さて、こないだ、経済術(お金の生成のタイミング)というこのブログの記事で、お金は次の三つの要素が成立しているときに、生じるであろうという仮説を立てました。
一、信心
二、意志
三、他者
これは、お金の生成がある程度、人の信心によっているのであろうという仮説です。今日は、この仮説をもっと広げて考えていってみたいと思います。
まず、貨幣とは、これらの三つの要素がある時に、その信心の対象となるものである、というふうに考えていました。
例えば、そこにマルクスの本があって、みんな(自分だけではなく他者たち)がそのマルクスの論理なり内容なりを信じ、意志を持って行動すれば、そのマルクスの本はおのずと価値を持ち、貨幣となるであろう、という仮説です。
この場合、マルクスの本が、信心の対象となることで、貨幣化した、というふうに考えます。
このように考えた場合、経済の問題とは、信心、つまり、信仰の問題であると考えることができます。
よって、経済術は、「宗教術」へと変化します。
今回は、宗教術についていつものように、仮説を重ねていってみようと思います。
まず、信心は一体、どのように生じているのでしょう?
みなさんは、どんなものを信じますか?
僕は、論理だっているものを信じます。理に適ったものですね。
おそらく、みなさんも理に適ってないものよりも、理に適っているものを信じるのではないでしょうか。
あと、代表的な信心の形態は、周りの人がみんな信じているから自分も信じる、という形でしょうか。
このように考えてくると、少なくとも、信心には二つの原因があることになります。
一、論理
二、多数決
そして、非常に単純に言えば、おそらく、論理による信心を持つ人と、多数決による信心を持つ人に、人間を大別できます。
おして、これら二種類の人たちは、信心の持ち方が異なっているので、おのずと、行動原理なども異なってくるものと思います。
日本は、同調圧力が強いと言われていますので、おそらく、数としては、論理による信心を持つ人より、多数決による信心を持つ人の方が多いのでしょう。
さて、では、それぞれの、信心の特性を考察していきましょう。
まず、論理による信心の特性は、そのままですが、理に適っていることです。理に適っているので、基本的には、適応的な行動を取ると考えられます。
多数決による信心の特性は、周囲に同調することです。この場合、二パターンの同調が考えられます。一つが理に適っていない信心への同調。もう一つが、理に適っている信心への同調です。
理に適っていない信心に同調した場合、理に適っていないので、不適応的な行動になるのではないかと予想されます。
逆に、適応的な行動は、理に適っている信心への同調によって生じるものと考えられます。したがって、この場合、周囲に論理的な他人がいれば、結果的に、その人は論理的な人と同じ適応的な行動を取り、周囲に非論理的な他人がいれば、結果的に、非論理的な他人と同じ不適応的な行動を取る、と考えられます(論理、非論理の厳密な関係は非常に難しいですが)。
このまま、単純に考えるなら、どうも論理的な人がいたほうが良いような気もします。しかし、実際には、本当に論理が適応的な行動を起こすと言えるかどうかは、不透明な気もします。
一口に論理といっても、世の中には色々な論理があり、そのどの論理が正しいのかは、今一つわかりかねるからです。あるいは、人の数だけの論理があるとすら言えるかもしれません。
中には、1+1=2ではなく、1+1=1とかいうふうに考える人もいるでしょうので。これほど、極端でなくても、例えば、先日書いた、『政治術』という記事なども、ひとつの論理としてはあり得ますが、それが絶対なのかといわれると、僕としても首をひねるところです。なぜなら、僕自身ですら、反論はいくらでも可能ですから。
例えば、「そもそも政治術などというものが存在しない可能性がある」という主張をされれば、僕はこれに対する反論を持っていません。たしかに、政治術という方法体系自体が存在しない可能性は、いつも存在しているからです。
このように考えると、仮説なり、論理というのは案外、儚いものなのかもしれません。
ただ、すくなくとも、僕たちは、どうも理に適っているものを信じるような傾向がある程度あるようだ、という前提のもとに砂上の楼閣ながらも思考を重ねることは、無意味ではない可能性もまたあります。どちらが正解かはわかりませんし、どちらを選ぶのかは、信心の問題となるかと思いますが、とりあえず、今回は、この「信心としての仮説」を積み上げてみましょう。
僕たちは、不完全であることを承知のうえで、論理に徹するしかないのかもしれません。時々、そういうことを思うこともあります。
以上のように考えてくると、論理すらも、宗教の問題に回収できるようになってきます。
宗教というのは、人間の認識にとって非常に根源的な問題のようです。おそらく、自分は宗教とは無縁だと思っている人でさえ、何らかの宗教に準じていると言えるのではないでしょうか。
つまり、ここで問題となるのは、事の真相というよりも、どのような論理が、信心という「機能」を引き起こすのか、という問題です。これについて、考察しておけば、僕たちの手で、ある程度宗教に対処することができる可能性が生まれます。例えば、洗脳されても、自分が洗脳されていることに気づいたり(おそらく、どこに行っても洗脳を避けることは不可能ですが)、ある程度、余裕を持って対処したりできるかもしれません。
