良いのかもしれません。何でも一長一短ですしね。
でも、そこら中、見渡す限り洗脳だらけで、何が何やらわかりませんが(笑)思想改造を洗脳だとすると、相手の思想に何か影響与えちゃったら、それで洗脳になっちゃいますよね。
影響を完璧に避けるのは無理ですから、洗脳を避けるのは無理なのかもしれません。
なので、僕たちは、とりあえず、自分たちは何かに洗脳されているんだろうな、くらいに考えておいた方がいいのかもしれませんね。むずかしい問題です。
あと、自我肥大とかについても考えますね。
でも、何となく、自我肥大して見える人って、能力高い人が多いような気がします。それとも、能力高いから、こちらが嫉妬して、相手が自我肥大しているように見えるのでしょうか。わからんです。それこそ、相対的に考えたら、どっちの視点が正しいかなんてわからんですし、論争しても答えは出ないでしょうね。論争には意味があるとは思いますけど。『政治術』で書いたんですけど、偏らないように、対立構造を維持するのが現実的なのかな、と個人的に思っています。疲れますし、論争は体力勝負になってしまいますけど、しょうがないのかな、と。
あとは、何でしょうね。強いて言えば、言葉にならないものを大切にするしかないんでしょうね。言葉で解決しないことについては。
でも、言葉にならないものって何だ? って言ったら、また議論勃発しちゃいますけど。それこそ、この文章自体が言葉だから、しょうがないですね。直接、「モノ」を見た方が速いのかもしれません。百聞は一見に如かず、みたいな。
あとは、何でしょうね。どんな方法があるんでしょう。
理性がダメなら、感情?
お互にお互いの傷に共感することで、連帯するとかどうでしょう? 論争いらなくなるかな。
とはいえ、共感能力って、人によってさまざまでしょうし、共感できる内容も、立場によって変わってくるでしょうし。どうなるんでしょう。
でも、他にいい案もないし、感情で連帯するというのは一つの手ではあるのかもしれません。
でも、感情で動くと、大変なことになったりもしますよね。やはり、一長一短か(笑)しょうもない世の中ですね(笑)。
感情と理性以外。
「誇り」とかどうです?
誇りがあるから、悪いことはしない、みたいなノリで。
一つの貴族的意識ですよね。
僕には、貴族のことはよくわからないし、部外者なので、あんまりものを言えないのかもしれないですが考えるだけ考えてみますと……
貴族って、多分、自我肥大ではあるんでしょうね。おそらく。ただ、それが適応的に機能しているかどうか。適応的に機能していれば、貴族だし、不適応を起こしていれば、障害になるんでしょうね。適応、不適応の区別とか考えると、超難しいですけど。
単純に言えば、本人が納得しているかどうかではないでしょうか。基本的には、これだと思います。
それこそ、洗脳とかで、本人が納得している場合、どうするんだ、って話になりますけど。
説得と洗脳って、どうやって区別するんだろう?
泥沼ですな(笑)。
言うなれば、無限に考察を積み上げるのが、思想家の仕事なのかもしれません。どこまでも、絶対化を避け、あらゆるものを相対化していくことが。
障害と健康の区別って超難しいですからね。一体何が障害なんだ? って。そもそも健康な人なんているのか? なんていう話も出てきますよね。おもしろいですけど、体力勝負ですね(笑)。
そのうち、本格的にデリダ読んでみようかな、って思ってるんです。有名なのしか読んでないし。なんかネット見てたらおもしろそうだな、って思って。
こないだマルクス読み返してたんです。それで、価値はどの時点で通貨に変わるんだろうな、とぼんやりと考えていました。無論、答えは出ません(笑)。強いて言えば、商品の交換が成立した段階ですよね。これ、なんか、量子力学とかの、観測の問題に似てるな、って思ってました。果たして、商品が実際に交換される前には価値があったのか否か、みたいな(笑)。僕は、おそらくあったであろうと思うんですよね。これは、量子論の奴で言うと、アインシュタイン側になるんでしょうか? 多分。
量子論自体、けっこうアクロバティックな理論ですよね。それが、現実に成立しているっていうんですから、まったく、世界という奴は、底が知れません。不思議です。
こないだ、ライプニッツの話(というかモナドの話かな?)をしたんですけど、あれもおもしろいですよね。モナドって本当に自律的なのかな(笑)。モナドは自律的なものだとすると、モナドは洗脳されないんでしょうね。羨ましいことです。
日々はほのぼのと過ぎていきますね。なんとなく風流です。
いくら勉強しても、わからないことだらけですね。やれやれ。
実際、自分の言っていることが、どこまで妥当性持っているのか、よくわからないのが本音です。解釈で、いかようにも事態は変わってしまいますから。
事実って存在するのか、っていうのも、解釈の問題にしてしまえば、いくらでも変わってしまいますしね。論理だけでは、何も決まらないような気がします。
世のなかで、暴力が限定されると、大体二つの戦略を取る人が多いようです。
一つが褒め殺しで、もう一つが罵倒。
褒め殺されると、誇大妄想とか生じちゃって、行動が変になっちゃうかもしれませんね。あくまで傾向として。
罵倒されると、逆に、恐縮しすぎちゃって、行動が委縮しちゃうんですよね(笑)。
バランス難しい。
褒められると嬉しいですけど、僕なんかすぐに調子に乗ってしまう癖があるので、注意しないとな、と常日頃思っています。頭を冷静にしておくのって、難しい。
なるべく公正にしようと努力はしてるんですけどね。このブログとか。
少しでも、そうなっていればいいのですが。
信じるのって難しいですけど、何を信じるかで、その人の人生変わってしまいますよね。ほんと難しいです。
できれば、僕のことなんて信用せずに、びしばし反論してくれるくらいでもいいのかもしれない、と時々思います。でも、僕のメンタルがボロボロに(笑)。難しい(笑)
自分の言葉が誰かに届くのは嬉しいですけど、もしも、自分の言葉が間違ってたらと思うと、恐くて(笑)
そんなこと言ってたら、何も書けなくなっちゃいますけどね。
いつもぶるぶるふるえてますよ(笑)
ぶっちゃけ、自分傷付くのより、他人を傷付けてしまうほうが恐くないですか?