論理というものが、根底に、信心を持つのなら、論理による教化はすべて、宗教的な「布教」と言えます。もっと言えば、論理構造を持った言語自体が、そもそもからして、「布教」の機能をもっているというふうに言えるかと思います。
つまり、全ての言葉は、なんらかの布教を引き起こすのであろうと考えることができます。その人が意図するとしないとに関わらず。
なんらかの策略にもとづいて洗脳することもあり得ますし、まったくの善意から洗脳することもあり得ます。
なぜなら、言語による働き掛けを行った段階で、その働きかけには、何らかの教化が含まれているからです。
しかし、その発端が、善意であるにせよ、悪意であるにせよ、それがいい結果をもたらすかどうかは、それだけでは判断できません。
ある悪意が、かえっていい方向に作用することもあり得ますし、逆もまた然り。
善意が、悪い方向に作用することもあるでしょう。
では、一体、何によって、言語活動の善悪は決まってくるのでしょうか。
これは、善悪の基準の取り方だけの数があります。
例えば、自分の所有するお金の量が増えればよい、という基準であれば、詐欺(合法にせよ、非合法にせよ)が善となるケースが出てきます。
また、社会から貧困が無くなることを善であるとする、という基準であれば、ベーシックインカムなり累進課税なりが善となるケースが出てくるかもしれません。
東京大学に入ることが、基準となるのであれば、東京大学に入ることのできる機能を持った論理なり信仰が善となります(学歴社会)。
そして、こうした善悪の基準は、同調圧力を考慮したとしても、人の数だけあると言えるのではないでしょうか。
ならば、問題となるのは、一つの論理的正解を探すことというよりも、それぞれの人に応じた、それぞれの論理なり信仰を持つことである、というふうに言えるかもしれません。
これは、様々な言い方ができます。
人それぞれの物語を持つ、とか、人それぞれの妄想を持つ、とか、人それぞれの信念を持つ、とか、人それぞれの世界観を持つ、人それぞれの信仰を持つ、とか。
どの言い方でも構わないのですが、信仰の方向性の帰結は、大体、以上の通りになるのではないかと思います。
すると、信仰の問題には、共通する土台はないのでしょうか。人それぞれ、の一言で、それは、終わってしまうのかどうか。
おそらく、生物学的な土台などはあるのではないかと思っています。つまり、人間が生まれながらに持った認知特性です。そして、その認知特性に応じて、信心、論理、そしてもっと言えば、「言語」が形成されるのではないかと。
したがって、言語についての研究をすれば、人間の心理がある程度分かってくる可能性があると思います。
言語活動が洗脳としてのはたらきを持つのであれば、言語と心理は密接に関わっているであろうと考えられるからです。
ならば、宗教術の研究とは、言語についての研究であると言い得るでしょう。
いわば、「言語術」です。
さて、そのうち、(気が向けば次回)、言語術について仮説を立ててみましょう。
おそらく、言語とは、その人の心の状態をよく表しているのだと思います。
みなさんに、Neruの『洗脳』を贈ります。
剥き出しの言葉は心と呼ぶ 雨霰に曝されて(上記曲歌詞より引用)
P.S.今回は、洗脳についての話ですので、みなさんもさぞかし、気分が悪いのではないかと思います。そして、僕の論旨で言えば、僕の書いている記事もすべて洗脳である、ということになるので、意見を取り入れる際は、みなさん、御自分の頭でよくよくご判断下さい。鵜呑みには決してしないでください。
さて、ちょっとした気晴らしを、口直しに。
僕はけっこう論理によって物事を考えますので、その意味で言うと、けっこう打算的な人間なのだと思います。多分、打算ってそういう意味ですし。
しかし、そんな僕でも、実は、打算的でない愛を信じていたりします(笑)。みなさん信じられないかもしれませんが。こういうことを言うと、笑われたりするんですけどね。「そんな愛あるわけないだろ」って。そうなのかもしれません。
世の中のことを、経済原則で記述することは可能ですし、心理原則に基づいて記述することもまた可能です。しかし、それは、ある程度可能であるという話で、全てが心理学に還元されなければならないわけでも、経済学に還元されなければならないわけでもないと、個人的には思っています。
僕は、経済を知りたくて、経済について考えるというよりも、経済に回収しきれないものを見つけるために、経済について考えている側面があります。
打算の向こう側ですね。それがあるんじゃないかと。
多分、こういう感情は青臭い感情なんでしょうけど。打算的でないとすれば、多分、論理によって証明できませんので。
僕は、論理を突き詰めていって、そしてその論理が破綻するとき、「よかった」と思うんです。この世界に、論理に還元できない「何か」があるんだ、と思うことができて。言ってしまえば、僕は、その「何か」にしか興味がないのです。そして、その何かの存在を肌で感じるために、今日も論理を紡いでいます。
逆説的ですが、僕は打算を内側から壊すために、打算を紡いでいます。打算によって打算を壊し続けている、みたいな感じです。うまく言えないのですが。毒を以て毒を制す? とか? でも、制することはできないんですよね。いくら論理を紡いでも。切がないんです。その何かは、つかんだその瞬間に逃げて行ってしまいますので。でも、あるんです。すくなくとも、僕はあるというふうに思うし、そういう体感もあると言えると思います。あまり、上手く言えません。すみません。
さて、今日は、もう一つ書きますので、よろしくお願いします。