僕、それがすごい恐いんですけど。
傷付いている人とか、できれば、見たくないし(傷付いている人がダメなのではなく)。
自分の言葉が誰かを傷付けてるんじゃないかと思うと、不安です。
でも、どうやっても、誰かは傷ついてしまうものなのかもしれません。
一体どうしたらいいんでしょうね。ほんとに難しいですね。世界とか社会とか個人とか色々。
延々と思考しても、切はないですけど、少しだけ常識のタガが外れますよね。それでちょっとだけ自由な自分に。
責任持つって、ほんとうにたいへんなことですね。
ガクブルです。心の膝の震えが止まらない(笑)。
でも、ブログって便利ですね。一応、無名ブログでも見てくれる人がいるわけですから。昔の人は意見発表するのとか大変だったろうな、って思います。
僕にできるのはせいぜい、極力分かりやすく色々な思考を整理することくらいですけど、少しでも皆さんのお役に立てればいいな、とは思っています。
思想って、どんなにオリジナルに見えるものでも、必ずベースがあるんですよね。歴史というか。今ある思想とかも、大体、昔の人が考えちゃってますよね。すごいですね。昔の人たち(今の人たちがダメとかは言うつもりないですけど)。ここでも、オリジナルの定義が問題になるのですが(笑)。ほんと切ないな(笑)。思想家の方は、ほんとうに難儀な仕事をなさっているな、と思います。お疲れ様です。
たまに、どっとアクセス数増えると、ビビりますよね。まじか(笑)って。桑原桑原。
見てくれてうれしいけど、見てくれる数が増えるごとに、自分の責任が増大していくような気がして、そら恐ろしいですね(笑)。公人の人とかって、超大変そうだし。てか、今更だけど、ネットの悪口半端ない(笑)。ネットはブラックですね(笑)。だからといって、それを規制するべきなのかとかいう話になると、また話が難しくなってきますよね。ネットの自由とか。表現の自由とか。しかし、あの罵詈雑言が、表現の自由なのか、とかって突っ込まれると、どうなんだろう? 僕としては、「はい」って言ってしまいそうですけど(笑)。あー恐ろしい。
僕は、割と状況を選ばず、楽しめる傾向はあるのかもしれません。結局、どの分野でも、おもしろいんだなあと。やるかやらないかだけで。
色々恐いこともありますけど、それなりに楽しいです。無論、先のことは僕にも分かりませんが(笑)。
僕は、あんまり専門化せず、極力ものごとを多視点化しようと心がけてきた人間なのだと自分では思っているのですが、その辺りと楽観的な気質は関わっていたりするのかもしれません。一つの視点がつぶれても、別の視点があるので、ある程度楽観的でいられるのかな、と。一つのリスクヘッジですね。認識のリスクヘッジ。
この文章とか、実は多視点化を超心がけてるんですけど、どんな感じです?(笑) そうでもないですか?
なんか、多視点化と散漫な文章は違う、って言われそう(笑)。大学とかで、「あなたの文章は焦点しぼれてない」って言われたの思い出した。それで、少しお話したら、その方すねちゃって(笑) いや、その方がすねたんじゃなくて、僕の話し方が悪かっただけかもしれないですけど。意見がすこし違っていると、なかなかコミュニケーションを取るのは難しいですね。精進が必要ですね。精進精進。無理に分かり合おうとする必要もないのかもしれませんけどね。その方はその方、僕は僕ということなのかもしれません。
僕わりに、散漫さって大事なんじゃないかと思うんだけどな。どうなんでしょうね。難しいところです。ヒューマンエラーが人間の強みだと思っている人間だからかもしれませんが(笑)。そういうノイズを利用する以外に、機械に対抗する術はないのではないかと。多分、そういう偶然の失敗から生まれた技術とか発想って多いと思うんですよ。だから、ノイズ大切にしていきたいな、と思っています。
ノイズがあんまりなさすぎると、純粋培養みたいになって、免役とかつかないかもしれませんし。どんなに優秀でも、その場合、道を踏み外してしまうこともあるのかもしれないな、と個人的には思います。結局は、考え方ってことになってしまうんでしょうけど。
れるりりさんの『Lv99』って曲聞いてて、そんなこと考えました。多分、優秀な人たちもそれなりに大変なんだろうな、と。
誰かの組んだプログラムの中で
ずっと踊らされてた
憐れな道化師さ(上記曲歌詞より引用)
きっと、プログラムからのヒューマンエラーによる逸脱が一つのポイントなんでしょうね。ノイズの混入といいますか。多分、人間のアイデンティティか何かにとって、プログラムからの逸脱性が重要な意味を持っているのだと思います。